■2024年07月02日(火)
ええと。
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社会学の新地平 - ウェーバーからルーマンへ, 佐藤俊樹 社会学の対象を組織であるとウェーバーとルーマンを引いて再定義する、そんな本だと思います。本書はウェーバーとルーマンに焦点を当てていて、その結果組織の典型が株式会社になっています。これは日本で最も一般的と感じられる会社の形態であり会社法の株式会社の部分で定義される社団法人である(正直株式会社が社団法人であるという主張については最近非常に疑わしく見ているのですが)株式会社であるとともに、会社法において持ち分会社と対立させて定義されている株式会社であり、また株式会社をモデルとして論じられてきた各種の組織、ことに政府官僚組織を含みます。ちなみに日本においては学校法人がその一種とされる財団法人も含まれます。組織である以上組織を構成する要素間のコミュニケーションも扱われている、というより、組織内コミュニケーションの様相を明らかにすることがこの二人の「天職」(beluf)の一つであったと論じられていると読みました。 とはいえ、組織論というのは読んでも読んでも胡散臭いです。組織論が胡散臭いというよりは組織が胡散臭いのですが、ことに本書の重要なテーマとなっている「合理的組織」は胡散臭いです。佐藤氏は、ウェーバーが合理的組織は属人的なものではないとしていることを重視しています。じっさい、身の回りにある組織も多くは属人的なものではなく、そのため法人実在説はもちろん、会社は永遠であり奉仕の対象なる言説まで現れているほどです。会社と言うとあれですが、国家と置き換えれば変に見えない人も多いと思います。組織をどのように実態的に定義しようと、それは幻想にすぎません。信じる人が内部にいなくなれば雲散霧消します。まあ、人格自体そういう部分があって、あるともないとも言えません。せいぜい世の中があることを前提に出来上がっているというだけのことです。当然人格間の相互作用であるコミュニケーションもあるともないとも言えません。それを便宜的に固定する方法が法律だったりします。とはいえ人格はまだしも人に結びついたものとみなされています。つまり属人的なものです。では属人的でない合理的組織、法人とはどこにあるのでしょうか。いや、あるのでしょうか。効果論としてはあるでしょう。しかしその効果は、組織を代行する人たちが及ぼしたものです。その結果どうなるかと言うと、組織の名義で為されたことについて、その責任者たちが「知りませんでした、私の責任ではありません」と言うのです。 ultra viresの法理という理屈がありまして、これは個人的に好きな理屈なのですが、法人は定款を超えて何事も為しえない、というものです。佐藤氏は本書で組織の外部と内部に分けてある種の責任処理の制度論を書いていますが、組織の外部に対してはこのultra viresの法理は成り立たないというか、成り立ってはいけません。表見と言いますが、ある人があることを事実と信じるに足る理由があった場合、そのことに関わる相手方はある人が信じた事実に拘束されるというものです。例えば社長室で社長として対した人をその会社の社長だと思いました、社長が言うことなので会社の意思だと思いましたというのは、場合によっては通ります。この時に、実は社長じゃなかったのでうちの会社に責任はありませんとは、言えません。社長でない人が社長として振る舞うのを許しておいたことに問題があるのです。同じように、定款に書いていないことを法人がしようとしたときに、その相手方は普通は法人がそれをする権限があると信じます。定款がないといけないので私立学校なり国公立大学法人なりとして、その学校がオンラインショップでトマトを売っていたとします。その時、学校にトマトを売る権限なんかないだろうと思う人はいませんし、まあ、生徒の課外活動か学校の小銭稼ぎだろうとでも思うわけです。それで購入手続をして、代金はクレジットカードから引き落とされたんだけどもトマトが送られてこない、一体どうしたと学校に問い合わせたときに、うちは学校ですよ、トマトなんて売ってるわけがないじゃないですか、では通りません。仮に被害にあった人が実際にその学校が売っていると信じるに足る十分な事情があった場合は、学校は免責されなければ責任を負うことになります。一方学校内部では話が異なります。責任を負う羽目になったとして、学校内部では誰がそんなことをやったという話になります。もちろん部外者が学校を騙ったということも十分あり得るのですが、職員や生徒、あるいは理事や評議員が学校に無断でやった場合もあり得ます。その場合、学校の名義でやったことだから自分には責任がないでは通りません。理事や評議員、職員がやった場合、学校の定款に書いていない事業を勝手にやった背任行為だということもあり得ます。しかるに、まあ実際そういうものなので仕方ないのですが、合理的組織は内部的判断に基づいて勝手に枠組みを書き換え、与えられた権能をはみ出していこうとします。会社制度は、ひとつにはそういう組織内部の他人の勝手を止める仕組み(株主保護)を作り込もうとしてきた歴史を持ちもし、あるいはとにかくなんだか知らないけど組織がやってしまったことについて責任者が責任を取る仕組み(債権者保護)を作り込んできた歴史も持ちます。そういう、常に与えられた枠組みを書き換えていこうとする本性を持つため、合理的組織というのは極めて胡散臭いものであり、これをがん細胞に例える場合すらあります。 もうひとつ、佐藤氏はさらっと流してしまっていますが、組織=会社が誰のものかという論点も極めて現代的なものです。佐藤氏が論じる通り、株式会社(なんなら所有が分散した大会社、上場会社)については株主は実態的には会社を構成していません。株主が現れるのは乗っ取りにあった場合などであり、その時も外部から乗っ取りをかけてくる部外者、会社の与り知らないところで株式をやり取りする部外者として扱われます。会社法を読めばわかるとおり、法律論としてはこの理解は間違っています。会社は株主の所有にかかり、所有と経営が分離しているとは言っても、経営に当たるのは株主の社団である株式会社の使用人です。「(家)僕」です。そういう構成だからこそ乗っ取りが成り立ちます。実はここは現代仏独会社法ではいささか違っているようで、株主の代理として経営者に対するべき監査役の選任についても、株主の権限はかなり限定されているようです。とはいえアメリカ合衆国諸州の会社法や日本の会社法では株式会社は所有と経営が分離していたとしても株主の所有物であり、株主の行動は社団としての意思決定の手続にのみ拘束されます。つまり、株主総会は原則として万能です。イタリア語で言えば、Marioと定款に書かれている部分をMariaと書き換えることもできます。まさにイギリス議会を超える権能です。 「ウェーバー&商会」 申し訳ないのですが、この単語でめげました。佐藤先生のことですので、おそらくこれはちゃんとしたテクニカルタームなのだろうとは思うのです。他の名前は結構まっとうに扱われていますし。でもね、日本語としてこれはないです。本文にはWeber & companyと英語で書いてあるところがありますが、本来ドイツの会社ですので、Weber und Gesellschaftとかそんな名称なのだと思います。まだドイツ語版Wikipediaを引けていません。有名なだけに日本語記事しか出てこないんだもの。それはともかく。この文脈での英語のcompanyは会社とか商会という意味ではありません。「仲間」という意味であり、日本語としては「ウェーバー商会」なり「ウェーバー合名商会」なりとでも訳すべきもののはずです。日本語の商会は「商人の会」という意味で、この部分に本来「& company」を含んでおり、そのように解釈するか、companyをウェーバーさんの他に数人の出資者が合同して事業を行っている趣旨と解釈してそこを「ウェーバー合名」と訳すかです。まあ、合本会社と解釈して「ウェーバー合本商会」でもいいかもしれません。これは、合名(会社)と言った場合日本語では会社法に定められた社員が全員無限責任の持ち分会社を指しますが、合本会社はイギリスで発達した複数出資事業「joint stock company」を指す学術的な訳語であり、法律用語ではないためです。カジュアルに行けば「ウェーバーと仲間たち」、違う方向に行けば「ウェーバー組」です。また英語としてももっと適切な書き方があり、「Weber & co.」です。有限責任法人(会社ないしはパートナーシップ)であれば「Weber & co., ltd.」になります。世界的な学術出版社に「Wiley and Sons」という会社がありますが、このandです。この名前の場合、日本語訳は「ワイリー父子商会」となります。この程度のこと、高校でちゃんと現代社会か政治経済を取った日本語話者にわからないはずがないと思うのですが、テクニカルタームとして定着しているのか、ひたすらウェーバー&商会として出てきます。 「預定説」 これ自体はちゃんとした用語のようですが、予と預では意味がかなり異なります。通常予定説と書かれるはずですし、その場合内容は本書にあるとおり、救済の対象は神が予め定めているという意味になるのですが、預定説と書いた場合の解釈は見つけられませんでした。この場合預けるわけですから、むしろ自分がどうなるかは神に預けてしまうという趣旨になりかねません。 | | |