日記

■2024年04月30日(火)  経済界の自力解決が望まれます
中小企業の25%、労務費増加分の価格転嫁全くできず 日商調査
こういうのはよろしくありませんので、日商と経団連でちゃんと話し合ってガイドラインでも決めればいいでしょう。何も経産省や厚労省、公取、中労委が出て行く案件では - 今のところ - ありません。経済界は自主規制、自力解決を目指すべきです。
これはインヴォイス絡みも同じで、経団連なりがちゃんと出版社などを説得しないといけないのです。別に国税庁や消費税法が問題なのではなく(まあ、事務費が増えるのはそこの問題もなくはないし、身バレの話などは国税庁のチョンボですが)、取引関係において不適切な経理処理、利益出しができなくなった煽りを押し付けられているという事例ですから、健全な経済活動を標榜する経済界は少なくとも不健全な経営をしている出版社に是正を求め、その上で事業を持続可能な策を講じるべきでしょう。
こういうことについては、同友会もまともな提言をするといいですね。なお、ロビーイングはまとまってする癖に都合の悪いことは個別にごねるのはみっともないですからね。

■2024年04月30日(火)  映画って集中力を持って見るものなのだと、学校で見せられた経験を思い出しました
映画に速いも遅いも存在しない 濱口竜介監督が重ねる「適切な時間」
「集中力をもって見さえすれば、速い映画も遅い映画も存在しません。現代社会の問題点というものをもし挙げるとしたら、そうやって何かに集中したり注意をしたりしながら、芸術作品や、目の前の現実と向き合う体験が非常に少なくなっていることではないでしょうか。」
この一言で、映画がコンセルヴァトーリオで教えられることを納得しました。確かにこれは大衆芸術ではなく古典芸術です。
まあ、古典芸術に親しむことが教養ではあるのですが、鼻持ちならない反動主義だということは認識して欲しいものです。
とはいえ、この濱口氏の言葉は解釈の余地があるでしょう。この場合の早い、遅いは筋の展開、作品の進行(映画は時間芸術です)についてであり、視聴の際の再生速度や所要時間ではありません。おそらく記者の問うファストやスローと微妙にずれがあるのではないかと思います。もちろん映画館で早回しなどはできません(してくれません)ので、映画館で上映される映画についてファスト視聴を論じることはナンセンスです。また、作品をかいつまんでいいのかという議論はあり得ます(もっともそう言ってしまうと批評が成り立ち難くなるのですが)。とはいえ、パッケージコンテンツを早回しで視聴すること自体は、この発言からは否定されないでしょう。早回しした分を脳内で適正な長さ、速さに復元すればいいだけだからです。それができるのであれば、百倍速であれ一万倍速であれ構いません。そうやってファストに数をこなすこと自体は、むしろ望ましいことです。
例えば上映時間を規定の時間に納めるような規格化の是非は百年以上前から映画はおろか音楽や演劇についても論じられてきた古典的な問題ですので、その枠を気にしないというのは、自立性を前提にする古典芸術としては当たり前のことです。何ならワーグナー張りに三日くらいかけて上映してもいいでしょう(六時間くらいかかるのはソ連に前例がありますね)。こうした意味でのファスト(迅速なストーリー展開と直接的な作品の終結を旨とする)とスロー(ストーリーの展開や話をまとめることよりも描写を重視する)でファストがわかりやすいからいいというのが少々幼児的に偏った好みであることは確かで、そうしたファストに対してスローを敢えて提示する、スローも見てくださいよという言説はあり得ます。スローだと構えて見ないとわからない作品を作ることも十分可能でしょう。また公式の鑑賞機会としてファストな規格品ばかり提供されていることも事実です。それに対する反論というのはあっていいわけです。
その上で、そんな旧態依然たる芸術観にはついていけないという反応が当然にありうることは、文化人たるもの認識していないといけません。ファストがありなのではなく、ファストもありなのです(当然スローもありです)。そしてファストの方が大衆化に即した形態であることはおそらく確実であり、全編を集中して見るようにといった態度はむしろアングラ芸術的な主張でしょう。国際的な評価、特に芸術的な評価というのは多くこういうアングラ芸術シンパによる評価ですから、スローで充実した作品が好意的に評価されることは十分あり得るわけですが、それがメインストリームに出るかというとそれは別ですし、記者が書くように現代社会へのアンチテーゼにすらなりえるかというと、正直今更その論点という気がしないでもありません。もちろんファストなアートというのは、スローでヘビーなアート、ご託宣と共にバイロイトあたりで披露される古典的なアートに対して、アウラをかなぐり捨てたくつろいで接する、例えば居間に飾られた絵や丁寧に作られたつつましい住まいのようなものとして提示されてきたものでもあるのです。そこで単純に重厚長大の古典芸術に回帰するだけでは、そもそもアンチテーゼにすらならないでしょう。

■2024年04月29日(月)  道徳というのはこういうものです
イラク、同性愛禁止の法案可決 人権団体「LGBTに追い打ち」
そこまで法律が決めるのはどうなのかというのはともかく、道徳ってこういうものですからね。どこぞの飛ばされる町の市長の言う「道徳的」もこういう文脈で理解しないといけないわけです。これを、道徳なのだから法で強制してよいのだと理解するか、それとも所詮道徳というのはこういう風に暴走するあてにならないものだと思うのかはそれぞれでしょうが。
ですから、例えば国のために命を捧げることが道徳的であると学校で教えるならば、その同じ道徳に基づいて国のために他国の人を殺すことも許容される、自分たちの頭の上に爆弾が降ってきてそれで死ぬのも、そうやって殺すのも道徳的だと教えて初めてバランスが取れるのでしょう。それで道徳に殉じるというならそれでよいですし、自分が死んでしまうような道徳なんか知ったことかと思うのも正当です。
ところでこの場合、同性愛自体は刑事事件を構成しえないというのが国際常識だと思いますので、同性愛処罰による迫害を逃れるために避難してきた人たちは政治的迫害を受ける者として亡命者、難民と認められる資格があるように思います。イラクがどういう法律を作るかというのはある意味どうでもいいわけですが、問題があると考えるなら、外交特権を行使し、我が国は在イラク公館においてそのような亡命の申請を受け入れると表明するのも手ではないでしょうかね。それで現地の反同性愛勢力の反発を受けるわけですが、現地の刑法は外交官署においては基本的に無視できますので、むしろそれで外交官署に実力行使した場合、した側が刑事犯として罪に問われることになるはずですし、祖国を外交的危機に曝した国事犯ということにもなりえます。在外公館を攻撃された場合本国が武力を行使できることは歴史的にも確立した国際法でしょう。

■2024年04月28日(日)  仕事は素面でしてください
新社会人は飲み会に不慣れ? 千葉の銀行、新入行員に酒席マナー講座
「銀行員は、酒席などを通じて顧客との関係を築くことが重要になる」
正直この発想自体がハラスメント的でしょう。ビジネスでの関係構築に酒席は厳禁という発想こそが望ましいはずですし、銀行はコンプライアンスの徹底を通じてそれを推進する立場のはずです。
その上で、まあ、あれ、経験がないとわかんないですね。わからない同士で飲み会をやってもだれも指摘しないですし。縦社会ですら、上に自分で注ぐ、自分でオーダーするのは当然という認識があると、伝統的な酒席マナーの発想は出てきません。

■2024年04月28日(日)  移動販売を始めるのはいい、でもどう終えるのか
幹線道路は「河」、東京・青山でも買い物弱者 都心部で頼る移動販売
ありゃ、徒歩圏まで崩壊してましたか。
言われれば理解できますが、多分普通の発想としてはそうなったところで施設入所だとは思います。もちろん通信販売はあるわけですが、ラストワンマイルについて輸送の問題を抱えていることは周知のとおりです。もちろんデジタルディヴァイドもまだあるでしょう。
まあ、あの広い道路は渡れないですね。鉄道も正直あそこまでのエクストリームな乗降技術の発達はどうなんだと思うわけですが、生活圏が大型道路を跨いでしまうと広い商圏に包摂されてしまった場合と同じになるわけです。もちろん普通は都市設計時点でそんなことは起きないようにするものですが、小売りの大規模化はここ五十年ほどの傾向ですので、一定のカルテル的な基盤がない限り開設時点であった小売商が撤退してしまい、自家用車や公共交通機関でショッピングセンターに買いに行く「羽目になる」状況は出てきているでしょう。
移動販売の実現に持っていった交渉力に感服します。多分私の場合店に運送料を払って配達はしてもらっても移動販売という形では考えないと思います。近隣に共通のニーズがあるという発想はありませんから。コミュニティが存在していれば、そういう交渉も可能ではあるわけですし、本来それを法人化したのが消費生活協同組合でしょう。現在の何かおかしい大規模生協、生協連合とは違うわけです。それなりの人数の消費者がまとまって(しかも多くは近い年齢で)住んでいる団地のメリットを生かす形でしょう。もっともそれだけに時限的なものになる可能性があり、どうやって終えていくかということも考えないといけないようには思います。業者任せで利用者が減って崩壊は論外でしょう。

■2024年04月26日(金)  悪意としか思えないいい加減な調査をするな
京葉線ダイヤ改正「悪影響」が8割 千葉市が利用者にアンケート
陪審員が偏った判断を下す恐れがあるので裁判地の変更を要求します。
という話があるわけですが、こういうアンケートはその類でしょう。無作為抽出で解答紙を(まあ、この際ラインでもいいので)送り付けて、八割以上の回答があってその中で悪影響が八割というならともかく、市のサイトにアンケートページを設けて答えた人の八割というのでは、不満がある人が苦情を書いているとしか思えません。千葉市はこういう苦情を言わんがための調査にお金を使うような頭の悪い発想は即刻止め、市長は実施費用を全額賠償するべきです。千葉市行政当局と統計調査の両方について信頼を損ないます。

■2024年04月26日(金)  警察もできないくせに自由化って馬鹿か?
アプリ事業者は「デジタル小作人」 巨大IT支配、新法で風穴開くか
じゃあ著者はアナログ制作奴隷ですか。
そもそも「アプリ大手」のコスト構造の方がおかしいのです。あんな人件費の無駄遣いをしておいてイノベーションなどちゃんちゃらおかしいでしょう。むしろアプリ開発など一人でできるものですし、一人で商売を回せるようにしてあるのです。
どうせ十年後に怪しいアプリが跋扈するようになって新規参入者によるイノベーションが低迷して後悔するのですから、さっさと法律を撤回してアプリショップの審査基準についてカルテルを独禁法の適用除外にするべきです。
もちろん日本政府ごときの能力でショップとOSのセキュリティ機能を分離できるというなら話は別ですし、まずそれをやってみて、とりあえず政府関連のアプリについてだけでもGooglePlayの競合を立ち上げてみてはいかがでしょうか。デジタル庁運営のアプリストアです。サードパーティーのアプリについてまともな運営ができてからの規制でも十分間に合います。あまりできるとは思えない、サードパーティーアプリに開放したところでマルウェアの巣になると思いますが。

■2024年04月25日(木)  対応が早いのはさすがですが、こういうのは拙速とか軽挙妄動とか勇猛果敢支離滅裂とか言うんでしょうね
人口減対策に吉村知事「0歳から選挙権を」 党マニフェストにも提案
いやあ、外国籍の居住者に選挙権を与える方が先じゃないでしょうかね。まずは永住権取得者から、いかがですか?
なお、子供の親を選挙権において優遇するというのはあながち不公正とは言えません。古代の家長民主主義ではむしろそれが当たり前で、プロレターリアというのはそもそも子供(それも男の子)はいるが財産のない人(市民)のことです。男の子のいない人には参政権がなかったのです(兵役は課されるんですけどね)。結婚していない男性や結婚しても男の子のいない男性は家長ではない部屋住みということです。
もっとも親は普通二人いるわけですので、未成年の選挙権をどのように行使するかは問題になるでしょう。原則としては両親が一致して文書を作成し家庭裁判所に提出して承認を得た上で承認済みの決定文書を投票所に持参して選挙を運営する職員に提出すべきですが(理想的に言えば、その際どのような基準で投票するかを含めて文書化するべきです)、この場合代理投票については投票の秘密が失われます。子の権利について適正に親が代理で行使するという形を重視するか、投票の秘密を侵さないことを重視するかを選ばないといけません。

■2024年04月25日(木)  ではインテルとWestern Digitalには二十兆円の手付を渡し、米国内の半導体企業に米国内での無制限の徴税権を認めましょう
米政府、マイクロンに補助金1兆円 大統領選控え雇用創出アピールも
そんなに大事なら国営化して議会が年次予算の策定を会社執行部に一任してはいかがでしょうか。マイクロンの経営者が決めた税金を内国歳入庁が頑張って集めて献上する、議会は一切口を出さないということです。

■2024年04月24日(水)  結局今ホットなトピックを後追いして遅れてマーケットにやってくる発想しかない
2040年「日本は新興国並み」経産省見通し、失われた30年続けば
これだから経産省は馬鹿の集まりだというのです。「半導体やバイオ医薬品の開発」というのは今ホットなトピックであり、20年後には事情が変わっている可能性が強いではありませんか。その時時代遅れにもこういうものを追っかけていれば新興国並みからすら脱落するでしょう。
大事なことは、経済産業省の産業振興を完全に廃止すること、ちゃんと民間、特に大規模投資の主体になるような大資本をしかるべき競争に曝すことです。投資か死かという厳しい状況に追い込みつつ、公正取引委員会が不適切な事業行為についてはどんどん強硬手段を適用していくことです。その意味では公正取引委員会が職権をもって会社を清算できるようにするべきでしょう。おいたをする子供を叱るようにではなく、犯罪の死刑を含む刑罰を持って臨むように対しないといけません。そうやって厳しい環境で生き残った大資本こそが大組織として効率的なのです。
もちろん輸出入に関わる規制や標準規格の取り纏めの機能は必要ですので、例えば財務省管轄下の庁や技術標準についての独立行政委員会という形でその機能は残すべきでしょうが、正直財務省の酒税部門の大規模縮小、酒造技術研究部門の廃止ないしは農水省への移管が望ましいのと同じで、経済産業省もできるだけ早くリストラすべきです。

■2024年04月23日(火)  消費生活協同組合という独占的大規模小売商
北海道でアマゾンに挑む生協 コープさっぽろ、7割以上の世帯が加入
これは果たして「消費生活協同組合」という業態でしょうか。どうにも消費生活協同組合法の理念に反するように見えます。そもそも組合員数百万人に達する協同組合というのがナンセンスに見えますし、車ですら行き来に難渋するような広域に展開するという点も消費生活協同組合にはそぐわないと思います。もはや単なる大型小売商であり、そう考えて小売商なりの規制に服し、大店法の規制も受けるべきでしょう。coopはむしろ地域小売商に対する脅威とすら言えるのではないでしょうか。

目標は9割加入のフィンランド コープさっぽろにみる生協の可能性
それは小売りの共産主義化と言うんじゃないでしょうかね。というか、そこまでやったら独占禁止法違反ではないでしょうか。消費生活協同組合が消費カルテルということになります。
そもそも限定された地域的連帯を超えた組合事業というのは一般に胡散臭いのですが、消費生活協同組合は明らかに無権利な組合員を利用して組合執行部が組合事業を支配する体制です。決定を組合員全員の総会参加と記名投票での全員一致とするならまだしも、単純に組織を拡大するというのでは決定権が執行部に集中するだけです。小規模小売を排除し(悪質な小規模小売店に対抗するのがもともと消費生活協同組合運動でした)、さらに大規模店舗まで追い出して、生協執行部の小売り独占ですか。さぞかし素晴らしい可能性があることでしょう。謹んで消費生活協同組合に大いなる兄弟の称号を進呈したいと思います。

■2024年04月23日(火)  「現内閣はトランプを歓迎しない」でいいと思うのですが
自民・麻生副総裁が米訪問 トランプ前大統領と面会へ最終調整
「一方、麻生氏とトランプ氏との会談が実現すれば、岸田文雄首相は難しい立場に置かれることになる。」
バイデン側から文句を言われたら麻生さんが国務大臣と副総裁を辞任すればいいだけのことだと思いますが。それでトランプさんが大統領になったら岸田さんが内閣総辞職、自民党総裁を辞任して麻生さん主体で新政権を構築すればいいわけですし、バイデンさんが大統領を続ける場合は麻生さんが逼塞するわけです。政治家というのはそういう使い捨てのものでしょう。麻生さんに次があるかはわかりませんけど、どうせトランプ政権ができても二期はもたないと思えば岸田さんはまだ先がありそうですし。少なくともこの状況で対米協調路線を貫くならそのくらいは考えるのがストラテジーというものでしょう。

■2024年04月23日(火)  そもそも安易に無断キャンセルができるような店は高級店ではないと思う
無断キャンセルに悩む飲食業界 高級店ほど痛手、確実な対策は
店だけで対応しようとするから駄目なんじゃないですか?つまり、紹介必須にすればノーショーは紹介者の面子を潰すわけですから減るでしょうし、発生しても密接な関係があるであろう紹介者にクレームを入れることができます。つまり一見さんの予約お断りです。高級店ならそれで上がる格もあるでしょうし。
誰でもかまわず入れますなんてのは高級店の商売ではありません。客を選ぶ、あなたは当店に相応しい客ではありませんと断れるのが高級店です。電話やネットで客の格など判断できるわけがないですから、紹介という形で第三者に客の格を保証してもらうわけです。もちろん入店してきた客も、服装や挙動次第で追い出して構いません。
それができないならその店は高級店とは言えませんので、庶民相手の安い商売に徹するべきです。もちろん予約は常連以外不可、店頭で対応として、ちゃんと店に入ってきてテーブルに着いた客だけを相手に、その日ある材料だけで商売をするのです。

■2024年04月23日(火)  魅力がと言うなら愛知県の自前でリニアを山梨周りで引いてみろ
インバウンドまで名古屋飛ばし?実はどえりゃあ魅力的、もっと発信を
魅力ありますか?
正直名古屋など存在意義はないと思いますが。愛知県で存在価値があるのは豊田市だけでしょう。そしてあそこは鉄道は要らないはずです。名古屋飛ばしでなく愛知飛ばしにして、東京・京都・新大阪直結のために長野・岐阜・滋賀の経路を中心にするべきです。どうせ三重にはローカルな観光地以外何もないですし、和歌山は大阪から行く方が楽です。JR東海だって、東海三県で儲かると思っているのは静岡県の在来線で、大事なのは東京・京都間の土管需要みたいですし、まあ、それが堅実でもあります。名古屋駅と愛知、三重県内の路線を全部名鉄と近鉄に売り飛ばし、東海道新幹線は浜松止まり、山陽新幹線は岐阜駅止まりにして、中央線も多治見駅あたりで岐阜駅方面に出る形にし、リニアも多治見から滋賀県南部を通って京都に抜けさせたらいいでしょう。もちろん東海道新幹線を整理するのはリニア開業が前提になりますが、名古屋駅への停車を無くして当面列車だけ通させてもらってもいいわけですしね。そうやって、JR東海の本社を静岡市に移転すれば、リニア絡みの静岡県との調整もまだしも進みそうです。
とにかく愛知県内は名鉄に任せておけばいいので、JR東海が重視するべきは滋賀・岐阜・三重と奈良県、和歌山県です。愛知県と違ってまともな観光資源がたくさんあります。東京から(大阪からは近鉄がやります)三重、奈良、和歌山へのアクセスを整備すること、これは滋賀県内と京都から近鉄に接続するのが最も効率的でしょう。JR東海は東京と京都の接続に専念してください。岐阜県内で名鉄に、滋賀県内で近鉄に接続し、京都を迂回して奈良・三重・和歌山に動くルートを作り、近畿の古代遺跡と中世までの仏教文化を比叡山から高野山まで追うとか、それに伊勢神宮を加えるとか、城とB級グルメしかない愛知県と違って奈良から三重県山間部には観光資源が多いのです。どうせ城を見るなら岐阜県から愛知県に各駅停車で行くべきで、これは名鉄が担えば済みます。そして三重県沿岸部は鉄道で行くところではありません。高速道路があれば十分ですし、三重県北部から名古屋周辺への通勤は近鉄あたりで済みます。和歌山も、正直大阪・和歌山ルートがメインで、ただ観光客を捌くためにも滋賀・京都府東部・奈良・三重のルートがあればいいということです。どうせ東京には格が四つも五つも劣るわけですから、JR東海と私鉄が競合している余裕はありません。まずJR東海が愛知県というマーケットを私鉄に譲渡し、その上で私鉄と連携して紀伊半島中心の観光鉄道網を構築するべきです。琵琶湖から紀伊半島にかけてこそが古代の中心なのですから。
逆に愛知県は、そもそも周辺の県よりも経済的には恵まれているのですから、魅力がと言うならば自分の金で静岡でも山梨でも岐阜でも説得して東京直結路線を引くべきです。というか、名古屋中心の滞在なら新幹線は切り捨ててセントレアに集約した方が良いんじゃないですか?伊勢神宮と伊勢の名勝、織田と徳川の旧跡観光なら、むしろ京都や東京に逃げる余地がない方が良いでしょう。何なら財界有志で、東海三県+三重のプロゴルフツアーを企画したっていいでしょうし。それもできないようなら名古屋は後は沈むだけですので、手を突っ込むだけ無駄です。

■2024年04月23日(火)  復興をケチって詐欺は振興すると
文化庁が美術鑑定の事業者を認定へ 信頼高め、市場の活性化目指す
どうせやるなら文化庁で地方出先を作って政府のお墨付きで鑑定をする方がましだと思いますけどね。もちろん鑑定結果に問題が出たら国が責任をもって損害を賠償する。その分高い鑑定料も取るわけです。
とはいえ美術品鑑定や美術品流通市場なんてできのいい詐欺師しかいないので、やっても無駄だとは思いますし、活性化など目論めばろくなことがないと思いますが。
ともかく税金の無駄遣いなので、夏までにやっぱり止めましたと言うべきですし、財務省は一円たりとも出さない、担当者の人件費も削ると公言するべきです。

■2024年04月22日(月)  もちろん名古屋に爆弾を落とした外国軍人たちもその祖国のために命を懸けて戦闘行為に参加した道徳的に素晴らしい人たちですね
河村市長「祖国のため命捨てるのは道徳的行為」 会見で持論、釈明も
そりゃまあ、道徳的行為でしょうし、そうでないとおかしいでしょうね。もっとも道徳的行為が行うべき行為とは全く言えないわけですが。
一応反論はあって、まず、では祖国のために外国人を殺しその資産を破壊するのは道徳的な行為かという点を考えるわけです。例えば空襲を含めた戦闘による被害を甘受しその結果死ぬことを覚悟するというのも祖国のために命を捨てる行為ではあるでしょう。そのような迷惑な決定をした政府の打倒を画策しないというのは道徳的行為かもしれません。空襲を受けて炎上する建物から逃げ遅れた人を助け出すのはある意味祖国のために命を捨てる行為でしょう。これは単純にそう言うことができる数少ない例です。あるいは外交上のミスで国際紛争が起きたときに、その責任を一身に被って自殺し、あるいは刑死することも祖国のために命を捨てることとは言えます。しかし、普通祖国のために命を捨てるとは外国軍隊との戦闘に参加することであり、この場合殺人や器物損壊が付随的に発生します。もちろんこれは交戦法規により国家や国家指導者が責任を取り、現場の命を捨てる人たちについては免責されているわけですが、それでも祖国のために人を殺し敵性資産を破壊するのは現場の人たちです。責任転嫁できるからと言って殺人や器物損壊をするのが道徳的かという問題はあるわけです。個人的には、祖国のために命を捨てるという表現はこれを糊塗している面があると指摘せざるを得ません。
次に、例え個人的な感想であっても、市井の道徳家でなく政治指導者がそういうことを口にするのはいかがなものかという点があります。市井の道徳家は理想を語りますが、政治指導者が語るのは政策のはずです。つまり政治指導者が「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為である」と言った場合、それは政治指導者の管轄下にある被治者にそうせよという指示、政策でありうるのです。正直河村氏にしろ、他の失言大魔王たちにしろ、そういう意識が足りない、あるいは本音を語っていたとしてもそれをそういう意識が足りなかったと反省することに抵抗感がないように見えるわけですが、こと指導者に関しては、綸言汗の如しという言葉があることを認識していただきたいものです。自らの言葉が須らく政策であり、実施されるべきものとして発せられるということを、指導者たる者理解していなければなりません。それともまさか、政治的決定権は民主的制度により一定の制約を受けているので、その制約のかかるような発言は自由にしていいのだとでも言うのでしょうか。
そして、道徳とはあることをすべし、あるいはすべからずと指示するものですが、これが社会的なものである場合にいかにろくでもないことが起きるかというのは、特定の道徳観念の強要が何を引き起こすかという形でよくわかっていることだと思います。それを知っていれば道徳的行為だなどという言葉は口に出せないものだと思います。良い道徳と悪い道徳があるのではなく、社会化された道徳というのはすべてそういう筋の悪い、うさん臭いものであり、道徳はただ個人のもの、せいぜい外的な道徳的言説や道徳的行為を個人が十分な批判の上で取り入れて実践するときに良いものであり得るのです。もちろん、ろくでもない道徳的言説を垂れ流す政治指導者を殺害する行為はある程度道徳的行為であり得ると思います。そういう確信犯を、殺人罪を犯したという点からはともかく、道徳的な観点から非難する気にはあまりなれません。その意味で政治犯として扱われるべきでしょうね。

祖国のため死ぬのは「道徳的」 河村市長が改めて強調、専門家は批判
まあ、これは首長の選挙制がまずいのだと思います。首長は公務員試験合格者の中から議会が指名するべきでしょうし、その際当然に服務規定に沿って仕事として従事してもらうことにするべきです。つまり首長としてあるときは首長として振る舞わないといけない。当然自分の意見を不用意に言うことは厳禁です。もちろん三交代制にしたっていいわけで、交代制の全員が合意していないことは言ってはいけないし、言うにしてもまず議会に諮ってからにしないといけない、議会に諮るにしてもまず市長部局内で揉んでからにしないといけない。
そういう弁えのない人がこういうことを言うのはもう仕方がありませんので、当分もぐら叩きをしつつ、地方自治法を改正して首長公選制を議会指名の資格任用制に改め、組織の総意として確定することなく自治体の代表として発言することのないようにしないといけません。道徳と言うなら問題はそこで、選挙で選ばれた首長だから独裁者のようにふるまうというのは決して道徳に合致したものではありません。

■2024年04月21日(日)  ATSを解除できなくした方が良いんじゃありませんか?
京急運転士、保安装置に細工 「非常ブレーキかからないように」
気持ちはわかりますがそういうことをしてはいけませんね。
ところでそう言っているということは運転中に眠気を催すことがあったということになるわけですが、そうなると乗務時の健康状態の確認に問題があった、あるいは規則上の問題はないまでも不備があったということになりかねません。もちろんまったくの健康体でも眠気を催すことはあり得ますが、鉄道車両の運転ではそれはまずいという話であるはずです。もちろん適切な勤務態度であれば問題ない、眠気を催すことはないなどという戯けた言い訳ももはや通じません。鉄道各社は運転中に運転士が意識喪失を含め判断能力を喪失することがあるという前提で安全設備を整備して欲しいと思います。つまり、運転士の判断で解除できてはだめなわけです。それによって運行に頻繁に支障が出て、その相当部分は誤検知ということになるかもしれませんが、仕方ありません。

■2024年04月19日(金)  掛け持ちを義務化すると抑制が働くということもあるかも
部活動、まだ「やらされすぎ」 自由な時間の少なさに不満の可能性
正直、現在の部活動には負荷を高める構造的な問題があると思います。
二つ以上の部に入ることを義務付けるという手があるかもしれません。この場合七つとか九つの部に入って忙しく過ごす子が出る可能性がありますが、それは純粋に本人の問題でしょう。一方で二つの部に入っている場合、その二つの部の間で活動時間を調整する必要が個人単位で出ます。つまり、活動時間を無暗に増やすことが抑制される可能性があります。もちろん特定の部活動への帰属意識も減るでしょう。そして複数の所属という点では全員が同じなわけですから、掛け持ちを問題視することも少ないでしょう。
もちろん主たる活動を決めて他は幽霊部員化する生徒も出るでしょうが、幽霊部員ばかりになった団体は活動実態が消滅し、廃部になるでしょうし、ひとつの活動の優先がイレギュラーな状態だということになればそれを求めるということもしにくいはずです。この場合複数所属は義務ですので、生徒は加入している団体が消滅しないようにする動機が生じます。
まあ、学校の部活動などというものは本来ないに越したことはないのですが、どうしても置くというなら、できるだけ多様かつ固定しない、変な帰属意識が生じにくい形にするべきでしょう。
もちろん掛け持ちをした場合活動がバッティングする可能性も出てきます。しかしそれをどう避けるかというのも、身につけるべき社会性でしょう。もちろん競技会出場のようなバッティングしやすい活動を避けるというのも立派な方法論です。学校で行うなら本来できる限り学校内で閉じた活動であるべきですし、「学校を代表する」といった僭越な行為はむしろ教育としては避けるべきでしょう。部活で学校を代表していいなら環境保護活動でも学校を代表する資格が生徒にあるわけですし、それは公道バイクレースでも同じでしょう。生徒が非公式のイベントながら公道バイクレースに学校代表として出場したいと言ってきた場合、学校側には基本的に前向きかつ建設的に検討する義務が生じます。何なら他校の非公認団体との喧嘩だってそうでしょう。他校の代表との飲み会だってそうでしょうね。生徒が学校を代表しうるとはそういうことです。

■2024年04月18日(木)  で、エコテック関連業界からいくらもらったんですか、この記事
気候変動で2050年には世界の所得19%減 日本にも悪影響の試算
研究グループが一定の前提条件の下で試算するのは研究としては当たり前のことですが、それはあくまでも可能性です。ネイチャーに掲載されようがサイエンスに掲載されようがそれは変わりません。こういう確実性の低い事実を無責任に報じるのを見ると、事実報道であっても報道した責任があるくらいは言いたくなります。つまりおかしな報道をした場合におかしいということが確定した時点で掲載した報道機関に主要新聞全てに20ページの謝罪広告を出すくらいのことはして欲しくなります。もちろん誰にでも謝罪広告の実施を求める権利があるわけです。
責任ある報道とか報道の社会的価値などと言うならもっと責任ある行動をしてもらえないものでしょうか。それとも実は普通の記事ではなくパトロン付きのPR記事なんでしょうか。

■2024年04月18日(木)  そりゃまあインドの人が皆カレーだと思ってカレーを食べてるわけじゃないしね
タイには「タイカレー」は存在しない…! 発売25年目のヤマモリ「グリーンカレー」の苦難
そりゃまあ、カレー自体インドや周辺地域以外の地域での料理名ですからね。日本の感覚ではカレーに分類されるのかもしれませんが、タイでは統一した名前がないとか、違う名前だとかいうのは普通にあり得るわけです。
そういえばタイ料理の店というのも伸びてくるのは結構新しい時期だったように思います。多分店自体は1960年くらいからあるのではないかと思うのですが、エスニックブームからだと多分1990年代以降でしょうね。

■2024年04月18日(木)  日鉄の労組はなぜUSWに連帯しないのか
米鉄鋼労組会長「日鉄は不誠実きわまりない」 雇用めぐり見解対立
日鉄も間が抜けています。日頃の行いが悪すぎるのですから、USWともなれば全部知っていると思うべきで、その不信を上回る誠意を示さないと納得などするわけがありません。
むしろ日鉄の労組からUSWへの連帯の動きが出てこないのが不思議なのですが、何をやっているのでしょうか。別に買収に反対しろとは言いませんが、買収したうえでUSWと同じ条件で労働協約を締結せよというべきですし、USWとちゃんと連絡を取って共同戦線を組み、双方の都合のいいところをうまく合わせて労働側に有利な協約を勝ち取るべきです。それで買収話が潰れればそれはそれで構いませんし、買収が成立したところで損はしません。

■2024年04月17日(水)  町の本屋などどうでもいいので図書館の拡充を
街の本屋に補助金で支援を 斎藤経産相が書店経営者と車座で議論
文化と本屋を一緒にしないで欲しいものです。本屋が文化と結びついていたのはせいぜい1930年代までです。その証拠に、それ以降本屋で本など売っていなかったではありませんか。町の本屋で買えないから大都市の大規模書店に行った、それでもそういうアクセスを容易に得られるだけ恵まれているなどという状況は二度とあってはなりません。本屋全盛の1980年代ですらそうだったのです。それをひっくり返したのがむしろ、amazon.co.jpを始めとするネット通販でしょう。町の本屋などとっくに歴史的な使命を終えているのです。
もちろん、文化と絡む本屋はあり得ます。ネット通販が単純に本を買う場所なら、リアルの本屋は本について語る場所だったりするかもしれません。あるいは特定の分野の本に通じた、そこに行けばその分野の最新の出版物を買うことができる場かもしれません。しかしそれは町の本屋ではありません。一軒一軒違う店です。
むしろ出版文化に絡む均一な場というなら図書館でしょう。本屋というのは取り扱っている本が売れてなんぼです。つまり貧乏人の相手には限界があります。しかし図書館ならそんな限界はありません。まあ、売れ筋の本ほど読めるまでに時間がかかるかもしれませんが、どうしてもすぐ読みたいなら買えばいいわけですし、それはネット通販でいいわけです。むしろそこに行けば多分本があるという状況の方が大事で、リアルの書店というのは悪い意味でそうではありません。売れない本は置いてありませんし、売れてしまった本もありません。ある意味実質的に無限大の倉庫を持つネット通販や、自社出版物の通販とは違うのです。もちろん売れないからと言って本を廃棄(返本)しないという点でも図書館は重要です。まあ、スペースが足りなくなって本を廃棄しているという状況はあるのですが、本屋に補助金を出すくらいなら図書館を拡充するべきですし、もちろん貸し出しは限定するべきです。あって、読んでみて、手元に置くべきだと思ったら買うか、適切な手続の下で複写するというのが正しい使い方です。本というのはわりと簡単に品切れ再販未定や絶版になりますので、適切な複写サービスを提供していることは文化に絡んで必須と言えます。この点で出版社というのは無責任なわけですが、本を作って市場に流すところまでが出版社の責任だというならそういうものなのでしょう。その出版流通の無責任を補完するのが図書館です。
もちろん本屋に価値があるというなら、それはそうした充実した図書館と競合して商売をやっていけるレベルであるべきです。

■2024年04月17日(水)  そりゃロシア国内においておくよりは都合がいいんだろうけどさ
ウクライナの子ども161人、ドイツで所在確認 ロシアへ連れ去り後
何をやってるんでしょうかね。もちろんこの場合ロシアが、ですが。保護のため連れ去ったというのですから、責任を持って世話をするべきです。それが何でドイツに居るのでしょうか。それも密入国状態で。
攻め込んだのはロシアだとしても、それは棚に上げて、やむなく戦闘地域になる場所から民間人、なかんずく子供を退避させるということ自体は人道上是認できる行為です。人道とは別の観点で戦争が起こり、文民の居住地域が戦闘地域になることはあり得ますから、本来ウクライナができる限り避難させるべきでしたし、内戦に相当する事態であっても民間人の保護を図る責任はウクライナにあります。それが為されていない状態でロシアが実効支配している以上、ロシアとしては戦闘地域の民間人を退避させるというのはあり得ないとは言えないのです。むしろそのまま置いておく方が非人道的でしょうし、民間人がいるから戦闘をするなとはなかなか言えません。仮に都市攻撃であっても、敵軍部隊の退去を求めた上で退去後に占拠する(この場合退去しなかった方が都市を戦闘に巻き込んだ責任を負う)なり、猶予時間を設けて民間人に退避を求める(この場合合理的な猶予時間であればその経過後滞在している民間人は自己責任)なりをすれば戦闘はできますので(この交渉ができない時点で無差別の都市攻撃や大量殺りく兵器の使用は戦争犯罪として否定されます)、都市だから、民間人の居住地だから戦闘にならないなどという話はないのです。
ただし、その場合ロシアは保護の責任を負ったことになるわけで、国外に出すにしてもちゃんと外交ルートを通して引き渡すべきで、なぜかドイツに居ましたなどという状態は感心できません。まさかドイツ政府が知っていてすっとぼけているというわけでもないでしょう。

■2024年04月16日(火)  勝手に行って自己責任で活動するだけなら問題にしないと思いますがね
戦地取材に冷淡になった日本 問われるべきは「なぜ行かないのか」
もちろんジャーナリストとしては関心のある領域の取材をなぜしないのかというのは課題であり得ます。ただし、危険の中に飛び込むことの是非というのは総合的に判断する必要があります。
もちろんフランス外人部隊や米国あたりのPMCで就労する自由があるのに戦地取材が妨害を受けるのはなぜかという問題提起もあり得ます。一応論点としてはこれが個別判断だということでしょう。つまりいかにもやらかしそうだからパスポートの発給を拒否した、裁判所はその裁量を根拠と併せて認めたということです。この場合日本国民が紛争地域で迷惑なことをやらかす、トラブルに遭うのは日本政府としては明らかに迷惑なことですので、合理的に考えてやらかしそうな人に出国許可を出さないのはおかしいとは言えないでしょう。それは多分事情が海外での戦闘参加、軍事組織への参加でも同じで、例えば渡航目的にハマスに参加するためなどと書いたらおそらくパスポートは下りないでしょう。そして渡航先が紛争地域であるとかきな臭い渡航目的であるとかの事情を申告していなくても、過去の経緯から問題のある行動をすると判断された場合も、説明責任はあるながらパスポートの発給を拒否する、あるいは渡航の事情について説明を求め、条件を付けるといったことは妥当だと思います。これは、それこそ合法的に出国した者が日本国内で刑事訴追された場合にパスポートを取り消した事例が直近にあるわけですから、おかしいとは全く言えません。まあ、あの件は刑事被告人の帰国を強要できるのかは個人的に疑問だと思いますけど。

紛争地取材に冷淡な社会 ジャーナリズム活動はメディアの独占物か
冷淡というか、そもそもどうでもいいところに行って身を危険に曝し、その挙句にトラブルに直面して国に救済を求めるから問題視されるわけです。ミャンマーや、戦地でなくても中国で拘束されている例もそうですが、国外でトラブルに遭った場合、日本という国は対応に限界があります。これが「普通」の国であれば、特殊部隊を派遣して救出してしまえば最終的な解決になります。もちろんその結果戦争になるかもしれませんが、そういう手段も辞さない、戦争もあり得るという発想自体が、トラブルに際しての外交では重要です。日本はそれを自ら封じているわけですから、救援を求めることは日本政府、あるいは政府の対応を通じて日本国民を不利な状況に置きかねないのです。日本国民たるもの、海外旅行中にトラブルにあっても日本政府にだけは頼らないという強い覚悟を持って出国しなければなりません。まあ、実際にはパスポートまですっかり盗まれて領事館に駆け込む日本国民が結構いるらしいですが。逆に日本は国民を人質にとっても絶対交渉に応じず、自国民が殺されることを何とも思わないと理解されていれば、国民が戯れに嬲り殺されたり不当な扱いをされることはあっても、友好国の政府であればとりあえず確保した時点で強制送還まではしてくるでしょうし、実際に容疑があればともかく嫌がらせや交渉戦術として拘束するようなことはしなくなるはずです。そうであればこそ、日本国政府もパスポートを単なる身分証明書として気軽に発行できるというものです。
自己責任という前提の下で戦地で取材することや危険地域での何らかの活動に従事することは、もちろん本人の判断するべきことです。特に出国させるべきでないような問題がない限り、行動を制約するべきではありません。それがパスポートの発給を拒否されるというのは、危険なところに行った挙句に救出を求めてきかねないからでしょう。
その上で、戦地取材の価値が社会で共有されるべきか、社会として支えるべきものかと言われれば、個人的にはそうは思いません。もちろん価値があると思う人はいていいと思いますが、個人的にはなければないで差し支えないと思います。ジャーナリズムではなく外務省あたりの調査ならまた別で、その場合殉職もあり得るわけですが、さすがに国際交渉のテーマになりうる状況を外交当局が把握していないでは済まないかもしれません。ただしそんな国際交渉には極力関わるべきでないとは思います。そうである以上、問題を起こす自称ジャーナリストが問題を起こしたことを理由にパスポートを発給されなくなるのは仕方がないことだと思います。ですから、発行されなかったことについてジャーナリストに同情は感じません。

サヘル・ローズさんが語る「危険地」に赴く意味 もっと伝えるには
自身の経験としてどこかで得たものがあり、それが危険地域でのものであるということは、当然あり得ます。それこそ問題があるからこそ危険地になっているわけで、その問題は現地に行かないと見えないことも十分あり得ます。
とはいえそれを日本社会に報せないといけないという発想は感心できません。自分の行動ならそれこそ好き好きですし、たまたま見てしまったものを報告することもそうだと思いますが、それを社会的な価値のあることとして押し付けてくるのは勘弁して欲しいものです。まして日本政府に行動を求めるなど論外です。百歩譲って国家間の関係の中で外交ルートで求められた支援なら応じる余地はあるかもしれませんが、日本には人命を賭けてまで行うべき海外支援はありません。そういうものは個人の発意により個人の責任で行うというのが基本です。というか、少なくとも武器を売らない、海外派兵はしない、軍需物資は輸出しないし融通もしないと言うなら、そもそも相互の保証付きの経済的なもの以外の国際協力をすることの方が問題です。

■2024年04月15日(月)  大学の自治というおかしな概念
大学の自治、「もはや存在していない」の声 法人化時は尊重されたが
そもそも「大学の自治」とはなんでしょうか。もちろん人事の自立性であるとか内部自治であるとかいった要素はあるわけですが、何かほんわりした「大学の自治」という言葉が独り歩きしているような気がします。
大学を高度な学術の教育と研究を目的とし、教育を受ける学生に一定の修得段階に達したこと、あるいは一定の科目なりカリキュラムなりを修了したことを認定して学位を発行する団体と定義すれば、その要素として教員=教授と学生がいることになります。歴史的には教授と学生とがそれぞれに団体として行動するようになった結果、基本的には教授団としての法人格を持った大学が内部自治と自主財源、そして学位認定資格と教員選任権、つまり教授団のメンバーを教授団の総意として決める権限を持った学びを標榜する組織、団体として成立していくわけですが、それ以降も含めて歴史的な事情は棚に上げて、内部自治権を持った法人としての大学というのは教授が結集した教授団と学生が結集した学生団が対峙した構造をもつ高度な学術の教授と研究を目的とする団体であり、自治権の内容は一般的な組織内自治に加えて教授の人事権、教授団と学生団の総意としてのカリキュラムの決定権、学生に対する学位認定の権限を特色とするということになります。ここでカリキュラムの決定に学生団の関与を想定するのは、学生は適切なカリキュラムを要求する権利を授業料の支払いの結果として得られる債権として持つと考えるべきだからです。羊頭狗肉な講義、科目というのは学生の利益に反します。カリキュラムもトータルで同じです。カリキュラムやシラバスの決定や認可が自治においてどの機関に属するのであれ、教授団は適切な指導を伴った認定する学位に即した適切な内容の講義を(各教員が)行う義務が学生に対してあります。ここで学びのコミュニティ論の日本版のような債権や債務という概念を排斥したい話の出てくる余地はありません。機能的制度としての教育が外部に対して達成度を示すタイトルを学生に対して発行するという形になる以上、学位に相応しい教育を合理的に受けることは学生の債権であり教授の債務なのです。そうである以上、学生としては、ともかく世間に通用するものにしてくれという程度の曖昧なものであっても、学位の権威とその権威を保証するべきカリキュラムの内容について一定の保証を求めることになる、つまり口出しをする資格を持つわけです。もちろん学生団は一方で受講料についての交渉権も原理的に持ちます。教授がこの程度は払ってもらえなければ講義はしないというのが権利なら、学生がこの講義ならこの人数の受講者でこの程度の総額が相場だ、それ以上は払わないし、それでしないならやってくれる他の人を講師として呼ぶというのも権利なのです。この点で、学生のこの種の権利を無視して大学の自治を論じることはできません。
一方近代以降において大学は特に国王や政府、あるいは民間企業のシンクタンクとしての機能を大学総体として持つようになりますが、これは自治権の対象とはなりえません。正確に言えば依頼を受けるかどうかは大学の自治の問題ですが、どんな依頼が持ち込まれてきて、受けた場合にどのような成果を出さないといけないかは大学だけでは決められません。せいぜい交渉ができ、気に入らないなら断れるというだけです。もちろん依頼側だって持ち込んだとしても大学側の対案が気に入らないなら断っていいのです。
さて、近代大学制度の特徴の一つとして、学位の権威が政府によって保証されるという点があります。アメリカ合衆国の大学制度がある意味特徴的ですが、高等教育を教授する教育機関は誰でも、どんな形でも作ることができますが、その認定する資格を権威ある学位として通用させようとすれば教育機関が連邦政府の認定する認定協会という団体に審査を申請して、学位発行機関としての認定を受ける必要があります。これはつまり、大学の自治権としての学位認定権限を部分的にであれ否定する仕組みです。一方でこれは、学生に認定機関で取得した学位の権威を保証する方法です。この認定協会 - 専門的な学位であれば専門的な認定協会の認定を受けていることが望ましいでしょう - の認定を受けたコースの学位を持っていれば、発行した大学によってある程度差がつく部分があるにしても、真っ当な学位として通用します。ありていに言ってメリットとして履歴書に書けます。別に認定のない教育機関の学位を持っていることを書いてもいいのですが、それをどう受け取るかは履歴書を見た人次第ですし、要件に学位が書かれている従業員募集や資格の審査でそういう保証のない学位を主張しても認められないのが普通です。もっとも法人としての大学自体がもともと一定の権威からの認定によって成立するものだったわけですから、この点において大学というのはそもそもが自治に制約を受ける存在であったとは言えるでしょう。
ここで示した「学位の権威を学生に、そしてその学生から学位を持っているという主張を受ける第三者に対して保証する仕組み」というのが、大学の自治を脅かす根本的な原理です。機能要求の独占とか財源の依存性とかは補助的な要因であり、現代の政府、あるいは民間の高学歴人材の使用者は適切な権威ある学位を持った(これは学位相当の適切な教育を受けているということに他なりません)大学修了者を必要としており、学生もそのような人物になるために大学に入学し、卒業を目指します。このためには政府が大学の教育を管理統制することが必須であり、この意味で政府は大学の自治を克服しなければなりません。人事や経営に対する口出し、財源の統制もその手段ですが、仮にそこを大学の自治に任せるにしても、不都合なことをやったら学位認定機関としての認定を取り消すことになります(日本で言えば大学・学部設置認可の取り消しになります)。
もっとも、制度的には日本の大学は戦後においていわゆる大学の自治の主体であったことはありません。制度的には大学を含めた教育機関は財団法人、つまり一定の事業を行うための財の団体です。国公立の大学も財を欠くとはいえ事業を行う機能を担う法人として財団法人の類型で理解するべきです。そして財団法人には自治の主体となる成員はいません。設立者が財団を設立したところで財団は財団として自立してしまいます。財団に関わる人は、事業を実施する財団の部品という意味で自治を為しえません。この点がそもそも成員による組織内自治の継続が前提になる社団法人とは異なります。もちろん団体の事業において便益を受ける人は外部の利用者、お客さんとされます。社団の場合一定の便益を受けることを望む成員の社団が使用人を使って便益を実現するという事業形態があり得ますが、財団にはそういう形はあり得ません。つまり教授だろうと評議員や理事だろうと大学の機能を担う使用人に過ぎず、主体たる成員として自治を主張することができません。学生に至っては政府の整備する基準に即した教育を教授するお客さんでしかありません。つまり事業の自治はあっても組織の自治は大学にはありえないのです。

■2024年04月14日(日)  音と字面が合わない…
出てきた太めのロングパスタ、あれはピチではないかと思うのですが。

■2024年04月13日(土)  当事者の同意は憲法原則や人権に優越する
政府による民間人監視、許されるのか 日米安保の一体化に異議
その民間人の同意があれば許されるのは例えば要請による警護からもわかることですが、少なくとも雇用に基づく関係者にも、労働契約上の同意と使用者と政府の間の合意、つまり使用者がセキュリティークリアランスの審査に同意してそれを前提とする役務受託や共同事業の申し入れをすることで政府による監視への同意が成立すると思います。逆に言えば監視を受け入れるかどうかの同意については明確な基準が求められますが、受け入れた場合民間人だから監視の対象にならないなどとは主張できないということになります。これはその監視の同意が永続的かつ撤回不可能な場合も含めてということになります。
もちろん同意は明確かつ選択可能なものでなければならず、また同意があったとしても監視自体が不要になった場合は明示的に解除され、監視される当人にも知らされなければなりません。一度監視が解除された場合監視の再開には新しい同意が必要とされます。ですから、それこそ高校や大学でそのような監視の下に置かれる可能性を考えれば、普通教育においてそのような監視への同意の意味について適切な理解をさせておく必要があるでしょう。大学や教授が監視に同意していればその研究室の学生も同意していると看做されるわけですから、そこで監視対象になって以後死ぬまで監視を受けることがあり得ます。

■2024年04月12日(金)  財政審の皆さんに冷や水をぶっかけたという認識がないとすれば問題ですがね
馳知事反発「復興に冷や水ぶっかけられた」 集約化促す財政審提言に
不愉快に思う気持ちはよくわかりますし、正直事を知った県民の相当数もそう思ったと思います。もっとも財政審の仕事は下々の気持ちや苦労を慮ることではないので、元になんか戻らない、無駄が出かねないから出ない範囲でやれ、縮小均衡で構わないと言うのはある意味当たり前のことではあります。
とはいえ正直財政審には能登半島を無人にする覚悟があって言っていることなのかとは聞きたい気がします。地域社会の集約というのは簡単に行えるものではなく、だいたいにおいて失敗した挙句に人が全くいなくなります。もちろん突っ込んだ金も無駄になればそこから本来揚がるはずだった税収も飛びます。集約して節約しろなどと言われればそもそも復興の意欲を殺ぐことになるでしょう。もちろん地域の一つや二つ復興しなくてもいいわけで、そもそも過疎地だったわけですから都市に難民として逃げ出してくれる方が都合が良いでしょう。もっとも都市だって環境を整備する余裕などないはずで、まあ、スラム化するわけです。そういう荒れ地とスラムを生み出して国土の効果的な利用を損なう結果をもたらすという認識があってケチれと言っているのか、それともある種の楽観主義なのかは、いささか気になります。

■2024年04月12日(金)  この人は見識を自慢しようとして結局不見識を曝すんだなあ
大谷選手通訳の横領事件に思う
「金額の大きさを別とすれば、大谷選手の通訳による横領事件は何も珍しいことではない。」というのは全くその通りで、一人であろうと何人かであろうと他人に任せたら一定の確率でこういうことは起こります。銀行で職員が使い込みをすることだってあるのです。
それはいいのですが、ウォシュレットがどうとかいうのは蛇足にしてもレベルが低いでしょう。もちろんウォシュレットが何で売れないと呆れるのはさらにレベルが低いわけですが、そこで、欧米というか欧州人でしょうかね。欧州諸国の方々。この人たちがトイレがきれいというか(ドイツ人やデンマーク、スウェーデン、ノルウェーあたりの人たちはキッチンにしろトイレにしろ磨き上げて汚さないように使うのを我慢する傾向があります)トイレで排泄器をきれいにすることにあまり関心を持たないで止まってしまうのはレベルの低いマーケターであり、マーケティングアナリストであればどうしてそこまで頓着しないのかを調べるものです。その上で意識から変えて需要を開拓するのができの良い商人です。こういう人たちだからこれは売れないなどと言っていたら資本主義ではやっていけません。日本人にちゃんとサルミアッキを爆買いさせてこその商売人です。まあ、そのレベルの人はなかなかいないわけですが。でも、ある種の豆を焦げるまで炒って粉にして煎じて作った苦い飲み物を、まずはあまり接点がなかった国、これから手を組んで敵国と共に戦うことを期待できる国の高貴な国賓が国の風物を紹介するという体で上流階級に流行らせることで下々の憧れを喚起し、さらに砂糖だの牛乳だのを入れることで嗜好に合わせて、食事が一品減っても週に一回飲みたいものだというレベルまで売り込んだような例もあります。この飲み物は主に中南米で大量に栽培され、同じく南米で生産されるようになった砂糖と共に普及し、砂糖こそサトウダイコンから作るものに置き換わった時期もあるにせよ、今や欧米になくてはならないものになっていますね。一方遥かに栄養価の高い、つまり実質的に意味があるジャガイモは、確かに同様になくてはならないものというかどこに行っても見かけるものになっていますが、普及したのは他に食べるものがなかったからだったりします。蕪と間違えて皮が緑になったのを食べて中毒した人が出てしまったのも良くなかったとは言えますが、やはり国王や領主が作付けを強要するとか、知識人が変にまじめにメリットを説いて回ったのが悪かったのでしょう。結局食い物にあまり文句を言わない豚の飼料として栽培されるようになり、徴兵制度とともに兵食として出されたジャガイモのスープに慣れた人たちが復員して、あるいは炊き出しで修道院から出てきたジャガイモのスープに慣れた貧民があれば食べたことで、四百年ほどかけて食料として普及します。コーヒーがヨーロッパへの登場から一世紀ほどで嗜好品として一般的になったのを見れば、マーケティングの重要さが理解できるというものです。
ともあれ「現実を分析し、事実調査から出発しないと、本当のことが分からない。」というのはこのレベルまでやって抽象化、一般化して初めて意味があるので、単なる博物学的な実地調査には殖産興業以上の意味はありません。つまり経済政策ではあり得ても経済学ではありません。日本の商売人の出来の悪さをあげつらうのならもっとまともな例を出した方が良いと思います。

■2024年04月12日(金)  値上がり自体は何の問題もないのですが
都心は「高すぎて買えない」? 上がり続ける不動産価格の行方は
東京、大阪、名古屋は需給が均衡するまで上がり続ければいいのですが、問題は需要家の買い揚がり、不動産の回転売買が出ていないかどうか、そして買い支えの資金がどこから出ているかです。少なくとも株式発行を含む借り入れで賄っている場合、息が切れて価格が下落した場合に貸し手と一緒にドミノ倒しになる可能性がありますので、金融化は監督下の金融機関の貸し出し指導を大都市圏での不動産関連事業への融資を絞る方向で行い、また証券取引仲介機関が顧客に不動産関連銘柄を推奨するのを疑問視する指導を行い、日銀は金利の高め誘導を考えるべきでしょう。その上で、貸出残高相応が吹っ飛ぶと考えて対策を練っておくべきです。もちろん金融庁は不動産投資を円滑化するような金融商品も抑制していくべきでしょう。住宅需要を当て込んでいる場合は住宅ローンの締め付けも効果があるかもしれません。住宅需要の都心回帰にしても生産性がない住宅需要で不動産価格が上がるというのは行き過ぎです。
逆にオフィス需要で手持ち現金での投資が中心なら、単に業者が潰れるだけですので、何の問題もありません。

■2024年04月12日(金)  鉄道はかつては大量輸送モデルではなかった
井手正敬・元JR西会長「鉄道モデルは崩れた」 想定外だった人口減
この人勉強をしてないんじゃないでしょうか。
もちろん1980年くらいからの鉄道は大量輸送モデルだったわけですが、1950年くらいまではそういう意識は強くなかったと思います。もちろん長距離を迅速に移動するとなると事実上鉄道しか選択肢がなく、それでどこであっても一定の需要が見込めたということはありますが、我田引鉄といった言葉が流行した明治後半から昭和の初めにかけてはそもそも鉄道を引けば何かしら運ぶものはある程度の発想で引いていたはずです。鉄道モデルは東海道本線あたりの大量輸送モデルだけではないですし、そもそも何も運ぼうとしない、客が来るのを待っているだけだから運ぶものがないというのも1960年くらいからの国鉄からの傾向でしょう。このあたりで首都圏、名古屋圏、京阪神と山陽本線あたりがそういう大規模迅速輸送モデルという面を強めていきます。それこそ貨物列車の衰退もこの時期で、旅客輸送にばかり血道を上げるから貨物輸送がトラックの利便性に追随しきれなかった部分もあるでしょう。
もちろん現在のJRのビジネスモデルは大量迅速輸送、それも極端に旅客に寄ったモデルであり、JR旅客である限りそれはどうしようもありません。その意味で1986モデルは崩れたのであり、赤字ローカル線は少なくともJR旅客から切り離さないとどうしようもないでしょう。三島会社など揃って廃止もあり得るかもしれませんし、JR東日本、東海、西の本州三社も東海道山陽新幹線と三都の大都市近郊路線だけに縮退するかもしれません。ただしそれは「鉄道モデルの破綻」ではないのです。そこはちゃんと鉄道史を学び直し、鉄道がおもちゃからインフラになり、その後大量輸送手段の一つになった経緯、各段階でのビジネスモデルの変遷を踏まえてものを言って欲しいものです。

■2024年04月11日(木)  ストライキとは労使紛争における労働者の争議手段
ストライキのある生活 権利の行使、みんなで練習すれば「怖く」ない
日本ではストライキは労使紛争時の団体交渉の一環としての争議行為としてのみ可能というのが通説であり、政治マターのストライキは仮に労働者の処遇に関わるものであっても合法闘争の範疇か無断欠勤や不法占拠、そして大衆示威行動の類です。
当たり前ですが、無断欠勤や不法占拠、職場における使用者及び管理職の適切な指示の受け入れの拒否は権利ではありません。無断欠勤や業務指示の無視は行った場合使用者から懲戒を受け、損害の賠償を求められる可能性がありますし、不法占拠に至っては犯罪です。労使紛争において団体交渉を行うという前提で労働者団体が交渉窓口および争議終結の条件を明示して争議行為の実施を届け出て、かつ争議行為の内容が適正なものであると立証できた場合に初めて、憲法に定めのある労働者の団体交渉権及び団体行動権としてストライキが正当とされます。もちろん集会結社の権利や表現の自由、思想信条の自由の範疇での示威行為は平穏に(破壊行為を伴わず適切な届け出と治安機関の承認や誘導の下に行う公共の場でのパレードは平穏な示威行為です)行う限り合法ですが、使用者の私有地ないしは管理地である事業場を占拠することは平穏とは言いません。出入りを妨害するようなことも、業務妨害として損害賠償の請求を受けることがあり得ます。ストライキとはこうした場合の免責を受ける争議行為なので、権利ではあるにしても一定の制約は受けるのです。
報道機関や活動家、文筆家はストライキの定義を緩く解釈する傾向がありますが、本来は争議行為としての同盟罷業ですし、法律上はそういう意味しかありませんので、罷業を伴う示威行動をなんでもかんでもストライキと呼ぶのは止めて欲しいものです。

■2024年04月09日(火)  経緯はどうあれ有益ではあるでしょう
議員の質向上?大阪市議会「通年」へ 背景に公明と維新のさや当ても
基本的には良いことだと思います。記事中にあるような首長の専決処分の抑制という話もありますし、それ以上に首長が議会の召集時期を操作するような話もなくなります。本来アメリカ合衆国議会のように一定の日に議員が集まることで会期を始める形にするべきです。例えば一月三日以降の最初の火曜日に必ずその時点の議員が議事堂に集まって会期を始めるわけです。日本の場合首長に予算案の提出権があるわけですが、米国議会と同様に会期が始まった時点で首長に開会を通知するという形でよいわけですし、首長はそれを受けて次年度予算案を議会に提出すればいいのです。もっとも、理念としては議会が首長に予算案の提出を指示するか、米国議会のように首長が議会にこういう予算を組んで欲しいという手紙(いわゆる予算教書)を出したり議会の招待で議員に対して演説をしたり(いわゆる一般教書演説のような施政方針演説)して、予算案自体は議員提案として審議に乗ることが望ましいとは思います。そのまま休会を挟みつつ十二月二十八日までを会期とすればいいでしょう。本来は議会の解散も、解散によって自然閉会するのではなく、少なくとも議会解散の住民請求が成立した場合以外は、単純に繰り上げ選挙を行って投票結果確定後の最初の集会日に新議員が集まる、それまで旧議員が議会として機能し続けるというのが望ましいでしょう。首長は代行職を置くことができますから、首長が辞任し、あるいは解職された場合でも、代行職を置いて最低限の事務を行うことができますが、議員に代行職は置けないので、民意を反映しない議会が活動し続ける不都合よりも議会が活動を止めてしまう不都合の方が大きいと思います。住民が解散を請求した場合は明らかに民意に反する議会なのでその活動の正当性が問われますが、この場合のみを別扱いにして自然閉会する(この場合選挙実施後速やかに新議会を招集する)形だけでなく、住民請求による解散の決定後新議会の活動開始まで審議できない議案を決めておくという形も可能だと思います。次年度予算案、条例案、人事案件などは審議できてはまずいでしょうが、緊急の補正予算案や暫定的な決議は審議できてしかるべきでしょう。もちろんそれらは新議会が成立した時点で未成立のものは廃案とし、あるいは成立していても新議会の承認を得るべきでしょう。
一方で通年開催が望ましくない場合もあります。例えば議会ではなく住民総会がある場合、年がら年中住民総会を開いておくわけにはいきません。基本的には一定の時期に招集して開催され、一定期間活動して閉会することになるでしょう。もっとも農閑期の冬だけは仕事がないので政治に専念できるとでも言うならともかく、一般に有権者は通年で稼いでいますので、住民総会のため三か月休むというようなことはしにくく、まずありえない事態だと思います。同じように議員を日常の稼ぎと並行して務めるような場合、同じ構成の議会を長期間維持することは難しいでしょう。つまりプロ議員から構成される議会についてのみ言える話ということになります。

■2024年04月07日(日)  大事なのはどんな人であるかではなく何をしているか
「ほめるな危険」心理学者が指摘 子どもを打たれ弱くさせる親の特徴
正直、打たれ弱いという発想自体が全体主義的だと思います。褒めてどうこうにしろ打たれ弱さにしろ対人関係における自己肯定感の問題と思いますが、正直そんなものはどうでもいいのです。社会との関係において大事なのは、自分はこれができる、社会にそのニッチがあるという確信だけでしょう。それは打たれ弱さの問題ではなく、やりたくもないことを仕方なくするのではなく確信を持って事業にあたっているかどうかという問題です。その意味では褒めるとか叱るとかではなく、子供から自分の目標を引き出して適切な支援を与えて達成させる、自分で目標を見つけ出して達成させるという話で、その中で目標を十分な難易度と適切なステージを持つように誘導するという話です。十分な難易度の目標であれば達成したとき褒めることに問題はないでしょうし、そもそも本人にも達成感があるはずです。また初めから極端に難易度の高い目標に挑んだら折れることはあり得ますし、そういう折れる経験を繰り返すことは危険であり、達成可能な経路に分割して挑戦するように誘導することが教育の機能です。その結果自分がすることを持つのが自尊感とか自己肯定感というものであって、クルススホノールムと称して四十年も宙ぶらりんにしておいてその時々の周囲に都合のいいように成型しようなどという発想からさっぱり抜けられないから、周囲からの圧迫において打たれ弱い、頑張れない、すぐ諦めるという問題になるのです。買い手も含めて確信があるなら周囲など気にもならないものです。
まあ、便利なんですけどね、都合よく動いてくれる人。でもその便利さを前提にするのも、便利な人にすることを教育目標にするのも、いい加減にして欲しいものです。むしろ社会の方が、各個人にとって便利なものであるように適応しないといけません。

■2024年04月07日(日)  選挙で落とせばいいだけのことです
「江戸時代なら切腹か蟄居謹慎か」作家が見る自民党派閥の裏金事件
こういう輩に話を聞きに行って記事にしている時点で見識を疑います。もちろん中村某とやらが江戸時代の迷君を名君と仰ぎ今政界にいたらと思うこと自体は勝手というものなのですが、保科正之にはそのような行動を取らしめた時代の背景というのがあるのであり、発想もさることながら江戸幕府の老中制のようなオリガルキー、それも本来の征夷大将軍の権限を簒奪したようなそれを現代の前提にすることは全くの不見識です。あれがありならディオクレティアヌスの専制政治もありということになるでしょう。そういう不見識をわざわざ聞きに行って記事にしている朝日新聞編集部こそが民主社会の公器とやらに全く似合わない不見識です。
代表制民主主義における主権者の行動としては、まず投票先を選ぶこと、不適切と判断した候補者に投票しないことに尽きます。

■2024年04月07日(日)  ケアマネが一番身近な存在になってしまうという状況に問題がある
「家族代わり」貯金引き出しも ケアマネ8割が介護保険外の支援経験
もちろんそこで「家族代わり」という発想をすること自体がおかしいわけです。もちろんケアマネでないといけないという理由はありませんが、少なくとも各種手続支援は本人にとっては福祉の一種であり、介護保険内であろうが外であろうが必要な支援です。その作業をするかどうかはともかく、本人の希望があったときにそのような支援を提供する仕組みに本人を繋ぐことは、本人と契約したケアマネの業務であってしかるべきではないかと思いますし、もしそうでないなら、むしろセンターを用意したうえでケアマネをその先につけるべきでしょう。そのセンターが家族だなどという認識は勝手にしていいものではなく、むしろ本人が主体的に選択するべきことです。
仮に利用できない事情が出るとすれば、それは主としてコストでしょう。つまりセンターの利用にコストがかかるという状況です。後見などの制度は特殊な状況でない限り法曹専門家への依頼が原則とされ(その例外が家族なり親族なりと考えるべき)、その場合手数料が発生しますし、もちろん法曹専門家としての手数料ですから安くはありません。それが払えないから家族に頼むという選択は、なしとは言えません。もちろんその結果家族との連絡が切れた場合に本人が法的無能力の状態で宙に浮いてしまう事態は、そういう制度にする以上仕方がありません。迷惑を被る側が家族を探してどうにかすることになります。それで本人が生命の危機に陥るとしても貧乏で家族しか頼れないのに家族との繋がりが切れてしまうのですから自業自得です。切れて気にしないような人を頼るのが悪いですし、切って気にしないことに問題があります。

■2024年04月06日(土)  自力で先に進めない企業は支援せず潰すべき
中小企業の事業承継「官民で支援機関設立を」経済同友会が政府に提言
相変わらず同友会は馬鹿ですね。事業承継の社会化なんてどこのアカですか。競合も含めて自然な社会的機能としてのポジションの移行ができない場合は、反競争的環境であるか、そもそも社会的ニーズに欠けるかのどちらかです。反競争的環境であるならその地域をより広い商圏に統合して競争的環境を構築するというのが定石でしょうし、社会的ニーズに欠けるなら短期的に不便になり、その結果場合によっては地域が社会として崩壊するだけです。崩壊するようではそもそも資本主義において地域社会が存続の基盤を持っていないという話になるでしょう。どちらも同友会が官民合同の支援機関を云々するような筋合いではありませんし、事業継承もいかなる意味でも適切な解ではあり得ません。「社長の責任は後継者を選ぶこと」などと寝ぼけたことを言っているようだからそんなすっとぼけた発想をするに至るのです。まず自分のアカじみた発想を反省するべきです。事業継続性とは外的危機において事業の継続を確保する話であり、ステークホルダーのためと称して事業や事業組織の継続を確保する話ではありません。むしろ事業継続が不可能と判断された場合は事業組織を混乱を起こすことなく解体することこそ、経営者の責任です。その意味では法的仕組みとして経営責任者が不在になった場合の管財人下での解体手続が整備されていればそれでいいのです。

■2024年04月06日(土)  何を謝る?
親族いるのに「身寄りない」と火葬、無縁墓地に納骨 京都市が謝罪
謝罪の必要など全く皆無でしょう。二重に強調してもまだ足りません。京都市の対応は全面的に適切であり、京都市はむしろ速やかに指摘してきた遺族に火葬と無縁墓地への埋葬の費用全額に加えて調査費用を含めた市の業務執行費用を請求するべきです。もちろん可能な状態なら速やかに自身の費用をもって遺骨を引き取ることも請求するべきですが、引き取れない状況になっているなら請求のしようがないですね。
親族であるなどと称するなら、居住自治体に無用の金銭的負担をかけないことが最低限の責任です。つまり本人と親族の双方が関係性を積極的に証明する、証明できる状況を整えておくべきなのです。それがあれば、自治体政府はその関係性に基づいて親族に事態の処理と市が対応して支出した経費を請求できます。それは「戸籍をたどればわかる」レベルではなく死亡者の身辺において一見して明白なものでなければなりません。死亡者が連絡先とわかる形で関係者の連絡先を身につけているようなレベルです。それがない場合、市は無縁の死者として適切な処分を執行するべきですし、無暗に身寄りを探すべきでもありません。

■2024年04月05日(金)  なんとけち臭い
日本が台湾の復興支援へ1.5億円 上川外相「大切な友人」
政府決定の緊急支援だからかもしれませんが、1.5億円ではビルひとつ建て直すにも足りません。けち臭い話です。
まあ、内閣の裁量の中での話だと思うので、ちゃんと国会で補正予算を通して1.5腸炎の復興支援を行うことを考えるべきでしょう。でないと「友人」の株が下がります。

■2024年04月04日(木)  むしろある意味当然で教員になりたいなら個人のSNSアカウントは閉鎖するべき
生徒と私的なやりとり、処分対象に 教員のわいせつ事案受け 栃木
いやまあ、現状禁止と懲戒は止むを得ない面があって、むしろ問題を起こすから部活は廃止というのが正しい方向性だとは思います。ただし、教員を不適切な業務から解放するのはよいとして、統制の結果として一定の知己として学校の外で関係を持つ可能性を全面的に排除することになりかねないという点は問題であり、免許持ち教員の社会的機能を減殺することにはなりえます。もっとも問題を起こす以上は社会的機能を維持しつつ人道的な解決策というのはあまりありそうにありません。
もちろん問題である以上規制は厳格かつ原理的に執行されるべきであり、判断が難しいのではなく形式的かつ一律に教員と生徒の私的な接触の可能性を排除し、機械的に懲戒を実施するべきです。つまり、SNSを個人的に使っている教員は、少なくともそのSNSに生徒や保護者の連絡先を登録している場合は最終的には懲戒解雇、教員免許失効があり得るべきです。

■2024年04月04日(木)  文化庁は市民団体じゃないだろうに
「文化財サポーターズ」が始動 社会で支える文化庁の新たな寄付制度
無駄とまでは言いませんが、文化財保護という枠組み自体が破綻しているようには思います。価値があるから保護するのでは、保護すべき文化財は無限に増えます。行政として保護するという発想は限界に来ていると思いますし、仮に社会全体で支えるというなら支える人が何が文化財であるかを個々に判断するべきでしょう。一方的に権威が文化財であると判断して支持を求めるというのは、正直文化というものを馬鹿にしていると思います。国が文化財であると判定したもので「高齢化や過疎化で修理費用を賄うのが難しい所有者が多い」というなら、それは国の管理下に置いて税金で維持するべきです。文化財指定がただの認定であり、現状を保存するべきという枠組みを設定するものに過ぎない、維持は常に所有者の責任で為されると言うなら、所有者が維持できなくなった文化財は認定を取り消すのが筋でしょう。筋が悪そうな官営寄付制度など設けるべきではありません。
どうもこの種の、国の機関を公それ自体の独占的管理者であり必要な資源の動員のために何をやってもいいのだと言わんばかりの話が多いと感じます。公的な機能を社会で支持する仕組みの一種が政府機関なのであり、「社会で支援する仕組み」を国の機関が作るなどおこがましいのです。

■2024年04月04日(木)  あなたの世界と私の世界は違う
英霊は「英国の幽霊」? 新婚「むんむん」 世界像の消失に抱く怖れ
「英霊を英国の幽霊と問ふ若者の顔まじまじと見つ」
これが短歌?狂歌の間違いでは?それにしては諧謔が足りないとは思いますが。まあ、おそらく「英霊」が夏、それも終戦記念日あたりを意味するのでしょうが。
そもそも世界像などここ百年以上共有されてはいない(百年前ですらあいつらと我々では見ている世界が違うという意見が普通にあった)ので、「消失」などと恐れる方がおかしいですし、現にそれで世の中は結構回っています。英霊という単語に「英国の幽霊」をイメージする語感こそ望ましいものとすら言えるでしょう。なんで英国の幽霊を祀ってるのが靖国神社なんだろうね?なんで戦死者ではなく英国の幽霊を慰めるとか言うんだろうね?と多くの国民が不思議がる世の中こそ正常というものです。そうなっているのであれば、民主主義(デモクラシー)とはデモをして社会を麻痺させることで生活するプロ市民のことだというのが常識になっても全く構わないと思います。

■2024年04月03日(水)  弾劾はともかく再発防止策が問題
岡口判事に裁判官を辞めさせる「罷免」判決、戦後8人目 弾劾裁判
裁判官がSNSを使うなどというのはそれこそ前代未聞、想定外だと思うので、それで問題が出た以上弾劾は仕方ないとは思います。もちろん近所のうわさ話レベルの言動なわけですが、それが公的な発言とみなされてしまった以上、それをするに慎重であるべき裁判官としては適任とは言えません。
とはいえ、最高裁判所は少なくとも論点を整理し適切な任用基準を構築するべきです。不適切な言動への誘惑が極めて強いわりに公開性の高い場である以上、裁判官についてはブログやSNSをしている場合は任用しない、やっていると判明した場合は任用を取りやめるような基準にするべきです。この場合限定列挙であるべきはもちろんで、例示や包括規定はむしろ不公正です。法曹の場合弁護士という道は常にあるわけですから、ブログやSNSで発信をしていると裁判官になれないというのは公平を逸するとまでは言えないでしょう。もちろんLINEのグループで不穏当な討論をするというのも粗忽でしょう。

弾劾裁判求めた遺族「人を傷つける投稿控えて」 岡口判事の罷免判決
「人を傷つける投稿」でなければいいなどという話はないでしょう。そもそも法を基盤に合理的な裁定をする機械である裁判官が偏見を疑わせる意見を公表することで裁判という仕組みに疑念を招きかねないというのが問題なのであり、裁判官である以上人を傷つけるようなものでなかろうと発言は勤務先の裁判所と最高裁の管理下に置かれるべきです。
そういう意味では「現役裁判官への委縮効果」とか「政治家がご遺族の気持ちをくみ取り、裁判官を懲らしめる制度にしてしまった。」というのも見当違いです。そもそも「証拠に基づいて評価・判断をする裁判という自覚」というのは職業裁判官にまず求められる資質であり、それを疑わせたことが非行です。そのような疑いを招く行為について行った裁判官が懲らしめられ、現役裁判官や裁判官になりたい人が「委縮」するのはむしろ当たり前であり、自由闊達に発言するようではその発言をもって政治家や法務省、最高裁判事たちに気に入られて裁判官になるようなことになりかねません。国会の裁判官弾劾裁判はむしろそうした「茶番」、つまり最高裁判所が技術的な観点から任用した裁判官として不適切な人を解職するための仕組みです。「何となくの感覚や感情に強く引っ張られ」ていても大した問題ではありません。理由としてはそのような投稿をしたのがその裁判官であることが証明されればそれで十分です。むしろ放送特有の勘違いをもって弾劾裁判を職業裁判官による裁判と同一視する弁護側の言い分の方が弾劾裁判の本質を茶番に貶めるものでしょう。

裁判官は聖人君子か 罷免判決を機に元裁判官が恐れる「自己規制」
非行を一切しない人を聖人君子と言うならそうであるべきでしょう。少なくとも日本では。もちろん裁判官として訴訟当事者に判断の偏りについての疑念を抱かせるような言動も非行と言えますが、これはそもそも訴訟当事者の方が偏っているのが普通なので、その時点の法に基づいた判断を妥当な範囲で下せているかが問題であり、訴訟への利害関係を含めてそのような観点から自身の関わっている訴訟について担当裁判官に公平な判断を期待できない場合、原告と被告には裁判官忌避の申し立てをする権利が認められています。弾劾裁判はこの忌避申し立ての一般化と考えてよいでしょう。もちろん、国会や内閣に都合の悪い裁判官を止めさせる手続ではないわけです。自己規制もできない裁判官はその言動が原告や被告に同情的であるかどうかに関わらず資質を疑われるに足ります。
もっともこの意味では裁判官などまともな市民が一生する職ではないわけで、一時的に市民たる権利を放棄して法的判断を下す機械が職業裁判官でなければなりません。ここを忘れると、お上が国王に代わって臣民に裁定を下すような意識になってしまいます。原告と被告はその判定機械たる職業裁判官に自身の主張を入力し、職業裁判官が法実務専門家としての自らの内的基準に基づいて法律論として判決を下すという前提は確保されないといけません。裁判の判決は君主の慈悲ではないのです。

SNS投稿で罷免は「バランス欠く」 弁護士が読み解く弾劾裁判
「法曹資格を奪うような強い制裁をしていいのでしょうか」
この場合法曹資格はく奪は裁判官不適格という判定の結果であり、制裁として強いか弱いかは議論に値しないと思います。法曹資格をはく奪されたくなければ弾劾される前に辞職すればよかったのであり、その意味で法曹資格喪失は岡口氏の自業自得です。もちろん、弾劾されても法曹資格は失わないという法改正が為されるならそれには反対しません。裁判官として法曹資格を持つ者の誰を任用するかは最高裁判所や国会(最高裁判所判事の任用について)の権限であり、裁判官としての適格性はそこで判断されるべきですから、弁護士や検事を含めた法曹としての適格性とは別問題だとして良いと思います。

【判決要旨】岡口判事の投稿は「著しい非行」 弾劾裁判所の判断理由

■2024年04月01日(月)  そもそも学生から金を取るというモデルが破綻している気がしますが



むしろ学費は高すぎる 東大値上げ案がもたらすドミノ効果と格差拡大
いや、あまり擁護したくないのですが、慶応大総長も決して学費を上げるだけでいいとは言っていないと思うのですよね。あの人が言いたいのはむしろ私立大と国公立大の経営条件の差であって、それこそ私立大学を中心にするか(米国モデル)、国立大学を中心にするか(欧州モデル)の選択において、米国モデルを採用すべし、その上で学資補助を充実すべしと言っているのだと思います。慶応大のような伝統ある私立大学は経営体としての大学の自治に確信を持っているわけなので、やはり自前の財源を拡充したい、授業料や入学金というのはその中で確実に取れる部分で大学側の裁量で使えるお金だということです。国公立大の場合元から運営費交付金ベースで、その上で教授会自治(なり学生自治なり)が問題になりますが、それは多分、例えばドイツのような、国家の管理の下で教授が講義や学生の指導について、そして教授人事については部分的に、自主権を持つ形になるでしょう。高等教育についてそのような欧州モデルを採用する場合、私立大学は排除されるか自治を失うことになるわけですから、ポジショントークとして欧州モデルはあり得ないのだと思います。そして米国モデルを採用する結果、十全な学資補助を提供することで教育の機会均等と高等教育の普及を実現できるという発想でしょう。
もっとも、日本が高等教育の位置付けを、特に戦後いい加減にしてきたということも確かです。まず明治期、欧米式の学術を導入するべきことは明らかでしたし、制度としても文化における旧勢力を排除するためにも欧米式の導入を目指したわけですが、明治の政府にはそれだけのお金はなかった。公務員の育成を目指して特権的な国立の高等教育機関が整備されるとともに、並行して進んだ欧米型組織の民間事業体の形成において必要な技術官僚を育成するために、現在の有名私大に対応する私立学校が成立していきます。もっともこの時期は私立大学であれ十分な財源を持ち、授業料は低廉または無償だったわけです。この時期の国立大学(旧帝大)の私立蔑視と私立学校の国立大学への対抗意識が現在の対立意識の基調になりますが、敗戦後、占領軍が米軍主体だったことも私立大学の容認に拍車をかけます。つまり日本の戦後高等教育というのはそもそも米国モデルです。ただし戦後、民間にはまともな高等教育機関を整備しきる私的資本はなく、国公立大学が中心になり、私立学校は各種学校が中心になります。これが転換したのは高度成長期の高等教育の市場化の結果であり、本田先生の指摘する「学費が高すぎる」状況はその結果として表れていると思います。
そして、米国モデルでは高等教育機関は個人や有志が整備するものであり、軍学校のような特殊な公務員養成機関を除き、例え州政府や市町村政府が整備する場合でも私立学校と同じモデルを使います。つまり大学にミッションはあってもデューティーはないわけです。大学としての認定自体、私的団体である認定協会が行い、公立の学校であっても大学と認定されるとは限りません。当然財源も、基金として自立し、私立大学なら経営としても自立しています。
一方、欧州モデルでは英国を除き大学というのは主に王侯貴族と都市執政部が設置するものです。少なからぬ大学がカトリック教会やプロテスタント宗教団体に起源を持ちますが、今でも自立的な聖職者養成学校として残る例外的な修道会立学校を除き、基本的には国王による勅許の獲得や都市権力との癒着を経て国立大学になっていきます。英国でも、多くの場合私立高等教育校を設置するような都市資本家層は都市権力と癒着しており、また都市資本家層自体が懐は深かったので奨学金制度も併せて設置していることが普通だったわけです。授業料を取って採算が取れることを目指すのは、むしろ中産階級出がジェントルマンを目指す寄宿制中等教育校・大学進学予備校の類でしょう。つまりこのモデルでは、大学は基金を通じてであれ政府補助金に依存し、全般的に政府の経営支配に甘んじることになります。もっとも大学の自治が行き過ぎて高校教師ばかり作っていたために政府がグランゼコールを整備することになったフランスのような例もありますが。
こういう歴史的な違いを無視して学費の多寡を論じたところでたいした意味はありません。むしろ私立大学の方が大学の自治に意識的でありすらするでしょう。もちろん日本も、少数の技術官僚を競争的に生み出すための選別的で拘束的な奨学金制度と組み合わさった特権的国立大学、民間高度技術専門職ととりあえず知的訓練を受けた中級事務員、そして即席技能者の養成に分化したお金のある人のための私立大学、即席技能者の養成(それもできれば拘束的な)に特化した公立大学の組み合わせという立派な伝統を持っています。そのあたりの認識の違いを無視しても議論は成り立ちません。

■2024年04月01日(月)  悪いことなわけがない
クラス替えに思う教員の本音 「簡単な関係リセットはいいこと?」
仮に問題があるにしてもそれは学校や教員が関知することではないと思います。むしろ極力関係が固定しないようにすることこそが学校と教育関係者の義務でしょう。
結果として学校において何らかの関係が構築されるにしても、それをどうするかは本人たちの問題です。少なくとも児童間であれば学校の外でその関係を継続してもいいでしょうし、学校限り、期間限りで打ち切ってもいいのです。人間関係とはそういうものですから。

■2024年04月01日(月)  平時を前提にした「指示」ではなく非常事態対応に際して自治体事務を接収しての「指揮」であるべきではないのか
国の「指示権」強化、想定外の非常時に行使 具体例示されず懸念も
新たな「指示権」、国と地方が「上下関係」に逆戻り 片山善博氏
少なくとも平時の延長でとらえることには無理がある気がします。つまり自衛隊の防衛出動並みの緊急かつ非常の事態を想定するべきですし、そうであれば発動には同程度の検討が必要なはずです。
また自治体を指揮するのは構わないのですが、その際実施の責任をどちらが負うのかは問題です。もちろん指揮下で行われた行動において自治体が勝手に何かしたところで国が責任を負うべきですが、原則として国は自治体の事務を接収するべきでしょう。これは自治体レベルでの独裁ということにもなります。そこで知事なり市区町村長なりの指揮権と議会の決定権を停止して内閣なりその実務代理なりに権限と責任を集約するのか(住民の自治権は停止することが前提ですから問題はないはずです)、部署単位で国が指示を出すのかは制度の問題でしょうが、正直陸上自衛隊の陸将補あたりを司政官にして完全に事務を接収し一括して独裁的に管理してしまった方が筋が通るとは思います。その場合接収期間中の施政の責任から自治体は免責されることになります。
「指示」という曖昧な発想はよろしくないようには思います。

■2024年04月01日(月)  実態としてサンクションになっているのが不味いんでしょうね
従業員の労災認定に不服、企業は裁判で争える? 最高裁が初判断へ
少なくとも医療保険の趣旨からすれば不服申し立てを認めるのはおかしいと思います。労災認定は本来労災保険の給付認定だからです。
とはいえ労災保険掛け金の付加条件悪化や風評の悪化という形で実質的に使用者に不利益が生じてしまっている点は問題でしょう。正直労災は使用者の配慮で根絶できるというあほな観念が無意味な労災防止キャンペーンを招いてしまっていることも含めて、使用者が労災認定を不服とする理由は少なからずあると思います。どれだけ配慮しても、労働がある以上労働災害は小規模なものであれ発生します。予見のためのあらゆるコストを合理化できる大きな労働災害ならともかく、この事例のような精神障害であれ配達中に石に躓いて転んだような話であれ、予見不可能な労災はあり、その際に使用者が不利な扱いを受けないような政策が望ましいはずです。
もちろん当然してしかるべき注意を使用者がしていなかった場合は別途懲罰的な措置を講じるべきでしょう。その場合は使用者側に、その懲罰的な措置についての不服申し立てを認めるべきです。
もちろん、労災保険という枠組みを撤廃し、全て通常の健康保険で対応するという方法論もあるでしょう。この場合でも使用者には被用者を労働させる際の安全上の注意義務があります。
また、民法レベルで賃労働や請負を廃止し刑罰をもって禁じるという方法論もあり得ます。他人を使ってその他人に健康上の被害を与えるから問題なのであり、全部本人がすればそれは労働災害ではないわけです。もっともその場合、それこそ裁判官すら雇えないことになりますが。

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