日記

■2024年01月30日(火)  責任者を解職して二度と起こさないと言えばいいだけの気はしますが
UNRWAへ拠出停止した国を説得へ 国連事務総長、襲撃関与疑惑で
この場合自体の徹底究明と再発防止、そして交戦勢力の一方に与するような行為やテロリズムに与するような行為はUNRWAの職員として許されない行為であると国連事務総長として請け合い誓約することが求められているといえます。もっともそれをやった場合、正直パレスティナでのUNRWAの活動は難しくなるのかもしれません。この場合ガザ地区を実効統治している有力な勢力が当のテロリストだからです。
おそらく唯一有効な方策は、イスラエルごと国連軍で軍事占領して軍政下においてしまうことです。治安維持まで責任を持てば、人道支援も含めて十全に行えるでしょう。イスラエルという国家は消滅しますし、パレスティナ自治区政府も主権を喪失しますが、抵抗勢力をテロリストと位置付けて掃討できることも含めて、十分な武力を突っ込めば合理的に処理できます。戦後処理にしても既成事実化を気にしないでできるでしょう。とはいえ、現実的ではないわけです。
現実的なのは、パレスティナ自治区への支援を放棄することです。この場合エルサレムを含めてイスラエルとアラブ諸国の紛争を放置する形になりますが、安全保障理事会常任理事国が手出しをしなければなるようになるでしょう。その過程で例えば難民の処理が必要になるかもしれませんが、パレスティナ自治区の人口は四百万人程度と見られており、ちゃんと計画的に割り当てれば加盟国一か国あたり四万人は処理できるでしょう。統制されていない状態で流れ込んでくるのとは違うはずです。

■2024年01月28日(日)  最低賃金は現状ベースではなく雇用バランスベースで決めるべきかもしれません
2030年の人手不足、9県で約50万人の深刻な予測 九州経済白書
まあ、五十年も経つと変わるということでしょうか。昔は九州、とくに北部は、産業構造の変化、特に炭鉱の閉山や製鉄業の縮小で人が余りまくって困っていたものだったはずですが。
もっともその影響で賃金水準が恒常的に低下し就労者にとって魅力のない地域になっていた面もありますから、今後は賃金水準を上げられない事業者を淘汰するなど、経済の効率性を上げていくことが求められるのでしょう。効率性を上げやすい主要都市が就労人口を周辺から吸い上げ、その分周縁地域の生活コストが上昇し、主要都市を中心にした都市国家的な構造になり、周縁地域がただの重荷になっていく可能性もあると思います。その過渡的段階として、いわゆる限界集落が多数発生しもするでしょう。県として適切な人口移動政策の実施も含めて対策を検討するべきということになります。まあ、物事なるようになるでもいいんでしょうけどね。
ともあれ、人が足りないということだけでなく、そもそも現在の賃金水準やそれを支える生産性ではやっていけないということでしょうから、自治体の施策で就労者を確保しようというのではなく、現状の経済を水膨れとみなして整理縮小していく、それを県民に納得させることが不可欠でしょう。最低限の施策としておそらく最低賃金水準の引き上げが妥当ですが、現状の法定最低賃金は現状プラスアルファなので、これを雇用の需給がバランスする水準に一気に引き上げる方策が必要ではないでしょうか。つまり、この水準ではとても従業員など雇っていられないと生産性の低い事業が廃業ないしは雇用を廃止する水準にするわけです。

■2024年01月26日(金)  日本に広場の伝統などないのに公園だの記念碑だのを作るのが悪い気はしますが、公園も記念碑も作ってしまった以上後始末をするしかないですね
朝鮮人追悼碑撤去 アーティストが中止求め要望書 2日で2千人賛同
朝鮮人追悼碑2月11日までに撤去 群馬県通知、費用3千万円も請求
いや、なんでこう拗れますかね。
そもそも記念碑を建立すること自体個人的には内容趣旨の如何に関わらず賛成できないので、撤去の是非については論じないことにします。
その上で、まず問題は、代執行を行うにしても群馬県はこの記念碑という構築物を極力保存したうえで設置団体に引き渡すべきだということです。その費用は請求することになるにせよ、技術上の理由であれ破損した場合、群馬県は保護されるべき表現を意図して損なったと判断するべきでしょう。問題はそこにある碑の前で政治的集会を行ったということであって、碑の趣旨や内容には問題はないというのが群馬県の主張と思います。まあ、設置許可更新の拒否と撤去命令の妥当性を問う裁判で強制連行された朝鮮人の追悼自体が不穏当であるなどと主張していたらさすがに問題になったと思うのですが、そうである以上、設置許可の前提が失われたので移設してくださいという話のはずであり、その代執行であるはずです。ならば代執行は碑を構築物として損なわない、移設できる状態で除去する形で行わなければなりません。それをどう受け取るか、どうやって保管しておき、同場所を決めて設置するか、設置者が引き受けるまで群馬県がどの程度の期間費を保管しておけばいいかはお金の問題でしかありませんので、とりあえず県としてかかる費用をちゃんと見積もって請求しつつ誠実に保管と引き渡しの義務を果たせばいい(合理的な期間内に引き取りを見込めない場合は引き取りの訴訟を起こせばいいし、その結果設置者側が碑の破棄に応じた場合はそうすればいい)のですが、例え意図せずとも適切な配慮を欠いた結果破損したりすれば、行政の中立性を棄損したことになります。
問題はもうひとつ、設置やその維持を主張する側はなぜその場所に拘るのか、移設撤去に合理的な範囲で応じなかったのか、応じられなかったのかということです。これは、拘りはともかくとして、県の要求の範囲で移設に応じられない合理的な理由があり得るからです。移設となれば相応の費用が掛かりますし、市民団体に急な移設を申し入れても受け入れは不可能でしょう。設置許可更新拒否を容認する確定判決が出るまでは市民団体側は移設は必要ないものと判断する合理的な理由がありますから、移設の期限は確定判決が出た後市民団体が移設を準備するのに必要な合理的な期間であるべきです。その上で、合理的な期間であった場合に限り、市民団体が移設に取り掛かったかどうかが代執行の可否の前提として問われることになるでしょう。合理的な準備期間があるのに市民団体があくまでも維持を主張し移設の準備に取り掛かっていなかった場合のみ、代執行が正当化されると思います。
まあ、基本的にはお金で片が付くので、群馬県議会には不用意な代執行で応じる羽目になった損害賠償と慰謝料の支出を県知事に付け回す準備をしておくようお勧めします。この場合支出がなかったとしても準備をすること自体は損になりませんから。

朝鮮人追悼碑、群馬県が撤去開始 「強制性」記述めぐり抗議各地でも
「関係者によると、「記憶 反省 そして友好」と刻まれた追悼碑の銘板と碑文、ハトをあしらった陶板の計3枚のプレートが取り外され、県から碑を所有する「追悼碑を守る会」側へ返却されたという。」
いや、これはどうなんですかね?それだけでいいのかというのは異論の余地がありそうですが。まあ、事前に「守る会」と合意していたのならそれでいいでしょうが、そうは思えないわけです。

■2024年01月26日(金)  選挙に欠陥があるとしても動員はいけません
ゆがんだ国会を「くじ引き」でまともに 政治哲学者が問う選挙の欠陥
一見通りそうな籤引きという案ですが、おそらくまず確実に破綻します。これはそれこそ裁判員制度の運用状況から想像が付くのではないかと思います。裁判員制度においては、相変わらず裁判員への就任の回避が問題になっているはずです。裁判員は比較的限定された期間の服務ですが、それでも現代的な就労様式からは、例え制度的に指名された場合にペナルティなく休業できる場合でも(そんなことはそもそも就労に拘りのない有閑階級でなければ賃労働者以外ありえませんが)、忌避されるのです。まして国会など、今と同じ制度なら予算審議だけで二か月を要します。裁判員裁判と同様の審議迅速化、簡便化措置を講じたところで、満足なものになるとは思えません。
籤引きによる公職就任は例えばアテネの民主制において行われていますが、あれは本来市民が全員有閑階級だったからこそ成り立つ話です。それまで歩兵としての従軍に堪えないとされてきた無産階級と言えども、装備を自弁するほどの余裕がなかっただけであり、市民である限り一角の土地と奴隷を持つという意味では有産市民でしたし、だからこそ籤引きの結果に応じて政務を分担することができたのです。古代共和政ローマでは従軍は籤引きに近い、軍団の指揮官が軍団所属の百人隊の選出母体である市民団から百人ずつを選んでいく形で決まったそうですが、軍団の増備が相次いだ共和政後期には連年の出征によって家政を管理することができなくなり、農地が荒れ果てて家政が成り立たない、どうしてくれると政務官に訴えた市民が出たと言います。
市民の構成を反映するという発想は本質的に市民を国政に動員する発想であり、徴兵と同様に市民の生活を政治のために犠牲にするものです。もしそれが適切だというなら、現代的には国民に個別的に参政権の放棄を認めることが筋でしょう。国籍は国外において置籍国の名の下に人の身元を保証し身柄を保護するものですから放棄できるのは特殊な場合でないと現代の仕組みの上で人道上の問題が出ますが、統治を受け入れる代わり政務に関わらない(現代政治において職業政治家でない一般市民の政務への参加は職業政治家の統治に対する異議申し立ての手段ですから)というのは実務上の問題を起こしません。その意味で裁判員制度、陪審制度も動員という問題を引き起こす点で望ましくありませんが、あれはまだしも一般的委任が不可能であるという点で、裁判制度を維持するなら裁判員への動員はやむを得ないという理屈が可能です(もっとも制度的に適性を認められた裁判官の裁判で十分だという理屈も成り立つと思いますが、一方で裁判官は市民の代表ではないという点で裁判員制度の合理性が主張されてもいるわけです)。裁判という制度は、それこそ国民であろうとなかろうと政治的な判断(事実認定とされますが、実質的にはどのように事実を認定するか、どの法が適用されるかという政治的な判断です)に関わるような仕組みになっていますし、訴えられれば避けようがない(民事裁判は避ければ敗訴ですし、刑事裁判はそれこそ強制的に裁判を受けさせられます)以上動員の理由も立つでしょう。しかし法制定とその一環としての財政計画の策定、徴税制度の制定は当事者全体の意思として事前にかつ一般的に立法者たる政府に委任されたもので、当事者の意思表明と代表の選出は分離されています。あくまでも参政の積極的意思を示した者から代表が選ばれることが大前提です。これを動員によって処理するというなら、それこそ執政、行政執行も籤引きの形で動員によって処理するべきです。つまり最低でも大臣籤引き制が要請されるのですが、やってやれないものでもない気がしなくもありませんが、正直現状官僚専制を全面的にもたらす以外の結果が想像できません。もちろん籤引き国会議員制も同じことで、準備のできていない素人国会議員を役所が煙に巻いて好き勝手をやる図しか想像できません。

■2024年01月26日(金)  LINE嫌いだあ!
なんか筐体が膨れ上がってきた貰い物の古いスマホから手持ちのもう少しは新しいスマホにLINEのアカウントを移そうとしているのですが、スマホを三台にパソコンを並べて作業をし、なおかつ行き詰まる状況になっています。新品のスマホをSIM付きで買えばこんな不便はしないんでしょうけどね。
公式の移行の手順がAndroidからAndroidへのLINEの引き継ぎ方法です。
これだけだとそう面倒なように見えませんね。実際、多分本来はそう面倒なことではないのです。しかし、十年以上前のスマホから五年ほど前のスマホに移そうとすると問題が出るのです。
まず新しい方のスマホにLINEアプリを入れるために、Googleアカウント絡みの認証作業をしないといけません。ここで二段階認証に引っかかります。新しい方のスマホに設定したアカウントを再アクティベートするにはSMSで認証コードを受け取らないといけません。新しいスマホに入るSIMは持っていませんので、普段モバイルルーターに入れてあるSIMをさらに古い電話専用スマホに移してSMSを受け取ることになります。このために、LINEの入った古いスマホ、LINEを入れる新しいスマホ、電話絡みのスマホと三台並べることになります。それでもGoogle様は設備が真っ当なので、手順さえ追えば何とかなります。もっともGoogleアカウントに登録したSIMがないと詰みますが。
次に新しいスマホに入れたLINEアプリでアカウントをアクティベートすることになりますが、この手順はLINEアカウントに登録した電話番号か、古い端末のLINEアプリで生成したQRコードが必要になります。電話番号はわりと最後の手段(なんか端末に番号と対応したSIMが入ってないと問題が出そうな気がする)として、この移行用QRコードはバージョン13以降のLINEアプリでないと生成も読み込みもできません。先ほど新しい端末に入れたLINEアプリが最新バージョンなのはまあ当然として、古い方に入っているLINEアプリはバージョン11でした。アップデートを試みるとして、GooglePlayからインストーラーを起動しようとするとアイコンが表示された後固まります。ちなみにインストール済みのLINEアプリでも端末移行のコマンドを発行すると固まります。別の件でもあったのですが、どうも日中はLINEのサーバーのレスポンスが悪いようです。
こういう面倒があると、使いたくて使ってるんじゃないやいという気分になってきます。だいたいキー入力だってしにくいし、その代わりにされがちなバーコード/QRコード入力だって使うアプリを探し回る羽目になるし、フリックやカメラで決まりきった操作をするのでなければスマートフォンという機材は大変使いづらいです。確かに電電公社の黒電話に比べれば色々スマートかもしれませんが、何がスマートかと罵りたくなります。それでアプリやサービスも使いにくいというのでは、自分のための機械ではないのだと諦められたらどんなにいいかと思わざるを得ません。決まりきった機能を自分でアプリにしてサイドローディングなりストアにインハウスアプリとして登録するなりはできるわけですが、アプリやサービスさえオープンなら、ここまで拘束されずに済むと思うんですがねえ。
なんで皆さん、持ち歩きしやすくハードウェアとしては色々な機能がコンパクトに詰まっているとはいえ(ですから自分の決まりきった手順を突っ込むという意味では悪くないプラットフォームだと思います)、こんな使いにくいものを好むんでしょうか。もしかして管理に都合のいい機械を浸透させようとする通信会社やサービスベンダー、そして政府の陰謀でしょうか。売ると三割取るプラットフォーマーの方がずっと善良だと思えるのは気のせいでしょうか。

■2024年01月25日(木)  むしろ書店はその役割を終えたと思う
閉店する書店に直木賞作家「残念至極です…」 増える書店ゼロ自治体
まあ、当然の結果かと。買いたい本が売っていない、買いたいときに開いていない本屋に存在意義などありませんからね。
単純に各家庭が蔵書を増やせば済む話ですし、その流通経路がネット書店だろうと出版社直販だろうと作家には関係がないはずです。もちろん本屋で立ち読みされるよりもネット書店でマネタイズされた方がずっといいでしょう。
そういうわけで、「残念至極です…」などというのは個人的体験に立脚するとはいえ根拠に乏しい懐旧でしかないんだろうなと思います。個人としてネット書店など影も形もない時期に育った世代ではありますが、正直あれでは潰れるだろうと思わざるを得ません。まずもって日本国内に限ってすら刊行物を収容するキャパシティーがありません。そして技術書、学術書を中心に英語書籍の重要性が増してきているのに対応も全く進みません。唯一懸念されるのはネット書店が世界的にAmazon一強であることくらいです。まあそれも、例えばUNESCO経営にしてコンテンツ流通業を独占させ、その代わり流通引き受け義務を課せば済む気はしますが。

■2024年01月25日(木)  確かイギリス人はココアに塩を入れてなかったか?
アメリカの科学者が提案する「完璧な紅茶の入れ方」がイリギスで波紋 大使館がコメントを出すも……?
まあ、イギリスの場合そもそも入れる水に塩(主に炭酸塩)が入っているのでわざわざ入れる必要がないという話はありそうです。別に塩化ナトリウムを入れようが水酸化ナトリウムを入れようが炭酸水素ナトリウムを入れようが硫酸マグネシウムを入れようが重炭酸カリウムを入れようが個人の好き好きというものですし、単なる個人的嗜好をメソッドに仕立て上げて悦に入るのは現代人に共通する悪弊ですので、愉快にやりあっている間は気にする必要はない気がします。言わせてもらえば、茶ノ木も育たない風土で紅茶とはいえ茶について語る植民地主義的発想の方が理解しがたいものです。もちろんアメリカ合衆国北部の連中がコーヒーやココアについて語るのもそうでしょう。あいつらはミントティーやそれに付け合せる鱈や鰊についてでも語っていればいいのです。またイギリスに限ったものではないようですが、出来の悪い紅茶に着香して誤魔化すという弊風もいい加減にしてほしいところです。もちろん出来の良い紅茶に着香するのは弊風どころではなく冒涜であり、これは少なからぬイギリス人にも同意してもらえるのではないかと思います。
ところで、イギリス人はココアに塩を入れると聞いた覚えがあります。だったら別に紅茶に入れたってコーヒーに入れたっていい気がしますけどね。

■2024年01月25日(木)  不可欠といったところで存在しえない以上基盤にはし得ないと思いますが
なぜエビデンスにもとづく政策形成なのか 不可欠なのは代表への信頼
つまり代表への信頼が揮発し回復のしようがない以上もはやどうにもならないということですね。
もちろん、エヴィデンスとはそういうことです。慎重かつ適切な下調べを行いちゃんと検討をした、説得力のある結論であることを示すためにエヴィデンスが必要なのです。とはいえエヴィデンスといってもそれは言ってしまえばモデルや標本にすぎません。高校あたりで統計の基礎として習うように、エヴィデンスが正しく母集団を代表しているという信頼があってこそそれはエヴィデンスたりえるのですし、決定をする人がそのエヴィデンスを適切に活用して判断を下しているという信頼があってこそエヴィデンスに基づく(いわば民主的)政策形成があり得ます。
しかし現実には、エヴィデンスとして示されるデータが実態を代表してもいなければ、政策決定過程も政策決定の担当者もそのエヴィデンスを活用できる形にはなりえません(おそらく原理的に)。つまり構造的に信頼性が欠如するということですから、理想論を唱えたところでどうにもならないと思います。

■2024年01月24日(水)  新規路線の建設ではなく既存路線の改軌を
半世紀棚上げの新幹線 「有力な選択肢」 知事の発言でにわかに注目
もちろん新幹線ネットワークに接続することは有意義だろうとは思うのですが、維持できるのでしょうか。
正直、新路線敷設ではなく既存の路線を標準軌に改軌し、新幹線規格の列車が乗り入れられるようにする方がいいのではないかと思います。新路線を敷設する場合、必ず今まで駅があったところに駅ができないという話になります。もちろん新幹線というのはやたらと駅があってそこに停まると意義を失うわけですから、新幹線として走る限り駅の数は減らさないといけません。また新幹線を通す場合、在来線の優等列車は当然になくなります。新幹線と競合するからです。そうやって利便性の低下した在来線と特急しか走らないために生産性の低い新幹線の双方を、運行費に限ったとしても地元は支えられるのでしょうか。観光客が来るから最終的に儲かるなどと嘘を言うべきではありません。観光客は著名な観光地に新幹線が停まるから使うのであり、既に停車駅がたくさんある状況で今更新幹線が停まるからと集客に励むような場所には降りません。つまりコストが倍に増えて収入はそのままか減るのです。それでも移動の高速化に伴う日本経済の効率性改善なり生産性向上なりはあるのですが、それは既存の経済都市、つまり東京、名古屋、大阪あたり、九州なら博多あたりに落ちるのであり、それ以外の所はむしろ何かとそちらに行く運賃を払う方でしょう。それなら、改軌という形で既存路線の活用に留め、新幹線が県庁所在地駅にしか止まらない優等列車とはいえ直通してくるメリットを享受するべきではないかと思います。

■2024年01月24日(水)  この値段でないと買えないというのはそちらの問題ですよね
人件費は「そちらの問題でしょ」 価格転嫁できぬ中小、賃上げ進むか
こういう話を見るたびに思うのですが、どうして値上げや値下げを顧客に相談しないといけないのでしょうか。もちろん顧客にとって取引先の人件費など他人事です。とはいえそれは自分も同じで、顧客の事情など知ったことはないでしょう。値上げします、他所から買うならどうぞ、それでいいはずではありませんか。もちろん、買ってもらえないと事業が詰むような取引先にそんなことは言えないでしょう。とはいえそんな取引先を作らない、出来てしまったら可及的速やかにその状態を解消するというのは商売の定石のはずです。中小だから、下請けだからなどという甘えは通るものとは思えません。また、迂闊に値上げすると他所から買われてしまうような事業のやり方も企業価値として問題があるでしょうし、もちろん商品にしろ役務にしろ値段で勝負してるようなところは値上げ要因になるようなこと - 例えば賃上げ - をしてはいけないわけです。売りが値段だけなら値段はなんとしても守る、上げるにしても他所に移りようがない、他所よりは安い値段に留めるというのが真っ当なやり方です。また売りが値段でないなら、つまり相手に値段に関わらず自分の商品を使うべき事情があるなら、値段の設定については強気に出られるはずです。漫然と事業をしているから、取引条件の不利益変更を相手に飲ませられない、むしろ相手から飲ませられるような状況に追い込まれるのです。
もちろんそんな不健全な商売はしてはいけないのであり、速やかに事業を畳むべきでしょう。それで失業が増えようが一事業者の知ったことではないでしょうし、債務超過なら破産するだけのことです。どうせまともな商売をしていないのですから、きれいに終わることも考える必要はありません。思い切り取引先にしろ借入先にしろ引っ掻き回せばいいのです。

■2024年01月24日(水)  記念碑を建てるくらいに嫌な文化だな
「記念日を文化に」 協会30年、加瀬清志さんが語る日付の持つ役割
まあ、ある出来事を記憶に留めるためにはメモリアルなものを設定するのが便利な面があるでしょうし、日付というか記念日というのはそれであり得るわけですが、正直メモリアルなものを設定しようという動機自体がはしたないものだと思います。あまりにも過去に目が向き過ぎです。日付というのは将来においてこれが為されるべき日(いわば締め切り)として使われるべきものであり、過去の日付は記録として忘れ去られるべきものでしょう。記録としてどこかの倉庫に眠っていればそれで済むので、何もわざわざ思い出す必要はありません。
唯一建設的な過去の事件の参照があるとすれば、それは失敗した経験です。こればかりまあ、記念日として永続的に参照するに足るかもしれません。とはいえ、集団的な失敗の経験の参照などというものが素直に参照できるかは怪しいですが。

■2024年01月24日(水)  過去の蓄積を直接に知らないだけとも取れますが
在宅仕事、「革新」には不向き?研究者「アイデアのためには会話を」
これはモデルが間違っていやしませんか?確かに引用文献が多い論文は既存の研究成果への上乗せの面が強いでしょうが、引用文献が少ないからといって独創性が高いとは限らないというか、そもそも投稿者も編集者も査読者も物を知らない可能性もあるでしょう。それはそれで独創的かもしれませんが、井の中の蛙大海を知らずとも言います。
むしろ単著の数で検討するべきでしょう。もちろん研究資金の都合の面から近年単著は極端に減っているので統計的に有意な結果が出るかどうかは賭けですが、「アイデアのためには会話を」などという何をどう取っても間抜けでしかないフレーズは出てきにくいと思います。会話にしろ既存の文献の集猟にしろインプットでしかなく、単純に会話が記録に残らないというだけの話です。イノベーティヴなチームからイノベーティヴな成果が出てくるということはあるでしょうが、それをチーム一般に敷衍できるものではないでしょう。むしろ研究チームのメンバーすら謝辞に留められるほどの成果こそが独創的なのではないでしょうか。

■2024年01月23日(火)  できもしないことを言っているように見えますが、本気でやる気があるのでしょうか
「総合型へ入試をシフト」 東北大総長が語る改革、25年後の姿
こういうことを言う人たちは、高等教育やそこで育成される高度専門職を何だと思ってるんでしょうね。
東北大学であればなかなかに広範な分野の教育研究機関を抱え込んでいますが、東大とは少々趣が違い、法文系総合型官僚というよりは技術者の育成に傾いている印象があります。一応旧帝大系の中で教養学部というシステムを採用していない大学はそう分類できるでしょう。もっとも東大や北大のような教養学部の中でコース分けしているようなのはおかしいのであって、一括して同じ試験で教養学部を受験して(それがAO入試であってもかまわないと思います)入学し、そこを終えたところで学部を受験する形であるべきだとは思いますが。ともあれ京都大学、東北大学、名古屋大学、九州大学、大阪大学は教養学部すらありませんし、一般教養は専門基礎に支配されている印象があります。ならばそこで「未来を描ける人」、「多様な才能を持つ人」とはなんでしょうか。初めからコースの蛸壺に入るような入試を(AOだろうが統合型だろうが)して四年間のカリキュラムに縛り付けておいて、「未来を描く」くらいはまだしも「多様な才能」はちょっとない気がします。こういうことを言うなら入試改革の前に、まず学部を廃止して教養学部に一本化し、例えば教養学部三年、大学院の博士前期課程三年にするのが筋ではないかと思います。もちろん学制上できないことはありますが、講義については教養学部で広範に学ぶようにしたうえで、大学院の教授のプレゼミに参加させてその成績で専門教育への合否を判定するような形は現行の大学制度の中でもあり得るでしょう。また教養学部修了時点で博士前期課程までを履修する三年ないし四年のコースと資格を取って就職する一年ないし二年のコースに分けるような形もまた望ましいものだと思います。もちろんそれを選べるだけの基盤を教養教育の間に身につけることが前提にはなりますが。またその場合、修業年限制度は撤廃するべきでしょう。教養学部はともかく、「多様な才能」というなら専門課程の併修なり資格コースだろうと修士コースだろうと一つのコースを終えたところでそのまま他のコースに移る程度のことはできてしかるべきでしょうし、もちろん教養学部修了の資格をもって一度東北大学から離れた人も再度専門課程に入学できることが望ましいわけです。大学側がそういう多様な才能を専門課程で発揮する環境を(その基盤になる普遍的かつ広範な教養の修得を含めて)整えてこそ、「未来を描く」とか「多様な才能」と言えるのではないかと思います。もちろん少なくとも修士コースの入学試験は教授単位で行うべきです。カリキュラムとして一定の講義を受講することはともかく、修士の学位取得のための教育は修士論文の作成を基盤にしていなければなりません。それを指導するのは指導教授ですし、その指導教授を学生が選び、指導教授が指導するに足る学生を選び出すために、プレゼミなどで双方をちゃんと会わせておくことが必要になります。ですから教養学部段階でのプレゼミは複数の受講が望ましいことになります。まあ、一点張りして(この教授駄目だと諦めることも含めて)落第するのも人生なんですけど。そして学生にしろ教授にしろ誤り得るのであり、それを許容するためには少なくとも専門課程での修業年限というのは邪魔です。指導教授が、悪いけど君、芽が出ないよ、と転進を促し、学生が、ついてみたけどこの教授合わないな、と別の教授につくためには、カリキュラムはともかく大学の修業年限として二年だの三年だの言っているのでは済みません。レールに乗って未来は他人任せの規格品を知的専門職として送り出すのならともかく、多様は試行錯誤が前提でしょう。それを許すような緩みが必要ですし、修業年限制度(どうシステマティックに留年休学しても学部で十六年まで)はそれを無くしてしまいます。もっとも社会の養成として効率よく知的専門職を養成することは必要とされているのでしょうが、形式的にそれに阿るのでは未来だの多様だの言う資格の方がありません。
また、東北大学という枠の中で多様な未来を描くような人材を伸ばす教育ができるのでしょうか。正直東北大学はずいぶんとましな方のはずですが、とはいえ東北大学にありとあらゆる学問があるわけではありません。他所の大学にも優秀な教授はいますし、大学としてのストックとしてある分野の学問を習得する基盤がないこともあります。それを東北大学の個性として多様性を説くことは、正直裏付けのないただのセールストークにしか見えません。もちろん大学院、それも博士後期課程なら別で、基本的には自分で研究を進められる人が研究成果としての博士論文の評価と裏付けを求めるものですし、その場合カリキュラムや講義なりゼミなりの単位自体がナンセンスでもあるわけです。正直授業で博士を育てられるなら苦労などしないと思いますし、教授に研究内容について突っ込まれるならともかくオリエンテーションしてもらうような人が博士号など片腹痛いでしょう。博士後期課程での教授の役割はあくまでも学生を博士として専門研究者業界にデビューさせることです。研究指導はその手段でしかありません。それこそ内科学会とか低温物理学会にコネがあれば済むのです。とはいえ修士課程まではそうではなく、教授が学術的な内容について指導できないではすみません。未来とか多様とかいささか空疎に聞こえる御託を並べるのではなく、うちの大学でこれはできる、それ以外は紹介するから他所の大学に行ってくださいというのが真っ当な話でしょう。
一方で、正直AO入試に全く共感できないのは、高等学校という仕組みやその教員がさっぱり信頼感に欠けたものだからです。大学教授が弟子を選ぶというなら納得しますし、そこで寺子屋の師匠の推薦状を貰って来いというならまあ、納得しますが、とはいえそれは日本の学校教育制度というものの中では「「未来を描ける人」「多様な才能を持つ人」を世界から集め」ることにはなりにくいと思います。もちろん日本の高校の推薦状を拒絶する、日本以外の国で中等教育修了資格を取ってこい、あるいは高校など行かず高認を取ってこいというならありかもしれませんが、そういう趣旨ではありませんよね。むしろ高校での成績評価を含めて中等教育での成功を前提にした話だと思います。大学での教育システムの整備を前提にしたうえで統合型入試はいいのですが、それはミニマムとしての高校卒業資格を要求したうえで大学で完結する範囲にするべきだと思いますし(つまり高校教師やその組織ごときに推薦書を出させるべきではありません)、もちろん選考のためのデータは大学が収集するべきです。その手段として学力試験なり各種の面接やエッセイの提出、資格証明などを課すならそれはありでしょう。とはいえそこで下手に公平とか公正に拘ると当を失するという認識はしておくべきでしょう。選考の基準や過程はちゃんと公表しておくべきですが、その基準や過程、それらの運用は、東北大学はこういう学生に来て欲しいという大学としての確固とした意志に基づいて整備して欲しいものです。その意味では高校でうまくやった人、高校の先生の受けがいい人という基準はありですが、個人的にはそんな人が東北大学に相応しい未来を描ける個性的な人であるとは思えませんし、多様性の確保にも逆行すると思います。社会や学生がそうだと納得できる基準を整備するのが責務であって、それが偏り、特定の出自や傾向に有利になっていることは何の問題もありません。
もう一つ、大学での基礎語学教育は廃止するべきですし、大学は学生が基礎語学教育を修了したうえで入学してくることを前提にするべきだと思います。つまりいわゆる外国語の講義(やそのレベルの例えばパソコン講座の類)は廃止し、フランス語やラテン語、タガログ語やマヤ語が必要ならその基礎的な修得はコース別の入学試験で問うべきです。修得自体がすでに研究だという未解明の言語ならまだしも、初等や会話レベルの語学など大学で学ぶことではありません。高校の履修内容に囚われていては高等教育などできないでしょう。

■2024年01月23日(火)  注文服もしょぼい概念になったもので
世界の富裕層へ向けた高級注文服 オートクチュールウィークが開幕
こんな服が作れますよというアピールはまあ、いいのですが、注文服で「新作」はないんじゃないでしょうかね。それこそ一品一品が生地からパターンから新作だからこそ注文服なわけでしょう。既存のパターンを使うようなのは吊るし、既製服でこそないかもしれませんが、受注生産のカタログ品であって、注文品とは言わないと思います。まあ、イージーオーダーでしょうか。

■2024年01月23日(火)  定住などできないものと思う方が効率がいいのでは?
古い住宅に甚大な被害…「命に直結」する耐震化、対応を強化する県も
建築基準法の経過措置が裏目に出た形ですが、まあ、わかっていたことでしょう。そもそも耐震化と言ったところで限界はあります。もちろんテントなら逆に地震で壊れたりはしなさそうですが、それでいいとは言えないのでしょうし。地震が来たら諦めろというしかありませんし、台風が来たら逃げろというしかありません。耐震化で何とかなる、河川や湖水の氾濫防止で何とかなる、平地に定住できるなどという迷妄からはいい加減覚めるべきです。

■2024年01月23日(火)  そもそもペットを連れて避難してくる方が反常識
「ペットの排除は飼い主の排除」 長引く避難生活、求められる支援は
ペットが大事という人は支援を拒否していると解釈してもいい気がしますが。
もちろん可能な範囲での対応はすることが望ましいでしょうが、避難所に応接セット一式を持ち込んで10m四方を占拠するというのは多分問題なわけです。もちろん可能であれば一世帯当たりこの程度の空間を確保しパーティションで仕切る程度はした方がいいわけですが、それができる状況とできない状況というのはあると思います。ペットを持ち込むのも同じでしょう。それは同じペットでも、モルモットはよくてトラはだめといった線引きでも同じことでしょう。排除されてしかるべき事情というのはあるものです。

■2024年01月21日(日)  あれは元々国有地だ
「内苑の護持のため」、明治神宮側が語る外苑再開発 担当者に聞く
宗教法人としての主張としてはよくわかるのですが、明治神宮の場合そもそも国家による不当な寄付によって成立している以上まずそこを正すべきという気がします。元々国家神道としても特殊な直近の天皇を祀る神社で国の施設だったものが、戦後のどさくさ紛れに宗教法人になったものなので、本来建物もろとも現在の敷地から追い出すのが筋です。別に明治天皇と昭憲皇太后を祀ること自体は信教の自由というものなのでしょうし、宗教法人明治神宮が別途自分で場所を手当てしてそういうことをするのは咎めませんが(ですから有志がどこかに昭和神宮を建立するのもかまわないと思いますし、それが複数であってもかまわないでしょう)、政府事業として建立されたという点で明治憲法下とはいえ現行憲法二十条一項および三項に抵触する事案である以上、内苑を維持するために外苑を活用するといった発想を任意にできるという主張には疑義があります。

■2024年01月20日(土)  レストラン以外にはどういう流通をしているんでしょうね
イタリアで横行している偽オリーブオイルは詐欺師の新ビジネス
まあ、レストランであれば風味付けしたひまわり油や簡易製法のオリーブ油を正規の食用エキストラバージョンオリーブオイルと称して供してもかまわないような気はします。レシートに「エキストラバージンオリーブオイル 10 cl 3.5ユーロ」などと書いてあったら詐称を問われるところですが、食材として使う分には料理人の裁量というものですし、それで料理のクオリティを確保できていると思うならそれでいいでしょう。料理の値段は使った食材の値段の合計ではないのです。
一方で、消費者向けに偽商品を売ることは犯罪としか言いようがありません。だまされる方が悪いという話はありますが、そもそもオリーブオイルでないもの、オリーブオイルと名乗ってよい規格に適合しないものをオリーブオイルだと称して売ることに問題があります。レストランと違い、客はオリーブオイルを買うことを目的にしているわけですから、その人にオリーブオイルでないものをオリーブオイルだと思い込ませて売ったらそれはだましていることになります。まあ、その意味ではカジキをマグロだと称しているのはどうなのかという気はしますが、カジキをマグロだと言って売っていいのだからオリーブオイルとひまわり油の混ぜ物をオリーブオイルだと言って売っていいということにはならないでしょう。
とはいえこれが問題になっているとすれば、イタリアの食料品店というのも堕落したものです。いわゆるスペルメルカートの類はともかく、食料品店というのはちゃんとギルドもあって都市の食品流通の主役の一角を担っていた商人のはずです。確かに近代以降そうした在り方は否定されましたが、伝統商人は鑑識眼と品質確保、そして流通の確保を誇りにしているもののはずです。もちろん変なことをやって顧客に疎まれる商人がいなかったとは思わないですが、そういうのがマイノリティに抑え込まれていたからこそメルカートで得体のしれないものを売っているような行商連中やその場で作った食い物を売っている流れ者とは一線を画せていたわけでしょう。それが偽食材を扱うとあっては、看板に泥を塗るようなものです。

■2024年01月18日(木)  小樽市民は何をしている?
小樽の乗れる蒸気機関車がブレーキ故障 修理費ふるさと納税で募る
市長の給料で直せるでしょってのは厳しい言い方ですかね。
とはいえ、ふるさと納税というのは市外から募るわけでしょう。市民は応じられないはずです(この点は応募者の素性を問わない一般的なクラウドファンディングとは異なります)。この手の施設を支えるだけの入場料収入や物販収入を得るのは難しいとして、市が維持しているというのは基本的には小樽市の観光産業に資すると思えばこそではないかと思います。つまり小樽市内の観光事業者がこの蒸気機関車があることで儲かっているはずなのです。それなのになぜそこから五百万円出ないのでしょうか。
直さなくていいなどと言っているわけではなく、楽な資金調達手段として乱用されているように見えるのがいささか気になります。

■2024年01月18日(木)  北海道の鉄道輸送は貨物中心に仕立て直すべき
新幹線「東京-札幌4時間半」は可能?貨物の大動脈が抱えるジレンマ
「JR北の経営を安定させるには新幹線の高速化が絶対条件だ」
これは一種の逆立ちした発想で、むしろ貨物輸送こそが北海道経済の基盤であり、それを損なうくらいならJR北海道は無くした方がましでしょう。別にJR北海道でなくても旅客輸送はできますが、鉄道貨物輸送を船舶に転換すれば輸送が不安定化しかねません。むしろ本州からの旅客を航空輸送に振り替えるべきで、二十世紀の旧態依然とした旅客輸送中心主義こそ排斥されるべきです。
債務はJR北海道に付けて破産で清算させ、JR北海道の行っている輸送事業の受け皿としては道と国が債権を破産前に放棄する形で設備を引き取って基本的に道営鉄道事業とし、市町村がレールの上で列車を走らせれば済むでしょう。どうせ抱え込んで潰れれば無価値な資産なのですから、大幅に減価してもかまわないはずです。他の債権者は現金資産、金融資産とおまけ事業を分け取りすればいいのです。まあ、札幌駅だけはいい値段で売れるようであれば売り飛ばしてもいいかもしれません(駅でなくなって使い出があるものかどうかは知りませんが)。貨物中心にして鉄道設備の電車対応化を免れれば運用コストが下がる可能性がありますし、これまでJR北海道の管理下にあるために手を出しにくかった鉄道用地を道と市町村の観点で立体的に活用する道も探れます。もちろん貨物輸送には不要で維持費がかかるわりに運用のネックになりがちな都市部の旅客駅を自由にもできます。その上で道と市町村を中心に観光の適切な形を探ればよく、札幌に行くための鉄道というのは極端に言えばなくなってもかまわないでしょう。高速道路で十分でしょうし、当然そこには高速バスが走るはずです。鉄道のネットワークは貨物輸送に必要な程度で維持できればよく、その上でついでに地場需要向けの旅客輸送をすればいい。札幌など通勤需要は自家用車と地下鉄で十分ではないのでしょうか。市外南部の地下鉄駅で新千歳空港行の鉄道と連絡すれば済むことです。もちろん儲かるというなら潰す必要はなく、何なら札幌市交通局が列車を運用すればいいだけでしょう。そしてメインの空港も港もない札幌市は、もはや交通の結節点ではありません。政治都市です。現状北海道の交通の結節点は函館と南千歳、そして苫小牧ではないでしょうか。旅客はそこで捌けばいいし、旅客輸送はそこから各地に伸びるべきです。青函トンネルではないのです。一方貨物輸送は話が別で、道内から積み替えなしで首都圏まで運べることがメリットです。それをわざわざ積み替えが必要になる船舶輸送や航空輸送にシフトするべきではありません。貨物の鉄道輸送を削減、廃止するというなら、青函トンネルからレールを取り払って高速道路にでもするべきです。それならトラックが積み替えなしで東京まで走れます。

■2024年01月15日(月)  そもそも動物を「公共」旅客輸送に持ち込むのはどうなのか
ペットの“機内持込”、スターフライヤーが全線拡大も脱出時は「連れて行けません」 SNSで再び論争
正直現状のように家畜を愛玩する意識が狂的になると、もはや家畜の飼育を免許制にするべきと思わないでもありません。基本的には農学部畜産科ないしは農業高校畜産科卒を前提とし、まず徹底して法的には所有物として扱うことを身につけさせるのです。それができない人が家畜を飼育することは悪でしょう。その上で、医学部の医師国家試験のように免許試験を課すわけです。もちろん受験申請の際には法規制を遵守することを誓約することになります。それで委縮して儲かりもしない家畜を飼うことを諦めてくれれば万歳ですし、もちろん事理を弁えた飼い主が増えるのだって悪いことではないでしょう。当然、適切な動物愛護策というか、飼う以上は飼育環境の確保も含めて合理的な配慮をし、飼育する動物の健康維持に努めることも学ぶわけですから。あくまでも、物として管理下に置き、責任を負い、外部とのやり取りにおいてそれに即した行動をするように飼い主をしつけるだけのことです。「うちのキティちゃんは私の家族です!」などと人間同様の扱いを周囲に求めるような飼い主は困るのです。
もちろん安易に旅客輸送で飼育する動物を連れ歩こうなどという発想も問題でしょう。公共旅客輸送とは基本的にある程度社会的に訓練された旅客だけを効率よく運ぶ役務であり、それ以上は自家用車なり自家用機なり自家用船なりを使うか、専門の事業者をチャーターするべきものです。新幹線だの一般向けの旅客機だのに切符を買って乗るような貧乏人にペットを同伴する権利はありません。畜産事業者が家畜の輸送にどう対応しているかは、もっと知られてしかるべきだと思います。

■2024年01月13日(土)  そもそも電車で通勤する発想がおかしい
2024年春ダイヤ改正、どうなる首都圏の通勤事情
そもそも通勤電車という発想ってどうなんでしょうかね。別に車ならいいとかいう気はありませんが、職場に歩いていけないところに住む、職員の住居のあてがないところに事業所を設けるという発想がおかしくないかということです。
これが、週に一日会議に出てくるというなら話は別で、新幹線だろうが飛行機だろうが使えばいいと思います。
しかし、通勤時間が電車や車で三十分、電車やバスの乗り換えアリなどという発想はいい加減違法化するべきではないかとすら思います。その意味では小田原から新宿に通勤するというのはまだしも理解可能で、JR東日本の直通通勤電車と小田急がありますから、通勤時間が酷いだけ - だけと言っては語弊がありますが - です。しかし、神奈川県や埼玉県、群馬県、栃木県、千葉県、茨城県から日本橋や霞が関に乗り換えしながら通うという発想は理解の他です。もちろん結果としてそういう羽目になっている勤め人の皆さんも、住居を選ぶ際にはできるだけ職場最寄り駅に直通列車のある、せめて乗り換えが一回でも少ない地域を選んでいるはずです。ならば、健康経営あたりの一環として、自社ビルの上層に世帯向けマンションを社宅として職員数分ジム付きで併設するような発想を補助するとか、通勤時間や通勤手段の利便性を評価するとか、したらいいでしょうに。もちろん職場至近の社宅があるとしてそこに住むかどうかは職員の選択であるべきですが、とはいえ少なくとも通勤時間が20分以上になる場合は平日は社宅に単身赴任して週末だけ自宅に帰るような形を義務付ける方がましだと思います。通勤時間一時間以上では、自宅に帰っても配偶者の顔はともかく子供の顔など見られないでしょう。
もちろん働いて稼がないと人生が詰むようなこと自体が間違っているとは思うのですが。何しろ子育てだけでなく、親の介護など、昨今人生において仕事以外の義務は増えています。何かあったときに駆けつけても一時間などと言うと入所型の福祉施設にあんたそれでも人間かと罵られかねません。それはそれでおかしいとは思うのですが。
長距離通勤は極力避けて通ってきた口ですが、止むを得ずバス通勤をしたことがある身として、長距離通勤は悪であり、するのもさせるのも犯罪だと主張させてもらいます。そういうものを想定するならせめて直通便の停車駅の周辺にビジネス地区を限定するよにして、乗り換えでネットワーク上につなぐなどという発想を止めるべきです。新幹線を通勤に使うというなら東京駅、上野駅、品川駅の徒歩圏内に事業所があるべきです。品川乗り換えで新橋や新宿などというのはだめです。

■2024年01月13日(土)  書いてあることはまともだけどプロイセン官僚とプロイセン陸軍軍人が合わさったようなメンタリティはちょっときつい
災害初動期指揮心得
国土交通省東北地方整備局がまとめた東日本大震災の反省文書です。
正直書かれている内容は現場の取りまとめに当たった権力組織として極めてまっとうで、市民としてもこの手の役所がこういう対応をすることを前提にしておけばいいという意味で参考になりますし、もちろん組織的な緊急対応論の面からも参考になります。BCPの上で参考になる部分も少なくないでしょう。
とはいえ、警察でもない文民組織がこういう軍隊みたいな発想をしているのだということはある意味衝撃的でもあります。もちろん組織論はそれこそ軍隊や軍事行動の知見をベースにしているのですが、それにもまして目立つのは、東北地方整備局でこの資料の取りまとめに当たった公務員が権力組織の一員としての高級軍人じみた極めて高い職務意識を持っていることです。もちろん権力機構の一員として有益な部分は多く、特に緊急対応のような行動と決断が重視される状況ではプラスに働くことは多いでしょう。とはいえ、こんなお上意識、啓蒙専制君主的な意味での公僕意識に満ち溢れた公務員など相手にしたくありません。官僚組織というのは役に立つことに意味があるのではなくルール通りに動くことに意味があるのであり(役に立つようにルールを整備するのは国会と内閣の役目です)、例え組織目的に即したものでも越権行為を是認するような発想を官僚レベルがしているのは危険を感じます。近いところでは昭和前期の革新官僚、そしてそのモデルになったのであろうプロイセン官僚とプロイセン陸軍軍人を見る思いです。いっそ緊急時には陸上自衛隊の司令部組織の指揮下に統合した方がいいんじゃないのと言いたくなりました。
また「復旧」に拘るところも少し疑問に感じます。書いてある通り最優先なのは人命救助であり、そのための交通アクセスの確保は極めて重要で、個人的には強権の発動すら躊躇するべきではないと思います。しかし、例えば津波で流れ込んだ水の排水のような復旧は、地方整備局としての役割には即しているでしょうが、もしかすると無駄な作業かもしれません。また津波によって損害を受けた港湾を啓開する業務(基本的には浮遊物の除去や流れ込んだ土砂の浚渫)について書かれていますが、これは港湾を拠点とした物流の確保のためでしょう。しかし、その物流は何のためでしょうか。例えば陸上自衛隊は、海上自衛隊の揚陸輸送艦やDLHの支援があれば戦闘団規模の部隊が数週間活動を続けることができるはずです。揚陸輸送艦はそもそも普通には接岸できない海岸に部隊や物資を揚陸するための船ですし、DLHは沖合からヘリを飛ばして物資を揚陸することができます。つまり物資の供給を必要とする人を物資が通常の物流を通じて供給されている地域に移送してしまえば、当座最低限の兵站だけで対応行動が可能になるはずです。それを無暗に早期の復旧を目指して対応する必要は、あったでしょうか。単なる官僚組織としての前動続行の例ではないでしょうか。
こういう組織が緊急事態に備える意欲を示していること自体は心強いものですが、正直それが発揮されることのないようシビルディフェンスを心掛けないといけないと感じました。特に災害時に被災場所に居座って復旧を待っているとこの手の組織に負担もかかれば専横を許すことにもなりますので、連絡手段の確保を含めて当座のアウタルキー性を高めるとともに、少なくとも逃げる方法ができたらさっさと地域を放棄して避難する、それだけの能力や余裕を持つことが大事、インフラが破壊された地域の復旧に拘らないことが大事という気がします。

■2024年01月13日(土)  それは単に奴隷制が消滅するというだけの事でしょう
働く人いなければお金の力は消える 田内学さんが語る「不安の正体」
「働く人がいなければ、お金は力を失う。」
こんな馬鹿な話はありません。
もちろんお金というのは需給を調整するメディアでしかなく、銀行口座の残高がどれだけ積みあがったところで、それだけでは何の意味もありません。確かに黄金を一万トン倉庫に積んだところでそれと引き換えに物資や役務を提供する人がいなければお金としての意味はありません。その意味で、お金と引き換えに欲しいものを差し出してくれる人がいなくなればお金は力を失います。
とはいえそれは、まずお金が人的労働力を購入する購買力を失うだけの事であって、物を買う購買力は、お金自体に裏付けがある限り急になくなることはありません。日本の人口がどう減ろうが、それこそ世界的には人口は余りまくっています。資産次第ということにはなりますが、物についての購買力という形でお金が力を発揮し続けることは間違いありません。近くに働く人がいなくても物を買えることはそれこそ今そうなっている通りです。日本にお金で働いてくれる人がいなくなろうが、日本に来て物を売ってくれる人はそう簡単にはゼロにはなりません。今年は運輸労働者がひっ迫しそうだという話になっていますが、ひっ迫したところでまだ運賃を払えば輸送を請け負う人はたくさんいる状態ですし、世界レベルで見れば輸送力は変に余りまくっています。変に余るのは、主として戦争の類で輸送の障害ができて滞るからですけど。とはいえ費用と時間をかければちゃんと届きます。そういう意味で、労働供給への不安というのは杞憂の類です。
お金が力を失うとすれば、それは物や役務を買いたいという人がいなくなるパターンでしょう。労働供給についての不安が昂進した場合、自給化を促すことがあり得ます。なんでも自前でやってしまうわけですから、お金は要らなくなっていきます。資源の偏在にしても、自給程度であればさほどの量は必要なく、たいていの物質は少量ならどこにでもあります。効率よく大量に取り出せる素材が偏在しているわけですが、自給の場合効率はさほど問題になりません。その自給に人手が必要というのが従来の状況でしたが、今後人手は本質的にはどんどん要らなくなっていくはずです。人手が必要なのはその場限りで揮発してしまうサービスですが、この手のおもてなしは自給では問題になりません。自給すると決めてしまえば他人にもてなされることは必要なくなります。困るのは自分では何も、あるいは限られたことしか発想すらできない、それこそ分業にどっぷりはまった人だけです。まあ、そういう自覚のある人がたくさんいるという話はありますし、そういう人の不安は強いのかもしれませんけどね。

■2024年01月13日(土)  この種の懐古的主張を紹介であれ主張するなら生活から懐古に徹するべき
「二季化」進むと キャンベルさんが危惧する日本人の美意識の薄れ
正直タイトルには感心できません。
もちろん季節感が変化することで美意識なるものが変化することは十分にあり得ます。キャンベル氏の言う「『日本ならではの美しい四季に恵まれた豊かな国』という人がいますが、それは空疎な意見です。四季が鮮やかで美しい国は世界中に幾つもありますから」というのはむしろ常識と言うべきで、多分都市部に住んだことしかない日本人留学生が勘違いしたのが日本国内で通説になっているのでしょう。一方で季節にはその土地ごとの違いがあることも明白で、それが各地の文化に影響を与えていることも確かです。
もっとも日本と括りますが、日本国内ですら地域によって季節感は多様であり、京都や江戸の感覚で代表させることはできないと思います。例えば紀伊半島の沿岸部と内陸部では季節感を比較できないのではないでしょうか。三浦半島と前橋周辺でもそうでしょう。そこに共通の美的感覚とやらを措定できるかどうかと言うと、極めて怪しいと思います。19世紀までの都市特権層の美的感覚 - 町民にしたところで本を読み芸事を習いに通うようなのは特権層で、庶民は季節感なく米屋で米を一升買いし、屋台で具なしのうどんでもすすり、季節感と言えば空っ風が吹くかどうかです - ならそうした層が接する高級文化に共通性がありましたから「日本」という括りで美意識を措定できるのかもしれませんが、学校教育の普及と人口移動の活発化にもかかわらず、近代以降日本文化における美意識は形がい化しつつ分断が進んだのではないでしょうか。桜の下にブルーシートを敷いて集団で酒を飲むのは断じて美意識の発露ではありませんし、三賀日に学校の先生がそう言っていたからとどこかの町でやっているのを真似て保存食をお重に詰めて食べてみるのも美意識の発露ではありません。敢えて言うなら、「日本の美意識」などというものはそれこそキャンベル氏のような人たちが宣伝に努めた結果生み出された紛い物、捏造品です。
その上で、確かに季節の区別が冬と夏しかつかなくなれば文化に変容を来すでしょうし、それは春に梅と桜と菜の花が同時に咲くようになってもそうでしょう。しかしそれを美意識の薄れなどと評するのは勘違いだと思います。ハワイだろうがエクアドルだろうがアラスカだろうがノーバヤゼムリヤだろうが特有の美意識というのはあります。薄れるのではなく、変わるのだと思います。その結果芸術作品を見る意識も変わるかもしれませんが、源氏物語に共感を示さなくなり罪と罰に共感するようになったからと言って問題とは言わないでしょう。個人的には桜の花の中での卒業式というのは少々実感がなく、桜の花と言えば入学式ごろに咲くものです。首都圏や高知に住むようになってようやく現物を見たという感じです。季節がどうなろうが、感性の変化というのはその程度の話でしか - 結構大きな違いではありますが - ありません。
そういう意味で、この記事のような話を寄稿された論説を掲載するのではなくわざわざインタビューに行って聞いてきて記事を書くような会社は、従業員と株主全員に中食を含めて外食を禁止し、三食自炊を徹底するべきでしょう。もちろん出汁は自分で昆布や鰹節、干しシイタケなどから取らなければだめです。魚を切り身で買うのもだめで、丸で買って自分でさばくことを義務にするべきです。宴会で料理人の作った刺身を突きながら酒を飲むのではなく、自分で鮨を漬け刺身をあつらえ、お浸しや汁物を作るべきです。正直冷凍されて運搬されてくるような食材を使うことも禁止するべきなのですが、さすがにそれをやると食べるものがなくなるでしょう。また本来季節を実感するには他人の供給する食材に依存することも禁止するべきですが、そんな兼業の農家兼漁師兼猟師兼山菜採りが新聞屋などやっているわけがないですね。そもそもいわゆる美意識を発達させた人たち自身自分で食料を用意してはおらず、ほけっと別世界の細民がこの種の生業をする様を下人が献上してくる食料を食べながら眺めていたわけですから、それ相応の生活体験でよいはずです。

■2024年01月13日(土)  滞在許可を取らずに海を渡ってくるとかの方が非常識
移民規制強めるメローニ伊政権、外国人労働者45万人受け入れへ
いやまあ、ほぼ着の身着のままとかで査証はおろか下手をするとパスポートも持たずにしみ込んでくる不法入国者を規制するのは現行制度では当たり前だと思うのですが。日本だって滞在が問題になっている事例は滞在許可がない、滞在許可が失効した状態で滞在しようとしているとか、滞在許可の発出条件に違反しているとか、そういう話でしょう。その上で例えば滞在を許可するべき状況なのに許可していないとか、滞在許可の条件に付いて過剰に就労を規制しているとか、そういう話なわけです。整理された条件で受け入れ枠を拡大するというのは基本線としておかしくありません。もっとも、日本みたいに就労目的の滞在の場合就労先の変更などで規制を受けるとか、就学に引き続いての就労などの滞在許可の切り替えが面倒な面があるとか、細かい点について抑制的、管理的であることはあり得ますし、その場合に欧州連合や国連難民弁務官あたりと揉める可能性はあります。その場合は移民規制の是非という話になるでしょう。
どこの国であっても、現在、滞在許可を得てから渡航するというのは常識です。

■2024年01月12日(金)  そもそも古いとか新しいとかいう問題ではないと思う
複合企業「コングロマリット」はもう古い? そうとも言えない新潮流
まず事業の複合とコングロマリットは分けて考えるべきだと思います。
事業の複合とは同じ事業体の中で複数の事業が営まれることです。通常の会社であれば調達、製造、販売という事業が並行して営まれているでしょう。出版業と印刷製本業は現在は分かれているのが普通ですが、一体になっていてもおかしくありません。もちろん出版業と書籍流通業もそうです。もっとも、一体になっていると何かしら都合の悪い事業というのもあります。出版業と書籍小売業がそうで、多くの場合直販だけで売られると国会図書館への複写請求を余儀なくされます。もっとも今の書籍小売りは在庫リスクを極端に嫌うためどのみち国会図書館に複写請求を出す羽目になることは少なくないのですが。ともあれこの場合、兼営される事業の間には明白な関連性があります。直接的な関連性に限ったものではありませんが、金属部品製造業と金属加工機器製造業が兼営されている場合、製品と製造設備という関係は明らかです。食品加工業と電熱機器製造業のような場合もそうでしょうし、これに樹脂加工製品製造業やその素材を作る石油化学工業が複合することもあり得ます。関連性が過去の場合もあり得ます。例えば自動車製造業と航空機製造業は、レシプロエンジンの飛行機(や最近なら電気自動車と電動飛行機)に限れば関連性があるでしょう。それがジェット機になっても事業が続いていることはあり得ますし、操作系のような一見わかりにくいところに共有される部品がある場合もあります。買収による場合でも、航空機メーカーがジェットエンジン製造業を買収するようなことはあるわけです。
一方コングロマリットは、分散投資の観点から説明される資金運用事業です。この場合、兼営する事業間を接続する意図がそもそもありません。鉄鉱石の鉱山と製鉄業が兼営されていたとして、鉱山の鉄鉱石が製鉄業に供給されていないのであれば実態としての関連性はありません。関東での米穀商と九州での鮮魚商を兼営していることに関連性はありません。この点は、例えば全国ネットのスーパーマーケットチェーンが一部であれ仕入れを共通化しているのとは違っているわけです。
1970年代あたりのコングロマリットは前者の意味での下流分野や上流分野を取り込んだ複合化と後者の分散投資による規模拡大が複合した現象で、その衰退は水平統合の失敗、つまり百貨店やスーパーマーケットになり損ねたことにあると言えるでしょう。おそらく当時の技術的な制約で管理コストが増大したことが原因の一つだと思いますが、事業が複合すること自体はごく自然なことですので、得られるメリットに比べて管理コストが小さければ、ひとまとまりの事業組織に複数の事業が複合している状況は十分あり得ます。一方で垂直統合だろうが水平統合だろうが管理コストの増大に耐えられなければ事業体は少なくとも財務的に崩壊します。通常管理も含めたリソースは集中した方が効率が良いので、組織内調達による事業複合化よりも専業メーカーからの規格品調達の方が生産性が高くなるということになります。事業複合化のメリットは、事業体として規模を確保できることにあるでしょう。製品の需要が不十分であれば、事業を継続するには他の製品も作るしかありません。鰺専門店ではやっていけないなら鰯でも鯛でも仕入れて売るしかないのです。仕入れのチャンネルがあるなら釣り竿でもアウトドアウェアでも刺身包丁でも冷凍庫でもいいでしょう。それこそグロッサリー(雑貨屋、食料品店)というのはそういうものです。
ただし事業の規模を確保するためのものであるということは、私的独占の禁を犯すリスクと一体です。商店街とショッピングセンターや総合スーパーの競合を考えれば簡単にわかることです。この場合経済的な効率性よりは地域がその事業体に依存してしまうことが問題なわけですから、事業体を公的管理の元に置いて公的独占に転化するか、競争的環境を作るしかありません。コングロマリットが古いの新しいのというよりは、政策的にはそこのバランスを取ることが求められているように思います。

■2024年01月12日(金)  言い方がまずいよ
NTT・島田社長、被災地の通信環境復旧は「見通し立たず」 能登半島地震
これ自体は仕方のないというかむしろ想定済みの事態で、そのために無線式の可搬式中継設備や可搬式の基地局などというものを用意しているわけです。光ファイバー回線が低速化するくらいは、まあ、仕方ない、一時のことだと思うしかありません。そこで通信が切れるというのは、正直危機管理がなっていないと言うしかありません。個人はそんなものかもしれませんが、事業で切れると困るとわかっているのにそれはあり得ません。回線をつなぐだけなら代替手段はいくらでもあるのです。
とはいえ、時間スケールの違いではあるのでしょうが、「見通しが立たない」はいささか言い方を考えるべきではないかと思います。もちろん今月中に復旧などという見通しは現時点で立つわけがありません。未だに現地へのアクセスすら難渋しているわけですから、今月中に状況が判明すればましな方でしょう。しゃにむにやって3月31日に間に合えば絶賛してもいいくらいです。とはいえ、その程度、あるいは余裕を見てゴールデンウィークまでにはでも、市の中心部だけでもいいので、それを明言して、この時期までには何としても復旧するというべきではあるでしょう。インフラを使う側としても見通しを立てたいわけで、今日明日はともかくこの時期までには復旧する、前倒しになれば万歳で、せめて後ろ倒しにはならないレベルの見通しが欲しいものなのです。この際途中が衛星通信や可搬無線局で低速になっていても仕方がありません。とにかく利用者のレベルで普通にアクセスできるようになる時期をちゃんと示すべきです。そんなこと、インフラ事業者ならわかっていて当然のことでしょう。

■2024年01月12日(金)  原理的に作れないものではそもそもなかったはず
北海道産の小麦でパンが作れるのか 十勝の店が世代越えてかなえた夢
そもそもうどん粉用とパン用で栽培条件が違うというのは聞いたころがない(乾燥パスタ用の超硬質小麦はどうも相当栽培条件が違うようでアルプスの麓での栽培すら一般的でないようですが)ので、パダーナ平原やバイエルンあたりで栽培されている小麦であれば原理的には北海道の条件で栽培可能だろうと思います。その意味で北海道産の小麦でパンを作れないはずがありません。品種改良も含めて栽培を定着させるだけの需要がなかったというだけの事でしょう。
むしろ気になるのは、その結果高価格化していないかということです。ウクライナから買った方が安いなどと言われるようでは、意味がありません。ただでさえ日本はコストをかけすぎて米やジャガイモが高いなどと言われています。趣味的な嗜好品としてならともかく、日用品としては供給コストは極力抑えるべきでしょう。国際価格に比べて高価につく特産品ができたところで、あまり意味がありません。パンがないならうどんを食べていればいいというだけのことになってしまいます。

■2024年01月12日(金)  あ、一斉休暇闘争だ
靖国神社に「部隊参拝」の疑い 陸幕副長ら数十人、防衛省規律抵触か
大幹部がストライキ、一斉休暇闘争をやってどうするんでしょうか。いや、部署で示し合わせて休暇を取り部署の業務を停止せしめ、その間集会してアピールを行うというのは、どう見ても労働争議の一種である一斉休暇闘争でしょう。そんなことを真似ないでほしいものです。
ちなみに非現業公務員の争議行為およびそのあおり等争議行為を唆す行為は三年以下の懲役もしくは百万円以下の罰金だったかと思います。防衛大臣は速やかにこうした行為に及んだ者について国家公務員法違反の容疑で東京地方検察庁に告発するべきです。厳正に対処とかいう生易しい問題ではありません。きわめて違法性の高いもので、刑事罰が適切です。普通の軍隊だと軍法会議にかけて処分するものだと思いますが、自衛隊は軍隊ではないので、地方検察庁が取り調べ、地方裁判所に起訴することになります。
退勤時間が過ぎた後や休日であれば品行上の問題で済んだと思いますが、示し合わせて通常の勤務時間に休暇を取ったという時点でアウトでしょう。多分これをどこぞの市役所の事務職員がやって総務省あたりから降りてくるマイナカード関連の事務処理の無茶苦茶さや派遣塗れの現場の問題をアピールしたら即刑事処分につながるのでしょうから、処遇の均衡の観点からも刑事告発しなければなりません。例え部署の士気高揚のためであっても、一斉に休暇を取って業務時間中に部署の業務を止めるという発想がだめなのです。

■2024年01月11日(木)  ゴミを集めてくるってのがすごいなあ
計6トン撤去も三度「ごみ屋敷」化 「終わり見えない」嘆く近隣住民
そりゃまあ、ごみ屋敷になっちゃうという話ではなくわざわざごみを集めてごみ屋敷にしちゃうのでは終わりは見えないでしょうね。どういう意図でごみを集めてくるのかわかりませんが、正直家の主は精神障害の一種に当たるのではないかと思います。暴力団扱いして追い出すなり近隣の住民が出て行ってゴミ出し場すらない工場地帯にでもするなり(船越町あたりならごみ屋敷が問題になりにくい事業目的使用の需要はありそうな気はします)なんでしょうかね。本人は自分がおかしいとは思っていないでしょうし、穏便な手段での短期的な改善の余地はないと思います。
とはいえそういう景観保護の立ち位置からの強制処分というのは、納得しがたいところがあります。ごみ屋敷のような迷惑は周囲にそれが及ばない、つまり迷惑にならないところでやってくれという話は、近隣住民としては当然あるとは思うものの、結局は常識の問題なので、合理的な解決は難しいところがあります。本人がゴミを積み上げたいと思っている以上、せいぜい敷地からはみ出さないようにして、臭いだけはしないようにするか、ゴミではなくゴミっぽいオブジェ(つまり臭いはしない)にしてくれという以上の干渉は、私権の制限になるように思います。

■2024年01月11日(木)  クレームがあったんでしょうけど
「ちいかわ」の限定ご朱印、フリマアプリで転売相次ぐ 公式が苦言 「礼を失する行為は慎んで」
護国寺が直接アナウンスしたのでも馬鹿馬鹿しいですが、講談社がこういうことを言いますか。
物は全て商品であるというのは常識でしょうし、講談社という会社としてそれは身に付いていないといけないことです。ぐちゃぐちゃ非常識なことを言うよりは非売品を出さないことが一番の対策です。もちろん法律上商人扱いされるからと言って自然人や宗教法人がその常識を尊重する義務はありませんが、会社はそもそも商人なのですから話が違います。商人として行動しないといけません。もちろん商人でない人でも、社会的な行為をするときは常に自分が商人と見られることを想定しないといけないものです。特に限定品みたいなものを不特定多数に頒布するような行為は転売を促進しているようなものです。護国寺だけという時点でそこに行くのに一万円以上かかってしまう人を疎外していて、それを解消すればお金になるという発想は当たり前に出てくるのですから、まあ、しょうがないよね、と、せいぜい転売した御朱印には護国寺のご利益は多分ありませんと言うくらいにしておくのが相応というものです。別に買う人は護国寺のご利益が欲しいわけではなく、護国寺で御朱印を押したちいかわコラボ御朱印帳が欲しいわけでしょうしね。

■2024年01月11日(木)  だからどうしたのかという
韓国伝統の「犬肉食」、禁止法案が成立 何で犬だけ… 不満の業者も
何が言いたいんでしょうかね、この記事。
犬だろうと猫だろうと馬だろうと食うか食わないかは勝手だと思いますし、動物でも植物でも食用にすることを法律で禁止することは可能で、それは酒と同じことです。いつまでもつのか知りませんが、定着する可能性も少なからずあるでしょう。もちろん闇で犬肉を扱う業者や自家用の食用として犬を飼育する家庭が出てまともに機能しないという可能性もあります。そのあたり意識の高い政策というのはなかなかうまくいかないものだということは動物愛護団体とやらには認識していただきたいところです。愛護の対象だから食べちゃダメというのは正直理解の外ですが、食べ物なんて時代で移り変わっていくものでもあります。おそらく五千年前の朝鮮半島で米を食べる人などほぼいなかったでしょう。千年前なら山椒はまだしも唐辛子を食べる人もいなかったはずです。日本だって千年前には猪を食べる人はいても豚は食べていなかったでしょう。
所詮食い物なんてそんなものなので、記事にしていると大新聞の鼎の軽重が問われると思うのですが、軽重を問われるような鼎はそもそもなかったですか。

■2024年01月11日(木)  江戸の商人が聞いたら笑い出しそうですが
「また商売できるのか」立ち尽くす住民 朝市をのみ込んだ元日の大火
こういう話はよく聞きますけど、正直場に乗っかって安易な商売をしてきたとしか思えません。賃労働者でもあるまいし、三年元取りの店舗くらい立て直す現金資産があることは当たり前だと思いますし、店や設備が焼けたからと言って客や商流が焼失したわけでもないでしょう。簡易店舗であればゴールデンウィークに間に合うはずですし、商品だって仕入れ元の在庫がなくなったわけでもないと思います。もちろん在庫が消滅したことは痛手でしょうが、それこそそれは保険でカバーできるのが商法上の商人というものでしょう。
もちろん行政に頼るべきことはあります。まずは現場の片付けと整理でしょう。焼け跡を仮設店舗を構築できる程度に片付け、土地の権利関係を調整し(まあ、測量をして境界について揉めないようにする程度ですが)、アクセスなどのインフラストラクチャーを整える、整える手配をするのは行政の仕事でしょう。他の被災地との兼ね合いで工事実施の時期を調整し、工事業者を手配して割り振り、その見通しを住民に周知することもそうです。また被災についての保険が円滑に下りるように図らうことも望ましいでしょう。仮設店舗について迅速に諸審査を進め適切な仕様での整備を手配し、客が安心して訪れることのできる条件を整える、そうなるよう店舗を再開する事業者との調整を行うこともそうですね。何しろ仮設ですのでちゃんとした店舗で営業していると起こらないような揉め事が起こる可能性もあり、それをできれば想定して仲裁する仕組みを設けておくのも行政ならではの仕事だと思います。
事業再建となればリスクはつきものですが、合理的な範囲内で全体としてリスクを低減する手配りをしておくのが行政の責任であり、それさえ短期に完了させてあれば、後は個々の事業者の問題ではないかと思います。
それこそ江戸時代の江戸というのは火事の多い都市で、店舗が焼けるというのはそれなりにあり得ることだったはずです。地震において火災が発生すること、それが地震の影響で制御し難く必然的に被害が大きくなることは、それこそどんなに遅くとも阪神淡路大震災以降常識になったと言ってよいでしょう。地震が起きるとは思っていなかったというのはともかく、世界の終りでないこと、何とかなることはわかり切っていることだと思います。

■2024年01月10日(水)  タッチしないで済まそうとすると問題が出ないかね
「タッチしないタッチ決済」JCBなど3社が開発へ
何か勘違いしているような気がするのですが。
決済においては、支払者が支払いの意思を示すことが大前提です。もちろん品物を持ち出して支払いをしなかったら窃盗でしょうが、それは決済の利用者間の問題であって、決済手段提供者が関知するべき問題ではありません。むしろ利用者と加盟店を守るために、決済の各段階を各々の購入の際に適宜踏むように整備することこそが、決済手段提供者の役割です。その段階とは、購入者が商品や役務を提供する者に利用と支払いを申し出る、商品や役務を提供する者がその利用と代金の受け取りを承諾し、代金の金額を提示する、購入者が提示された金額を了承し決済を実施する、というものです。どう見ても記事の内容はこの手順をちゃんと踏んでいるように見えません。加盟店が入店した客から勝手に代金を徴収する仕組みに見えます。

■2024年01月10日(水)  七十年後に八千万人でに安定なんて楽観ができるものですか
日本の人口「2100年に8千万人で安定化を」 有識者が政府に提言
三村さんはいい加減黙ったらいいと思うのですが、それにしても八千万は欲張りすぎ、多すぎです。二千万でしょう。少なくとも向こう七十年ほどは、明治から昭和にかけて増やし過ぎた人口を調整する局面が続き、当然に六十歳以上が下手をすると過半数を超える超高齢社会になります。ただし高齢化率はともかく高齢者が野放図に増えることはなく、徐々に減って、内閣府の資料から見るに2100年には60歳以上人口が三千万人程度になると思われます。その時に60歳未満人口が何人になっているかです。この資料の傾向通りに年齢に沿って減っている場合、おそらく二千万人程度ではないかと思います。すると合計五千万人、60歳を基準とした高齢化率が60パーセント程度になります。この時点で高齢者人口は減少に転じており、つまりは60歳基準の高齢化率は最大で70パーセントほどにはなる見込みになります。これを何とかして出生率を上向かせるなどという楽観は、私はできません。このまま人口が減り続けると思います。さらに40年で人口が三千万人程度になり、高齢化率は少し改善して50パーセント程度と考えれば、2200年までに2000万人程度までの減少は覚悟するべきだと思います。
まあ、移民労働力を導入すれば一時的に労働人口が増えますが、それも一時のことで、おそらく増えた分がそのまま将来の高齢者人口につながり、その下の世代は人口移入が途絶えて急減することも想定しなければなりません。そういう意味で、向こう百年以上人口バランスを常識的に改善するような解決策はないのだというのが相場ではないでしょうか。

100年後、栄えるのは東京と福岡だけ 経済学者の衝撃的予測の意図
危機感を持つべき事態なのかどうかは別として、予測としてはこちらの方がよほど妥当でしょう。むしろ危機感を持つべきだとすれば、そこで福岡はともかく東京の人口が増加するということのほうです。もちろん都市の集積性の利点を生かせるからそうなるわけでしょうが、江戸時代レベルまで人口が減るならむしろ東京の人口は減らないといけないはずです。首都圏三千万、都民一千万、大阪、名古屋、京都がなくなってもこれで四千万人です。残り一千万が、百万都市福岡が増えたとして一千万人までは行かないにしても、五千万人のうち四千万人が首都圏に住むというのはおかしくないでしょうか。都心への交通機関を潰し、都内の道路も渋滞を慢性化させ、固定資産税率や都市計画税率を大幅に引き上げてでも、東京には住めない、通えない状況を作らないとまずいと思うのですが。もちろん事業を民営化して課税することによって水道光熱費を極端に高くすることもよいでしょうし、環境規制を撤廃して住むと危険にするのでもよいでしょう。年収五千万円なければ東京では働けないとなれば、人口は減ると思うのですが。

■2024年01月09日(火)  まあ、貧乏が悪いのですが
「飛行機で知らない人の隣に座るのがストレス」…日本人が一番多く回答
まあ、飛行機に限らず鉄道でもバスでも同じだと思いますが。
もっとも、ストレスだからと言って気にしているとは限らない気がします。もちろん緩和されれば喜ぶでしょうが、緩和に向けて積極的な行動、例えばビジネスクラスやファーストクラスを使おうといった行動には出ることなく、我慢してやり過ごすでしょうし、ストレスだから飛行機に乗らないという人はそもそも旅行をするモチベーション自体低い、自家用車なら旅行をするとは限らないのではないかと思います。またそもそも日本人は「公共のもの」に対してストレスを感じる傾向があるとも言います。つまり、公共交通機関だけではなく公共の広場や公共の道路で行動しているときも、また自宅の庭であっても公共性や外部への開放性を感じた場合ストレスを感じているという話もあり、ことさら公共交通機関に限った話ではないかもしれません。
もう一つ、他人が近くに居座っていることにストレスを感じるからと言ってマナーを意識するとも限りません。昔は男性の飲酒喫食喫煙が問題でしたが、今問題なのは性別を問わず会話と電話、そしてさすがになくなったかとは思いますが女性の身繕いではないかと思います。
さすがに鉄道が自家用車の方向に行くとは思わないですが、飛行機と船はそういう方向に進む可能性は、ある意味長らく待たれているもののなくはない気がします。

■2024年01月09日(火)  こういうことを言う輩を無能な経営者と呼ぶ
「市場を支配」「社長クビに」企業が恐れる助言会社、脅威論は本当か
あほかと言うか、そもそもそれなら株式を公開などしなければいいでしょうに。またマーケットや浮動株主とのコミュニケーションは当たり前のことで、そのために市場運営者は経営情報の公開を義務付けているわけでしょう。その経営情報だけでは判断できないような、名のある助言会社にお金を払って意見を訊くような株主を納得させられないような経営をしている方が悪いと思いますよ。

■2024年01月09日(火)  署名して損をしてくれって話はないでしょう
観光列車「リゾートしらかみ」を只見線にも 沿線の小中学生らが署名
気持ちはわかりますが、こうして欲しいというだけでなく、これだけのニーズがあるというエヴィデンスを示すべきです。逆に言えばそれ - 根拠としてのエヴィデンス - さえあれば地元の結集など必要ありませんし、むしろ一人で相談に行っても儲かると思えばJR東日本は聞いてくれるでしょう。逆に儲かると思えなければ何人で行こうがタダでは聞いてくれません。
まあ、一番いいのは沿線自治体なり有志なりが運行費を出して一往復やってみることだと思います。もちろんそこでお金を出してやってみるのもJR東日本の仕事ではあるのですが、あの会社だって株主のお金を預かりどこかからお金を借り従業員の生活を担っているわけですから、それだけでは路線を維持するだけの収益も出せないような沿線住民ごときの要望でどうなるかわからない、無駄遣いになりかねない出費をして列車を走らせるわけにはいきません。幸い旅客運送約款上一定のお金を払えば列車を運行してもらえますし、イベント列車の運行についてもこういうことをやりたいと言えば運行の技術的な観点から是非は判断してくれるはずです。とりあえず損はさせないということだけが重要だと思います。

■2024年01月07日(日)  このうさん臭さを珍味と好める人が政治をするんでしょうかね
ベーシックインカムで日本経済が蘇る
なぜか電書が99円で出ていたので読んでみました。
経済シミュレーションのサマリーです。前提条件と結果だけ書いてあるので、頑張ればたいていの人は読めるはずです。もっとも小野氏が着目したシミュレーションの結果だけ端的に説明とグラフが書いてあるので、一応高卒程度の経済学の知識はないとそこに何が書かれているのかピンとくるまでに苦労するかもしれません(もっとも私が習った時代は高校社会の経済学は教科書ではお金には価値があるという前提で書かれていたので、経済学の本流の、お金には市場価値しかない=ただの交換のメディアでしかないという発想に切り替える妨げにはなるかもしれません - 真っ当な経済学においては、お金は基本的にはただの目盛りとされ、ただし定規が与えるような影響を経済行動に与えるとされています)。そういう意味で、本文は読む価値があります。ただし出版が二年前ですので、その後の消費者物価と賃金の上昇は反映していないと思います。何がどうなってその結果が出ているのかはシミュレーションに使った日経新聞社の数理モデルの論文を読まないとわからない(もちろんオラクルではありませんので種も仕掛けもあるはず)ので、2022年から2023年にかけて起こった変動を折り込んだらどうなるかはやってみせてもらわないとわかりません。
とはいえ前書きと後書きは愚痴ばかりですので、読まない方が良いと思います。このあたりに書いてある内容を荒唐無稽とは決して思わないのですが、実践道徳からは相当かけ離れていることやパッション丸出しなので、読むのはきついです。電書について代表著者とされている増山氏(実際にはほぼ小野氏の著作ですが、そこはある意味どうでもいいですし、読めばわかることです)の想像というか構想というかも、決して荒唐無稽ではありません。現在の技術で十分実現可能な内容(要は仮想通貨ですから)であり、交換価値、市場価値についての観念(使用価値はまだしも交換価値、市場価値は観念でしかありませんから変わり得ます)が変わればありえるでしょう。単にそれが、増山氏の語るような道徳的なものでは恐らくないというだけのことです。例えば興味を引くことなく消滅する伝統芸能は出るでしょうし、芸術批評家から見れば堕落と見えるような様相を呈することも十分あり得ます。また社会主義的な観点から見て社会が解体したように見える状況になる可能性もあります。少なくとも連帯よりは接続が関係性の中心になると思いますし、対人関係、社会関係も一見刹那的なものになる可能性があります。持続性を欠いた強迫的増産、増殖は弱まるかもしれませんが、持続可能か、維持可能かはわかりません。正直個人的にはトイレ掃除がしたくなければトイレ掃除用のロボットを作ればいいという点で増山氏に同意するのですが、だからと言って移行は一瞬でできるものではないとも思います。ロボットを開発している間もトイレ掃除はしないといけません。どれだけ真っ当なことをかたっているにしても、理念をかたり組織することしかできない人は、仕組みを実装する側からはうさん臭く見えます。ついでに事業の社会化や雇用を肯定する発想も胡散臭いことこの上ありませんが、さすがにこれは私の方が非常識という自覚はあります。もちろん常識は正しいとは限りませんし、この場合は常識の方が間違っていると思っていますけど。

■2024年01月06日(土)  人手不足なら人を使わなければいいだけでしょう
「お客様は神様」からの転換 人手不足が極まる未来を生き抜く知恵
「」からの転換はいいのですが、人手不足への対応が賃労働者の処遇改善とは、ある意味で何とも馬鹿げています。もちろん向こう五年程度の期間での賃労働者の不足ならそれでよいですし、労働条件の改善にもつながります。改善できない事業所の淘汰にもつながりかねませんが、それはそれで良しです。
むしろ問題は、長期的、あるいは永続的な労働供給の悪化にその場しのぎの策で対応しようとしていることです。レジで椅子に座れれば主婦パートは好都合でしょうが、当然主婦パートのレジ打ち程度の仕事しかない地域に若者など残りません。人的労働力に依存した経営を改めるべき筋だと思います。現場が無人になる事業になってこそ、大都市圏の企業に対抗できるのではないでしょうか。確かに不動産コストや人件費は安いかもしれませんが、基本的に生産性は大都市圏の企業の方が高いのです。それをひっくり返せなければ、賃労働者ごと大都市圏の企業に負けるか、良くても地元需要頼みでじり貧になるだけでしょう。

■2024年01月06日(土)  ガーリックパウダーパセリ入りを使った洋風粥
米 カップ一杯
塩 大匙半分
ガーリックパウダーパセリ入り 大匙一杯
顆粒鶏出汁 大匙二杯
粗挽き黒胡椒 適量
エクストラバージンオリーブオイル 50ml
パルメザンチーズ(粉チーズ) 適量
水 2リットル

  1. 米を研がずにアムウェイ中華鍋に入れる。
  2. 塩、顆粒鶏出汁、ガーリックパウダーパセリ入り、胡椒を入れる。
  3. オリーブオイルを入れ、米全体に回るように混ぜる。
  4. 粉チーズをふる。
  5. 中華鍋の壁や混ぜた匙なりお玉なりに付いた米を流し落としながら水を入れる。
  6. 中華鍋に蓋をし、ストーブで煮立つまで加熱する。
  7. 煮立ったら蓋を少し開けて好みの軟らかさまで煮る。
  8. 取り分ける

肉、野菜、キノコ、溶けるチーズなどの具材を入れてもいい。
顆粒鶏出汁ではなくコンソメを使う場合は塩は入れない方が良いだろう。

■2024年01月06日(土)  インスタントイタリアンコーヒー
インスタントコーヒー 2g
お湯 30cc

沸かしたお湯を一人宛30cc取り、数分置いて冷ましてから(60-80℃推奨)インスタントコーヒー一人宛2gを溶かす。砂糖スプーン二杯を入れて飲む分には問題なし。
コーヒーが一人宛3gでは酸味がきつすぎた。なおNestleネスカフェゴールドブレンドでの結果。
ネスカフェゴールドブレンドの作り方欄では2gをお湯140ccに溶かす。お湯の量が四倍以上であることに注意。つまりこのレシピでも非常に濃い。参考にしたレシピではお湯30ccにインスタントコーヒーを3g入れることになっているが、アレンジが前提と思われる。クレマを出すためには低温(カップに注がれた状態で60℃程度)が望ましいようだが、そもそもアレンジした時点でクレマは残らない気がする。
アイスクリームのエスプレッソ掛けは3gでも大丈夫。

■2024年01月05日(金)  バス会社のリスク管理がなっていないように見える
NY市、テキサスから移民送り込んだバス会社を提訴 1千億円要求
すごい法律があるもので、そもそも「公的支援を受ける生活困窮者」であることを認識せずに州内に連れてきた場合どうなるのかという気はするわけですが、さすがにこの状況では通じないですかね。バス会社の顧問弁護士がどう助言していたのか、輸送引き受けのリスクを指摘しなかったのか、気になるところです。知らなかったではすみません。まあ、テキサス州だけに、そういう企業活動の自由を縛る法律は効果を持たないと、州憲法に書いてあるのかもしれませんが。
もちろん州知事など仕事ができる人がなる職ではないわけで、他州や連邦の法律など知ったことじゃなくてもかまわないと言えば構わないとは思います。そこを補うために、州知事機関には顧問弁護士がいるはずですし、知事自身助言者として法曹を抱え込んでもいるはずです。州法務省がそういう政策を相談されなかったとしても、うちの知事は相変わらずあほだなあで済むことです。

■2024年01月05日(金)  お前何様だ
「現場への理解、関与が足りず」トヨタ社長、ダイハツ不正問題めぐり
これは逆に、株主だからと言ってそんな責任や権限があるのかという話だと思います。つまりトヨタは黙ってろということになるわけですが、もちろんトヨタの株主権のもとに就任していた取締役はダイハツの経営者としての責任を負うわけで、社外取締役を務めていた立場からの発言とも読めますが、それにしても現場の管理は社外取締役の権限とは思えません。調べて悪いとも思いませんが、基本的には社内のCEOなりの権限でしょう。ましてトヨタの社長という立場で訊かれたからこう答えるというのは軽率だと思います。残念ですというのがせいぜいでしょう。
というか、むしろトヨタが理解しようとし、関与していたからそういうことになったのではないかとも思えますし、そこを隠ぺいしようと、迂遠に「知らなかった」と言っているのかもしれませんね。そのわりに会社の自治権を変に侵害した言い分になっているのが、実にトヨタらしいです。

■2024年01月05日(金)  なんでもデゴイチにすんなあ!
まるで銀河鉄道999? 「デゴイチ」ライトアップ、白い煙の演出も
パンピーの勘違いは仕方ありませんが、あれはモデルはシロクニ(C62)だと思うのですが。

■2024年01月03日(水)  アナウンスを出す余裕はあるらしい
令和6年能登半島地震による配送遅延ならびに本社業務に関わるお知らせとお詫び
石川県と言えばI-Oデータ機器だよなと思ったら、やはり影響を受けていました。さすがにあれは仕方ないので、お急ぎの顧客には流通在庫で対応していただくとして、まずは状況の整理を進めていただければと思います。
もっとも顧客向けアナウンスを出す余裕があるだけ恵まれている方ではあるでしょう。レンタルサーバーは動いているけれどそこにつなげる回線が全滅したという事態だってあり得ます。

■2024年01月03日(水)  都市に緑など求めるからおかしなことになる
街・公園の木を続々切り倒す大阪市 調査で「剪定」のケヤキも、なぜ
まず都市に緑は不要です。都市とは完全に合理性のみで物事が進むべき空間であり、色々とごっちゃになることを許容する街とは異なります。その上で、都市では自宅に閉じこもり、合理的な部分のみを都市側に出すことで合理性の抑圧的な面から部分的に逃れますが(ですから都市においては生活空間の侵害は重罪です)、街では他人の見せる非合理性に目を奪われないように工夫することを求められます。街では道頓堀にダイブしてもあほやなあと見て見ぬふりをすることがマナーですが、都市では川にダイブしたら官憲が助け出さないといけませんし、もちろん助けられた人は官憲に検挙され、何らかの犯罪に問われます。都市においては贔屓の野球の競技団体が優勝したからと言って川に飛び込むのは非合理的な犯罪なのです。同様に、管理に負担を与えるような動植物も存在は許されません。そもそも植物など生えていない方が、人間以外の動物などいない方が、都市管理当局としては楽なのです。それこそが正義です。
その意味で、大阪市当局が緑化の手段の適正化を追求することは問題とは言えません。危険をもたらさない、管理がしやすく保守の手間が少ないものこそが望ましく、そのためなら既存の植物の伐採植え替えはむしろ望ましいのです。「根元を見ると縁石が一部持ち上がっている箇所があるが、車いすなどの通行にも影響しない程度だ。」と言いますが、それで影響したら責任を問われるのは都市管理当局です。むしろ引っこ抜いて植樹などしない方がうれしいくらいでしょう。それで不満な人は好きなだけ木を植えられるところに引っ越して大阪市を出て行って欲しいというのが正直なところではないでしょうか。

■2024年01月03日(水)  馬鹿ばっか
2024.01.03 2025年を再び「国際協同組合年」に 国連が宣言、13年ぶり実施へ
正直十九世紀ならともかく二十一世紀にこういう貧乏くさい発想は、むしろあってはならないと思います。もちろん協同組合運動に現れる善意が常識的に頼るべきものとされることは理解しますが、実際には善意とは暴走し対立するものです。善意に基盤を置いた活動は須らく押し付けと対立分断に至ると確信します。交換と商業の枠の中での個人の冷静な行動と仕組みを含む対象物への理解のみが貧困や不足に対する解です。その意味で個人の購買意欲を手段を問わず煽る商業主義には問題を感じますが、協同組合思想はそれに対する解にはならないのです。
ついでに言えば、その悪い意味での商業主義に乗った国際機関のキャンペーンなどろくでもありません。事態を悪化させること必然です。
なんというか、分担金返せ?

■2024年01月02日(火)  ニアミスレベルならたまに起きることではあるのですが
JAL、150億円損失計上へ エアバス機全損、海保機との衝突事故
あ、保険降りるんだ。いや、責任割合で海保が多そうだから賠償からの不足分と言われるかと思ったのですが。ちなみに150億円と言うと、海上保安庁の令和六年度予算概算請求額の5パーセントほどになるかと思います。
逸失利益が機体保険で補償されないのは仕方がありません。何らかの理由で予定していた収入が得られない場合の保険を掛けていたなら別ですが。

JAL機炎上、貴重品や思い出の品の補償は? 貨物室ではペット犠牲
金銭的にはなされるはずです。受託貨物には相応の保険がかかっているはずですし、機内持ち込み手荷物も放棄させたわけですから航空会社に賠償責任があり、一定の枠内かもしれませんが(それ以上の高額物品については搭乗時に申告するルールのはずです)賠償が為され、もちろん航空会社もそのための保険に入っています。
とはいえ、金で済まされて気が済むかというのは別問題ですし、ペットは痛ましいですね。正直家畜を公共交通機関に連れ込むという発想がおかしいとは思いますし、そもそも緊急事態において避難時には放棄させられる(つまり貨物室で運ばれていようが機内持ち込みだろうが同じこと)はずです。その意味でコメントは感覚を疑うわけですし、公共交通機関や公共の交通手段(道路など)というのはそういう制約のあるもので、例えばトンネル火災時の避難で運搬中の家畜を連れていくなどと言いだしたら大迷惑です。とはいえ引っ越しの時など運ばないというわけにはいきませんし、その時には多くの場合家畜はあくまでも物であるという現実に直面することになります。

滑走路で衝突恐れ、10年間で23件 「基本的にヒューマンエラー」
というわけで、ニアミスレベルならたまに起きることな話です。もっとも、フライトプランに沿った運行をすることが身に付いている(それをサポートする様々な設備も操る)エアラインパイロットに比べ、遊覧飛行、空撮・調査飛行、空軍、趣味的パイロットなどは、「つい」気ままにふるまってしまう可能性は高いと思います。空の上に上がれば、フライトプランの拘束が低いどころか柔軟性を求められることすらあるからです。離陸と着陸を管制の指示に厳密に従ってしないといけないというのは航空機操縦士免許取得の際に身につけることのはずではありますが、管制の指示の厳密性を「つい」見失ってしまうことは結構ありそうに思います。その意味で、エアラインが高頻度で発着する空港とエアライン以外が利用する空港とは分けるべきでしょう。軍(海保や警察を含む)民共用はもってのほかですし、報道や調査、個人所有機も、エアラインが頻繁に使う空港からは排除するべきです。空に上がってしまえば数キロ四方を数十機とか数百機が動き回っているような状況は発生しにくいのですから、それと空港を一緒にしてはいけないでしょう。もちろん共用する空港でスクランブルに類する事態が起きた場合、その間一時間ほどはエアラインの発着は全面禁止するべきです。

羽田の発着2、3分おきは山手線並み 世界3位「忙しい空港」の現実
分かり切っていることですし、普通にこなせています。実際海保だって今までこういう滑走路へのイレギュラーな進入を起こしたことなど基本的になかったはずです。
それとも、群馬あたりに新しい空港でも作るキャンペーンの下準備でしょうか。離発着が混んでいるのは成田も同じで、基本的には需要を分散するしかないはずです。

海保機、JAL機の着陸許可に気づかなかったか 直前に周波数変更?
気付かなかったから仕方ないなんて話はないわけで、そもそも地上管制から離陸管制に引き渡すのは通常の手順です。それで離陸機が着陸機に気付かないと衝突が起きるようではまずいのです。だからこそ、滑走路への進入や離着陸の許可は明確な指示で伝え機側が復唱することになっているわけでしょう。

JAL機・海保機・管制官、3者に要因重なったか 羽田衝突、解明は
解明以前に、JAL機が着陸許可を復唱していて、管制側に海保機に滑走路進入を指示する交信記録がないことが明らかな以上、海保機の機長の粗相だと思いますが。この場合機長の認識でどうだったかよりも手続通りの交信が為されていたかどうかが問題です。滑走路に進入せよという管制の指示を受けていないのに滑走路に進入した海保機に問題があります。
海保機やJAL機、あるいは管制官が海保機やJAL機の状況を確実に把握していたか、視認していたかなどというのも問題になりません。確かに滑走路上に他機を視認すれば機長権限で着陸を中止して復行するでしょうし、着陸中の他機を視認していれば滑走路への進入を中断したかもしれませんが、そんなことはどうでもよく、本来手順通りに動いていれば滑走路上に海保機がいるはずがなかった、あるいは海保機が滑走路に進入している状況でJAL機が着陸してくるはずがなかったわけですから、その手順がどこで狂ったのかということだけが問題です。問題が起きたときに機側が対応しないとアクシデントになるなら、そんな手順はフェールセーフの観点から見て間違っています。そして離陸は離陸滑走を始めるまでは中断できても、着陸は中止できない状況があり得るわけですから、離陸管制が着陸機がない、滑走路が空いているということを確認せずに離陸機に滑走路進入の指示を出さないということだけが重要なのです。そこさえ確保されていれば、着陸機も離陸機も相手を視認していなくても事故など起こりません。
管制に落ち度があるとすれば離陸管制官が着陸機があることを認識せずに離陸機に滑走路進入の指示を出した場合だけです。今回の場合着陸管制官は離陸管制官が海保機に滑走路手前までの移動を指示する前にJAL機に着陸許可を出してJAL機からの復唱も受けているはずなので、少なくとも着陸管制官の状況表示端末に今まさに滑走路に着陸しようとしている機体があることが表示されていなかったなどということはまずありません。そして、現状明らかになっている限り離陸管制は海保機に滑走路進入の指示を出していません。
その上で再発防止策をどうするかという部分で、航空機操縦免許を持っている人なら意識がある限り紛れようのない指示や手順にすることは検討の余地があります。正直現状でも紛れの余地はないと思うのですが、軍人が粗相をする余地はあったわけです。もちろん航空管制というのは基本的に人と人の話し合いで進むことなので、行き違いが起きる可能性は当然にあります。状況確認自体に行き違いを防止する仕組みを設計で仕込む余地がある機械運行とは違います。それでも問題が起きたときに機械に責任を負わせるわけにはいかないから操縦士や管制官を人にしているわけでしょう。人が失敗したのならまだしも納得できる、だからこそ人に操縦させ、管制を任せているわけです。そこは、機械が問題を起こす方がまだしも納得できるという個人的な感覚とは違っているにせよ、世の中そういうものなのだから仕方ないのです。そもそも完全機械運行、機械管制なんて言ったらICAOからクレームが来るでしょうし。

「ナンバーワン」など出発順の伝達を停止 国交省が緊急策 羽田事故
まあ、暫定的な対応としてはありだと思いますが、そもそも離陸順を伝えられたから滑走路に入っていいなどという話はないと思います。離陸順はあくまでも現状の離陸の順番であり、着陸機がない、滑走路がクリアだという話ではありません。海保専用空港ならそういうルールがあるのかもしれませんが、さすがに羽田空港のエアライン用滑走路にそんなルールはないと思います。滑走路への入り口に一番目の離陸機を待機させておき、着陸機が着陸して退避エリアまで入ったら速やかに滑走路進入の許可をだし、離陸に持っていくことが効率的です。離陸機が滑走路進入の許可が出るまで滑走路の手前で待機する限りそれで問題はないのです。
そう簡単に決められることではないと思いますが、海保を羽田から移動させるべきだと思いますがね。

■2024年01月01日(月)  年始からゲンが悪いという話はあるわけですが
物資届いても… 10キロの水を運ぶ高齢者「独居老人には限界」
その前に、なんでこの人、自宅にいるんでしょうか。輪島市であれば避難していておかしくないはずで、もちろん地域によって避難の要否は違うでしょうが、自宅での生活に困難を持つ人の場合は避難を受け入れる筋のはずです。仮に本人の問題だとしても、水道が復旧するまでの一か月程度の避難を妥協できないようにも読めません。

「孤立集落」で孤独感を増す避難者たち 「自分の状況が分からない」
報道としての扱いはわかりますが、孤立が問題なら原発事故並みの対応、つまりそこから避難させて適切な、孤立しない場所に移動させればいいわけですよね。原発事故のように他県に何年などという話にはなりにくい、おそらく県内の避難で済み、年度内には戻れる話です。交通寸断にしても、陸上自衛隊なり航空自衛隊なりに適切な機材があるでしょうし、地理によっては海上自衛隊だって役に立つでしょう。
それこそ新しく来る旅行客を基本的に締め出して宿泊施設に入れてしまえばいいし、能登半島など現状明らかに危険地域なのですから、外務省がパスポートを取り上げる程度の規制はしていいと思います。もちろん三月までそれは問題でしょうが、コンテナハウスや陸上自衛隊の簡易兵舎あたりで数は足りるのではないでしょうか。無理して能登半島に物資を運び込もうなどとするべきではないし、北陸新幹線が動いている以上金沢までの交通路はある程度健全なはずです。

被災地支援に予備費47億円支出へ 能登半島地震、政府が閣議決定
言っておきますが、国会を通年開会しておけば予備費ではなく補正予算で済むはずなんですからね?十二月に国会を閉会したのが悪いんですよ?

「このままでは沈んでしまう」被災した和倉温泉、3団体が支援要望
懸念はわかりますし実際支援は必要だと思います。とはいえ、「上下水道の早期復旧」というのはどうなんでしょうか。
正直ゴールデンウィークまでは余震が続く可能性が高いと思いますし、日帰り観光ならまだしもそんなところに宿泊するという話になるでしょうか。業界団体の要望なので自分の都合最優先なのは仕方ないと思いますが、要望を受けた七尾市の方で、復旧時期のスケジューリングについては災害の再発防止を念頭において欲しいものです。もちろんできる状況で復旧を進めることは問題ないのですが、大きな余震でまた壊れる可能性は念頭に置くべきですし、観光客が絡むなら安全確保を優先するべきだと思います。
早期復旧生活再建と言いますけれども、火事と違って地震は起きたらそれで終わりという災害ではありません。断層の活動というのは大きな動きがあれば一年から数年にわたり調整過程が続く現象です。それこそ台風などでの洪水で次の台風が一週間後に来そうなのに復旧して意味があるのかという話もありますけれども、無理をして日常に戻そうとしてもそう簡単に行くものではありません。自治体政府だけでなく地場の経営者にも長期的な視点や感覚を求めたいところです。

自衛隊を逐次投入した理由は 元陸将が語る能登地震「三つの特徴」
「被災者を生活可能な地域に移す支援が必要ではないか」
これが当たり前の感覚ではないかと思います。能登に限らなくても、被災地というのは一般にインフラストラクチャーが破壊されています。そこに物資を持ち込み、あるいは継続的に供給するには、住民の生存の確保という目的に対して割に合わないコストが発生するのです。とにかく避難してもらって色々な意味で安定した場所で生存を確保するのが初動段階の目標でしょう。
ただし、これはあくまでも初動段階での目標です。住民団体が主張するような地縁的地域の継続基盤の破壊を防がないといけないからです。もちろん放棄するという判断もあって良いのですが、それで活用されない空き地、社会的な意味での負動産が増えていくというのは、あまり望ましくない話でしょう。さらに、放棄させれば税金は入ってこなくなるし保障もしなければなりません。避難先で住めるようにしたから後はご勝手に、ただし帰還は認めませんというのはナンセンスで、少なくとも住宅ローン債務を残して使用不能になってしまうような生活基盤を放置していたのは政府の責任なのですから、その分は補償しないといけません。もちろん、せっかく立ち退いてもらったのでこう活用するからと買い叩くようなことも望ましくありません。活用したいなら立ち退かされた人たちがせめてその公正さに納得するような補償をする必要があります。そうでなければ、これまでの無策を償うために地域の生存の基盤を復旧し、立ち退かされた人たちに返還する義務があると言えます。

■2024年01月01日(月)  8がけ結構、6掛けでもよいくらい
8がけ社会
まあ、新聞みたいにボリュームでもってる商売は行き詰まりかねないですね。
それも含めていいことで、お金や手間をケチっていると自分が行き詰まります。他人を買い叩いて安上がりに不精に済ませることはやりにくくなっていくわけです。何をするかをちゃんと重点を決めて、どうでもいいことはできれば投げ出し、せざるを得ないとすれば最低限の費用・仕様でやっていく。そのためにはどうでもいいことと言えども何がどうなってそうなっているのか、何にどう絡んでくるのかを知らなければなりません。昭和のようなちゃらんぽらんに仕組みを見ないような、与えられた在所で一所懸命に生きるような生き方は通じなくなってくれます。「わからない」、「おまかせ」は整備されたマーケット=「サプライサイドの規格品しかない」でしか通じなくなりますし、整備されたマーケットというのはそこを動くお金のボリュームが一定レベルを超えないと出現しません。おそらくそういった相場でそこそこの物が買える市場は限られた財についてしか存在しなくなっていくでしょう。その代わりat your own riskの流通市場はアクセスが容易になるでしょう。You must buy it!とか信じて買うと自分のニーズに合わないわけです。そうやって自分で選べるようになる、選べる人が増えていくことになると思います。

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