日記

■2023年10月31日(火)  そもそもガバナンスが機能するわけがない状態である以上、別の文脈で読むべき
「ガバナンス全く機能せず」指弾 日大第三者委、処分は大学に委ねる
SMILE-UP.の東山氏のこともそうですが、どうして組織の顔にそこまでガバナンスの徹底を求めるんでしょうかね。もちろん日本大学には旧来の弊習がそこら中に蔓延っているわけで、学生という管理不能な要素や教員という何かと管理に抵抗する要素もある以上、潰してしまうのでなければ落下傘トップだけで急激な改革ができるものではないのです。おそらく日本国内のどこをどう探しても、多分世界レベルでも、日大を一夜にしてガバナンスの貫徹された組織に生まれ変わらせることはできないでしょう。理事長から下っ端まで同じ方向を向いてさえいれば機能する組織でも、その方向が否定されてトップが入れ替わったときに機能するとは限らないし、えてしてトップが入れ替わったところでトップから遠いところほど前導続行に拘るものですし、その上でそれが上で問題になりそうだと判断すれば隠ぺいに走るものです。それこそ下っ端には、今まで良しとされてきたことを変える権限などないのですから。もちろんそのためのガバナンスですが、それが徹底できていないのは少なくとも林理事長の責任とは言えません。
もっとも林理事長に組織の仕立て替えができるのかと言われれば、疑問符は付きます。誰かできる人がいるのかというところでもそうで、解体清算してしまうのが一番簡単でしょう。その意味では、おそらくそれはわかっているのであろう第三者委員会の指摘は、むしろ林理事長というよりは日大業務組織や学生に全面的な刷新を迫るもの、組織の抵抗を打破して全面的な刷新をするよう林理事長にはっぱをかけるものと読むこともできると思います。おそらく理事会なり業務組織トップなりに破壊的なほどの組織改編に通じたマネージャーを迎えることにも賛同するでしょうし、職員、教員組織潰しに通じた人材を迎えることにも賛同するでしょう。その費用をどう調達するかは問題ですが、そこは林理事長は名士ですし、日大という学校の重要性に鑑みてこの程度の改革費用は文科省(この場合日大の既存の支援組織は抵抗勢力側なのであてにならない)が支援するべきだといった主張を通すことは不可能ではないでしょう。正直税金の無駄遣いだと思うので、日大は解体清算してしまう方がいいと思いますが。
それこそ日大がなくなった分の学生が地方私立に行くなら、その方がよほど世のため人のためじゃないですか。

部員の「怒りと失望」招いた日大の対応 崩れた「個人の犯罪」の根拠
納得できていないということはあり得ると思います。もっとも、正直日大首脳部にとってアメフト部はもはやなくなって欲しい癌でしょう。部員に配慮する余地があるとは思えません。部員の納得など無視して、部を廃止し、過去に遡って推薦枠を取り消すべきではないかと思います。もちろん推薦枠の受け入れ基盤になってきた学部や研究室も相応のペナルティを受けるべきでしょう。
もちろん前首脳部の下で培った弊習を前首脳部が追放されて現首脳部が引き継いだわけですから、そもそもガバナンスが機能していない状態では現首脳部は現場を把握、掌握できていなかったと考えるべきです。ほぼ手探りの状態で目に見えにくい現場の抵抗を受けながら掌握を進めている状況下で不祥事が段階的に発覚、深刻化したのでは、現首脳部の対応が混乱することはやむを得ません。理事長に招聘されたとはいえ改革に全面的な支援を得られているとは思えない状況です。単に潰れずに極力現状維持で乗り切ってくれるのがいい、その神輿として現理事長を担いだという勢力も強いはずです。それこそ日本型事業組織の一つの典型例で、経営者個人が時間をかけて築いてきた威信がなくなればガバナンスの基盤がそもそも弱いのですから、事務局を全面入れ替えするくらいのチームで乗り込んできて事務を乗っ取りつつ職員教員学生問わず尋問にかけたのでもない限り、五年くらいはどうにもならないと思います。もちろん問題を起こした一党に配慮する余力もないはずですし、上層部が配慮しても下部で都合の悪い一味に握りつぶされるでしょう。
そういう前提の下で報告書を読むべきです。

日大アメフト部が廃部へ 学内会議で決定 部員の違法薬物事件で
本当に廃部の方針を固めたのなら、やっとかとは思いますが目出度いことで、まあ、部員の方々には不利益な面が強いとは思うので、慎重にされたのだろうと思います。

アメフト部員置き去りの「廃部」方針 日大執行部の重い責任
突然の廃止方針、アメフト部員に衝撃 日大生からは「当然だ」の声も
「まさか廃部(の方向)になるとは思わなかった」
まあ、こういう認識なんでしょうね。日大の首脳部としても学生相手にまじめに話し合う発想はなかったでしょうし。シンプルに大学として損得を考えた結果だろうとは思いますし、それでいいと思います。
とはいえ、部員からそういう声が上がるというのは、ならどうして自分たちで立て直しを交渉しなかったのかと言わざるを得ません。全員が大麻浸りだったなどとは全く思いませんし、問題のある部員を排除するなりして再建する方向はあったと思いますが、大学や指導部主導でそれをやったら、主導して部員を巻き込むような検討をやっていたら、元の木阿弥です。その意味では、アメフトをやりたいから部にいる、アメフトをするために日大に入った部員こそが、再建を組織しなければならなかったはずです。それを、指導部や大学が何とかしてくれると甘えて謹慎と称して等閑視していた時点で、廃部を避ける方向はなかったと思います。つまりこういうのは今さら遅いという以外ありませんし、その意味で、決断を下した日大執行部を評価はできても、「部員置き去り」、「臭いものに蓋」という評は当たらないと思います。
もちろん日大に進むことを目指している生徒が云々などという高校競技指導者のコメントは言語道断であり、自分たちのお粗末な競技観、指導観を猛省してほしいものです。運動競技などという社会的生産性皆無、教養としては悪影響を与えている面すらあるの内容を学校で指導する以上、敢えてその場の競技に閉じ、卒業後のことなど考えず、考えさせもしないか、普通の社会的生産に生かしていく方向で考える - この場合セミプロ化などという発想はあり得ない - ことが必須のはずです。この、世界大会でのトロフィー獲得を上がりにした双六的日本のスポーツ競技縦社会は私的競技クラブに閉じ込めるべきで、今すぐ教育現場から全面的に追放するべきでしょう。

日大アメフト部、廃部判断は「時期尚早」の声 理事会で継続審議に
だめですね。これでは改革などうまく行くわけがありません。まあ、もう十年くらいはもつのでしょうが、不祥事が散発していくことになるのでしょう。後で、ここで一思いに潰しておいた方がよかったなどということにならないと良いですね。
少なくともアメフト部は体育会の部活動としては廃部以外ありえません。
まず再建管理として文科省の管理下に置き、評議会を一時的に機能停止させ、林理事長以外の理事を全員解任し、バックアップする再建委員会を理事会の上部兼バックアップに設置したうえで、その目的を日本大学の非学術的活動の全面廃止とするべきです。つまり理科だろうと体育だろうと文化だろうと気にせず学内の学部の外での活動は全廃となります。日大の再建をそのような前提としたうえで、その方針に沿う理事を選任し、理事長のトップダウンで事を進められる体制を整え、その間にもウンカ賞で改革を指示する評議員の選定を進めるべきです。問題は日大の伝統とか歴史ではなく、薬物事案やハラスメント、暴行のような問題を起こす土壌の撲滅であり、その結果日大が何の特徴もない下っ端サラリーマンのディプロマミルになったとしてもかまわないでしょう。もちろん学校法人全体としての改革になりますので、高校以下も、基本閉校か勉強以外しない、させない形にするべきです。もちろん生徒を寮に入れて管理するなどとんでもありません。授業終了と同時に校外に追い出し、保護者には学校の外での生徒の行動には一切責任を持たないと通知するべきです。

全員がいったん退部? 日大アメフト部、廃部以外の存続案も理事会に
そうではなくて、日大アメフト部や体育会の存在自体が問題なのです。要はジャニーズと同じことで、これを全廃することなしに何の改革もなしえません。ましてこの場合部員など問題を起こしていないとしても単なる既得権者です。
現状維持や制度の温存を主張する既得権派の理事を全員追放し、もちろん学校法人の評議員も総入れ替えし、その上で必要と判断すれば理事長も替えたらいいでしょうし、きっちり改革を遂行すべきですし、何なら文科省は期限を切って、それまでに改革の実が上がらなければ学校法人ごと設置認可を取り上げるべきでしょう。

日大アメフト部の廃部を正式決定 理事会、存続は厳しいと改めて判断
なんで当たり前のことをするのにこうも二転三転するのか、こういうのをガバナビリティの喪失というのではありませんか。いったん理事長以外の理事を全員解任し、評議員も全員理事長が指名すべきと改めて主張します。期間を切っての独裁しかないでしょうに。

日大アメフト部「いったん廃部して再建検討」 現役部員らに受け皿も
そしてこれは、大学当局による再建は全く評価できません。部員有志が立ち上げから大学やアメフト連盟との交渉から全てやるべきです。もちろんアメフト部関連の職員はこの時点で全員解雇です。解雇はできれば年内が望ましいでしょう。
ただし、元部員の住居などの問題はありますので、そこは大学側で手当てをする必要があるでしょう。また現時点で推薦入学予定者がいるなら、その約束は守るべきです。入学許可を取り消すようなことはあってはなりませんし、入寮などの約束を守れないなら代替措置を講じるべきです。大学がするべきことはそういうこと、つまりある意味大学の機関であった旧アメフト部の後始末を学生の学生としての身分を確保する形ですることだけです。たとえアメフト部員でない学生がどれだけ大学にとって役に立たないものであろうとも、最初にした約束が今重荷であろうとも、アメフトをする権利などという大学生としてあり得ない話はともかく、学生として大学で学んで成績評価を受け学士号を取得する権利、そして入学時に約束した寮の確保やもしかしたら授業料などの免除といったプレミアムは、アメフト部廃部が部員の素行不良に起因するとはいえ非公式機関に対する大学当局の管理行き届きの問題とも言える以上、不良な素行に関わっていなかった学生の学生としての立場、そして大学との契約当事者としての立場は尊重されないといけません。
もっとも、どうしてもアメフトがしたいというなら、退学して社会人アメフトチームでも探してはどうかと思わなくもありません。実績としては日大のアメフト部に在籍したということの方が問題 - もっとも今やこれはプラスに働くかどうかはわかりませんが - なのであって、日大発行の学士号は実績扱いされないでしょう。ならば卒業まで待つ必要もないはずです。

日大アメフトOB会幹部「教育機関として無責任」 部存続を望む理由
教育機関としての無責任を求めているのは存続を望むことを表明している側だと思います。大学が教育機関として責任を負うのは専門教育と一般教養教育についてであり、訳の分からない課外活動についてではありません。日大がどうだかは知りませんが、そもそも大学はアメフトをする場ではありません。アメフトができるかどうかで進学してくるのも不見識なら、公認団体とやらとしてアメフトができる状況を維持しようとするのも不見識です。アメフトに突っ込む金があったら研究費や教授の給料にするべきだと思いますし、経験者がアメフトに何か拘りがあるなら大学の学内団体よりももっと開かれた形でできるように運動するべきです。
もちろんアメフト振興を、学校法人日本大学がすることまでは否定しません。別組織として日本大学アメリカンフットボール競技者育成校でも設置して、大学や高校などの学生とは別の身分でアメフト選手を育成するなら筋は通っています。ただそれは、林理事長が統率する大学理事会とは別の話でしょうね。

日大、来年度に格下げせず新アメフト部設置へ 改革委に金メダリスト
あーあ、こうやって再発の種をまくんだから。何年後に問題が出ますかね。今のアメフト部が問題というよりは、日大の学校スポーツという枠組みが問題だと、わからないものなんでしょうか。部分的な改革なんて不可能だと思います。
正直文科省は日大の設置認可を取り消すべきでしょう。

■2023年10月31日(火)  またそうやって大樹の陰に走る
ドコモグループもスターリンク提供へ 年内めど
ドコモ、法人ユーザー向けにStarlinkの衛星通信サービスを再販 KDDIやソフトバンクに続く
これはまずい感じがしますね。日本企業は付和雷同に抵抗はないのでしょうが、二社が提携に進むというと、日本企業としてはスターリンクの対抗サービスを見出していないということになります。つまり安くて良いものを求めるところ、日本の広域無線通信基盤の一部が唯一無二のサービスを提供する独占企業に依存してしまうことになりかねません。もしかするとこれは、公取案件かもしれません。
まあ、だからと言って日の丸広域衛星通信網などという発想はする方がおかしいのであって、それなりに金を持っているとはいえ、ドコモやKDDIは末端ユーザーと通信サービスのインターフェースであり、そこがネットワークを整備所有することは望ましくないのです。それはコンソーシアムであっても同じです。それこそ堀江貴文さんあたりでもよいので、まっとうに民間企業が対抗サービスを構築するような方向が望ましいでしょう。なんだか衛星軌道の取り合いや周波数帯の取り合いになりそうな気はしますが、できる、売れるということはほぼ示せている以上、後追いにしても無理にはなりにくいでしょう。

■2023年10月31日(火)  飲めない要求ではあるわけですが、落としどころは考えているのでしょうか
ヤマトの委託配達員、団交求め救済申し立て 「契約解除撤回を」
そりゃまあ、使用者側にしろ労組側にしろここは戦うしかないでしょう。使用者側は本来こういうときに整理できるように個人事業主への委託にしたわけですし、判例と言っても労働契約のように締結時点で労働者としての地位が確定するものではないので、戦ってみないと判断はつかないものです。この点は労組側にしても同じで、使用者がこう言ってくることは織り込み済みでしょう。その上で救済申し立て、そして不調なら地裁に訴えるところまでは想定済みだと思います。解釈で適用範囲を広げても、何が適用対象かは双方が都合の良い解釈をするだけです。問題が出たら法廷に出るしかありません。
それにしても、「契約は来年1月までと急に伝えられ、これからどう生活すればと不安しかない。なぜ契約が終了されるのか、ヤマトは団交に応じて、納得のいく説明をしてほしい」とは、69歳で六年就業というにはあまりにも酷いセリフです。そんなのは、日本郵便への委託で当座十分だからに決まっています。足りなくなったらまた個人事業者として委託先を募集すればよいし、場合によっては日本郵便の方で調達してくれるかもしれません。ヤマト運輸が雇用リスクを負う筋合いはありません。それが合理的な説明です。でも、そう言われて納得できるんでしょうか。そして、その年齢で受託を六年やって、まあ、こき使われるとは聞きますが、それでも契約終了への対処を講じていないのは、能天気としか言いようがありません。
もっとも配達員はおそらく相当労働者性が強いはずです。エリア担当制で割り当てが降ってくるような形態なら裁量のない管理された就業と判断するべきでしょう。配達をどう進めるかは裁量だなどという主張が普通の運送労働者と比較して通じるとも思えません。その意味では、労働委員会が団交への対応を指示する可能性も、譲歩案がどこかで出てくる可能性も高い気がします。もっとも不要な労働者との団交というのは不毛な気がしますし、それなら地裁まで持ち込んで相応の譲歩案を示して和解で落とすくらいは考えるように思います。団交だけなら、一回会って提案拒否、契約解除時の慰労金支給の提案程度で済むわけですし、そうなれば労組側は再度解雇撤回を求めて労働委員会に申し立て、そこでまとまらなければ地位保全その他を地裁に訴えることになります。地裁はおそらく解雇撤回(契約維持)には拘らないので、労働者性を認めたうえで同水準の処遇の雇用による従業員の使用者都合解雇の際の基準をもとに金銭的解決を図るのではないでしょうか。計画的にやったことである以上ヤマト運輸としては最高裁まで争う算段をしていると思いますし、例え契約解除禁止の仮処分の申し立てであっても年内には決まらず、まとまるまでは仕事を回さず委託報酬も払わないという状況になると思います。もちろん契約解除を禁止するような判決が出るとも思えません。

ヤマト運輸、パート社員4千人の契約終了 来年1月、経営合理化で
これ、下請けに対してもここまでは出す用意があるんじゃないですかね?まあ、徹底的に粘るでしょうけど。
ここでのヤマト運輸はある意味Googleあたりよりもよほど独占的なプラットフォーマーではないかと思うのですが、とりあえず公取が出てくるかどうかは、下請けの労働者性が否定された場合に契約解除が優越的地位の行使に当たるかどうかという話になるのかもしれません。労働者ではないのだということになった場合、実質的に拘束的な条件で取引先を扱ったヤマト運輸はいくつかの点で優越的地位を行使していると解釈しうると思います。この場合、不当な契約条件の結果発生した不利益について是正措置が可能ではないかと思います。

■2023年10月31日(火)  ライドシェア 百害あって 一理もなし
日本版ライドシェア 政治と業界に配慮した「三方よし」は最適な道か
最適どころかそもそもろくでもないに一票。
もちろんタクシー不足自体は問題であるわけですが、「東京・銀座では乗り場に長い行列ができる。経営コンサルタントの男性(34)は「供給が足りていない。早くライドシェアの解禁を」と話す。」なんてのは、電車がある10時代に警視庁が銀座で店を閉めさせて回れば済むことです(まあ、経営コンサルタントなんてものが身勝手で頭が悪い証拠みたいなものですね)。観光地にしても、なんでまたタクシーで回らないといけないのでしょうか。歩いて回ればいいでしょうに。もちろん自生的ライドシェア、つまりある種の自動車運送法違反の類は厳しく取り締まるべきではありませんが、それを管理運営しようなどという発想はもってのほかです。供給が足りないというなら供給を加速した結果の品質低下も覚悟すべきで、当然それは乗客の身の危険に直結します。品質管理を伴ったままでなどという甘い発想は工場の外に出ていいものではありません。
なお勝手ライドシェア、言い換えれば善意で乗せてあげるパターンについて乗客や運転者の身の危険が自己責任である以上、それは当然に制度的な管理を受けないものになります。管理や仲介を標榜する者がいれば、それは当然詐欺じみたものと思わなければなりません。つまりやくざが運賃を掠りにかかっていると理解するべきです。そいうものだとわかっていてライドシェアを求めるのか、それともタクシーと同じサービスだとでも思って望むのか。後者だとしたら能天気に過ぎます。現代的業務としてのシェアはまずもってシェアする人たちの自己責任が前提です。そうでなければきれいに洗って返してくださいね的な実質レンタル、会員制レンタルです。例えばシェアハウスで、住人同士の争いに管理事業者が出てくることになれば、それはシェアハウスとしては破綻しているでしょう。コワーキングスペースでも同じで、あくまでも共同作業する団体として場所を借りるわけですから、共同作業の中での紛争は内部で解決することが求められます。管理事業者は物件を用意しせいぜいマッチングを提供するだけです。そういうものを安心、安全なものとしてカジュアルに利用する発想は平和ボケと言わざるを得ません。一方でシェアオフィスであれば利用者間の隔離に管理事業者が出てくることは極めて自然であり、あれは貸間の一種です。まあ、貸間に住むような人が自宅を個人事業の事務所に使えないのは時代の流れと言うべきなんでしょうが。普通貸間に住む貧乏人に嫁や子供がいる、嫁や子供のいるうちでできない事業を営むなんて思わないよなあ。
ともあれ客を車に乗せるというのはれっきとした接客業であり、小型自動車においてはそもそも管理しようにも管理が行き届きません。その分接客担当者であるドライバーに厳しい自己管理を前提にした資格取得が求められます。そういうものを店長の目が行き届いているファミレスの給仕みたいにポンポン増やせるものだと思うべきではありませんし、儲かるからシェアライド副業で夜中の駅前に待たせるべきでもありません。後者など、制度で誤魔化して貧乏人を搾取する行為そのものです。いやまあ、一乗り百万円とかならあってもかまわないのかもしれませんけど、そうではなく、一乗り五千円とかで一日せいぜい数万円の稼ぎとかを想定していると思います。それで午前二時くらいまでシェアライド副業です。もちろんブームが過ぎれば使い捨てで、深夜勤務の規制も難しいでしょう。そういう労働を事業に見せかける誤魔化しは断じて認めるべきではありません。

飲むと帰りの足がない ライドシェア待ち望む三崎港の夜の街を歩いた
リスク負担の資力のない人の愚痴でしかないですね。タクシーが減ったと言うなら見込み顧客分を前払いして横須賀か久里浜 - 別に逗子だろうが鎌倉だろうが構いませんが - のタクシー会社から車を呼んでおき - この時点で待たせる分の収入はタクシー運用側に発生するためリスクが消滅する - タクシーで帰りたい客から紹介料を取ればいいことでしょう。もちろん店が直接する必要はなく、組合でも作ってその組合から紹介すればいいわけです。支払いが煩雑化する問題があると言うなら、タクシー会社なりと利用時のキックバックの契約でもしておけばいいでしょう。とにかくタクシー会社が待ちぼうけのリスクを気にすることなく車を送れればいいわけで、ある程度安定収入になるとなれば運転手養成にも向けられる気がしますが。三崎ならさほど広いエリアではないですから、港と京急三崎口駅との間で有料のシャトルバスを運行することも可能でしょう。もちろん思ったより利用されない、足があっても客足が戻ってこないということはあり得るわけで、その見込みのリスクを誰が取るかが問題なだけです。一番困る人が取るべきですし、それは飲食店ではないかと思うのですが。地域がどうこうとかいう問題ではないでしょうし。ましてライドシェアのような胡散臭いもの、他人の財布に赤字を付け回すようなものを使ってよいことでもないでしょう。

■2023年10月30日(月)  つまりは日本には広場がないということでしょうか
喫茶店から考える店と客、地域の関係 コミュニティー共有の財産に
個人店の選好というのは正直同感なのですが、とはいえ店をコミュニティ共有の財産とするという発想は脆弱というか危険にも見えます。まあ、コミュニティ自体の実在性も問題 - 個人的にはコミュニティ幻想論者ですし幻想を擬制を使って支える法人制度などの対象にもなりえないと考えますので - なのですが、そもそも店というのは公的空間と私的空間のインターフェースです。みせと読んでもたなと読んでもいいですが、見世であり棚なのであって、そこは個人が管理する私的領域であると同時に衆目に開放された公的空間でもあります。公的空間であるがゆえにその場にいる不特定多数がアクセスできますが、区切られた私的空間であるがゆえに無視することも可能ならそこにアクセスする際に一定の期待に応える必要もあります。期待とは、卑俗な部分としてはコーヒーなりを注文することですし、また店主の統制に従う、例えば店主が止めるように指示したら歌いたくとも止めないといけない、その規則に従うことが当然視されるということです。コミュニティ共有の財産としての場にはこのような期待がないことが求められます。そうでないと、おいそれと集まれないからです。例えばコーヒー一杯五百円を払えない人は、コーヒーを飲ませるという趣旨の場にはアクセスできません。少なくともこのような期待が可能な限りない場があるとすれば、それは「広場」です。手近なところでは島村奈津氏など、コミュニティセンターとしての広場の重要性を指摘する人は多いですが、一方でその島村氏自身が、期せずしてコミュニティセンターとしての広場の縮退を示しています。同氏の「バール・コーヒー・イタリア人」ではコミュニティセンターとしてのバールが描かれている部分がありますが、とはいえそのバールはコミュニティセンターとしての機能が痩せ細っている状態に他なりません。辛うじてコミュニティセンターとして機能しているチルコロ・バールはそもそもバールが出店する基盤のない集落に住民が設けて持ち回りで維持しているものであり、これはおそらく採算度外視です。それ以外の例はというと、いずれもone of themであり、つまりは店主と常連客の私的な場であって、例えば広場の一角にあるバールよりは広場の方がコミュニティセンターでそこにバールが滲み出していくのですが、そこには開かれたコミュニティセンターとしての広場とそこに面する静穏を望む私的居住空間、そして広場や私的居住空間を侵食する私的空間としてのバールの緊張があるわけです。この場合広場に滞在するのではなくバールに入ってコーヒーやカクテルを飲んでしまうようなので、この広場は半ばコミュニティセンターとしての役割を失い、数少ない人気店が沿道に立地した大通りのようなものになっている印象を受けます。少なくとも「祭りの舞台となり、市や政治集会が開かれ、処刑の場にもなってきた」広場のイメージとは相当違います。むしろ松谷・藤正「人口減少社会の設計」にある様々な公的施設や店が面していてそこを訪れる人が行き交う歩行者天国のほうがまだしも広場のイメージでしょう。もっともこれとてにぎわった通路でしかなく、とにかくそこにいるもので、そこで何かが起こる広場とは異なっています。
この記事ではそのような広場の役割を喫茶店に求めるのだと理解しますが、仮に喫茶店ひとつで足りるような小規模な地域コミュニティに限定するとして、それは喫茶店がそこで出されるもので飲食するという役割を持つことによって実現不可能です。そこで出されるもので飲食するということは、それを望まない人は出入りしないということです。もちろんその喫茶店のコミュニティとしてはそれを望まない人は成員ではないわけですが、地域コミュニティという場合それは許されません。コーヒーは嫌いな人、自分の家で汲んだ水以外飲みたくない人がいるかもしれませんし、そもそもいらっしゃいませなんて言われるのはまっぴらごめんな隠棲主義者もいるかもしれませんが、そういう人を排除してしまうのが喫茶店という空間です。まあ、隠棲主義者は排除されてもむしろ嬉しいか気にしないかもしれませんが、それでは地域コミュニティとして成り立ちません(多分ここから、コミュニティと地域という言葉を組み合わせることの不可能性を導き出すことが可能なのではないでしょうか)。
コミュニティセンターとはそこに来る必然性があるからこそコミュニティの基盤として成り立つのであり、来る必然性を措定できない喫茶店はそうなりえません。せいぜいが気の合う仲間だけが集まって議論したイギリスのコーヒーハウスやフランスのアジテーションカフェが関の山です。議論するという習慣を普及した点ではこういう空間にも歴史的価値はありますが、所詮部分集合でしかありえない点で、厳密な意味での包括性を前提とする政治的コミュニティには適応しえません。もちろん地域コミュニティというものがあるとすれば、それは地域住民の合意を形成するものである以上、政治的コミュニティでなければなりません。故に喫茶店は地域コミュニティの共有するコミュニティセンターとはなりえません。

■2023年10月30日(月)  地質には自信があるけど地質でないことは知らないはまずいんじゃないの?
核のごみ処分地「日本に適地はない」 地質学者ら300人が声明公表
地層処分について適地がないという主張は全く同感ですが、正直こういうことをするから学術会議の会員の任命拒否みたいなことが起こるんじゃないかという気はします。
もちろん専門家としての見識に基づくアピールというのはあっていいですし、あってしかるべきです。現在要請されている地層処分の条件に適う場所が日本国内にないということ自体は可能な主張です。ただし、仮に善意によるとして、そうであっても、政治的にはこういう主張の仕方には問題があります。原子力維持・推進派、地層処分推進派に対するカウンターであるとして、そちらが積み上げてきた政治的な合意というものがあり、それはもちろん国際的な合意も含みます。国際的な核のゴミの押し付け合い、殊に先進国の身勝手 - この構図は現在処分地が主に先進国内に立地することを除けば原発を福島や敦賀に立地し、再処理工場を青森県内に立地するのと同じ構図です - を防止するために、各国は原則として核廃棄物を投棄したり他国に処理を委ねたりしないという合意があり、その合意の下で各国は自国の各廃棄物処分場の整備を進めてきたのです。まあ、そうした合意が欧米諸国、つまり比較的地質が安定した地域に立地する国が主導したものだったことは事実ですが、一方で、例えばドイツやフランスあたりが金に任せてアフリカのどこかに処分地を作ったりしたら困るという話だってある - あったわけです。そうした合意が「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」の背景にあるのです。そういう合意を基盤にしてとにかく地層処分という話を進めてきたわけで、単純に適地なしと言ってそういう合意に即する形で了解を得られるのでしょうか。地層処分をしてみて失敗したのであれば責任など曖昧にできますが、方針を変える、地層処分ではだめだと言うのであれば、じゃあどうするんだという話を責任を持って示すことが大前提になります。振り出しに戻して議論しようではすみません。なんだか記事に妙なコメントが付いていますが、止める際の制約を無視して止めましょうでは済まないのです。
なにしろ声明自体の本文が見当たらないので何を言っているのか新聞記事でしか読めないのですが、記事の通りだとすれば典型的な専門家の無責任です。

「日本に適地はない」核のごみ処分場 後世にとって最善の選択とは?
やっちゃった以上もうどうしようもないので、政府機関の敷地内に倉庫でも作って保管して、日本として安全は確保できないと宣言する以外ないでしょう。何しろ地上保管したところで安全を確保できるとして百年もなく、だからこそ地層処分という話になっていたわけです。もちろん他国に押し付けるなど論外で、日本は攻撃したら核廃棄物を漏らすような所だから攻撃してくるなよ、大地震でもあって漏れたら諦めてくださいと開き直るしかありません。そういう意味で最善の選択など初めからなく、誤魔化して誰かを搾取することはないという意味で最悪ではない選択肢を探るしかないのです。

■2023年10月30日(月)  やることをやっていないだけでしょう
教員不足で学校給食がピンチ 栄養教諭「ゼロ」、募集しても応募来ず
真面目に募集してるんでしょうかね?それこそ年俸二億で75歳まで雇用保障すれば来る人はいそうな気がしますが。まあ、取り合いなのかもしれませんけど。
少なくとも処遇をそのままにしておいて誰も来ないと言うのは募集側としてやっていいことではありません。ピンチと言うならなりふりに構っているべきではないはずで、ちゃんと条件を改善するべきです。人手不足などというのは基本的にその類で、人を雇うのだという自覚に欠けていると思います。だから労働分配率がさっぱり上がらないのではないですか。

■2023年10月30日(月)  それが仮構だということは前提にしなければなりませんが
拘束よりも罰金よりも、気の力 コロナ禍で「気」は制度と化した
これは、「気」と言うよりは「空気(atmosphere)」ではないでしょうか。いわゆる空気嫁の空気です。
もちろんこの空気とか世間とかいう感じのものは、社会学や文化人類学では重要な研究テーマとされてきた概念です。それを合理化することを志向した近代社会から見てそうでない社会がどう成り立つのかという疑問は、近代社会にどっぷりつかった都市知識人層が前近代社会をすっかり忘れ去ったところで、まず啓蒙の対象として問題になり、さらに近代社会の行き詰まりが見えるたびに比較対象として問題になってきました。その意味ではオカルトのみならず現代的カルトの一つのリファレンスモデルでもあります。まあ、その近代社会も一般意思などという屁理屈をこねている時点でたかが知れた合理化のレベルなのですが。
もちろんこの手の空気と一般意思自体は違います。おそらくですが。空気は多分あくまでも自分の外のもの、自分を包み、あるいは包囲するものですが、一般意思は本来自分もその意思を構成する一部であることを希求します。ある意味では空気が一般意思を構築する基盤となっていることもありそうです。つまり、一般意思を確定しないといけないとか、確定されるべき一般意思はこういうものだといった空気に基づいて、この場合は法的な根拠を持つ面の強い一般意思が醸成されていくわけです。空気には法的根拠はありようがありません。
緩む気も、緩むことを外的に規制されるという時点で空気に近いものでしょう。ただしそれは自身を包むものではなく内在するものである点で、確かに読まれるような「空気」とは異なります。とはいえその内在の仕方は、内発性を前提とする「意志」と関連する「一般意思」の内在性とは異なり、おそらく外部に発して内部と行き来するような内在性であり、内部にある限りうっかりすると緩んでしまうような自己の管理の及ぶものなのでしょう。同時に、外部と行き来することによって外的な緊張状態(緊張した状態だけでなく緩んだ状態も)が反映するものでもありそうです。
もちろんそれは抽象的、心理的なものであって、物的なものではないわけですが、そういう抽象的なものを何かにつけ(それこそ頼まれもしないのに)読み取ってしまうのが人間なのですから、それを感じることはおかしくありません。

■2023年10月30日(月)  別にバスケットボールなんかしなくても死にはしませんが
部活じゃないから何時間でも…「指導者王国」が懸念される地域の実情
あるのは当たり前です。むしろそのために部活という箍を外す面もあるのですから。それが少年バスケットボールにとって良くないと協会が判断するなら適切な規制をかければいいでしょうし、その上で競技派の指導者が別途競技団体の結成とセミプロチームの興行を目指すならそれはそれで妥当です。そして保護者は、関係父兄の間での民主的解決など志向せず、不満に思った指導者とは個人的に決裂するべきです。保護者はバスケットボールという競技の世界に責任を持っているわけでもなければチームに対して責任を持っているわけでもありません。あくまでも生活と子供の成長に責任を負っています。それを果たすのに支障を生じるようなチーム運営がなされているなら子供とちゃんと話し合い、チームから退会する、させるべきです。そうやって先鋭化した挙句にチームや競技団体、種目が衰退するのは保護者の知ったことではありません。そこを指導者の口八丁に丸め込まれない骨太な方針が必要です。もちろん、うちの都合でこの地域ではバスケットボールができないといった子供を落胆させうる事態も受け止めるべきです。それでも、例えば寮に入ってでもバスケットボールをやりたいという子供の決断もあり得るのです。個人的には子供のお遊びにあほかと思いますけれども、たかが遊びであっても本人にとっては大事なことではあり得るでしょうし、そこで保護者が忖度して無理をすることこそ教育的に良くないでしょう。

■2023年10月30日(月)  大統領と外交部門だけで落ち着くと思う方がおかしい
徴用工問題、今も残る火種 「解決策」履行に韓国の司法がストップ
そりゃまあ、あれで片付いたなんて思ってる馬鹿はいないでしょ。日本だってサンフランシスコ講和条約やポツダム宣言までの連合国側の要求すらひっくり返そうとしてるわけですし。むしろ火を付けた側である司法がストップをかけるのは健全なことですし、鎮火しようとしている行政側がそこをしっかり説得できないとひっくり返ることだってあり得るのです。そういう押し合い引き合いの中で、韓国側として妥協できる合意が作られていくはずですし、日本政府は注視して適切な対応を十分な幅で検討しておくべきでしょう。もちろん韓国政府が嘘を吐くことはないと信じているでもいいわけですが、韓日関係を安定したものとするためにどう動くべきかは徹底的に検討しておかないといけません。

■2023年10月29日(日)  そもそもなんでこちらの性で扱って欲しいという話になるのか
「混乱」防ぐ手段は手術なのか 考えるべきトランスジェンダーの困難
これ、手術の要否というよりは、戸籍の性別欄を含めた性別で分けるということの方が問題なんじゃないでしょうかね?もちろん戸籍の性別記載は、一定の事情があって記載しているわけです。ただ、その一定の事情は戸籍法制定時、あるいは改正時の事情であって、必須のものとは言えません。現状必須なのは、戸籍で性別を確かめないとできな事務があるからでしかありません。例えば同性は婚姻できないとか、子の続き柄として男性であれば父、女性であれば母と書くとか、そういうことです。
性別で区別することを押し通すために外科手術を強要していいのかという点は議論するべきですが、その結論は性別で区別するかしないかということであって、性別での区別をしたままで外科手術を要件から外すということではないように思います。

■2023年10月29日(日)  自治体が率先して使い捨て労働動員をやってどうするんですかね
万博に向けたライドシェア導入は「公共の福祉」? 大阪府・市が検討
公共の福祉はいいですけど、万博が終わったらどうするんでしょうか。人出が減ったら余りまくりますよね。それで用済みですか?シェアだから一時借りておけば済むわけですか。それなら、市や府の事務をその期間だけ全部外注に出して、市や府の職員全員で旅客輸送をすればいいでしょうに。
もちろん府民や市民の選んだ首長が進める政策ですので、究極的には府民や市民に責任があります。それでブームが消えた後リストラが起こるだけなら、それは府民や市民が甘受すべきでしょう。ライドシェアに参加する設備投資なども自己責任と言うわけです。実施当局がとにかく後のことは考えないでその場だけ動員する、そういえば民泊もそうでしたね。もちろん昔から、軍隊が強引に民間人の家を宿泊場所に徴用し、値切りまくった借入伝票だけ置いて食べ物を食い漁ったりもしたわけです。みんなで自己責任で観光客から応分の対価を徴収しましょう、そうやってイベントに参加しましょうというなら、まあ、ましな方ではありますね。
万博なんか、やらないに越したことはないという気もしますけど。

■2023年10月28日(土)  こういうハックは筋が悪そう
OSもアプリも関係なく自分の作法であらゆるデバイスを使いたい〜HHKB Studioならそれができるかも
理解はできますが、あまり現実的ではないと思います。使うアプリ/アプリケーションがある程度決まっているなら別ですが、まずもってアプリケーションごとの動作を抽象的に定義したリストを把握するところが容易ではありません。この動作はアプリ/アプリケーションを作るときにはボタンやメニューの選択と関係づけられるため、一通り抽象的な識別子と組み合わされた形になっています。Ctrl+Hなどと言わずとも、例えばWindowsならキーボードアクセラレーターのコマンドIDでよいわけです。それをどういうキーバインディングに紐付けるかということでしょう。もちろんキーバインディングでなくても、スマートフォンのスイッチでもいいはずです。とはいえ、標準的なものだけでも数十の動作があり、例えば貼り付けなどアプリ/アプリケーションによってはいくつかのオプション設定と組み合わせて(MS-Excelならそのまま貼り付け、画像として貼り付け、テキストとして貼り付け、スタイルのみを貼り付けなど)動作するものです。アプリ/アプリケーション固有の動作ともなれば数千にも上っても不思議ではありません。いきなり初めて使うアプリケーションのそんなコマンドリストを目の前に出されて、おたつかないのはそれこそ真正のプログラマくらいではないでしょうか。プログラマは、例えばライブラリのリファレンスやCPUのプログラミングガイドあたりで数十ページに及ぶコマンド索引や数千ページに及ぶリファレンスに慣れているので、喜々としてキーアサイン設定を始めるかもしれません(そして設定はいいから仕事進めろよと怒られる)。もちろんアプリ/アプリケーションの作り方に依存する部分もあって、段階的にオプションを選択していくことを前提にした作りしかされていないと、最初のコマンドしか呼び出せず、ショートカットを押してからマウスでメニューやダイアログボックスを突く羽目になったりしますが。
もちろんつながったPCに送り込むキーストローク自体を設定することでそのキーストロークに割り当てられたOSやトップレベルアプリケーションの機能を呼び出す原理はわかりますし、キーコンビネーションをデバイス側で処理することで対応した任意のキーストロークを送り出すことができるはずです。とはいえ、それは正直ハックが過ぎるようにも思います。HIDとはダムなデバイスであるという前提があるはずで、USBのHIDクラスの先にインテリジェントなデバイスがつながってどこまで安全な動作を保てるかには不安があります。HIDとは別にUSBクラスを設計するべきではないかという気がするのですが。

■2023年10月28日(土)  ビジネスモデルとしては広告入りの定期刊行物と同じですが
女性の下着広告流れ苦情も 学校から保護者への連絡、進むデジタル化
デジタル化というよりは広報手段の確保の能力がないことの問題で、例えば学校の広報誌に変な広告が載っている場合と同じです。連絡と区別しにくい形で広告が来る点は問題ではあるのですが、少なくとも新聞屋は新聞の記事と広告を区別できない方が悪いと言うのではないでしょうか。

■2023年10月28日(土)  「宗教は怖い」宗教に陥らないための知識を
「宗教は怖い」、偏見・差別を生まないための知識を 牧師の大学教授
宗教や信仰が須らく怖いものであり、それにかぶれた人は例外なく危険であることなど常識だと思いますが。もちろん偏見・差別に曝されることは当然です。曝されたくなければ露わにしなければよいだけなのですから。知識の問題ではありません。
宗教や信仰が、把握しきれない世界を合理的に把握し安心する手段であるとともに、宗教団体の中枢部が教団員を動員するため、教団組織を拡大し全体的動員を確保するための手段であることは明白な事実です。世界を合理的に把握し安心することは内心の問題ですが、宗教や信仰による合理化がおおむね外部から与えられるものである以上その合理化の体系に動員されることは避けられませんし、それが外部の動員に結びついた時、本人すら内心の信仰の如何に関わらず邪教の徒と化します。これ自体は世界を合理的に把握する体系一般に見られる性質であるにせよ、だからと言ってその一つである宗教が邪悪でないことにはなりません。むしろ様々な邪悪なものの一つとして、さまざまな宗教があるのです。

■2023年10月28日(土)  そもそも倒産するような事業運営(=借入ベースの経営)をするのがおかしいと思うのですが
「粉もん」文化の危機 お好み焼き・焼きそば・たこ焼店の倒産が急増、前年同期の6倍に
「宅食べ」文化が定着すべき時に庶民の外食店舗がなくなったところで何の問題もありませんが、正直倒産はいけません。これで外食産業一般への金融機関の融資が冷え込んだ場合、外食文化全体が衰退する危険があります。自己資本のある事業者しか進出できないということになると、老舗とチェーン店だけになってしまいます。少なくとも自力で整理した状態で事業を閉じるソフトランディングの支援策を講じる必要があるでしょう。あるいはとにかく危険そうな事業者をまとめて潰してしまって、金融機関の将来への不安を払しょくするかです。いずれにせよ現状のお金を借りて商売をする形を無くす方向に持って行くしかないでしょう。
なお、課題は金融機関が小規模外食事業への融資意欲を減退させないことであって、小規模外食事業体が減ること自体は当面問題ではありません。むしろ借り込んで破綻する前にいったん事業を整理縮小するよう指導するべきです。少なくとも従業員の解雇と店舗コスト、原料コストの削減、事業組織維持コストの削減、その基盤としての営業の縮小は必要でしょう。もちろん短期を除いて債務はゼロにするべきですし、担保付き借り入れも厳禁です。資産を売って債務を返せるならそうさせるべきですし、自治体主導の支援策なら資産価格を水膨れさせて資産を債権者に押し付け、債務を消すのもありでしょう。十分縮小した需要見込みを基盤にそれでやっていける規模に事業を縮小させるか、事業自体を止めさせるかということになります。無理をしてでも続けたい事業者についても、債務解消の見込みが立たないならいったん事業を廃止して債権債務を清算するべきですし、それは嫌だというなら放置して倒産もやむなしです。その程度は、整理を受け入れて再建する事業者が十分に出てくれば問題にはなりにくいはずです。おそらく過大な需要予測を立てて拡大しよう、投資しようとするのが倒産に結びつくわけですから、小規模外食事業については起業はともかく既存事業の投資拡大を冷え込ませ、いわば屋台がたくさんあるような形で供給を確保し、需要の冷え込みには迅速な撤退をもって対応させなければなりません。身軽に進退転進できることこそ小規模事業のメリットです。地域の需要が冷え込めば別の地域に移動する、その商品では客が付かなくなれば別の商品に乗り換える、手持ち資金の中で商品開発を含む投資をする、固定的な人件費は極力避ける、長期の拡大見通しや在庫は持たない、先細りなら手持ち資金があるうちにさっさと閉店するというのがあるべき姿です。三日やって止めていいのが本来の姿です。レバレッジを利かせるならチェーンのフランチャイジーでもしていればいいのです。それなら長期の部分はフランチャイザーが負ってくれるはずですから。

■2023年10月27日(金)  副会長と担当者では表に出しにくいこともあるでしょうし、あえて公開を前提に公式の回答を作成させる意義はあるでしょう
副会長務める万博協会の担当者に「公開質問」 建設費増額で吉村知事
これは、いくつかの意味で意味のあることだと思います。まず万博協会のガバナンスが破綻している - 兼職であれ副会長が実施要領に疑問を持つというのはその懸念があります - 場合、事業パートナーなり資金源なりから公式の説明を求めることで、ガバナンスの適正化につながる可能性があります。次に、万博協会副会長として大阪府議会なりで回答するわけにはいきませんので、府側の関係者と協会の公式の報告を共有できると思われます。当然対応した、つまり報告書の内容を前提とした実施要領に対する変更要求が出てくる可能性がありますが、それに対応できないとすればまさにガバナンスが崩壊しています。そして、公開質問への回答である以上、回答も公開され、不備があれば回答をベースに各所から突かれることになります。万博協会にとっては嬉しくないでしょうが、ガバナンスに問題があるとすれば、その是正には必要な過程です。
実際、副会長というポストは現場を把握しきれていない状況が生じがちなものではあります。逆に会長を祀り上げて副会長が実権を握るということもあるわけですが、おそらく会長が事務局を掌握して他の幹部をないがしろにする状況はあるでしょうし、会長以下トップを棚に上げて事務局の長が実権を握ってしまうような事態もあります。その点で、この吉村氏の公開質問はまあ、そういう蛮勇を振るうような性格だからできる適切な行動と言えるでしょう。おそらく最初の回答は無難な線に終始しても、突いていくと万博協会自体を崩壊させかねない事態が明らかになっていくのではないかと思いますし、その段階で吉村氏の副会長としての作為や不作為の是非も問われることになっていくのではないでしょうか。

■2023年10月27日(金)  専門家独裁は今時だれも望まないと思う
新型コロナでわかった「使えない仕組み」、大曲医師が語る教訓と備え
「平時から機能する行政組織があれば、準備の進捗(しんちょく)をチェックし、うまくいっていない所には促すことができ、より円滑にいった可能性がある。」
こういう発想は、全体主義そのものだと思いますが。感染拡大防止という目的があるから一見正当なように見えますが、円滑に進めることを前提に行政組織を整備するということは、その行政組織が平時であっても一定の監視を行い社会を統制するということです。もちろんCOVID-19感染拡大防止対応における行政機関の対応に問題がなかったとは言えませんが、仮に平時の緊急対応組織整備により改善するものであったとして、そのような形での改善が望ましいとはとても思えません。むしろ担当者の一般的な社会行動論や経済、事業論などへの無知の方が問題だったと思います。体系的な知識を持つ官僚による行政機関を整備することで改善することは明らかであるにせよ、それは「参謀本部」や「大本営」の独裁を認めることでしょう。むしろ官僚組織ではなく、内閣や国会がその種の教養を共通して持った人たちで構成されていることが望ましいはずです。

■2023年10月27日(金)  私的団体の運営に任された運動施設が差別禁止とはこれいかに
元外国籍理由に入会拒否、高裁「人種差別」 ゴルフクラブに賠償命令
どう決めるにしても無理矢理だと思いますし、強いて言うならクラブと会員の意志の方が重いと思うんですがね。まあ、とりあえずはクラブ側が上告すればいいわけですが、ゴルフクラブなんて入会できなかったところで不利益はほとんどないでしょうに。変に根拠薄弱な客観的条件を引っ張り出すのではなく、クラブとやらの組織形態を問題にするべきでしょう。設立の経緯や入会時の既存会員からの推薦の要否、会員資格の転売も含めて実態として会員団体ではないのだというなら、まあ、拒否は無理だと思います。逆に言えば閉鎖的な会員団体だというなら入会拒否自体は正当であり事情の如何に関わらず精神的苦痛を論ずるには足りません。入会を申し込むこと自体が拒否された場合の精神的苦痛の甘受を承知したことになります。その一方で、そのような閉鎖的な団体がそのゴルフ場を運営していていいのかという点は、別途問題になるでしょう。公的団体が「一般的なレジャーの一つ」としてその施設を接収する程度の根拠があるなら、そうすればいいと思います。

■2023年10月26日(木)  ちゃんとルールとして整備しないとこういうことが起こる
正規の手続き経ず業務発注→別契約で水増し対応 習志野市職員を処分
こういうことはままあるわけですが、正直國分先生なんかはこういうのも裁量とか判断とか言うわけですかね。下水道なんてライフラインですから、急に発注が必要になる事態はあり得る。これは典型的な行政での裁量の問題でしょう。ではそこに民主的な手続を持ち込むことができるのか。詳細なルールで対応方法を厳格厳密に決めるしかないと思うのですが、それはまさに國分先生の言う「立法は全てを決めきれない」事例でしょう。そうであっても、合意できるルールの円滑な運用のためには決めないといけないし、そこでいい加減なことをするとこういう無茶な裁量が起こるわけです。
もちろん、そこで下水道利用者の不便を顧みず手続に乗せるのが正しい官僚です。その結果、例えば予備費執行で数か月そのままになるかもしれませんし、予備費が底をついているなどして補正予算審議で半年飛ぶかもしれません。提供している役務の機能を維持しなければならないではなく、執行の手続的正当性を維持しなければならないというのが官僚制本来の原則です。それこそ企業官僚としては、取引先・下請けから持ち込まれた値上げの申し入れを、弊社の予算はすでに決まっており、その通りにやっていただかないと困ります、一応申し入れは上に上げておきますが、現状の発注は契約通りに進めてくださいと言うのが正義です。取引先からの申し入れを是とするか非とするかは、委任がない限り、株式会社なら取締役会や最高経営執行役、あるいは古典的な西洋式会社組織ではマネージャーやジェネラルマネージャーの裁量事項だからです。そこで、うかがった内容を実現できるように頑張りますなどという空約束を権限もないのにするのは、原則から言えば官僚組織やそのトップに対する背任です。昨今は役務のサービスレベルの維持を官僚組織の存在理由とする傾向があり、そこで機能維持という使命と背任の板挟みになって手続を飛ばした結果背任で懲戒を受けているのがこの事例です。こんな、いい加減な規則で現場に負担やリスクを押し付けることになりかねない、立法だけではどうにもならない的発想を、是認していいものでしょうか。

経費上乗せの見積書要求は19回も 千葉県習志野市の不正契約問題
まあ、行政の裁量なんてこんなものです。もちろん手続論的には重大な反則行為ですし、そもそも不都合な事実を隠蔽する保身行為ですが、とはいえ、工事を速やかに行わなければならない、あるいは - これもよくあるのですが - 工事の規模、内容を中途で変更しなければならない事情が生じ、その際頼るべき手続が少なくとも認知されていなかったという事情は斟酌されるべきです。それが常習化するのは、もちろん官僚機構独特の問題、つまり建前のルール上は反則であっても現に行われることで既成事実化する現象ですが、これは当たり前のことだと思いますが、急いで執行しないといけないときに手続が間に合わないから手続を整備してくれと言えば、そんな状況があったのかという形で誤魔化したことがばれるわけです。行政執行を止めるわけにはいかないという認識で動いたうえでこうした保身に走ること自体は、正直どこまで責められるのかという気がします。だからこそルールは守られないといけないとはいえ、目の前で機能不全を来している下水道設備があって補修工事は手続待ちなどと言っていられるある意味まっとうな官僚が、日本にどれだけいるのでしょうか。

■2023年10月26日(木)  甘いんじゃないかなあ
「オタク用語辞典 大限界」巡り、出版元が声明 不適切な部分は「可能な限り改善」 出版予定は変更なし
まあ、同人誌をお手軽に商業出版するような出版社の自業自得ですし、もし教授が企画を持ち込んだのだとしたらそれも安易さへの自業自得でしょう。ともあれここで引いてしまうのはアホのやることだと思いますし、指摘された点は改善すると譲歩しつつ出版は予定通りすると主張しているところは評価できます。
とはいえ、確かにゼミの成果物ではあるのでしょうが、出版ありきで進めたプロジェクトならもっと慎重であるべきだろうとは思います。Wikiと出版物ではそれだけの違いがあります。普通のこの手の事典編纂マニアは出版という権威のある流通回路にはアクセスできないわけですから、問題含みに見えるものが出版物として出てくれば反発はするものでしょう。もちろんそこで裏切られた、侮辱されたと思ってしまうわけで、関係SNSアカウントに中傷コメントを書かないで欲しいなどという甘ったれた発想は通じるとは思えません。もし気にするなら、そこはちゃんと大学なり研究室なり出版元なりで引き受けるべきで、学生に個人SNSアカウントなど作らせるべきではありません。

■2023年10月26日(木)  学校教育とはそもそもトラウマジェニックなものです
「完食指導」を考える 食べられない子どもたち
座ったまま「食べられない…」うつむく私、完食指導は今でもトラウマ
完食指導だけの問題ではなく、学校教育というのはそもそもそういうもの、子供を集めてしつける場でしょう。その過程でトラウマを与えることは織り込み済みですし、そのトラウマを乗り越えることで成長を果たすというのがモデルです。
もちろんそのモデルの是非を問うのは大事なことですし、正直完全に破綻が判明してから20年以上経っていると思いますが、それなら完食指導だけでなく学校教育という仕組み、あるいは日本文化における教育概念、普通教育=学校教育という先日どこかの市長が主張していたような固定観念の是非を問うのでなければなりません。もちろん底辺のレベルを引き上げるために集めて一定水準の扱いをしてしまうのは、みんな同じ学校に行くという平等幻想の基盤作りとあわせて一定の効果を発揮してきた面があったわけですが、正直歴史的役割を終えたとしか思えません。完食指導だけ止めたところでどうしようもないでしょう。義務教育のように習得できていない人を出席日数だけで修了認定して習得を強要され失敗したトラウマが残るようなことになります。もちろん習得できない人を落ち零れさせるのではなく、出すからには修得させるのでなければならないわけです。そこで完食指導に見られるようなトラウマジェニックな指導を行わないというのは大事な基準です。そしてそこで習得は無理などと諦めてしまうような目標を義務教育に含めるべきではありませんし、そのレベルをさっさと終えてしまう子がいることも前提にするべきでしょう。

■2023年10月26日(木)  値下げ競争、流通量増大による事業安定化のような裏が透けて見えるだけに肯定できません
ガソリン二重課税「最低限見直しを」 石油連盟会長、トリガーは反対
トリガー条項が流通を混乱させるというのは理解しますが、消費税の税額請求票への対応もそうですが、ただ単に否定するのではなく、どのくらいと期間とコストで対応できるのか程度は考えるべきだと思います。
その一方で、ガソリン税は、今の十倍になってもよいと思います。二重課税三重課税という問題は制度の関係で別途議論すべきですが、石油流通業界は原則としてガソリンの流通量縮小を目指すべきです。もちろん原油からのイールドと他の油種とのバランスはあると思いますが、ガソリンで物や人を動かすべきではないという形を作ることが望ましいでしょう。それこそ電気であれば重油で十分作れるわけですし、電気自動車で動ける範囲で生活する、長距離輸送を大量輸送手段に集約するといった形を作るためにも、ガソリンの流通は減るべきです。安いガソリンが生活の基盤といった状況は長期的には変えていけるものなのですから、ガソリンを安くして生活と産業に貢献(そして自分たちはもっと儲ける、商売安泰)というような言い方はするべきではありません。

■2023年10月24日(火)  エコじゃない
ラー油スプーン
デミタスカップの攪拌用にと買ったラー油スプーン二本が届きました。まあ、見た感じいいんじゃないかと思います。もう少し長くてもいいとは思いますが、まあ、そこで拘り出すと自分で打ち抜き加工して作るといった話になりますからね。
それはいいのですが、なぜかゆうパック二便で届きました。日本が一つのパケットに入っているのではなく、一本ごとに一個のゆうパックのパケットで届いたのです。発想時点でそう表示されて、あれ?とは思ったのですが、見事その表示通り、二個のパケットで届きました。送料はさておき、どう見てもエコではありません。発送地も同じ倉庫と思われますので、おそらく何かの手違いでしょうが、改善すべきではないかと思います。

■2023年10月23日(月)  規模を確保すりゃいいって話じゃないでしょうね
再編・統合の私立大に財政支援 文科省、来年度概算要求に35億円
まあ、倒産されるよりはましなんでしょうけど。
とはいえ再編・統合というなら再編や統合に至った経営危機の原因についてはきちんと解消させたうえでの支援として欲しいものです。先行き不安にしても、少なくとも財団法人が事業をそっくり入れ替えてしまうような再編成は望ましくないはずです。定款なり建学の理念なりから見てそもそも役目を終えた財団法人であるならば、資産を売却したうえで解散させるべきでしょう。設備がもったいないとか教職員の雇用がなどという問題ではないはずです。そこはけじめをつけさせる必要があります。
もし便宜や機能だけを見た再編・統合を進めるというなら、それこそ理念上対立する財団法人をこそ統合させるべきでしょう。おそらく法人を廃止したうえで理事が全員退任し事務局だけ残して新法人を設立するような形になるのではないかと思いますが、何ならその時点で地方自治体に移管してもいいと思います。例えばカトリック系ミッションとプロテスタント系ミッションを統合して市立大学にする、ミッション系と仏教系を統合して県立大学にするといった形です。まあ、泡沫私立にはそういうしがらみのないところが多いとは思いますので、片方の事務局と教員組織を廃止してもう一方が財産だけ買い取って廃止する財団法人の債務返済に充てれば済むとは思いますが、いずれにせよ大学の名に値しない、単なる宣教師学校とか資格予備校なら各種学校への変更も求めるべきでしょうし、大卒前提の資格のコースだというなら大学にしておくにせよ、専任教授には担当コマ数や担当学生数も含めて教授というにふさわしい余裕を持った環境を保障するべきですし、そうでないとまともに学生を指導できず、そもそも高校卒業時点の成績が低いならなおさらです。今時大卒レベルの知的労働者というのはいくらいても足りないはずなのですから、教員の処遇をケチって無駄にしている場合ではありませんし、むしろ高校教員を補習授業担当として雇用することも認める方がよいくらいでしょう。八年かけてでもまともな大卒レベルにして卒業させるべきですし、その上で事務員にでも教員にでもして使ったらいいのです。下に仕事を回すことしか身に付けてこなかった国家公務員上級職の出向者が仕事を押し付けて行ったら自分の仕事がなくなって、下が上げた報告書を丸暗記して議会で市長みたいな答弁をして、埒のあかない議会からその下が呼ばれるようにしないといけません。少なくとも仕事をどんどん外、つまり派遣や任期制事務員、アウトソーシングサービスに出していくには、中がそのくらいできないとだめです。

■2023年10月23日(月)  遺族による葬祭という概念をせめてオプションにして欲しい
行政が葬祭費負担、過去最多の5万件超 「無縁遺骨」保管場所も不足
遺体は市町村引き取り・処理を原則とすべきであり、その分の予算計上もするべきです。その上で、死亡届提出時に提出者が引き取り希望者がいればその届け出と適切な処分の実施(何なら処分計画を提出)を引き取り希望者が誓約するべきでしょう。当然死亡届の未提出や衛生上不適切な遺体の処理は重罰とされるべきです。また市町村での遺体の処理については原則焼却して合同墓に廃棄とするべきですし、法要なども行うべきではありません。つまりあくまでも廃棄物扱い、せいぜい資源ごみということです。無縁遺骨などと称して保管する必要はありません。その上で遺体引き取り希望者が提出した処理計画を衛生及び廃棄物不法投棄防止の観点から市町村が審査するべきです。
なお、これは警察や自衛隊などで行われる死亡者管理とは別でしょう。あれはあくまでも、公務中の死亡について遺族および関係当局に通知する都合で行うものです。もちろん公務中の死亡である以上少なくとも遺族に不適切な公務執行によって死亡したのではないかと訴える機会は与えるべきです。そこで問題になるのは死亡が予想されるべきでない時点において死亡が発生したことへのその死亡を発生させた者の責任問題であり、遺族としてはその死亡によって発生した被害損害の賠償を受ける権利があります。雇い主は従業員をあくまでも社会から借りているにすぎません。殺さずに健康な状態で社会に、典型的には家族に返す義務があります。
この故人は社会のもの、家族のものという点で、遺体処理についての遺族の希望を尊重する必要がありますが、それは明示的な権利の行使として求められるべきであり、遺族に押し付ける筋合いのものではありません。また市町村は法務省の末端機構として県警を通してその死が不当な死でないことを確認する責任を負っています。不適切な労働条件下での過労死や管理義務が果たされていない状況での事故死は不当な死であり、官憲の介入による使用者の犯罪について捜査が行われることになります。つまり遺体は市町村が管理するべきであり、市町村は必要なら解剖などを行って死因を確認し、犯罪の嫌疑がある場合について警察を動かす責任があります。何しろ殺人や業務上過失致死ですから、遺族が訴えないから知らんぷりというわけにはいかないのです。

■2023年10月22日(日)  そう簡単に言えることではないと思います
もし男児の半裸広告だったなら インベカヲリ★さんのコメントプラス
いやまあ、アニメ映画の宣伝ポスターとかだとありますよね。男児の半裸像。局部を強調しているのは見た覚えがないですが、そこは男児にマチズムを投影するような発想がないということでしょうし。それこそ全裸で局部を露出した男児が局部から水を出している像は結構あったはずです(意味が違うな)。
正直公共空間における表現というのは難しい話で、過去において屋外展示の裸像に布などで覆いをしたような歴史もあるわけです。絵画だと印刷ポスターが登場するまでは屋外への展示はなかったはずなので公共空間にボッティチェリのビーナスの絵が掲示されるようなことはなかった(ルネサンス期の礼拝堂やウッフィーチョは外とは別の基準が通用する空間だという意味で公共空間ではなかった)わけですが、古典主義的な裸像は屋外展示されたので、一般的な倫理基準との摩擦が避けられなかったわけです。そういう意味では、屋外広告や公共交通機関内の広告などに倫理基準があってもかまわないとは思いますし、そこで裸体表現規制があってもいいと思います。もちろんレオタードやバレエのコスチュームのような体形が露骨に出る服装のモチーフも含めてです。挑発的な表現を含めて、その表現をニュートラルな公共空間に露出していいかどうかの判断においては表現者側に相当の自制が求められうると思います。その上で、冊子や梱包された出版物や屋内展示での表現は制作過程に違法性を伴わない限り原則として自由が認められるべきとは言えると思います。そういう意味では表現の自由というよりは展示の自由と考えるべきですが、とはいえこれはこれで政治的主張の流布や現代芸術におけるインスタレーションのような - ある意味嫌悪感や違和感を表現において利用するような - 方法論とは衝突しかねませんので、簡単には基準化できないでしょう。

■2023年10月22日(日)  シュールな…
牛乳石鹸の赤箱・青箱がブックカバーに 11月から全国の書店で配布
デザインが注目を集めた「牛乳石鹸」のブックカバーが全国の書店で無料配布へ 「かわいい」「めっちゃ欲しい」
いやまあ、どんなカバーを本にかけようがそれは読む人の好き好きというもので、公序良俗に反しない限りはどうこう言うべきではないとは思うのですが。少なくとも牛乳石鹸のパッケージデザイン自体はよくできたもので公序良俗に反するとも思わないですし。でも、石鹸のパッケージが付いた本というのはなかなかシュールな気がします。
少なくとも公共の場に出現しうるデザインについては、それこそ裸体表現や露出の多い服装も含めて、目に入ったときの暴力性というのを考えた方がよいのではないかと思わないでもありません。慣れれば無視できるというのも確かではあるのですが。

限定配布の牛乳石鹸ブックカバー、メルカリで出品相次ぎ「残念」
喜ぶべきとは思いませんが、残念と言うこと自体はおかしいと思います。どうしても出品して欲しくないならせめて限定配布にすべきではありませんでした。売れないほどに配れば出品などされません。限定とか言って希少価値をつけるから転売されるのです。

■2023年10月21日(土)  根拠にそもそも欠けるという意味ではどのみちふわっとしてると思いますが
「未来への責任」なぜ現代の我々が? 「ふわっと」じゃないその理由
こういうのを正当化優先の机上の空論と言います。
そもそも「生命はそれ自体で価値がある善きもの。人類も生命ですから、それ自体で存在する価値があって、とりわけ子供をその基礎として考えています。」という発想がおかしく、価値はあるものではなく発見するものでしょう。善などというのも時代錯誤に見えます。少なくともこの記事からは、アプリオリに善を導入し、そこに価値なり生命の価値なりを紐付ける牽強付会としか見えません。
論点としては「コミュニケーションがとれない未来の他者をどのように考えるのか、という視点」は問題設定としては非常にアクチュアルかつ鋭いと思います。その問いに答える倫理の体系を組み上げるというのはまあ、哲学的には有意義でしょう。とはいえ実践的には屑同然です。トマス・モアの描いたユートピアみたいなものです。現代社会批判や知的取り組みとしてはともかく、理屈か批判という以上にまともに受け止めるべきものではありません。もちろん実践的にはその批判をちゃんと受け止めていくことが必要だとは思いますが、体系自体は有用なものとは思えません。

■2023年10月20日(金)  シェンゲン崩壊=EU崩壊=ユーロ崩壊というシナリオが最悪ではないかと
中東情勢の悪化でイタリアと他10カ国「シェンゲン協定、もうやめたい!」EU「移民が脅威であれば追放せよ」
もうやめたいというか、どちらかと言えば旧ユーゴスラヴィア諸国やルーマニア、ハンガリー、ポーランドなど(ついでにトルコも)をシェンゲンアキから隔離したいのでしょうが。この場合問題はバルカンルートであって、似たような問題を抱えているはずのスペインは問題にしていないようですし。
もっともこれは正直、現代欧州的無定見だと思います。そもそもロシアと中東を包囲する形でEUやNATOを東方に拡大してきたのはフランス、ドイツ、イタリアでしょう。それが薬が効きすぎて中東諸国が崩壊し、ロシアが激発している面があるわけで、東ドイツの取り込みに成功したことで慢心したのではないかとしか思えません。もちろんやってしまったことは取り返しがつきませんから、責任を取ってアラブの春の結末を消化するべきです。まあ、アメリカ合衆国だって責任はあるんですけどね。
また、ここでシェンゲンアキを崩壊させた場合、EU自体とユーロが崩壊する可能性が高いと思います。その意味でフォンデアライエン委員長のシェンゲンアキ維持、不法入国対応の仕組みの確立をという意見は、人道的に問題がありそうな以外はまっとうだと思います。
むしろ西側EU諸国には、この際なので東欧諸国に武力介入し、占領下において国境管理を徹底したうえで、EU共通の軍事および国境管理の枠組みを作り、欧州委員会直属の軍令下の国境管理部隊を設置するような決断が求められている気がします。まあ、またフランス軍やドイツ軍が進駐してくるとなれば渋い顔をする国も多いと思いますが、ちゃんと欧州連合の旗を立てて、欧州連合はナポレオンでもヒトラーでもないという身の証を立てる好機ではあるでしょう。もちろんそこで大欧州軍を組織してベラルーシに、そしてフィンランドからサンクトペテルスブルクに攻め込むとウクライナが喜ぶわけですが。マーストリヒト条約の成立をもって欧州はルビコンを渡っており、この上はカトリックポーランドリトアニア、ルター派オストプロイセンを回収するところまではやるしかないでしょう。おまけでカトリックハンガリーをトランシルバニア・カルパチア盆地まで回収し、それからアナトリアとパレスティナにIHSの旗をひるがえすことを試みるのです。

■2023年10月19日(木)  確か兵器の輸出には議会の承認が必要だったと思うのですが
ウクライナ、米供与の長射程ミサイル「ATACMS」初使用
確か昨年は供与しないと言っていたと思うのですが、どういう経緯でどんな形で供与されたのか、事によってはまた議会がさらに揉めることになると思うのですが。もちろんATACMS供与自体はあり得ると思いますが、兵器の輸出で秘密裏というのは問題があります。昔、イラン・コントラ事件というのもあったはずですね。
ものとしてはMLRSやHIMARSと同じなので、元々対応型モデルでミサイルをケースごと取り付ければいい類ではあります。

■2023年10月19日(木)  日本代表を結成するためにBリーグを作るという話ならそりゃ仕方ないでしょうね
「一方で難しいのは若手で代表に行きたくない、リーグ戦だけ出ればいい、という選手がいた場合」
まあ、Bリーグがそもそも日本代表チームの結成を前提にしているというなら招集拒否は問題なのでしょうね。そこはBリーグチームに入るときに承認している前提、チームがBリーグに参加するときに承認している前提で、それに不満があるなら少なくともBリーグチームを退団し、チームとしてBリーグから脱退することはできます。もちろんその規定はおかしいとBリーグの規約自体を変えることもあっていいと思います。とはいえそういうプロセスなしに不満を言うのは、ルールをちゃんと読んでないだろうとは言われるわけですね。もちろんそのルールを前提にした人たちが、Bリーグの地位をここまでにしてきた面があります。このルールを承認しないならBリーグでの活動は認めないという程度のことはあっていいと思います。
とはいえ、そんなにしたいですか?バスケットボールの興行試合。

■2023年10月18日(水)  教育委員会を首長から切り離すのが良い

フリースクール否定発言、教育行政から批判 文科相「多様な学びを」
まあ、県知事や市長に教育への見識を求めても仕方ないのかな、という気がします。他に見識がないといけない課題はたくさんあるわけですし、教育は一期や二期で片付く話ではありませんから、全ての知事や市長が取り組むべき分野というわけでもありません。むしろ教育委員会の首長部局からの人事や業務の独立性を高めるいい理由ではないでしょうか。

■2023年10月18日(水)  無様な自業自得
岡山県「過去に使ったドメインを第三者に再取得された」 管理者にリンク削除を要請
ばっかでー。当たり前じゃん。なんでもっと前に処理しておくなり、ドメインを維持しておくなりしなかったのさ。だいたい手放しておいて「再取得された」って、「県」まで含めた県名と違って法律上の名称独占みたいな保護はないんだから、そんなの自業自得でしょうが。

■2023年10月18日(水)  住民の希望で運行を続ける理由はJR西にはない
ローカル線「都会目線で切り捨てて良いのか」廃線経過見てきた専門家
住民の決定権の確保は運行費用負担と一体です。総体としての地域住民の福祉を民間企業であるJR西が担う筋合いはありません。もちろんうちの施設だから存廃はうちが決めるはまずいわけです。そこは住民が関わって判断するべきでしょう。しかし経営分離だけは、住民ではなくJR西の判断することです。運用の人件費まで含めて地元が負担するという枠組みにしたうえで、JR西がターミナル駅への乗り入れについて便宜を図るというのが筋です。まあ、資産はただではぎ取っていいと思いますが。

■2023年10月18日(水)  あれですかね、アイドルタレントを買ってくるより劇画のネタを地道に探して裏取りする方がお金がかかるっていう
「プロジェクトX」復活へ バブル崩壊後の物語 ナレーションは……
実にNHKらしい話だと思います。というか、なんで民放はこのフォーマットをやらないのかと思うのですが、お金がないんですかね。
もっともNHKらしいからと言って良策とは思わないわけで、バブル崩壊後の迷走無駄プロジェクトを脚色するのではなく、プロジェクトペケと銘打って東久邇宮内閣から田中角栄内閣の崩壊まで伝記仕立てで扱ったらいいと思うのですが。結構ドラマティックな話が多いですし、ちゃんと調べれば今起きている問題の元凶が何なのか見えますので、それこそ田中角栄がオイルショックが契機で日本列島改造計画を諦める場面とか、感動的だと思いますよ。

■2023年10月18日(水)  プログラマでない人が逃れたければこうするしかないのでしょうね
弱いつながり 検索ワードを探す旅 東浩紀
これも古い本です。
事実系が軒並み時代遅れになっている - まあ、十年でいろいろ変わったわけで、チェルノブイリなんか今は戦争で危なくて近づけません - のはしかたありません。とはいえこの本の論旨については今も有効だと思います。
まず、東氏は「ネット」という言葉でHTTPを基盤に検索エンジン(あの当時も今現在も主力はgoogle)やメッセージサービスを使うものを表しています。個人的にはネットというのはIPv4やその後継のネットワーク層・トランスポート層プロトコルを基盤にしたインターネットワーキングシステムの事なので、この言い方には今でも非常に違和感があります。ネットが壊れたと言われると思わずpingしてしまい、パケットが通るので壊れてないじゃんと言ったら実はおかしいのはブラウザだったというオチを日々生産するのです。ですから「ネットは階級を固定する道具です。」と書かれているとそんなことを定めたRFCはないと思ってしまうわけです。
一方で、検索エンジンやリコメンド、マッチングの機能はまさに「ネットは階級を固定する道具です。」という言葉を実現するために作られたものです。何しろ大量の検索の結果が出てくる、その中からできるだけ検索者の望むものを取り出そうとする結果の過去の延長として現在を推定したあの手の機能は、確かに便利なのですが、検索者を過去の延長の上に拘束するものです。少なくとも私が学生の頃のコンピューターでの検索(まだ検索エンジンはなくて図書館の蔵書検索や図書インデックスの検索でした)ではつたない検索キーワードで検索して、検索結果がゼロとか、数千件出てしまいどう絞ればいいのかわからず涙目になることは当たり前でしたし、上手な検索キーワードの選び方というのも指南書が出ていた気がします。もっともそれも分野が限られていたから書けたような本で、今汎用的な方法論を書くことは難しいでしょう。そして、それを克服する手段が検索結果をランク付けしてランクの高いものから表示する、今までの行動記録を特徴づけして似たような特徴を持ったものを表示する、サービスやネットの行動記録上特徴が近い人同士を紹介するという方法論でした。それが東氏の言うノイズの低減につながります。これは決して悪いことではありません。短期的にしろ生産性は高くなるのです。とはいえ、予定調和な状況が作られていくことには間違いありません。特に日頃大量の情報を収集する人ほど、同じ傾向の情報が手元に集まってくることになるでしょう。日頃していない買い物をamazon.co.jpでするとamazonのホームページ(この場合は字義通りのホームページなのです)どころか他のサイトのamazon.co.jpの絡む広告までその買い物関連のリコメンドに染まるという経験を持つ人は多いと思いますが、データが積み重なるとその擾乱の影響は少なくなります。これは非常に些末で卑俗ではありますが、東氏の言う違うワードで検索してみた結果と言えます。

■2023年10月18日(水)  何か日本企業の市場シェア追及の欲望を見ているような気がしました
近代政治哲学 國分功一郎
これも古い本ですが、扱う内容が古典を振り返るものであるだけに、読んで、ああ、なんか高校生の頃習ったなあ、と思うかもは知れませんが、内容が古びているということはあまりないでしょう。なにしろボダン、ホッブズ、ロック、ルソー、ヒューム、カントですので、資料調べが嫌になるほど議論が詰みあがっています。これはつまり、少なくとも事実の面において現状がひっくり返るような証拠は出てくる可能性がなく、むしろ解釈がどうなのかという問題だということになります。そして、解釈というのはある程度制約されるにしても個別的です。読んだ人すべてに原理的には固有の解釈があるのです。である以上、解釈の部分ですらこの時点の國分氏の解釈として古くなることはありません。何かを汲み取ることはできるはずです。

さて、ロックの扱いがなかなかに酷いです。まあ、あの人の評価は個人的にもあまり高くないのですが、とはいえ英米の共和制度の基盤を為す話ですので、あの制度がどんな基盤から来ているのかを考える場合にはルソーやカントあたりよりもよほど大事ではあります。國分氏自身大陸哲学系のようですので、自然権と政体論を社会契約説の学説史として見たときのロックの中でも徹底していた部分に着目し、残りを微温的なご都合主義的中道と貶しています。

ともあれ、この本はカントで終わっています。正直私はあの人は、考えてはいるけど勘違い尽くしじゃんという見方で、まあ、思索先行の人はあれにひっかかるよなあと思っているのですが、この本が扱っているのが近代政治哲学である由縁、近代政治哲学のバス音部のメロディーの一つがカントにおいてあからさまになっていると思います。國分氏はカントの民主制批判の議論において、行政権を民主的に執行することなど想像できないと述べます。これがしばらくわからなかったのです。私個人は人員規模は小さいほどよく、一人でできることを何人もでやったらそれはただの馬鹿だと思っているわけですが、そうするとこういうことを言われたときに、それこそ判断ごとに民会でもやったらいいだけだろう、何なら住民全員で現地を視察して議論して決めたっていいと思ってしまいます。そうではないのです。少なくとも - 正直カントのいた時代の国というのはなかなか小さなもので、特にヨーロッパは人口上最大の国でも今の東京都より小さかったはずです - 東京都民が全員で行政を執行するというのは私でも想像できません。そこでだからメタボと思うかどうかはともかく、カントにしろ國分氏にしろ、あるいはこの本に出てくる他の人たちにしろ、国家というのはそうやって大きくなるものだ、小さくなるもの、小さくするものではないしするべきでもないと思っているわけです。その意味では何度となく出てくる国家を解体しようとする試みは犯罪であるというのは、国家の法体系における当然である以上に、近代政治哲学における大前提であり、言うならば神の与えた法に逆らうにも等しいことなのです(こんなことを言われたらものすごく渋い顔をしそうな人たちが結構取り上げられていますが、おそらくあなたはこう言ってるんだよねと問えば渋々でも認めてくれるでしょう)。もちろんその経緯はおそらくボダンやホッブズのところで述べられる領主の領民支配を基盤として領主間の契約 - 欧州中世史学者や日本中世史学者によると領主と農民の支配関係ですら契約に基づくものであり、納税を終えたら農民は契約を更新せずに退去してよかったらしいですが - によってまとまるだけの緩い、無力な国家に主権概念に支えられた強力な王権が支配する全体主義国家 - もちろんカントの時代にその末期であったように今日のドイツ連邦共和国のラントをさらに分割するような単位でこの種の絶対主義国家が成立していることもありました - を対置し、それによって「万人の万人に対する戦い」(ちなみにカントの時代すらプロイセンとオーストリアの紛争を軸に現在のドイツ以東はモスクワの結構近くまで戦争の時代でした)を終結させようとする衝動だったのでしょう。何しろ日本の江戸時代すら旗本領の境界を超えて犯罪者を追捕することは難しく、その旗本領は一つの村の中で錯綜して分散してすらいたというのですから、追捕すらされない封建領主のとりあえず戦争しとけ的な行動を強力な中央集権で克服しようと思ってしまうことは、無理もありません。例えば今なら、なんでEUと米国はウクライナを守ってロシアに攻め込まないのかとか、パレスティナ紛争は米国がイスラエルからスエズ運河まで占領して抑え込んでから調停すればいいだろうとか、なんであんなことになってるのにミャンマーを軍事占領して再建しないとか、そういう話でしょう。あるいはプーチン逮捕とか喚いているような話です。それができる状況を作ろうというのが、主権と中央集権絶対主義国家の正当化の動機です。個人的にはコンクリートかアクリルで固めて棺桶っぽいケースに入れて飾ってコモンウェルスでございと言っているように見えるわけですが。
ともあれ、民主主義論を含めた近代政治学はこういう欲望を本能として持っています。肯定するにせよ拒否するにせよ、日本国憲法を含めた国家の論理がそういうものである - それでたとえば領土を返せ的な間抜けな外交交渉が派生的に発生する - ことは、この本から読み取ることができます。
ちなみにこの衝動はマルクス主義系の共産主義者すら共有しており、まあ、フランス革命期の集産主義的無政府主義者あたりの多くもこの衝動を共有するのですが、彼らの言う国家の廃止とは、労働者による世界政府の樹立です。1970年代のコングロマリットの破綻や1980年代の日本企業の個別規模論なんかを知っている側としては、もたないんじゃないのとしか思えないですけど。
ちなみにカントの提案している世界連邦構想は、本書によると領土紛争を含む外交を諸国家が世界連邦に移譲するものであるようです。少なくとも世界連邦の政府が崩壊しない限りは、その移譲の契約を撤回することはできません。そのようなことは、個人が国家の解体転覆を発想するのと同じく究極の罪です。少なくとも1920年ごろまでは有力で、1940年代にそれを掬い取ろうという努力がなされた世界連邦の発想ですが、とりあえず国際連合はずっこけました。まあ、この後仕立て直すなりの形で拘束的な世界連合ができるのかもしれませんが、個人的にはそれはローマ帝国のような運命をたどるだろうと思います。
ちなみにネットにもこの欲望はあります。1940年代生まれの若者たちは国家と既成社会に絶望しましたが、個人が連合する世界の家を夢想しました。だからこそ、検索エンジンにしろアプリ供給プラットフォームにしろユニバーサルでないといけないのです。もっともその実現の手段は、個人的な卓越と連合ですけどね。
ちなみに個人的には、日本語としての民主制(ギリシャ語デモクラティアではない)とは全ての人がそれぞれに拒否権を持つ政治体制と定義できると思っています。近代政治ですら法律は他の判断に優越する(法律で禁止されていることは相当アクロバティックなことをしないとできない)ことになっているわけですから、このような制度の下である個人がvetoと言うことは法律です。つまりひっくり返すには立法を動かす必要があるわけですが、おそらくそこでvetoと言った人は立法の過程でもvetoと言うでしょう。定義によりvetoを禁ずることは民主制の正義に反しますから、民主制の枠内では行うことができません。もっともこれは、国家が何もできなくなることと同義でもあるのですが。

■2023年10月18日(水)  報道離れというより既成メディア離れな気はしないでもない
「報道離れ」が増えているそうな
「一般に流布している定説(?)では、戦争は人々の関心を引き付けるという点ではニュースの中でも横綱格であったはずだ。」
いやまあ、ここで大東亜戦争の話を引っ張り出すのはそちらは開戦序盤の自国の戦争という点で違うと思います。とはいえ第一次の湾岸戦争の際にはキラーコンテンツの一種でしたし、一向にらちがあかずプロパガンダだけ流れている状況とはいえ無関心ということは考えにくいという点は同感です。またメディアの多様化と情報の氾濫が調査の結果指摘されているような状況を作り出すのに影響しているという指摘も同感です。
ただ、調査の内容が見えませんが、この調査が典型的な報道への接触を前提にしたものだとすると、典型的な報道、これは報道機関による事実報道も含みますが、これをプロパガンダとして敬遠する傾向が出ている可能性は指摘できると思います。付言すると、これはネットなど出てくる前の1960年代からの傾向であり、既成メディア、マスメディアは今日プロパガンダ機関とみなされ報道扱いされる情報のソースとしては敬遠される傾向があります。どのみち偏向して加工されているなら、昔なら個人的なニュースソースや噂、今ならSNSやブログで十分というわけです。まあ、うんざりする面はあって、正直個人的にもゼレンスキーやプーチンのアジテーションや各国首脳のどこかおざなりなコメントや手元の問題に引き付けたアジテーション、そして社会正義だの保安だの人道だのと分裂した視点からそれぞれに喚きたてるアピールはとっくに飽きていますが、状況と見通しは知りたいでしょうし、それについては既成メディアとSNSで流れるコメントは同レベルでしょう。BBCであれば政治的偏向は避けられる傾向がありますが、治安と人道は別です。被害状況を報じる分にはセンセーショナルにやって構わないとされていると思います。これは、ハマスを潰せとかイスラエルの国家テロを許すなとかいうのと同工異曲でしょう。その手のアジテーションにうんざりするのは、ベトナム戦争報道で起きていることです。
「知ることはすべての始まりではあるが、知る手段が進歩し、多様化するほどには、それを活用する知恵は進化しないのがなんとももどかしい。」というのは理解できます。未だに圧倒的な力で抑えつける以上の方策、住居を追われてその悲哀を語る以上の対応を人類は知りません。その枠組みの中で考えれば、ハマスの暴発もイスラエルの反撃もリーズナブルです。イスラエルをパレスティナから排除したいのにそれはほぼ不可能、現状の安定すら悲観的となれば過激な手段に訴えたくもなるでしょうし、隣にいきなり近隣の人を拉致して拘束しロケット弾を撃ち込んでくるようなテロリストがいると思えば住人が抹殺してしまえと思うのも当たり前、その統治者が三光作戦を考えるのだって理解できます。むしろ個人的には戦地に住んでいたい、住む場所を追われるのは嫌だという心境の方が理解できず、被害はともかく適切な補償を受けて移住すればいいだけだとは思うし、そもそもエルサレムに帰れ運動からして理解の外なのですが、後者はまあ、居住地で異人扱いされて何かというと追われるような状況だと安住の地を求める心境は理解できなくもありません。その先をわざわざ他人が住んで利用している土地に決めるのはどうかとは思いますけど。それで現地人と商売しつつ乗っ取るくらいならともかく植民地主義勢力の後援を受けて現地人を排除してしまうわけですから、形式としてはまっとうに市民として土地を買う華僑よりもよほど悪質、比べるなら現地領主層を買収威圧して勝手に治外法権の居住地を設定し好き勝手をやった欧米列強とその眷属並みです。アラブ系がパレスティナを制圧したのだって千年以上前でしょう。それを国土回収などと言い張ることこそ、14世紀あたりのピレネー周辺のキリスト教諸侯と同程度に野蛮です。もっとも未だに北方四島返せなどとシュプレヒコールを上げている日本人も他人のことは言えたものではありませんが。

■2023年10月16日(月)  商業出版は公然とした流通ですがね
エロは隠れて見ればいい マンガ家・山本直樹の「表現の自由」の戦い
プライベートに閉じこもる形での表現、あるいは公的視線をシャットアウトする形での表現なら、隠れて見ればいいと言っていいと思います。問題は、それがアゴラを介して流通することの妥当性です。表現の自由と言う場合、基本的にそれを公的場に出すことが前提されています。amazon.co.jpを含む本屋の店先であろうが街頭の掲示スペースであろうが同じことです。当然商業出版は頭から尻尾まで公的な流通です。そこにエロを出していいのかというのが、表現の自由におけるエロの扱いの本質だと思います。なお、自分はエロを描くのが好きだという公言それ自体はこの場合においてエロとして規制されるべきではありません。表現されたエロが公的な場に出現すること、表現されたエロを公的な場に出現させることが問題なのです。その意味で、商業作家としての山本直樹氏は自身の言を裏切り表現の自由を乱用していると指摘せざるを得ません。買い手を探してくるという出版社に作品を渡すことは公的な場にエロを解き放つことであり、隠すこととは対極の行為です。顔見知りに手渡しでというのが隠すことを可能にする前提であり、そこからどこまでの類推敷衍を許すかが問題になりますが、例え顔見知りの編集者に手渡しであれ商業出版に乗ることを前提とした場合は隠すことにはなりません。
なお、お金を取ることが問題なのではありません。不特定多数に頒布することが問題なのです。その意味で同人誌即売会にしろ同人誌取り扱い書店にしろ作者がコントロールできない形で作品を頒布する場であるという意味でプライベートな場ではあり得ません。いやまあ、同人誌即売会で顔に見覚えがないからあんたには売らないと言って通るのかどうかは寡聞にして知りませんし、流通としての立ち位置から言ってなんとなく通りそうな気はしますけれども、参加者の相当部分が誰であってもお金さえ出せば渡すという前提で参加していると思われる以上、パブリックマーケット(マーケットというのは本質的にパブリックなものであり、この表現は問題があるのですが、交換を行う場を最近は須らくマーケットと表現するようなんですよね)と判断するべきでしょう。
もちろん表現の自由には、公の場において表現にタブーがあってはならないと解することもできます。というより、表現の自由が本来公的な場での政治的主張に関連して主張されたことを考えれば、こちらの解釈をすることになります。とはいえ国王や第一執政ならともかくなんで一市民が広場に掲示されたエロ表現を見て不快になる羽目になるのかというのは配慮があってしかるべきですし、それは公的に主張するべきないようなのか、その公的主張はエロという形でないと表現できないものなのかということはやはり問われることになるのではないかと思います。

■2023年10月16日(月)  20世紀以降の官僚国家の病理
ちょっと古い本ですが、内容は古くなっていません、情けないことに。この内容が古びてしまう、歴史的なものになってしまうのが一番いいんですけどね。

来るべき民主主義 國分功一郎

「はじめに」にサマリーがあるという理工系には読みやすい形式です。
テーマとしては官僚制の扱いということになるかと思います。最初に近代民主主義の欠陥として述べられていますが、そもそも近代民主主義の構築が進められていた時期には官僚制が未発達で(ですから、学校の歴史で王様があれをやったなどと書かれていることをあてにしてはいけません。戦争くらいの大雑把なことでない限り全く不徹底です)、主権を持つ国王に対し立法権をもって議会が対峙し制約するというモデルです。このため19世紀にはあっさり破綻し、裁判所の方が民主主義の中心になった感があります。これはこれで限界がありますが、個別事件に細かいところまで踏み込み、判事も法律の専門知識があるため、ミクロスコピックな対応には有効です。判決には拘束力があるので、ここでこうと決められた場合官僚組織も無視はできません。また判事はそれなりの効果を持つように判決を決めるので、官僚組織としても議会や市民団体の訳の分からないけど穴だらけな指示や希望よりは対応が楽です。一方マクロスコピックな、つまり堅牢な枠をはめて官僚制をコントロールする部分については、少なくとも英国議会と米国連邦議会は無能とまでは言えません。ただしそれはこの二つの議会特有の性質で、他の議会は実質的に選挙の結果を反映して筆頭執政を決めるだけの存在になっています。他の決定は全て筆頭執政 - 通常は首相と呼ばれる - が主宰する内閣が決めていますし、その内閣も官僚組織相手にタフな交渉を強いられます。もっとも筆頭執政や内閣、そしてその選出母体である議会がさぼると官僚組織側も困るので、花を持たせてくれます(妨害する少数派には嫌がらせをします)。もっともそのせいで、霞が関のブラック労働が問題になったりもしているのですが。
昔自民党政治がそれなりに民主的?に働いていたのはこのあたりもあって、順位の変動はあっても議員の交代は少なかったために議員が官僚や内閣、党中枢と交渉するカードを持っていました。つまり、この法案に賛成して欲しければこれを盛り込めといった交渉を、地元の事業単位ですることができたのです。ちなみに今でもアメリカの議員はこの交渉をしています。行政府には予算法案も含めて提案権がありませんので、官僚の提案をベースに自分の政策を加味して大統領サイドがまとめた予算教書でも、議会は聞くだけで構いません。与党院内総務を中心に提案する予算法案を取りまとめ、その過程で各議員の要望が反映されて生きますし、党議拘束さえなければ野党の議員とも相談します。ですから超党派で道路建設などの法案が、かなり細かい事業プランを含めて出てきたりします。まあ、調整に失敗するとさっぱり予算法案が提出されず、あるいは行政府側の想定通りにならず、政府(官僚部門)閉鎖になるのですが。ちなみにアメリカ合衆国は憲法で陸軍予算は二年分以上を決められないことになっていますので、二年分を使い果たした状態で議会が麻痺すると陸軍は休業することになってしまいます。
一方で、日本の国会や地方議会の慣習としては、法案で事業の詳細までは決めないということになっています。これは行政側が議会に掣肘されることを防ぐ意味合いがあります。もちろん権限としては議員側で徹底的に調べてプランを練ってここにこんな穴を掘るレベルで法案や条例案を出してもかまわないのですが、それよりは担当閣僚や首長と話し合って行政部提出の予算として事業を組み込み、議会では細かい事業まで踏み込まない方が都合が良かったのでしょう。国会の予算審議でも、議員が細かい事業について質問するとルール違反だと内閣や与党から苦情が出たりします。もちろん予算案には書かれませんし、こういう事業があるのかないのかと訊いても答えが出てくるのかどうか。予算案としても細かいことは書かない慣習ですので、そういう修正案を出しても内閣が抵抗し、与党の反対で潰されることになります。もちろん書いていないものを消しようもありません。
一方で、確かに行政は広範な裁量を行使しているのですが、そしてそれは行政法学や政治哲学の上で問題となっているのですが、そこに直接に市民を参画させることが妥当かどうかは議論を要すると思います。近代政治哲学の要請はまずもって行政の拘束にあります。王の行使する広範な主権をルールベースに抑え込み、そのルールを決める権能も議会に確保するというのが、少なくともジョン・ロックあたりの発想です。行政の裁量を仕組み的に狭め、政府を(立法や司法を含めて)外交と強制執行を除いて無力化するという方向は今後も追及されてしかるべきですし、そうなるような法慣習、慣例の確立が望まれます。
問題は、20世紀以降行政官僚組織が何かをする、社会的な事業を実施する主体として肥大化したことです。これは主権国家と都市的生活の確立がそれを支える効率的な諸事業の立案実施組織を要請したためで、企業官僚制と合わせて一種の啓蒙的有司専制が(例えば公開株式会社を含む意味での)公的事業の主体として社会生活の全体を覆いつつ支持するに至っています。例えば社会主義もレーニン以降は確実にこの形がモデルであり、非マルクス系の社会主義政治思想(ドイツの統制経済制度など)もこうした官僚的事業組織をいかに公的な統制の下に置き、資本家の恣意を離れた効率的な運用をするかをテーマにしています。20世紀後半以降の経営者支配を前提としたプロ経営者論、事業管理論もまたこの系譜と言えます。もっとも、1970年代あたりに色々な意味で行き詰まって新自由主義に走るわけですが。1980年代からのNGOなども、官僚組織的統制をコンプライアンスに置き換えた上で参加主体や事業主体の自立性、即応性、応答性を確保する方向性でしょう。その上で事業主体と受益者のコミュニケーションという回路が成立し、少なくとも行政官僚組織の現場部門がそうした自律的事業主体の一つという立場に収まった(現場部門は行政官僚組織に置かない方がいいという主張もある)というのが、おおむね21世紀初めの状況ではないかと思います。いわゆる分権や行政組織の軽量化(主として現業部門の民営化や公益法人としての切り離しのような例)も、こうしたベクトル「も」あると思います(「も」というのはそれだけではないしむしろそれが従になっているからですが)。
そして判断に決定としての権威を与える仕組みとしての議会(まあ、住民投票や住民総会でもいいかもしれませんが、多分まだ議会の方がコストパフォーマンスがいいのではないかと思います)という位置付けの重要性は論じられている通りだと思います。もちろん議会には、「お墨付き」を与えるにあたって疑念を問いただし、晴らすための説明を求める資格があります。一定の手続を経て議会に持ち込まれた案件、しかも手続的に民意としての賛同を伴っている議案を安易に否決することは慎むべきでしょうが、そもそも議案の是非を判断するというのが議会の役割です。議会から見ると不備ということはあり得るわけですから差し戻しまでは認めるべきでしょう。もちろんこれは議会における議案の廃案と連動する必要はなく、今期に差し戻された議案をブラッシュアップして来期に再度上程してもいいわけです。手続全部やり直しでよいなら同じ議案であっても何度でも上程できるのが筋です。
そして、この手続での提案者が首長部門であるべきかどうかは議論の余地があるでしょう。もちろん行政として同意した案ではあるわけですが、そもそも議会は首長を監督管理する機関であり、一定の手続を経ていれば首長提案に賛同しなければならないなどというのはこの役割を疎かにする発想であるように思います。少なくとも有権者の二パーセントの賛同が明らかであれば住民による議案提出が、首長を介してであれできるわけですから、少なくともその手続によるか、集権的行政権を弱体化させることを重視するなら議員を介した議会への請願手続を取るべきであるように思います。もちろん議事運営規則でこれ以外の形の住民による議案提出を認めることも可能でしょう。提案をする資格としての権威は多様であるべきだと思います。
一方で、本書のテーマや著者の立ち位置上仕方ないとは思うのですが、そもそも政治が前提になっている嫌いはあります。政治の必要性を確信することと、政治を例えば店で売られているソーセージの中身のように訳の分からない信じ難いもの、できれば自分で、自ら用意し理解したもので作りたいし、それができないから仕方なく店で買うようなものと思うことは、矛盾しません。それこそ得体の知れなさを少しでも減らすために使った材料をソーセージの包装に明示させるように、必要悪としての政治であっても信頼をせめて担保する取り組みはするべきです。とはいえそれは必要悪なのであり、しないに越したことはないという立場は可能ですし、個人的にはそう、つまり政治が絡む領域を局限するべきと思います。もちろん立法はその領域に含まれなければなりません。全体に適用されるルールは民主的に決められるべきです。もっとも服従は前提とされてはなりません。たとえどれだけ民主的な共同体であろうとクラトスである以上圧政にほかならず、拒否するために共同体から離脱する(日本の市町村なら引っ越す)自由は保障されてしかるべきです。そしてそれと同時に、無暗に法を定めないということも目指されるべきで、デリダの言う法が少ないとはこの謂いもあると思います。法は、基本的にはres publicaとres privataの境界を有権者の合意として定め、そのうちres publicaの領域について整備されるべきものです。もちろんres privataに関して市民の間で紛争になった場合に主権的強制力によって担保された終局的判断を下す処理手続は、res publicaに属します。とはいえ、何もかもをres publicaに回収しようという発想が害悪であることは、現代において夕食を食べるかどうかを民主的に決めると言えばアンビリーバボーであることから理解ができると思います。そのように、民主主義ですらも謙抑的でなければなりません。ソーセージで言えば、店で売るソーセージについて規制することはres publicaでありうるでしょうが、自家消費するソーセージについて容喙することは、例え衛生上の理由があっても共同体の分を超えます。付言すれば、作ったソーセージを譲渡するのは別です。当事者間の合意があればいいというのもありですが、当事者間の合意に先立って公的に承認された規格を満たしていることを証明しなければ有償無償に関わらず譲渡してはならないという規制も、そして譲渡に際して一定の手続を踏むべきという規制も、また妥当です。極めて恣意的な線引きでしかありえませんが、線を納得できる形で引くこともまた政治です。ただし、個人的に作っちゃダメ、作ったものを食べちゃダメというのはむしろそっちがダメなのです。

■2023年10月13日(金)  イベント経済はいい加減にして欲しい
大通公園で聞くと「大義」浸透せず  2030年冬季五輪、招致断念
すばらしいことです。この機会にIOCから脱退し、JOCを解散して欲しいくらいです。誘致という愚行を行ったとはいえ、最終的に止める決断のできた札幌市幹部に敬意を表します。大阪府・大阪市は見習って欲しいところです。まあ、大阪万博は状況が決定前の札幌市とは違いますし、あくまでもやり抜くのも一つのやり方だとは思いますが、関係のないところまで巻き込まないで欲しいものです。基本的に大阪府・大阪市の責任でやっていただきたいですね。何をやったところで影響などせいぜい静岡と兵庫、京都までしか及ばないでしょう。
インフラ投資が必要ならまっとうに国交省や金融界とまとめるべきで、泡銭で調達しようなどという発想がそもそもリスキー、長期的な持続性を欠きます。他の都府県ならともかく、北海道と沖縄にはそのための中央部局まであります。社会資本整備などむしろやりやすい方のはずでしょう。もちろん政治都市札幌よりは函館や苫小牧の方が本州との結びつきで開発の拠点として望ましいという話はあるでしょうし、道東道北もろとも札幌まで沈没ということはあるかもしれませんが、それはつまり北海道には港以外の都市は不要ということで、経済的には合理的でしょう。

■2023年10月13日(金)  いわゆる「安心」は別に切っていい
もう削れるものはない… 「身を切る改革」という言葉で切られた安心
別に安心も含めて身を切る改革をすること自体はあっていいと思いますが、実際いくつか問題はあります。
栗田氏の言う「「誰でもできる」仕事ではなく、「この仕事を派遣に丸投げするのか?」と思うような仕事」をきちんと誰でもできる仕事に整理して出したり、そもそも仕事自体を無くしてしまうなりすれば、員数削減には何の問題もありません。正直それで一般職公務員がゼロになっても、それはそれでありでしょう。首長や大臣が仕事をちゃんと締めていれば問題ない状況を作れるはずです。理論的には、ですが。それができていない、仕事があり、それを整理できていないのに括り出すようなことにしてしまうから、それこそ擬装請負のような問題まで起きるわけです。あれだってちゃんと仕事を整理して自社で賄う必要がない部分を括り出していれば外注だろうと請負だろうと問題は起きないので、それを自社の組織に外部の組織を包み込んで柔軟性を確保するような発想をするから問題が起きるわけです。間の抜けた修道的組織論ばかり学んでいないで労働制度を定める法律やその趣旨を学べとしか言いようがありません。
もう一つ、身を切る改革と言いますが、そもそも政治家にしろ官僚組織にしろ身を切ってはいないわけです。定員を減らしたとは言っても残っている人には関係ありませんし、むしろ雑用を押し付けられる下っ端限定要員ができたようなものです。この種の階層構造の制度化がそもそも問題です。そして業務も減っておらず、むしろ業務としては増えているはずです。その結果派遣や委託で水膨れします。長期的な、あるいは制度的な人件費は減っているので経費節減になっているかもしれませんが、その代わり上述のような業務の劣化、地域の労働環境や所得や社会保障制度財務の劣化が発生しています。それで首長の持ち出しが増えたり公務員給与の実質的低下が起きたかというとそんなことはなく、身を切る部分が役所、組織の外部に集中しています。もちろん首長や公務員が気楽な職場という気はないですし、問題が起きている以上気苦労は多いわけですし、正規職であればまとまりのない多数の案件を整理されない形で抱え込むことになっているはずですから、対応するのはなかなか大変でしょう。コンピューターみたいに脈絡のないタスクをTSSで処理するのに、人間は向いていないのです。だからこそ脈絡の付く範囲で組織を小単位にまとめるようにしているわけで、聖徳太子ができたんだからできると言うなら、分単位で全部局の末端業務を切り替えて処理してみればいいでしょう。とはいえ、それが個人の能力の問題として処理され、少なくとも官僚組織としては慎重に進めるべき手順が無造作に簡易化され、手に余る部分は溢れ出してそのままに放置されている、下手をすると派遣や委託という形で外部に丸投げされている点では、身を切っているとは全く言えません。
組織維持と生活上の安心の確保は切り離さないといけないというのは1960年代に結論の出た問題で、むしろ適宜組織を解体し業務を廃止する、業務を整理して組織を分割する形で身を切っていかないといけない、その上で長期的な安心のためのセーフティーネットを確保しないといけないというのが反省点だったはずですが(まあ、労働者も首になると思えば大人しくなるだろうなどという主張もあったわけですが)、それが財務的なメリットのある組織のスリムダウンの問題に矮小化されてしまった点は大変問題ですし、それこそ今からでも遅くないので、逆戻りにしろ是正にしろ直さないと色々破綻が連鎖的に起こることにはなるでしょう。もっとも死ぬような問題ではないことも確かなので、いずれ落ち着くところに落ち着くとは思いますが。
とはいえ、タイトルをもじれば、まだまだ削るところはたくさんあります。削り代がもっとも残っているのはもちろん中央官庁ですが、予算規模はともかく人員規模は半減はできるでしょう。もちろんその分(というかこれまで減っていないことからしてそれ以上に)中央官庁の業務を減らすことが大前提ですし、その分はどこかが業務として吸収していくことになるでしょう。営利企業かもしれませんし、非営利法人や任意団体かもしれません。個人もあり得ます。消滅してしまう業務はあまりないでしょう。しかし、集権組織が行っているためにかえって問題になっている部分はあるので、そこは今扱っている組織としてしっかり削っていくべきです。

■2023年10月11日(水)  なんかフルメタルパニックの外伝にそんな話があったような
カツ丼付きの「取調室」でクライアント聴取 「本気でふざけて」悩み聞き出し解決
まあ、日本だとこうなるんですかね(かつ丼も含めて)。少なくともカトリック圏の場合は、教会の告解室というのもありな気はしますが。あれの場合、聴聞司祭の姿は見えません。
とはいえクライアントにコンサルタントがするから通じるのであって、社長が従業員に、銀行の融資担当者が顧客にやったらパワハラになりかねないと思います。もちろん仕事の悩みを究極の裁量のある上司に、あるいは資金繰りや事業運営の悩みを金主にゲロって楽になるのはありなのですが、いささか強制感があります。コンサルタント側はロールとして突っ込んだことを訊きやすい、追究しやすい雰囲気を作れるのでしょうが、そもそもそういうことを訊いて嬉しくない対応をするのが仕事の人がするのでは、取り調べにあたる警察官並みの威圧感と警戒感を招くでしょう。その点で取説の注意書きは必要ですし、実践するべきです。
面白とか遊び心というのはあらまほしきもので、やっていい状況と不味い状況はちゃんと区別する必要がありますが、目を引く、相手のスタンスを変える、自分を変に追い詰める状況や固定化した視点や観念を変えるといった効用はあると思います。ただし、上場株式会社の総会でやるのは止めた方がよいでしょう。茶化してはいけない場というのはあります。
その上で、正直そこまでして既存の業態に拘るべきなのかという気はします。従業員が集まらないなら従業員がいなくてもいい仕事をするのも少ない人数で回せる方法論を使うのも解ですし、今の事業で利益が上がらないならいっそ止めてしまうというのも解でしょう。経営者の責任は会社の枠組みの中で顧客や使用人とした契約を守ることにあり、なんとなくしたような約束まで気にしていたら、信用は維持できるかもしれませんがきりがありません。契約の維持の見通しが立つ間にきりをつけることの方が、経営者の責任だと思います。また、事業としては必要十分な継続性を前提にするべきでしょう。これをいい加減にすると無理をして続けた挙句に破綻することになりかねないので、無理なく続けられる範囲で続けるようにするべきです。例えば過大な人件費や員数は悪なのです。
ところでこれ、陣代高校の近所にできてアルバイト先としてもユーザーとしても少々人気のイメクラの一種がこんな感じじゃなかったでしょうか。

■2023年10月11日(水)  まあ、取り締まりとは別にロックインされるのは自己責任という話もありますが
他社へのデータ移行を妨害容疑 公取委、建設クラウドPFに立ち入り
いやまあ、規約はともかくできるというかやられても気合と根性と手間で何とかなるというか、まあ、こういうのを悪意のベンダーロックインと言いますね。
ところでセキュリティーを理由にマイナカード絡みで似たようなことが起きているような気がするのですが、というか政府系情報システム全般に、こういうことをして自動化を排除しようとしているように見受けられるのですが、正直何とかならないかなあとは思います。政府系という時点で公取の管轄外なのでそこは期待していませんが、そもそも自動化、効率化のための情報システム化なので、末端の自動化を阻害するような真似はしないで欲しいものです。それは自動化の導入コストを無暗に高くする(例えば政府系の審査機関で実費でやればいいセキュリティー審査を民間に投げる)ようなことも同じです。

■2023年10月11日(水)  知事って理由がないと事業所に「出勤」しないといけないんですかね
育休取った知事「えらいねと言われるうちは…」 経験踏まえ一句
まあ、収入の問題はあるでしょうし、高収入を得られる機会が都市部に多いことも事実でしょうが、そもそもなぜそんなに地方の生産性が低いのでしょうかね。労働者一人当たりの顧客人口が少ないとかそのわりに面積が広くて実質稼働時間が少ないとか顧客単価が少ないとかより大規模な単位を管理するポストが都市部に集中しているとかはあるでしょうが、都市部と同じことを同じようにやったら地方では儲からないと言うなら、そこで地域に即した方法を考え出して実践するのが商売のはずで、つまりは漫然と儲からない商売に甘んじているのが悪いとか、搾取する本社にぶら下がっているのが悪いとか、そういう話になるのではないでしょうか。それで共働きでないと暮らせない賃労働者が子供を作り育休を取るというのは、そもそも妥当な話なのでしょうか。むしろその地域で支えていける程度に人口を減らすべきなのではないでしょうか。もちろんそれで地域のインフラがそもそも維持できなるといった話はあるわけですが、むしろ手に余らない形でのインフラ維持を目指すべきですし、都市より現金支出を減らす方法もあるのではないでしょうか。少なくとも1990年代よりはよほどそういった方法は出てきているはずです。そこで都市の都合に合わせた方法論に乗って現金支出を高め現金収入を高める発想をしているから、生産性が上がらないような気がします。
もちろん子供を育てる以上そちらを優先するべきですし、それで男親が家庭に不在でいいとはとても思えません。育休という制度の利用にせよ(これは賃労働者固有の方法と言えます)子育てをしながらできる仕事をするにせよ、性別役割分担で核家族の女親が負担なり不利益なりを被るとか、男性が家庭から排除されるとかいうことはよろしくありません。育児を理由とした就労義務の解除は性別に関わらず認められてしかるべきです。
一方で、正直知事とか社長に育休って必要ですかね?もちろん育児に関わる事情で職務から離れることはあっていいわけですが、育児休暇というのは育児を理由にした追加の有給あるいはペナルティーを受けない無給の休暇ということで、仮に有給休暇や就業規則にある特別休暇や休業日以外の休暇取得が許されないというおかしな制度なのが日本であると仮定して(少なくとも法規としてはそんな話は見た覚えがないのですが)、少なくとも取締役や自治体首長というのはそんな制度であっても対象外のはずですし、必要かつ可能であればいくらでも休めるはずです。育休を取ることができる場合というのはその日の執務を代行者に任せられるということでしょうから、別に育休という形でなくてもよいはずです。また用もないのに出てきて執務室でゴルフクラブを磨いている取締役などというものがいれば、それは部下なり監査役なり取締役会なりがちゃんと仕事を申し付けるべきでしょう。取締役でない業務執行に関わる使用人というのは取締役を暇にするために雇われるのではなく、本来取締役がするべき業務を取締役だけではこなしきれないので分担するために雇われているのです。これは首長部局でも同じです。どうも官僚組織においてはこのあたりが分担という発想で倒錯するようですが、やることのない取締役が恒常的に出るなら一般従業員を減員してでも仕事を押し付けるべきなのです。その上で、取締役や知事や市長にもこのくらいの休みは必要でしょう、それは取締役会や議会出席のような義務的な業務を入れないという形で確保しましょう、その分の下っ端や代行職をつけましょうという話をするべきなので、知事がこの名目で休暇を取った、その名目での休暇取得目標の達成率が云々などという議論は極めて不可思議といわざるを得ません。

■2023年10月11日(水)  やりかたってものがあるでしょうが
ディープなネタで勝負、尼崎の地域誌が大ピンチ 公害和解金が底つく
ただの経営者、編集者の無頓着じゃないですか。もちろん売り上げで稼ぐ前提で売れない雑誌を作ることが間違ってはいるわけですが、そもそも売り上げをあてにしない発行の手段は広告料以外にもあるでしょう。それこそ懐具合の範囲内でやれば済むことですし、二十年もあったならその間に経営の方法を調整する機会はいくらでもあったはずです。それが資金が尽きたなどというのは、身の丈に合わないやり方を改めもせず独善的に発行をやってきたということで、そんなものは経営や事業というのはおこがましいというものでしょう。ディープなネタの前にgoing concernという言葉を噛みしめるべきですし、まずは同人誌の発行人の皆さんに教えを乞うべきです。

■2023年10月10日(火)  正直今時家だけ速くて容量無制限になったところであまり嬉しくない気がしますね
光ファイバー整備、国費34億円分の回線の利用低迷 会計検査院
そりゃまあ、事業者所有で整備したのなら利用が低迷することはあり得ると思います。ただ、事業者を指導してどうにかなるんでしょうかね。利用が低迷しているということは、事業者側が低リスクで調達した回線資産を利用者が望む形で提供していないということになると思います。例えばCATVの場合、ネット回線とコンテンツサービスをバンドルして売ろうとした場合、それならNTTと電話込みで契約すると断られてしまう可能性があります。とはいえ光ファイバー回線だけ売ってもCATV業者としては嬉しくないでしょう。また、モバイル回線で間に合っているのに家にだけ光ファイバーが来たところであまり嬉しくない気がします。もちろんただで使えるというなら使ってもみるでしょうが、わざわざお金を払って特に魅力的とも思えないオプショナルなサービスを利用しようとは思わないでしょう。
まあ、そのうち使われていくのではないかと思いますし、五年やそこらで焦る話ではないわけですが、もし何とかしたいなら、公的主体で回線を買い取り、当面、まあ向こう五年くらい、タダで地域の回線サービス事業者に貸し出してはいかがでしょうか。つまり1回線単位で卸として提供する形で、どこの通信事業者であれ加入者と契約してその回線を提供することができるわけです。コストゼロならオプションサービスとして扱いやすいでしょうし、束ねて無線基地局へのアクセス回線にも使えるのではないかと思います。一度効果を実感してしまえば使用料がかかったところで元に戻るのは難しいでしょう。有償化したところで需要ありと見て競合が出てくるならそれはそれでいいわけですし。

■2023年10月10日(火)  だれだ、全銀ネットがあるから日銀の決済システムは必要ないとか言ったやつは
全銀ネットで不具合、銀行間の一部取引止まる ゆうちょ銀でも不具合
自前にしろ委託にしろまた金融の粗相ですか。金融庁はNISAなど放り出してこっちの徹底的な検査を全ての銀行について行い、人員不足、設備の冗長化不足、過度の外部委託、運用経費の過度の節減について検証するべきではないでしょうか。もちろんコストは安いに越したことはないですが、だからと言って買い叩けばいい、不安定でいいなどということは絶対にありません。水太りを防ぐのも金融庁の仕事でしょうが、水太りして高コスト体質になったら顧客が離れるとか財務が破綻するとかして歯止めがかかるもので、一方で仕事に差し支えるほどの減量を防ぐ役こそ金融庁以外に果たす立場はないはずです。一銀行ならともかく全銀ネットは金融機関同士の送金のハブであるわけですし、必要なら日本銀行なりに統合しても、あるいは組織を冗長化してでも機能を維持すべきもののはずです。日銀に統合とはいかずとも、例えば株式会社化したうえで分割し、各銀行に複数の送金経路の確保を義務付ける程度のことはするべきです。

全銀ネット障害、11日午前も復旧せず 他行送金の受け付け短縮も
何をやってるんでしょうか。もしかしてやらかした結果銀行側にも問題が出て、全銀ネット側が復旧しても戻っていないのでしょうか。それならこういう発表、報道ではないと思うのですが、コメントではないですけれども、通信機器に問題の出た機材の交換機材を繋ぎ直せばいいものですよね?普通はそうできるように設計し、そうできるように作業の計画を立てるものです。それができていないというのは、システム設計なり作業計画なりに問題があったということです。もちろん復旧が第一ですが、復旧後徹底的な原因究明と再発防止策が取られないといけませんし、そこには問題発生時に短時間で機能を回復する方策が含まれていないといけません。そして全銀ネットは現状それに失敗しているわけですから、再発防止策は相当厳しい外部レビューと検証を必要とするはずです。正直全銀ネットを経営している諸銀行(全銀ネットは全銀協の子会社であり、その全銀協は日本の銀行の相当数から構成されるので、むしろ全銀協加盟行が全銀協を通して全銀ネットの健全な経営に責任を負っている)も含めて、経営責任を追及されて知るべき失態です。

NTTデータ、全銀ネットの障害を謝罪 プログラム不具合の可能性
やっぱりお前か、NTTデータ。それこそ民営化からこの方殿様商売として評判は良くないのですが、近年殊にポカが目立ちます。もともと銀行系ネットワークを扱った電電公社のデータ通信事業本部が起源で、その意味では通信やミッションクリティカルシステムを扱う責任をよく知っているはずの企業ではあるのですが、親会社の民営化と電話交換ネットワークからIPネットワークへの乗り換えの関係で頭のねじが飛びましたかね。SPoFを安易に扱わないというのは常識で、そこは専門家としてど素人共をサポートする責任があります。逆に言えばそれができるからこそ殿様商売でも頼りがいがあったわけですが、ド素人にいい加減な商品を売りつけて落としてしまうとなれば、安心できない商品を売ってくるベンダーとして相応の評価をすることになるのではないでしょうか。まあ、銀行にNTTデータを嫌うような根性はないと思いますが、できる顧客から順々にそっぽを向かれていくなんてことにならないといいですね。

■2023年10月09日(月)  その能力のない人に税金を納め社会に貢献したいと言われても迷惑です
元大使館職員のアフガン難民、日本で困窮 ウクライナと支援に差
苦境には同情しますし、改善されるべきとも思います。
「日本の負担になりたくない。税金を納め、社会に貢献したいんだ」
しかし、これは心得違いと思います。日本の負担になりたくないならまず難民認定を受けて日本に居住するというのが間違いで、日本にはアフガニスタン語を活用できる職や事業はさして多くありません。英語だけで済む職も少ないでしょう。日本国内での雇用による就労を目指すならまず希望の職に見合った十分な日本語能力の獲得を目指すべきであり、本来そのためにこそ生活保護で負担の少ない形で生活を安定させる必要があります。現在の生活保護制度がそのように使えるかは問題ではありますが、少なくとも生活保護制度の趣旨はそのようなもの(最終的な就労による生活基盤の確保に向けた過渡的な生活支援)であり、支障が出るとすればそれはむしろ運用によるものでしょう。厚労省と現場の対応で何とでもなります。もちろん難民特有の問題があることは確かで、それについての支援は拡充されるべきですが、給付自体を避けるような発想はナンセンスです。それこそいつまでも弁当工場の賃労働者では、むしろ日本の負担になってしまいます。最低賃金に近い時給だと思いますが、そもそもそれだけの生産性を上げられているでしょうか。人員整理による解雇が近い将来に高い確率で見通せる就労と言わなければなりません。そんな質の悪い就労をされる方が困るのです。まだしも生活保護を受けた上で日本語教室に通いつつ図書館から日本語の医学書を借りて読み漁る方がましな行動でしょう。そこは、そもそも日本語という問題がある以上自身の身に付けた専門能力(一定のコミュニケーションを前提とする医療という分野での専門能力)を発揮し難いという状況と対峙するべきですし、支援が必要であるにせよ自身がその状況と対峙する精神的強さを持てない限りはどうにもなりません。形式的・実体的にキャリアが途切れてしまう点にしても、どのみち日本語ができない以上日本で医療職に従事することは難しいわけですから、研修という形で支援を受けざるを得ません。学識次第では英語で済ませていいと招へいする大学医学部もあるのかもしれませんが、そこら中に転がっているケースでもないでしょう。
小学校や中学校という社会的な仕組みの中で身に付けているはずの日本語能力を欠いているという点で、難民や変則的な移住者に困難があり、支援が必要であることは当然です。その困難にある点について難民なりの当事者としての理解はしてもらう必要がある、つまり状況として自身が一種の障害者であることを認識してもらう必要がありますし、日本政府としても、定住を促進しないにしても、そもそも難民については帰国が難しいわけですから、十分な生活補助をして就労から隔離するか、十分な就労支援をして定住させるかしかありません。正直避難する事情がなくなったときの帰国において職業能力や当座の生活のための資産を確保するためにも、就労が望ましいと言えますし、それが日本国内の就労機会のバランスの点で過度に難民や変則的移住者に提供されることが望ましくない場合があるにしても、それは難民の生存を害しない形で、かつ可能な限り難民の職業能力を確保する形で、納得をもって行われるべきだろうと思います。

■2023年10月07日(土)  こういうのは子供を取り上げるべきではないでしょうか
子どもの「短時間の留守番」も虐待に 埼玉の条例改正案、委員会可決
虐待防止条例改正案は「むちゃくちゃ」 PTA協議会が反対署名活動
Home alone禁止なんてむしろグローバルスタンダードだと思いますが。酷い話もあったものです。
まあ、即時施行する条件がないというのはわからないでもありませんし、埼玉県だと夫婦そろって都内の企業に通勤している人も多いでしょうから、県が勤め先との調整に乗り出しても、調整は結構大変でしょう。とはいえ公布後半年程度あれば代理の管理者を確保できないというものでもないでしょうし、当然ながら保護者が適切な措置を講じずに子供だけ家に置いておく、子供から目を離すというのは他に何がなくても虐待です。もちろんネットカメラで見守りなんてのも論外で、せめて管理者がいるところに集めておかないといけませんし、それを近隣や知り合いで保育組合を組織することもなく行政頼みというのは、個人的には親の資格なしと言うしかありません。

短時間の留守番も虐待? 埼玉の条例改正案、虐待の専門家が見ると
「実態ともずれています。」
その実態が虐待につながっているという認識の条例ではないかと思いますし、個人的にもその点を否定できません。長期的には実態の方がこの条例に合わせたものに変化していくべきだと思いますし、それは山縣教授の指摘する行政の対応、そして勤務先の対応までも含む、当然保護者については両親共に子供を置き去りにするような行為を認めないという趣旨と思います。先に指摘したように、この条例は当然にそれを可能とするように行政部の対応や関連する制度の整備を求めるものと言うべきでしょう。
拘束の強い一定の公職への進出が難しくなる点は確かに懸念されますが、「子育て中の人が議員になりづらくなる」というのはそれこそ籤引きで決めて生活に不安のある人が籤引きへの参加権を放棄するなり当たった時の適用除外を求めるなりということで、現在のような投票による制度であれば、例えば議員は一定数の支持者に支えられています。子育て中だというならそうした支持者に援助を仰ぐことも可能でしょう。そうであればこそ、議員として議会の活動を子育てと両立しうる形にする主張に根拠ができるというものだと思います。
むしろこの種の条例で懸念するべきことは、夫婦の間での分業を促進しかねないことです。虐待を起こさない責任は両親が共に負うものであり、片親に任せていいようなものではありません。その点では、古典的な女親に子供を任せて男親が実質的に家庭に不在になるとか対外的、拘束的役割に従事するような役割分担モデルは条例に書き込んででも否定するべきものであり、夫婦揃って子供がまだ小学校二年生だから午後二時には退勤することを日常的に励行してしかるべきです。もちろん外出するような家事だってあるわけですから、日替わりで片方だけが早く帰宅するようなわけにはなかなかいかないでしょう。そしてその結果世帯所得の減少が起こるとすれば、補助によってそれを行うことが行政の役割の一つでしょう。子供にとって両親の保護が不適切と判断される場合を除き、子供には両親による保護が保障されるべきです。この保障を超える親の自己実現の権利など存在しません。それがしたければ子供を作らなければよい、あるいは自己資金をもって子守りを雇い入れればよいだけなのですから。

放課後の居場所は? 埼玉の虐待禁止条例改正案「子どもも息苦しい」
そしてこの森田教授のような発想は論外です。保護は言うまでもなく監視・拘束ではありません。もし保護者による保護が過度の監視・拘束になり、「子供も息苦しい」事態を招くのであれば、それはむしろ保護者のやり方が悪いと言うべきです。そもそも一緒にいて息苦しくなるような親であれば、保護者として不適格であることを疑うべきであり、それは居場所の確保の議論とは全く異なります。
「子供を家に一人にしてはならない」というのは基本的に子供と親を家に閉じ込める趣旨と解するべきではなく、「親・保護者が子供の届かないところに居てはいけない」趣旨と解するべきです。勤務拘束中の親は勤務先の了解なく子供の求めに応じることができません。これは一人で買い物や地域の集会に出ている親でも同じでしょう。学校、養護施設などに保護を委託した場合(自宅内で適切な大人に保護を委託する場合も含みます)を除き、親は子供が手に負えない事態に直面した時に対応する義務があります。また子供に危険が及んだ場合に対応する責任もあるでしょう。こうした義務責任への対応を十全に確保することが相対的に保護者の義務であり、正直条例はそれを求めているだけに見えます。発達段階論的理解にしても、むしろ周囲に子供の発達段階に応じた扱いを求めるということであり、親が子供を放置して外出することは発達段階に応じた扱いに含まれるとは思えません。

「留守番も虐待」条例改正案に波紋 「憲法の趣旨に逆行」の指摘も
「留守番も虐待」条例改正案、提出は自民埼玉県議団 団長の発言詳報
団長発言詳報の記事に付けた氏岡氏のコメントはともかくとして(監視などという表現自体無茶苦茶な発想です)、また現行制度下の議論しか頭にない有識者・専門家の意見もさておいて、パターナリスティックな発想が仄見えること、そして自民県議団がどれだけ保護者を支援する制度の整備や行政の対応を確保できるのかに疑問があるにしろ、むしろ保護者の現状を前提とした主張の方に問題があります。子供は保護の下にあるべきであり、その中で適切な発達なり抑圧の排除なりが図られるべきです。むしろ日本の現行の親子関係こそが、抑圧的かつ放任主義で子供の発達を削ぐと言うべきでしょう。正直時節報じられる虐待事案も、その反映だろうと思います。いい子にしてないと親が困るだのしつけがどうだのいうのは、そちらがむしろ抑圧ですし、そうした抑圧によって子供を制御することを是認する社会の常識も虐待に結びつくものです。もちろん子供の行動を制約するような育児はナンセンスですが、そのような育児を行わずに子供の保護を全うするのが保護者の責任です。もちろん自分でできないなら制度的な援助を受けて良いでしょうし、学校を含めて援助制度を十分に整備することが国会や自治体議会の責務であり、その制度をちゃんと運用するのが行政の責任です。不備があるならば、保護者はこれでは自分が保護者としての責任を果たせないと行政なり公論なりに訴えるべきでしょう。もちろんそれで保護者の収入が絶えることはあるでしょうが、子供の保護を犠牲にして稼得を確保するなどとんでもない話であり、むしろ保護を全うできる仕組みを整えるだけの稼得を確保するか、稼得を諦め必要なら公的扶助の下で子供の保護養育に努めるべきです - まあ、個人的には働かないでも子供を養えるだけの資産のない夫婦などが子供を作ることは望ましくないと思いますが。もちろんそこで、あの子の親御さん、働いてないんだってなどと言う周囲は、ヘイトクライムに該当すると言うべきでしょう。
少なくとも子供が遊びに出るのに同行を求められて忙しいから駄目などと言う親は親失格であり、子供だけで遊びに行かせるのは保護責任者遺棄です。もちろん、そこで子供にウザがられるような親は、自身が親として適切な態度を示しているかを反省するべきでしょう。同行したうえで、子供が、子供たちがのびのびと遊べるように配慮し振る舞うべきです。
「子供だけで行動」はだめ、絶対、です。

「留守番も虐待」条例改正案、取り下げへ 自民党埼玉県議団が表明
残念ではありますが、実施して問題続発よりはいいでしょう。ただ趣旨としてはおかしくないと思うので、実施を確保できるだけの環境の整備を含めて、提案としての制度を上げて制定にこぎつけて欲しいものです。もちろん、条例よりは刑法の保護責任者遺棄罪の整備が望ましいことは言うまでもありません。
そもそも日本語の留守番という言葉は使い方が間違っていて、留守の番をするから留守番なはずです。番もできない子供だけ残していくようなのは留守番とは言いません。まだしも吠えて噛みつく犬でも置いていく方がましでしょう。もちろん外出時の施錠の徹底が望ましいことは言うまでもありません。それとも世の子供は、怪しげな大人が侵入してきたときに迎撃して番役を全うできるとでも言うのでしょうか。

子どもの放置禁止条例案、署名活動の親ら「子育て家庭の感覚と乖離」
もちろん乖離はしているわけですし、当事者からの実情の聞き取りも全体としてあるべき枠組みを成立させるための構想も不十分ではあったわけですが、「子どもたちが安心して遊べる場所が少ない」といういわゆる当事者側の感覚の方がおかしいのです。子供たちが安心して遊べる場所など家や、学校のようなその手の施設以外にはありません。家の前の道路や公衆向けの公開施設で手軽に安心して遊べて欲しいなどという発想の方が間違っています。子供から目を離すときは代わりに目を配ってくれる人に明示的に引き渡すべきですし、もちろんそこで引き渡すという判断をしたこと自体は親の責任です。なにも子供と一緒に煮詰まる必要はありませんが、「なんとなく」な子育てだけは絶対に止めるべきです。

「留守番も虐待」条例案撤回、埼玉県議会で正式決定 傍聴席からも声
まあ、状況を整えて再提出を期していただければと思います。
ところで、「傍聴席からは「田村やめろ」「責任取れ」などの声が飛んだ。」というのは全く品のない話で、正直議長は傍聴席の発言者を特定して退出を命じるべきだったと思います。住民集会で正規の有権者から出るヤジならまだしも、議会審議にしろ審理にしろ傍聴というのは聞いている立場です。演芸の観客じゃないのですから黙っているべきです。もちろん黙って聞いていて、審議や審理が終わった後、議場や法廷から出た後に、印象や感想をしゃべったり、SNSに書き込んだりするのは全く問題ありません。内心を表現するときの節度は守るべきでしょうが、傍聴だからといって特別なことはないわけです(傍聴中に記録を取ったりそのまま中継するのは別の問題です)。それこそ自民党県議団は恥曝しとか市民感覚の分からない県議は辞めろとか言っても書いてもかまわないでしょう。この件については私はそうは思わない、むしろ自民党県議団の提案こそ適切な内容だったとは思いますが、反発を呼んで撤回に追い込まれる時点で不適切な進め方だったわけですし、自分の子供よりも仕事や外出が大事だけれど子供のいる家庭が欲しい人にとっては問題のある提案だったでしょう。子供のいる家庭の実情がどうこうというなら、そもそもあの程度の話で問題が出るような状況で家庭や子供を作ることの方が問題だと思いますけどね。

子どもが遊ぶ権利、軽視されてない? 条例案撤回でも…識者の危惧
その権利を確保するのは他の誰でもない、保護者です。保護者の監督のないところで勝手に遊ぶ権利ではなく、子供が遊ぶ場合に保護者がちゃんと安全を確保するというのが筋の権利です。その意味で、問題の条例案とは何も矛盾しません。学校で約束していったんうちに帰ってきて、親同伴で集合すればいいのです。簡単なことでしょう。
その上で、保護者がそんな負担に耐えられないというなら、そこは改善するべき点です。つまり負担とかではなく当たり前に実行できるように環境を整えるべきです。この条例は必然的にそうした環境整備を要求するはずですし、少なくとも自民党埼玉県議団はその覚悟を持って条例案を提出したと決めつけます。想定外でしたと言うなら馬鹿でしょう。もちろん制定されていれば条例は条例ですので、まっとうに進めばそのための様々な施策を立案展開することになったはずです。埼玉県はおそらく日本でトップクラスのワークライフバランスの取れた県になったことでしょう。もちろん埼玉県民であるというだけで東京あたりの企業は雇用を躊躇することになったでしょうし、むしろ従業員のワークライフバランス確保に熱心な企業が埼玉に立地することになったかもしれません。わが社は埼玉スタンダードというわけです。その結果県民所得がどう動くかは推測が付きませんが、そうした高い基準を持つ企業は労働生産性が高いところが多いはずですから、中位クラスの時間当たり賃金が上昇することにはなったでしょう。一方で、貧乏暇なしの勤め人は住めない地域にもなるかもしれません。勤め先で、「あなた埼玉在住だって?子持ちの埼玉人は困るんだよねえ」なんて言われて、引っ越すことになるかもしれません。当人にはいい迷惑でしょうが、埼玉県民としてどうなるかはわかりません。住めない人が出ていって住んで嬉しい人が住めばそれでもいいわけですから。

「海外は留守番禁止」…実際は? 在カナダの識者「日本の方が監視」
むしろ原則禁止ということの方が大事だと思うのですが、もちろん子供をコントロールするのは結構難しいわけで、やむを得ない状況で一人にしてしまった場合やそれで事故が発生した場合は監督責任、保護過失責任については免責するべきでしょう。とはいえ、子供が学校から帰ってくる時間になっても出かけているというのは、例え稼ぎのためでもこの免責条件には該当しません。その時間に保護者がいないことがわかっているなら適切な保護責任者を依頼しておくというのがいわばグローバルスタンダードです。
こういう議論を公の場でするようになったことは良いことで、もちろんこれまでの社会的虐待行為を糾弾し反省することもあるでしょうし、本来あるべき姿を実現していくためのステップになるはずです。なるといいな。忘れるかもしれませんけど。
そして、もちろん監督や保護と監視は違います。安全を確保したうえで目を離すということはあっていいわけです。何をどうやったところで、そのように組み立てられた学校などの施設や保護者がいる自宅以外にそのような安全を確保できる場はないということを理解していないことが問題なのです。子供が公園で安全に遊べないのはおかしいと言いますが、それで公園を学校みたいにしてしまうのでしょうか。関係者以外立ち入り禁止です。馬鹿げていませんか?空き地で安全に遊べないのはおかしい、まあ、遊べるような空き地にしておくのは所有名義人の責任かもしれませんが、例え興味を持っても入れないようにしておくというのが責任の上限のはずです。もちろん、子供以外にもおかしな使い方をされないように適切な使い方で活用することが望ましいことは言うまでもありません。とはいえそれだって免責されるべき状況はあります。
もちろん子供なんて死んだって構わない、安全を過剰に確保する必要はないというなら危険を黙殺することに問題はありません。でもそうではないのですから、まず保護者が自分の子供の安全を確保することに意識的であるべきです。それで、子供だけでそのへんで遊んで来て大丈夫だと思うというならセキュリティーの感覚を疑いますが、まあ、それで問題が起きても主観的には自業自得、客観的には保護過失責任を問われるというだけのことです。そうは思わないなら、せめて安全を確保してくれる監督者を適宜確保することは当然でしょう。もちろんそこで、危ないからあれをやっちゃダメ、これをやっちゃダメと監視監督ししつけるのは子供の権利を侵害しています。危険に接触して怪我をしていいとは言いませんが、よほど緊急の事態を除き、気をそらす、そもそも危険なことが起きないようにするというような手段で対応するべきです。木登りを認めるなら丈夫な低木の下にマットでもしっかり敷いておくべきでしょう。

親に黙って家族の弁当取りに…埼玉条例案で考えた「にげてさがして」
これはおかしい議論です。現実として子供が親に黙って家を出てこざるを得ないような事態が生じている - この事態そのものは明らかに存在しますし、児童保護の観点から問題にもなっています - として、子供が保護なくそのあたりをうろつくことは望ましいことでしょうか。もちろん保護者は法律上保護を与える義務を負っているわけですが、それは当然に子供の利益のためであり、子供の利益を損ねるような扱いをした場合そもそもその義務を履行する前提が崩れるというのが通説のはずです。つまり子供が一人でうろついていて、その子供を保護したときに、子供がその事情として親の不適切な保護を申し立てた、あるいは示唆した場合、保護した人はそれを考慮して対応することになります。まあ、警察、児童相談所などの公的機関に子供を預けることになるでしょう。あるいは勝手にお使いに出てきたような状況ならそのお使いを達成するまで付き添うことが望ましいはずです(そこまで暇かどうかは問題ですけれども)。
重要なのは大人は子供を保護なしでうろつかせてはならないということであり、問題があるというならそれを損なわない形で解決するように工夫するべきです。そもそも勝手お使いであってもそのような状況に子供を追い込んだ保護者が責任を問われるべきことは当然でしょう。子供を家に放置して物を買いにでざるをえないような状態にしたら、それは虐待です。

親が24時間責任を持つべきか 否定しづらい「子どもの安全」の下で
24時間親が直接責任を持つなどという話ではないと思いますが。むしろ放任というか部分的ネグレクトを自律する健やかな発達などと勘違いしてきたことこそ問題でしょう。
保護者が子供の保護に責任を持つというのは当たり前のことで、これは24時間365日そうです。しかし、保護者は孤立しているのではありません。学校や保育施設といった公的機関や民間の預かり施設、チャイルドシッターや交流のある個人など、保護者に代わって保護を引き受ける主体はたくさんあります。大事なのは保護者が明示的に保護をその相手に引き渡すことです。学校に直接引き渡す(登校の付き添いだけでなくスクールバスへの引き渡しも)、迎えに行ってくれる人に委任状を渡し、学校にこの人が迎えに行くと連絡する、放課後はここで過ごすようにと子供と合意し、動けるようになったら引き取りに行く、子供が遊びに出るときは引率する人にちゃんと引き渡す、そんなことです。それすらできない、子供単独で行動させないわけにいかないというのは、無責任と言う以外ないと思います。

「留守番は虐待」条例案で露呈した男性政治の貧困 三浦まりさん
「安全を重視するあまり、大人が囲っておけば安全だという条例案のような発想は、子どもたちが自由な環境の中で健全な人間関係を学び、遊びながら身体能力を伸ばしていく子どもの成長という点から、あまりにバランスを欠いたものだと思います」
これも、「自由な環境」というものが自然に存在すると思い込んでいる点で勘違いしています。そういう「自由な環境」は保護者が積極的に作り出して確保していかないといけません。子供に「遊びに行っておいで」は違うのです。囲っておけば安全と言っているかどうかはともかく、まず状況を管理しないと安全にしろ健全な人間関係にしろ確保できません。そこらで遊ばせておけば健全な人間関係を学び身体能力を伸ばせるなどという意見の方があまりにもバランスを欠いています。
もちろん、「孤育て」はまずいわけです。子育てを他から切り離して親にだけ背負わせるような発想は、客観的にそれに耐える条件を持った人が自ら背負い込むのでなければ無茶な話です。しかし、親というのは大人です。自ら「孤育て」にならないように立ち回る、自身を追い詰めてしまわないように適切な助力を自発的に確保できる、それが当然であり、できないなら正直親になっては欲しくないですし、現に親だというなら介入が必要でしょう。もちろん子育てのリアリティーなるものがそのような大人像から乖離しているなら、むしろそのリアリティーを改変することこそ必要でしょう。その意味で、留守番は虐待という表現自体は全く正当です。

「子どもを守る」とは 80歳保育園長が語る議会が本当にすべきこと
ここまでくるともはや、編集部か取材チームが作り出しているバイアスといってよいでしょう。日本的「発達科学」の暗黒面が見事に出ています。唖然としてしまう発達科学側の感性もおかしければ、まあ、条例案作成に際してそういういわゆる専門家側の発想を無視した県議員団も粗忽だったのでしょう。
少なくとも自然主義的な社会保育論が破綻していることは明白で、政府主体の社会保育論も破綻しており、とりあえず保護者を中心にして立て直すしかない、それには保護者が子弟の安全にちゃんと責任を持つようにするべきだという発想はおかしくありませんし、むしろそこを基盤に、そうなれるよう使用者や行政機関と保護者が交渉できるようにサポートしていこうという方向性が望ましいはずです。
まあ、シリーズをどう落とすのか、まさかこの方向性だけで終わったらバランスを欠いたバッシング(しかも欺瞞された生活実感ベースの勘違いからのもの)だと思うのですが、自民党埼玉県議団側の子育て感、保護論、発達観をどう持ってくるかが興味深いです。

早朝の小学校に居場所が続々 社会学者「父も含め、自由のシェアを」
小学校という組織に頼ることには感心しませんが(それで職員や教員を動員することになりかねませんから)、小学校の敷地や校舎という施設を使うのは合理的な対策であり得るでしょう。もっともそのためには、20世紀の第三から第四四半期に定着した固定観念を打破しないといけないと思いますが。つまり、学校組織と学校設備の結び付きです。とりあえず校長や教頭という管理職と教員の対峙を前提とするとして、それでもこの両者に職員を加えて構成される「学校」という社団が生徒への教育を目的として『学校』という設備を独占的に掌握している、その管理責任を学校法人や都道府県市区町村に負っているというのが基盤となる観念であり、その観念を基盤とした権限をもって他者を排除する、他者の侵入や容喙を制御するという発想です。もちろん管理実務を第三者(例えば警備会社)に委ねることもありますが、それはあくまでも「学校」の監督の下であり、「学校」が管理権限とそれに対応する管理責任を全うするために利用する手段です。業務時間外に部外者の利用を許すにしても、それも「学校」の監督下でないといけません。その代わりの当然の結論として、「学校」は学校法人や都道府県市区町村に対してすら学校としての内部自治権を確保します。この観念と、「学校」は学校法人なり都道府県市区町村なりの下僚の組織であり、自立した内部自治権を行使しえないという観念との対立が一つあるわけですが、後者の観念に依拠した場合教員が単なるティーチングマシーンとしての労働者に成り下がる代わりに、『学校』の所有者である都道府県市区町村が『学校』の支配権を任意に設定する可能性が産まれます。もちろん「学校」による教育が優先度の高い使用目的であることは確かですが、まずその目的は教員の労働者としての勤務時間の中で果たされるべきものです。これは『学校』を用いた教員のリスキリングや能力向上研修も含みます。つまり「学校」による『学校』の使用は学校の始業時間をもって開始し終業時間をもって終了することになります。それ以外の時間については「学校」が管理責任を持たず、独占的利用権を行使できない代わりに、学校法人や都道府県市区町村が『学校』を活用できます(もちろん設備を損なうような使い方は問題なわけですが、何がそうなのかを決める権限も学校法人や都道府県市区町村にあることになります)。つまり学校法人や都道府県市区町村が必要なら「教員」メンバー以外の責任者を指名して「居場所」を運営させることもできるわけです。それが早朝の場合、当然時間が来れば、その責任者は『学校』と学校で学ぶべき子供たちを適切な状態で「学校」に引き渡すことになります。また夕方であれば責任者は「学校」から引き受け、おそらく最終的な施錠を確認して無人の状態での管理者に引き渡すことになります。
というような法律論や制度論はともかくとして、そもそも保護者が子供の登校より先に家を出るというのは何なのでしょうか。そうせざるを得ない社会というのがまずおかしくありませんか。子供たちを学校なりに集めて保護を確保し、そこに保護者が、その形を保護者が課せられた究極的な保護責任の観点から適正と認めて明示的に引き渡すという形で主体的に関わること自体は構わない(つまりそういうものだから朝早く子供を連れて出て学校に置いて出勤する的な惰性的な処理は許されない)と思いますが、男親であれ女親であれ子供から親を、保護者を取り上げるという悪行が当たり前に行われ得るというのは、感覚がおかしくありませんか。母親が家にいればいいという話ではありません。父親だって親です。自分の選択として子供を見捨てて登校前に出勤するというなら個人の倫理性の問題ですが、それが制度になっているのはむしろ制度の問題です。これは教員や管理職でもそうで、教員や管理職も少なからず誰かの親であり、その親に子供を見捨てて早朝出勤させるというのは使用者による子供の虐待であり、可能な限り行うべきでないし、せめて親が代替的な措置を講じられるよう補償措置を講じるべきでしょう。もちろん親は、こういう扱いは親としての自分に悪を為さしめると使用者を告発しなければなりません。少なくともそういうバランスを労働者が主体的に決めるというのはワークライフバランスの理念の一つのはずです。それもできない、とにかく家族を食わせるためにその家族を遺棄して勤務に汲々とするというのであれば、その人にはむしろ家族を持つ権利の方がありません。もちろん職業における自己実現として家族を持たないという選択自体は正当ですし(本来お坊さんなんかそうだったわけです)、やってみたけどやっぱり無理だったと家族を手放すことも認め得るでしょう。しかし決断をせずに家族に危害を加え続けるというのは、その時点で虐待の主体に転じています。
もちろんこういうことを、選択肢はある、選択は個人の責任だと称するような発想も唾棄せざるを得ません。例えば神奈川県小田原市に住む東京都職員が午前七時に家を出て出勤してきて帰宅は早くても午後七時というのを、そんなところに住んでいるのは個人の選択だなどと言ってはいけないのです。確かに東京都が小田原市に都職員住宅を作っているわけではないのですが、都庁勤務の都職員が新宿区内に満足な住居を持てないというのは本人の責任とは言えない場合が多いでしょう。また夫が三重県職員、妻が岐阜県土岐市所在の研究機関の研究管理職というカップルをどれだけ主体的選択で本人たちの責任と言えるでしょうか。そういう状況を生じてしまうところ自体に問題を感じるのが常識的な発想というものだと思いますし、もちろんそこでどちらかが主体的な職業選択を諦めるべきだなどという発想は余計にあり得ません。

■2023年10月05日(木)  それを言うなら結婚や出産を小学校で教えてはいけないということになりませんかね
「押しつけ」なのは同性愛か、異性愛か 台東区議発言を逆から見ると
筋道を立てるとこういう話になるので、そもそも異性愛を前提とした教育も偏向しているということになりますし(もちろんそう主張して異性であれ同性であれカップリング自体教育上教えるべきでない、制度としても - 制度があれば自我の確立していない子供に教えないといけないので - そのような結合を前提とする制度は廃止するべきだというなら一貫してはいるのかもしれませんが)、もちろん容認と誘導は違います。同区議の発言は同性愛を子供に見せてはいけないという発想と批判されても仕方ありません。
もちろん原理的に考えれば、一区議がそういう発想を持つこと自体は自由ですし、区議の相当数がそのような考え方をすることも、望ましくないとは思いますがあり得るとは思います。その意味ではこの区議の偏見自体を望ましくないものと論難することには問題はあるでしょう。間違っているから正せと主張するのもあまり望ましいことではないと思います。そういう考え方も含めて議論するのが議会という場でしょう。とはいえ、例えば区議会での各区議の振る舞いは品がないもので到底子供に見せられるものではない、もちろん区議自体も子供に見せられるものではないと、キョンシーの顔に貼っているような札を顔に貼られたら納得するんでしょうかね。

■2023年10月05日(木)  自筆遺言書なんか役に立たないでしょうが
パソコンやスマホ… デジタル機器で遺言の作成を 法務省が検討開始
遺言の性質からして、自筆遺言を廃止して公正遺言のみとし、かつ遺言自体を遺言者と受託者の契約の形式とするべきだと思うのですが。確かに簡易に作成できることは重要ですが、そもそも遺言は存在することが明らかでなければならないうえ、遺言者の意図に基づいて遺言状において指名された他者に負担を負わせることになりかねないものです。指名された人との契約であるのが当然ですし、ギリギリまで隠しておきたいなどというわがままを認めるべきでもありません。公証人の関与を必須とするべきです。

■2023年10月05日(木)  どう制度を変えようが払えないものは払えませんがね
扶養される3号「根本的に制度変えないと」 首相、制度見直しに意欲
もちろんこれはそうではあるので、少なくとも健康保険と公的年金については個人単位にすることが前提になるでしょうし、それこそ使用者負担制度やその基盤になっている共済保険、厚生年金制度も国民健康保険と国民年金に統合するのが筋です。使用者負担は基本的に失業保険、労災保険あたりでガッツリ取るべきですし、そもそも失業保険など失業した時の保険ではなく雇用しておいて解雇したときの社会的負担に対する賠償金の前払い、分割払いなのですから、被用者が払うのはおかしいし、大量の解雇が発生すれば速やかに失業保険金の料率を上げるべきなのです。使用者が支払う給与が使用者、事業、被用者が社会的費用を分担する基盤になっているわけですから、解雇して元被用者が分担に応じられなくなれば社会の迷惑です。その迷惑は、使用者総体として補償するべきですし、それぞれの使用者は安易に勝手な解雇をして迷惑を発生させた使用者を、自分たちを犠牲にして一身の利益を図ったとして、相応の扱いをするものでしょう。解雇で事業再建を図ったような事業体が取引先から疑いの目で見られるのは当然だと思います。債権者からは好意的に見られるかもしれませんし、再建時の出資者からも評価されるかもしれませんが、人員整理を発生させるような迂闊な経営者、事業体が事業遂行能力に疑念を抱かれることは、一般論としておかしくありません。解雇するくらいなら雇うべきでないし、人員整理の懸念が出たら先を争って沈む船から逃げ出していくような被用者を使いこなすのが経営者の責務です。間違っても、状況は危機的ですが皆で頑張って乗り切りましょうなどと言うべきではありません。事業が不調だから賞与は出せないし給料も減らさざる得ない。退職金も会社積み立て分は反故にして再建資金にする。逃げるものは追わないからよく考えてくれと言うべきです。
とはいえ、家計が追加の負担に応じられるかどうかというのは全く別です。租税公課で赤字になりかねないような家計にしておいてもっと稼げなどというのは通じないと思うべきです。旧三号被保険者と元からの一号被保険者の負担均衡を図るために厚生年金の国民年金への統合は必須と思いますし、厚生年金の二階部分の確定拠出制個人年金への移行もあり得ると思いますが、妥当なモデル世帯における一階部分の合計負担額が現行の負担水準を超えないように設計するべきです。また国民年金のただでさえ低い給付水準をこれ以上低くすることも望ましくないはずで、事業税や法人事業税の増税も考えるべきです。どうせなら雇用税として被用者の人頭税を使用者から取るくらいするのがいいと思いますが、その場合業務委託の規制も必要になるでしょう。何でもかんでも労働者(被用者)にして解決するのでなく、受託側の裁量を十分確保するのでないといけません。少なくともこれだけ配ってこいなんて発注をするのはだめで、この荷物をこの値段で受ける人はいますかと言わせるべきですし、紛争になった時に委託内容の合理性を立証するのは委託側の責任にするべきです。委託側が不利になる状況など独立性の高い高度専門職相手の限られた事例しかないのですから、資格の絡む制度に立証責任の例外を書き込んでおけば済みます。

年金の「3号」制度、廃止も検討 連合「働き方に中立的」目指す議論
もちろん国民年金三号被保険者制度と健康保険被扶養者制度は廃止されるべきでしょう。生後数日の赤ん坊から意識を喪失した老衰入院患者まで、日本国民は須らく年金保険料と健康保険料を分担するべきですし、その上で所得に応じた保険料(所得ゼロがあり得る以上保険料ゼロもあり)が設定されるべきです。また使用者負担分はもはや時代錯誤であり、「働き方」に中立的、つまり自営業者にとっても中立になるように個人に保険料を課す仕組みになるべきです。その分は、事業者や使用者に課税すれば済むのです。共済年金もすべて国民年金の基金に繰り入れる(召し上げる)べきでしょう。もちろん遺族年金、寡婦年金も廃止するべきです。
とはいえ、連合がそういう発想をするとはどうも思えません。結局のところ、大企業のサラリーマン共稼ぎ(経営者を含む)が得する話になるのではないでしょうか。妥協案としてはそれもありですが、それをやっていると今後増えていくであろう自営業となんちゃって自営業が公的年金制度や国民健康保険制度から離反しかねません。特権階級である給与所得者、特にいわゆる正社員だけが得する制度は、おそらくなんちゃって自営業者の増加によって基盤を失います。いわゆる正社員が会社に尽くしてうっかり定年退職すると安い年金と不十分な健康保険で路頭に迷い、40歳くらいで会社から出て行った自営業者や創業経営者、しっかり経費を計上し所得を圧縮して財務の健全化に努めてきた自営業者が基盤資産と公的な福祉制度を組み合わせて90歳くらいまである程度現役を続けるというのがおそらく健全な姿です。

■2023年10月05日(木)  こういうの、迷惑なんだよなあ
重さ300キロの銅像「もみじ姫」消える 重機で引き抜く?
最近増えてますねえ、こういう豪快な窃盗。まあ、屋外をデコる方が悪いという話もあるのですが、さすがに重機を現場に持ち込んで引っこ抜くような犯行を2002年に予想しろというのは厳しい気はします。
影響としてはいくつかありえて、まず公園の警備強化があります。出入りすると場合によっては下見と勘繰られて不愉快な思いをする可能性があるほか、当然ながらコスト増で、他の事業の緊縮とか、増税を招くか、ボランティアに押し付けて搾取に走るかもしれません。そんな継続的な悪行に走るくらいなら台座も撤去して片付けたら一時の支出、予備費か補正予算ですんでいいと思うのですが、市民に親しまれていたとか意味不明、検証もしていない理屈でその場凌ぎの非合理な対策を取るような気がします。もちろん公園への入園規制もあり得ます。ぶらっと入るようなことをしにくくなるかもしれません。
次に重機の所有運用に公的な規制がかかる可能性があります。もちろん特殊車両などの操縦免許なしには動かしてはいけないわけですが、購入者の登録を厳格にするとか、レンタルやリースでの本人確認や使用目的の確認、借り出し中の管理の確保を徹底するとかして、免許を取って自宅の庭の造成を重機を借り出してやりたい個人が不便を被る可能性があります。何しろ個人や任意団体というのは本気になればいくらでも身元のごまかしがききますから、登記済みの法人しか借りられないようにして確認を徹底するような、レンタルの利点を消滅させるような規制が敷かれる可能性があります。こうした機材を運搬するための車両も規制されるかもしれません。あり得ないなどと言うなかれ、かつてどこぞの宗教団体や暴力主義的団体、箍の外れた個人が大学や高校から薬品を盗み出して爆弾や毒ガスを作ったりしたため、迂闊に使うと危険という以上に盗難防止や管理の徹底が義務付けられた故事があります。それで、学校の理科の先生が危険物取扱資格とか劇毒物取扱資格を取らないと授業で使う試薬を買えないようなことになり、さらに大学や研究機関、工場で有機溶剤を鍵付きロッカーに仕舞うとか、瓶の中の残量を管理するとかいう話にもなっているのです。重機やトラック、トレーラーがそうならないなどという保証は全くありません。またマネロン規制のため送金先について口座名義人の確認ができるような情報の提出が送金側に義務付けられ、マネロンなんか食べたことがないイノセントな送金先にこの口座の名義人は誰だと尋ねて訝しげになんでそんなことを知りたいんだと聞き返される羽目になっているのです。
また、金属の売買について規制がかかる可能性もあります。故買規制ということになりますが、金属塊を買おうとすると本人確認されたり使用目的を訊かれたり、個人だと買えなくなったりするわけです。だって、金属加工なんて会社がするものですよねっていう論法ですね。自宅の庭に純金の像を飾りたいなんてことができなくなる程度ならともかく、ドアノブを自作したいから真鍮のブロックを買ってやすりで磨いて作ろうとすると、申し訳ありません、個人様にはお売りできませんとか言われるわけです。もちろん継続的な取引を前提としない金属の買い取りは原則禁止されることになるのでしょう。
こんなわけで、盗まれたという以上に周りがいろいろ迷惑するので、あまり根性を入れて盗みをしないでいただきたいものです。工夫すればするほど周りが迷惑します。

■2023年10月05日(木)  解任して何とかなるってものでもないと思うのですが


米下院が共和党マッカーシー議長解任 史上初、党内強硬派の動議可決
これはまた、びっくりです。
共和党造反組が動議を出すこと自体は別に不思議でも何でもないのですが、正直それに賛同した下院民主党は無責任ではないでしょうか。もちろん党利党略として対立政党の出した議長を解任すること自体は在っていいのですが、その場合自党の側で後任の議長を提案し選出を確保する段取りをしているというのが前提です。つまりこの前提が成立するなら、民主党が共和党強硬派と議長選出について合意しているということになります。議長の場合議事の運営の方針について議員を納得させられるかという点が問題なわけですが、特定の法案の内容について合意するよりは楽だとしても、正直マッカーシー元議長や共和党多数派と協調する方が楽だと思うんですがね。
まあ、起きてしまったことは仕方がないので、ここは下院民主党の権力政治家集団としての能力を見守るしかないでしょう。ありうるパターンは、このまま共和党強硬派と下院民主党の支持で議長を選出、下院共和党多数派に共和党強硬派が合流して新議長を選出、下院共和党多数派と下院民主党が協調して議長を選出、共和党強硬派が独自の議長候補を出すか議長選任手続きから離脱し下院共和党多数派の推す候補が議長に就任、というあたりでしょうか。下院の共和、民主両党が協調できない場合議長が就任しても議事運営が混乱する事態もあり得ます。下院共和党の内紛を利用して協調を演出したうえで議長なり下院共和党なりから言質を取って議事運営への影響力を確保できるかが、下院民主党の政治力を示すことになる気がします。

■2023年10月03日(火)  玄人なら再生できるなどという方が変
「SMILE-UP.」社名を変えても“再生”は難しい なぜ日本企業は素人を「社長」にさせるのか
これは問いの立て方が間違っているので、そもそもジャニー氏の行為が反社会的なものと認定されてしまった以上、ジャニー氏の動機を基盤とした事業そのものは再生のしようがなく、当然その組織の形式的な面=会社も救うことは不可能です。ですからジャニーズ事務所の後継社長は、とりあえず会社とさしあたりの命運を共にできる人であれば誰でもよく、その意味で東山氏は適任ではあったと思います。これが何か物的な生産手段を持っているのであれば別ですし、また事業組織自体と関係ない背任行為だったのであればやはり別でしょうが、ジャニー氏のセクシャルハラスメント行為はジャニーズ事務所の事業や組織と不可分であって事務所から組織をその残骸すら拾い上げることは不可能であり、それはジャニーズ事務所の事業が事業組織と一体のソフトウェアであることによります。中国の核ミサイルの部品を作ろうが機械は汚れませんが、その部品を受注し納品することで事業組織自体は汚れますし、経営者だけでなく末端までの従業員もまた多かれ少なかれ汚れます。それこそ社長を変え、看板をかけ替えた程度で禊になると思う方がおかしいのです。
この場合に玄人ができるのは事業から拾える骨を拾うことだけであり、この業態であればタレントとマネージャー、売り込み担当者がそうです。ジャニーズの看板だけで売っていたような人たちはどうしようもないでしょうが、タレントやマネージャーを見、客を見定めるジャニー氏の見識が優れていたからこそ事務所が成功したのであり、そのめがねに適ってタレントとして一本立ちした人たちやそのマネージャーの多くは他の看板、例えば自前の事務所でも稼いでいくことが可能でしょう。つまり再建策というなら第三者資本で設立した会社が引き受けるべきですし、むしろ外部がタレントを引き抜いていった方がいいのです。その意味で事業再建を前提にマネジメント会社の経営陣が云々、素人ではだめという議論は間が抜けています。仮に全権を持った外部から招聘された経営者が事業を管理するとして、そのような経営者が実質を持てるでしょうか。確かにコンプライアンスは充実するかもしれませんが、この人の勧めるタレントなら間違いないだろうと顧客が納得するでしょうか。出来上がったタレントを管理する会社なら(それこそ銀行あたりと同じで)プロ経営者でいいでしょうが、新人を発掘しタレントとして売っていくという部分はプロ経営者としての信用では不十分だと思います。それこそアップルが追い出してスカリーに替えたジョブズを呼び戻さざるを得なかったような話がオチでしょう。つまり「”モンスター”を作る」のはリスクの大きい生臭い事業経営の必要悪なのです(事業自体の必要性はまた別ですが)。
もっとも、顧客に鑑識眼がないことは別の問題です。「アイドルのマネジメントは特殊な世界」論は、結局目に見える実績と平素の付き合い程度しか判断の要素を持てない、そして他人の育てたタレントをその場だけ買って済まそうとする顧客の都合です。プロ経営者はそれこそおおむねこの類です。財務や法務には強いでしょうが、リスクテイキングにおいては事業リスクは分散するのがせいぜいで、自身の「タレント」をもって事業リスクを本質的に低減し事業の利益率を向上させることができません。もっともタレントを起用する官僚組織はこういうプロばかりですから、その上にプロ経営者が立って管理によって法務リスクや財務リスクを低減することは意味があるのですが、タレントを見極める能力の不足の方はどこかで補償されなければなりません。そして、その役割を負うのがマネジメント業であり、これはプロ経営者の手に負えるものでは本質的にないのです。
そして、事業自体が人的資質に依存するものである以上、リスクを顕在化させ傷付いた事業や看板、組織はほぼ捨てるしかありません。

■2023年10月03日(火)  そりゃ発注頼みじゃ絞られますよ
廃業相次ぐ大田区の町工場 大企業は堅調、好循環の「芽」は広がるか
そもそも他人の発注に頼る業者の廃業は仕方がありません。需要を自身が作り出す事業のみが残ると思います。そこは経済屋さんの均衡の計算とは違う部分で、未発見の需要の開拓をコストエフェクティブにできることが生き残りの条件でしょう。芽が広がるのを待っているようなところは収支バランスが崩れるか財務で息が切れて潰れるしかありません。

■2023年10月03日(火)  守秘契約もできない子供がいていいわけですか?このご時世に?
岐阜市、職員の「子連れ出勤」試行へ 小3までの子ども対象
職務専念義務の問題があると思いますが、まあ、使用者の裁量の問題ではありますね。問題にしなければよいだけのことですし。とはいえ、子供であれ無関係な人物がセンシティブな場にいることになるのは事実です。「市民に温かい目で見守っていただきたい」というのは無責任な話で、子供がうろちょろしているようなところで相談なんぞできるか、市民の問題への対応を何だと思っている、と苦情を入れることにもなりえます。そもそも保育園や学童保育の管理は市の管轄のはずで、子連れ出勤の許可の前にできることはいくらでもあるはずですが。

■2023年10月02日(月)  なんでジャニーズ事務所がそういう発表をするのか
ジャニーズ事務所、新・旧会社に分割へ 公害の原因企業などでも事例
ジャニーズ事務所の会社名変更、補償後に廃業へ 325人が被害申告
解決策としてはこうなると思うのですが、問題はこれがジャニーズ事務所主導で進んだことです。
基本的には第三者の資本で新会社を設立し、そこにタレントマネジメント業務を売却し、ジャニーズ事務所の資産と合わせて補償に充てるべきです。もっとも補償額がどの程度になるのかわからないわけですが、相当ポケットは深いようですし、余るのかもしれません。とはいえ加害者と言っても加害分を補償したうえで粗相の結果とはいえ取り上げられた事業で稼いだ残りを貰うこと自体は不当とは言えないでしょう。むしろ新会社に旧会社株主の資本が入らないことの方が大事です。もちろん旧会社の資産は各タレントに属するものであって、新会社に帰属すべきものとは思えません。あくまでも継承会社ではなく別の会社がジャニーズ事務所のタレントマネジメント業務を買い取る形であるべきです。この処分で最も利益を受けるのはタレントを使いたい顧客であり、この程度の資金は容易に拠出できるでしょうし、当然借り方に資本金以外はない状態で創業できるはずです。そもそも継続する事業からの利益配当がないと補償もおぼつかなかった公害の賠償策とは事情が違うでしょう。
それがジャニーズ事務所経営陣主導で進んでいるわけで、新会社に変な影響が残らないかが気になります。

■2023年10月02日(月)  売り上げすごいねと感心するべきなんでしょうね
ジャニーズ売上高は推計1千億円超 ジュリー氏継承の資産も同規模か
こういうタイトル、恥ずかしくないのでしょうか。
ジュリー氏を始めとする同事務所上層部が問題にされているのは性的加害であり、確か今のところ同事務所や関連企業の表向きの事業に問題は見えていないはずですね。顧客要人と結託して顧客事業から金を引っ張り出した、その金を顧客要人と分配したとか、本来タレントや他の従業員に渡るべき金を取り込んでいたという話は、もちろん後者は噂としてはありますが、芸能マネジメント事業として限度を超えるようなレベルではなかったと思います。またタレントを売って稼いだお金を事業内でどう配分するかは、タレントや楽曲提供者の取り分も含めてある程度の幅があるはずで、その範囲内で問題ないというのが現状の理解ではないかと思います。まあ、単に出てきていないというだけで、これから問題視される可能性がなくはありませんが。
それで、ジャニーズ事務所と関連企業の売上高が一千億円を超えていたからと言ってなんだというのでしょうか。この記事は同社および経営者の脱税を報じていますが、記事にある額は申告の誤りや法人税の申告の誤りなど合計66億円ほどです。年間売上高に対して一割にもなりません。つまりこの範囲では、同事務所は少なくとも税金を誤魔化して収益を確保していたわけではないということです。もちろん売上高は税引き前、経費引き前ですので、これが法人税の申告における収入額と一致するなら書類上の収入の誤魔化しはないわけです。そして申告の誤りとして指摘されているタレントへの「お年玉」は正直税務署と納税者の間で意見が分かれても仕方のない項目と言えます。おそらく税務署が支出についてなにがしかの問題を指摘したわけですが、一種の賞与であり、少なくともマネジメント契約なり就業規則なりに根拠があれば問題視されなかった(できなかった)類ではないかと思います。まあ、経営者が思い付きでこういうお金を従業員なり契約しているフリーランスなりに配って経費に計上して税務署に指摘されるというのは、それなりによくあることではないかと思いますし、公開会社でなければ会計上問題にされにくいですし、些末なルール違反という以上の意味は見出しにくいと思います。理屈で言えば、株式会社でこういういい加減な支出をするというのは株主に対する背信行為に当たるわけですが、同事務所は株式会社というよりは有限会社なり合同会社なりに近い組織体(経営者=株主=事業執行責任者)であり、つまり株主が納得してその支出を認め、債権者の利益を損なっているというわけでもないわけですから、背任の指摘は原理主義以上のものではありません。むしろそういう組織を株式会社として設立できてしまう旧商法や会社法の問題でしょう。タレントや他の従業員は措いておくとしても、対顧客関係にしてもこの種の支出が顧客の利益を損なうとは主張しない気がします。つまり、このタイトルは卑劣なやっかみの生み出したものとしか見えません。
もちろんジャニーズ系という形容すら生まれるほどの圧倒的なシェアを同事務所が確保していたことは事実ですし、個人的にはそういう立場を生み出すような買い手や競合の事勿れ主義、冒険回避、挑戦回避の発想は競争政策上極めて問題があると思いますが、それはジャニー喜多川氏の才覚と同社経営陣や従業員、タレントたちが顧客の退嬰主義に応じてあげた成果であり、売上高を含めて恥じるべきものではないと思います。その上で、反競争的状況を問題視して対応するのは競争政策の問題であり、公取がジャニーズ事務所と周辺の状況を問題視したとは聞いた覚えがないので、同事務所が不正な手段を用いて競争政策を妨害したとも言いにくいでしょう。むしろ公取の怠慢やマスメディアや広告販売業者のWin-Winな状況を目指す意図が疑われます。
まあ、なんでまたアイドルタレント関連に合計一千億円も払うほどの顧客がいるんだというところは個人的には疑問ですが、多分それだけの顧客価値があったんでしょうね。もちろん顧客価値に乏しいのにそんな金を出したのだとすれば、それはジャニーズ事務所ではなく顧客の経営責任者の問題です。ジャニーズ事務所の売上高ではなく過去にどの顧客がどういう経緯でいくら出したのかを調べ報じるべきでしょう。

■2023年10月01日(日)  杉並区長は民意の名のもとに独裁でもするつもりでしょうか
区民の投票で決める「参加型予算」、杉並区で 東京23区で初
これ、おかしくありませんか?記事にあるような疑問が出るのは当たりませですし、正直言って区長の僭越な行為だと思います。公約かもしれませんが、行政部の管轄でない公約を掲げる時点で区長としてどうなのかという気がします。
まず予算を決めるのは区議会のはずなわけですが、区長が提出した予算案を区議会が審議した場合、そこに投票という形で区民の支持を得た事業が含まれていると、それを議会が審議してよいのかという問題が出てきます。もちろん形式的には区長提出の予算案なので審議しようが区長と協議して取り下げさせようが構わないのですが、争いになった時に区長がこれは市民の支持を得た事業だと主張した場合、それこそ議会と区長の予算に対する立場が逆転してしまいます。つまり、本来予算を決定する権限のある議会に対し、区長がより高い権威をもって承認を迫る事態になってしまいます。
次に行政部として区民の提案を募っているわけですが、そもそもその根拠は何でしょうか。区長提案の予算にしても、各事業に法的根拠がなければならないのは政治の常識であり、法律にも条例にも何の根拠も持たない事業が予算に盛り込まれることには異論もあるはずです。予算自体が法的根拠となるとしても、法律や条例に書かれていないことを区長がやっていいのかという疑問はあるわけです。その区長がdelegateになっているとしても、区民が条例などに根拠なく提案を行って、それを予算に盛り込んでよいものなのか。本来は、まず議会で事業の根拠になる条例を制定し、それに基づいて区長が予算案を取りまとめ、議会がそれを審議するという手順のはずで、行政部がいきなり提案を募るというのは手順を飛ばしているように思えます。
そして参加型と言いますが、そもそも区民提案の素案をなぜ行政部が取りまとめるのでしょうか。やるなら区議会でしょうし、それにしても区民の提案を勝手にまとめて投票にかけるような形はナンセンスであり、本来は議会執行部と区民の協議の中で区民提案のとりまとめが行われるべきでしょう。
また、そもそも論をするならば、特定の財源枠の使途についてというのもおかしな話です。むしろ一般財源のうち事業実施予算分を区民の投票の対象とするべきでしょう。もっともこれは、そもそも行政部の予算編成権限を侵す可能性もありますし、投票によって行政部としては実施すべきと考えている事業が実施できなくなってしまう可能性もあります。予算編成への参加自体に区民が慣れていないという事情はあると思うので、今後参加の範囲を広げていくという発想かもしれませんので、おかしな話であるという以上の指摘はしませんが、これだけのものなのだとすれば区民の参加の名に値しないというべきでしょう。

■2023年10月01日(日)  こういうのを温故知新って言うのかね?
AIが人間を操る未来は来るのか? 「備え」呼びかける研究者に聞く
正直正しくは「人間がAIを使って人間を操る未来は来るのか」だと思うのですが。もちろん会話をする人工知能が人間の考え方に影響を与える可能性は十分にありますが、それは操るというような(統一された)意思に裏付けられたものにはならない、むしろステロタイプで単純な思考に人間がはまり込んでいくような形ではないかと思います。そうでないとすれば、それは何か意図を持った人間がAIを使って他の人たちを操る形でしょう。もちろん人工知能による制御に都合の良い仕組みが整えられていく過程で人間が人工知能への忖度に馴致されていくという方向もあり得ます。
そして、そのうち二つの類型はまさにマスコミュニケーションそのものです。倫理コードはともかく、受け入れられやすいからと単純明快なプログラムで時間や紙面を埋める方法論や、アジテーションジャーナリズムなりソフトなプロパガンダなりは、マスコミュニケーションの必然的な形です。少なくとも人工知能特有のものとは思えません。最後のものなど、マスコミュニケーションの問題というよりは生全体を覆う制度に絡む問題でしょう。現代社会の病理として1930年代には指摘されている話だと思います。

■2023年10月01日(日)  まあ、私も食べないですね。少なくとも好き好んでは。
なぜか果物を食べない日本人 目標は1日200gでも4割はゼロ
なぜかって、そもそも美味しいですか?果物。干物とか砂糖漬けならまた別ですけど、日持ちはしないし別に美味しくないし、摘まむのも面倒だし、他に食べるもの、甘味がなかった時代ならともかく、健康にいいと言われたところでサプリメントででも補った方がいいと思うのですが。だいたい「健康日本21」なんて、農水省と厚労省が既存農業の持続性の確保と医療費削減で結託した代物でしかないでしょう。それを懐古的イメージで裏付けて果物を食べようとか言われたところで、食べない方が当たり前だよなあとしか思えません。それこそ柿なんか生食にしろ干し柿にしろ口に合わないので、口に合うように加工しようという気にもなかなかなりません。栗もそうですね。それこそ菓子屋に動員をかけて廉価な果物タルトでも売らせた方がましなんじゃないですかね。

■2023年10月01日(日)  原理的には議会で拒否されるような制度の方が悪い
政治家に裏切られた子どもたち 米国で急増した貧困
まあ、政治的アクティヴィズムの限界ではないでしょうか。理解しない議員ではなく、議員の理解を得られないような制度に問題があるわけです。議員を馬鹿だと罵るのは全く簡単なのですが、そして実際馬鹿でない代議士というのは少なくとも私は知らないのですが、その代議士を説得して法案を通すことで国としてメンバーの納得を得た辻褄の合った制度を構築するというのが代議制民主主義なのですから、代議士がしかるべき制度を整備しないというのは個人的な感傷、愚痴でしかありません。そして政治的アクティヴィズムによって行われた提案を理解する人は通常少数派で、むしろ馬鹿な代議士を言いくるめて通せる代議制民主主義だからこそ押し通せる面があります。もちろん啓蒙専制ではもっと押し通しやすいでしょう。啓蒙専制君主一人を説得すればいいわけですから。
また、正直貧困は政治として選択を容認できないものではけしてないと思います。むしろ貧困を解消しようとすることでかえって事態を混乱させることが少なくありません。もちろんその混乱を容認することも政治的見識ですが、貧困の方を容認するのも政治的見識としてはナンセンスとは言えないと思います。
もっとも、その代議士は選挙のときには(少なくとも有権者のマジョリティーの)貧困を容認するなどとはあまり言わないわけですので、現に貧困が発生しており、それが議会の決定に起因するものだという主張は大事です。代議士はそういうことを含めて選挙において責任を問われるべきです。NYTにコラムを書いて意味があるのかというのはまた別ですが。リベラルな有権者に訴えるのならそれでいいでしょうが、迷惑を被った貧困層が自らそれを招いた代議士を落選させることを期待するなら、むしろ全国に、「第何回議会はこの制度を廃止することによってこれだけの子供を虐待した」というポスターをアトラクティブな図案で貼って回った方が効果があるんじゃないですかね。

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