■2023年07月18日(火)
ストレステストみたいな本です
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責任という虚構, 小坂井敏晶 考察する痛々しさが仄見える本です。もしかすると、著者が救いのわざとらしさやうそ寒さを毛嫌いしているからかもしれません。 もっとも、社会制度というものが集団幻想、つまり敢えて言えば鰯の頭であるというのは、言説の点ではもはや常識に近いところまで来ていると思います。少なくとも国家や社会の虚構性については聞いた事がある人は相当多いでしょうし、その上で、まあ、そんなもんでしょ、とぶん投げているのが多数派かと思います(こういうのも承認でしょうが、制度の基盤として結構危うい気はします)。もっとも責任とか自由という概念はまだ天然に神聖かもしれません。その意味で痛ましいのは、フランスで本書のフランス語版の出版を引き受けるところがなかったという文庫版後書にあるエピソードです。これは、日本で本書が出版できたからいいという話ではなく、そもそも出版とはそういうものだと思わないといけない。その上であえて糞味噌一緒くたにして、お前たち出版屋はそれでもなお文化を(語|騙)るかと問いたいところです。同人誌Ver.3である個人電子書籍出版、なかんずくKindleよりも上だと、企画や編集は正当な行為だと、それでも言えますか。ネットの記事(論説サイト、ブログ、日記、SNS、非制約的プラットフォームでの動画配信、etc.)に比べて報知媒体や商業書籍出版物が高位の文化なのは商業出版という仕組みが支えているからだと言えますか。 もっとも、本書の主張において一つだけ絶対に受け入れられないのは、合理的限定的契約や貨幣(というか一般化された交換媒体と言うべきでしょうかね)に媒介された交換による接続を人間的なものでないと言っていることです。個人的には、これらの関係こそが、個別の属性を捨象して主体間を間接的に接続するという意味で人間的なものの極北だと思います。因果論や本質論になってしまいますが、こうした接続が普遍化したのは、効率性も含めて人間が二人称との対峙に耐えられないからではないかと思います。ならば、その関係に純化することこそ必然でしょうし、それが、18世紀以降提唱された「社会」というストレイトジャケット(本来societasという語にそういうニュアンスは少ないと思うのですが)への有力な処方箋であろうと思います。本来契約というのは擬制であり、それが社会契約論者(か、もしかすると紀元前1世紀の神学論 - 異教も含めて)あたりから虚構に転じたと理解していますが、ともかく契約というものはあまり信じられないもので、だからこそそれを信じ、擬制として成り立たせるために、ある種の呪術的儀式も含めた対応策が発達してきたと思います。疎化しそれは、例えば借金を返せなければ奴隷として労役奉仕で返済させるような拘束力を生み出すための仕組みであり、自分に利益が期待できるから結ぶ、自分に利益があるうちは守る、過度に拘束的な条項を含まず前提が破綻した場合の処理が明確化されているというレベルの契約は、むしろ人間同士を接続する際に相応しい概念と思います。もっとも、このレベルでは社会契約説は意味を成しませんが。 | | |