日記

■2023年06月29日(木)  発言としてかえってごまかしにしか見えない
たまり続ける使用済み核燃料、約束は果たされたか 福井で広がる反発
「県外に搬出される意味で中間貯蔵と同等の意義がある。約束はひとまず果たされた」
どう見てもこの発言は問題でしょう。もちろんこういう手に走るほど手詰まりな状況にある点は斟酌したうえで、嘘つき、誤魔化しスト、無責任、官僚的発想による事実歪曲という評価が全く正当であると判断せざるを得ませんし、どう見ても愚民とした約束など守る必要はないと思っているように見えます。まあ、過去の経営者がその場でした約束について責められる現経営者も大変だとは思いますが、もちろん余計な約束しやがって、企業に損害を与えているじゃないかと責任追及の訴訟を起こしたところで誰も褒めてくれません。中間貯蔵施設の建造にしろ最終処分施設の建造にしろ関電の都合でどうこうできるものではありません。例え関電本社に貯蔵施設を作ろうとしたところで大阪府民が大反対するでしょう。そんな馬鹿な約束を、それでも約束と弥縫するためにはそう言うしかないということはわかりますが、むしろ、約束は守れません、我々が馬鹿でした、でも原発は国にも会社にも社会にも必要なので動かします、黙っていなさい、とでも言って、福井県民のデモ団に本社を取り囲まれる方がまっとうなのではないかという気がします。いや、JR東海もそうですけど、理解をお願いしたいと言っているわりにそう思っているようには見えないんですよね。自分が正しい、わからないのはそっちが馬鹿だと思っているように見えます。

■2023年06月28日(水)  農水省は真面目に畜産業を振興するつもりがあるのか?
鶏・豚・牛に快適な環境を 動物福祉に初指針、「現状追認」と批判も
いやまあ、産業として畜産業を諦めて輸入を推進するといいんじゃないですかね。高級志向の生産者はそもそも動物福祉的な発想とも相性がいいでしょうし、問題なのは庶民向けの安い製品の供給でしょう。
農林水産省は食料と木材の自給推進を政策基盤にしていると思っていたのですが、どうもグローバリストと拡大博愛主義者に責められてトチ狂ったようです。もちろんオーストラリアやアメリカ大陸諸国あたりに太刀打ちできるわけがないですから日本での畜産振興政策がそもそも間違っていると言えそうな気はしますし、元々運搬手段(馬)や動力源(牛)の確保という面もあった畜産は、単純に食料供給、動物性たんぱく源の一つという位置付けになりました。挙句に肉食による栄養向上が行き過ぎて肥満が問題視されています。おそらく非常時に肉の供給はない、豆を食えでも通るでしょう。別に肉を食わなくても死にはしないのです。農林水産省という行政官庁の存在意義はすでにないと言ってよく、林野行政は環境省に移管し、食品衛生は厚生労働省の専属とし、内閣府の外局として食糧管理庁を置けば済むとすら言えます。
とはいえ、相応に安価な食糧の自給や安定供給を確保することを前提とする限り、動物福祉などという戯言は通りません。採卵用鶏の鶏舎の密度を下げれば体積あたり生産性の低下、費用対効果の低下に直結します。肉用鶏でも同じことです。生産に適する土地面積の小さい日本にとって、畜産は不要だというのでもなければ、体積生産性にしろ費用対効果にしろ絶対的な条件です。なにしろそれでかつて高級品として贈り物に用いられた鶏卵が日用品になり、鶏肉も畜肉の中で物価の優等生になったのです。
もちろん、畜肉鶏卵畜乳は輸入に徹して日本は外国で動物虐待によって生産された食料を金に任せて買い漁って虐待行為を見て見ぬふりをしていると言われるのがいいかというと気にはなりますが、そんなのは個人が菜食主義者になるかどうかそれぞれによく考えればいいだけのことで、国家が産業界にどうこう言う筋合いではないでしょう。百年前と違って、どの栄養をどう取るべきなのかについての知見は相当蓄積されています。おそらく日本の条件で動物性たんぱく質、動物性脂質に依存する必然性は、もはやないのです。国政レベルというか政治の問題として食料と博愛主義のバランスを取って食料政策を舵取りする必要も従ってありません。とりあえず人権を主張する人がいなさそうな穀物と野菜で十分なのです。漁業もまあ、大規模加工業者は時代遅れではないでしょうか。マダガスカルなりカナリー諸島なりにマグロを獲りに行く船を送れるレベルの資本はともかく、全国レベルの資本というのはもはや無用でしょう。シーチキンの缶詰や魚肉ソーセージなど今時漁業協同組合や少し大きな水産加工業者でも問題のないものが作れます。つまり漁協と流通任せでいいのです。せいぜい外務省に水産資源交渉の部局でも作るレベルで十分でしょう。余計なことをやっている暇があったら経費節減の犠牲になるべきではないでしょうか。

■2023年06月28日(水)  プールの管理も色々ある
藻を抑制する塩素剤、小学校プールの装置に誤投入 岡山で授業中止に
ええと、これはつまり、秋に別の形で投入するべきものを夏に本来入れるべきでない機械に投入してしまったということでしょうか。そもそも単位重量当たりの発生量が違うんでしょうし、まあ、壊れるんでしょうね。おそらく薬剤の名前も似てるんでしょうし。
もちろん作業として適切な確認を行うべきとは言えますが、こういう問題を起こしてしまう危険要素が多々ありそうな感じではあります。それこそKYKをするとどう事故防止するか頭を抱えてしまうかもしれません。置き場所を分離しても、多分納品の時に間違っておいてしまうとどうしようもないでしょうし。
それならいっそ水泳の授業はカリキュラムとして諦めるというのも手だと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん残念がる父兄や児童も少なくないとは思いますが、そういう人は市民プールでもプール系のアトラクションでも水泳学校でも行けばいいわけで、プールなんか見たくもないという児童もそれなりにいるような気がします。例えばどんなに方法論としておかしいとしても国語や算数の授業を無くすのとは全く意味が違うわけで、コストや教職員の負担の削減のために英断が求められていると、言えなくもないような気がしないでもありません。ちなみに国によっては学校の予算不足で体育や音楽の授業がなかったりするらしいですが。

■2023年06月28日(水)  なぜかイタリアの政治家やリーダーというとこういうのにノリノリで関わりそうなイメージが
檻に入った政治家を川に……!? イタリアで行われるお祭りの行事がすごい
なんというか、ノリがいいですね。まあ、この手の行事にノルのも政治家やセレブリティーとしての資質なのかもしれませんが。
ちなみに日本でいくら悪政というかあほ政をしたからと言って内閣総理大臣補佐官あたりを川に沈めようとしたら本人が絶対応じないでしょう。逆に国会議員や閣僚だと応じる人がいそうです。多分そのくらいノリが良くてメンタルが太い人が向くんでしょうね。

■2023年06月28日(水)  やはり「弾丸」列車しかないか
新幹線のテーブルに足乗せ写真投稿 「そこでお弁当広げると思うと……」批判相次ぐ
いや、汚いとかいう前に、あのスペースで足を載せたらその方が窮屈だろうがとかそんなことをやったらテーブル壊れるだろうとか、気にすることはもっとあると思うんですが。
まあ、鉄道や航空機の席に着いた状態というのは基本拘束されているのと同じで、不自由極まりないものなので(だからこそそこでリラックスしたり楽しんだりできる心性や工夫が問題になる)、マナーがどうこうと言ったところで楽な姿勢を取ろうとすること自体はあり得ると思います(テーブルに足を乗せた姿勢が楽かというと疑問ではありますが)。おそらく根本的な解決策は一つしかありません。乗車時間の短時間化です。おそらく最長の列車でも10分以内に終着駅に着くのであればゆったりとした姿勢を落ち着いてとっている暇などありませんし、もちろん通常無価値の移動時間を短縮できる点は乗客にも好評でしょう。まあ、車窓を眺めるような人からはブーイングの嵐でしょうし、そういう人ほど鉄道にコミットしたがり、声も大きかったりしますが。また、これだけ時間が短ければ座席を廃止してとも考えますが、前提となる高速走行、高加減速において客が体を固定していないというのは危険要因であり、むしろ席についてシートベルトを締めてくださいということになるかもしれません。
全室個室寝台化して上掛けがないだけという作りもあり得ますが、寝台というよりはシートベルトで拘束される拘束台になるでしょうし、おそらく相当新幹線料金が高くなるでしょうし、一部個室化の場合こういうことをする輩ほどそれができる高額料金を払うことを避け一番安い席でやってしまうという気がしますので、多分意味がないです。
やはり軌道を完全に直線化し、駅を電磁砲にしてマッハ3くらいで15分で博多着がいい気がします。まさに弾丸列車です。というか軌道部分はない(摩擦に耐えきれないしかえって摩擦を増やし速度を落とすので十分な速度を与えて飛ばす方がいい)ので鉄道なのかどうかは問題です。なんなら東京〜大阪〜博多はほぼ直線に並ぶようですので、名古屋飛ばし大阪経由でトータル20分でもいいですが。当然乗客は安全確保のため、ベッドにシートベルトで固定されます。おそらく大半は、加速および減速時のショックで気絶するものと思いますので、到着したら車掌が起こして回らないといけないでしょうね。というか、数秒で時速4000kmに加速し、空気との摩擦で減速しているとはいえ多分時速2000kmくらいからほぼ一瞬でゼロに「着弾」するショックでは人間死ねるでしょうね。

■2023年06月28日(水)  職員は議員ではない
米下院、議員のChatGPT使用を制限
タイトル間違ってるじゃないですか。「議員」じゃなくて「職員」でしょう。
一瞬、さすがは米国下院議員、スタッフのコスト削減か?と思ったのですが、議会職員が多分文書作成かなんかにChatGPTを使うんですね。ちゃんと図版にも「staff」と書いてありますし、本文でも「職員」となっています。それが何で、タイトルで議員になっちゃたんでしょうね。

■2023年06月26日(月)  国内他社を買ってる暇があったら鴻海かTSMCを買え
JSR、業界再編の「促進役」目指す 産業革新機構の買収に賛同発表
官製ファンドの買収でJSRの競争力は? 政府主導の再編は失敗例も
「業界再編のきっかけつくれる」 JSRジョンソン社長インタビュー
「半導体業界は年々、必要な投資の規模が大きくなっている一方、国内の材料メーカーは互いに投資が重複し、業界全体の効率化が課題となってきた。」
とにかく事業を続けるためのお金を引っ張ってきたのはよかったですが、この考え方は感心できません。効率化と言いますが、要は集中、大き過ぎて潰せないものを作ることです。事業ごとに特定の分野に集中することはともかく、事業間で重複する投資を事業体をまとめることで整理しようという発想は大変危険です。そこが潰れてしまえば全部パアですから。そういう意味では、おそらくJICも目論んでいるこの半導体業界再編とやらがまともに動き出す前にJSRが倒産してJICの投資が焦げ付くことの方が望ましいかもしれません。失敗したら潰れて資産や事業を減価させられるところに民間事業体の意義があるのです。
効率化が課題なのではなく、必要な投資に比べて半導体製品が儲からないことが問題なのです。むしろより小規模な投資で参入できる半導体製造装置に商機がありそうに思いますし、半導体製造会社を買うよりは放射光施設の建設にお金を出して微細化技術を進める方がましではないでしょうか。会社を買ってお金を突っ込んで整理するしか能がないJIC(というかそもそもは倒産会社の整理が仕事じゃなかったっけ?)に将来を見越した技術開発なんてものは期待しませんが、それならそれで、三菱から航空機部門を買い叩いてホンダにでも売り飛ばすべきですし、どうせ先のない大手自動車製造販売事業をトヨタの他を一社にまとめでもしていればよいでしょう。スズキやマツダも含めてフルラインナップの大手二社、後はカロッツェリアが大手なり外国メーカーから車台を買って架装でいいと思いますが。
またやばいところと言うならJR北海道で、それこそ上下分離して列車だけ走らせる形に整理するべきだと思いますが(もちろん北海道新幹線は廃止し、青函トンネルは在来線に戻し、その負債はJR東日本に全部押し付けます)、それでJRは下手をすると貨物も含めて全部潰せるでしょう。貨物はいささか困るにせよ、旅客は後は東急でも阪急でも参入すればいいだけのことです。とはいえ鉄道は多分JICの管轄外ですね。

■2023年06月26日(月)  まず農業を止めて、採集にして、それからでは?
世界で広がる耕さない有機農業 新たな認証制度「ROC」が後押し
まあ、耕起とか施肥とか灌漑とか密植とか、およそ農業に関わる技術というのは全て環境破壊ではあるわけです。その意味では有機農業だって問題なわけで、農業というのはしない方がよい、生えてくるものを採集するのにとどめた方が良いのです。ひたすら掘り漁って枯渇させるのもよくはないでしょうが、普通に起こる程度の枯渇では鉱物資源と違って再生には数十年しかかからないので、邪魔なものを引っこ抜いて有用物を植えて収穫する農業よりは、環境破壊の程度には上限があります。

■2023年06月25日(日)  何か心配ならうだうだ言ってないで金を集めて競合を立ち上げればいい
「争いではなく共生を」 黒田東大院教授が考える「半導体民主主義」
こういう空虚なことを言う人というのは人間やその組織を何だと思っているのでしょうか。そもそも原料供給を外部に頼るということ自体が本来はリスク要因であり、そのリスクの低減のために強制というか流通の安定が望ましいという理屈でしょう。あくまでも望ましいであって、実現できるかどうかは別の問題、言ってみれば他の要因との兼ね合いで決まることです。そこで都合がいいからと共生を説いても意味はありません。もしかして事業経営の最前線で活動していて理屈でものを考える感覚が腐って事業経営にはこうなることが望ましいからこうなって欲しいなとしか考えられなくなっているのでしょうか。
何でも民主主義と付ければいいとか思ってんじゃねーよ。

■2023年06月25日(日)  本来必要でないサービスてんこ盛りじゃないの?と言われたくなければちゃんと必要だということを説明しましょうね
高騰する出産費用、保険適用ならサービス低下? 「入院日数短縮も」
経費の高騰は確かにあるので、保険点数というよりは点数一点あたりの換算額(現在は10円)を調整すべきではあるでしょう。経費の高騰は産婦人科だけ、分娩管理補助処置だけの問題ではありません。
一方で、医療提供側がサービス低下と言う場合は少し注意する必要はあります。そもそもそのサービス低下をもたらす枠組みと言える療養担当規則自体が無用あるいは過剰なサービスを抑制することを目的にしています(規則18〜20条)。具体的な内容を決めるのは厚生労働大臣でありその諮問する諮問会議のはずですが、保険診療においては診療行為の内容は患者との合意事項であると同時に保険者との合意事項でもあるのですから、患者より診療行為やその有効性の評価に詳しいはずの保険者(というか公的医療保険については保険者に代わって水準を設定する公的機関)に診療行為の正当性を説得することは医師の方の義務で、サービス水準が低下するなどと簡単に言ってはいけないのです。大枠として保険診療内容に盛り込むことはもちろん、実際の診療において専門的判断の上で診療行為を決定する権限が - もちろん患者が拒否しない限りですが - 医師にはあります。その決定は事後的に保険者によって審査され、保険診療に該当しないとされることがありますが、必要と判断した場合にその可能性を患者に説明し、納得させることも医師の義務でしょう。もちろん、保険診療への適合性を否認されたときに被保険者に過剰な負担 - 例えば全額自己負担 - がかかるような仕組みはまずいとは思いますが、どうしても患者との対面だけで診療内容を決めたいというなら、まず保険医を止めるべきだと思います。

■2023年06月24日(土)  節制の道徳を説く専門家(笑)
砂糖の食べ過ぎはだめ、甘味料も控えて WHOが掲げるビターな指針
いやまあ、いくら砂糖抜きでもカカオやコーヒーもダメだと思いますけどね。「要は、健康を増進するために、人々は人生の早い段階で食べ物の甘味を抑えるようにするべきなのです。」というのはまあ、間違ってはいないと思います。ただ、それなら味付けせずに水から煮た豆に適度に植物性油脂をかけたものだけ食べてればいいわけで、そんな食事を健康のために我慢できる人がどれだけいるのかと思わざるを得ません。宗教家や教員がそう言うならまあポジショントークと思わないでもないのですが、例え政治的な立場であれ、健康の専門家がこういうことを言うのは配慮に欠けていると思います。もちろん非糖質甘味料が肥満を抑制するかのような言説を垂れ流している食品会社、製薬会社、医療者などは、お前らが変なことを言うから肥満がさっぱり減らないと罵って構わないのですが、一般庶民に甘いものを諦めろと言うのはただの修養思想であり、意味がありません。例え人間が生理的にそれほどの甘味料を摂取するようにできていないとしてもです。甘味の適切な添加は人間にものを食べさせる唯一の普遍的手段であり、それに対する制約はフィジカルコンディションはともかくメンタルコンディションを悪化させ、労働生産性を落とす危険が多分にあります。人がみんなものを食べずに、あるいはものを食べても満たされずに膝を抱えて蹲っているのが望ましい状態だと考えているならともかく、もし専門家であるのであればもっとましなことを言うべきです。

■2023年06月24日(土)  なんか警視庁の暴走のような気がするのですが
「刑事告訴許さん」 動画で威迫した疑い ガーシー容疑者を再逮捕
ええとですね、これが犯罪だというなら金融機関や取り立て担当の法曹は須らく犯罪者だと思うのですが。風儀の悪さはなかなかのものですよ。
たかが動画で乱暴な言葉づかいで許さないとか言った程度で、そもそも刑事告訴について告訴された人が捜査や公判における防御以上に何ができるわけもないことなど、普通に高校を出た人なら知っていてしかるべきですし、だからこそむしろ告訴の乱用について虚偽告訴のような犯罪行為類型があるわけです。もちろん風儀の悪いのは褒められたことではありませんが、刑事事件になるのは度を越した場合でしょう。東谷氏が度を越して柄が悪いという印象まではないのですが、それとも警察は、成人した日本人男性の八割くらいは犯罪者だと思っているわけでしょうか。

■2023年06月23日(金)  中間者を信用する制度はもう古いかもしれない
「通信の秘密の保護」に制限検討 サイバー攻撃への対処、政府が強化
正直、防御権を無条件に認める限り、制度としての通信の秘密の保護というのはそろそろ古い概念なのだろうと思います。エンドツーエンドで十分強力な秘匿化手段がありますので回線を盗聴されたところで対策は可能(というか現代的な通信機構は中継の過程で通信内容が中継者から見えることが前提なので厳密に言えばエンドツーエンド以外での通信の秘密の保護は実施不可能)ですし、攻撃にしても政府機関よりはむしろ非政府系の攻撃者が問題になっています。もちろん防御を違法化したり通信事業者が契約条件に防御の無効化を含めることを認めるような制度の方がまずいでしょう。
つまり、古典的な例で言うなら、封書にしたうえで内容を暗号化する方がむしろ当然、中を読んでもよい代わり暗号化は禁止などとは絶対言わせるべきでないということです。もちろん連絡自体が、まずは安全な連絡手段を確保することから始まるわけです。いきなり初めての相手に電話してその通話内容の秘密が保たれると思うべきではなく、この通話は内容が漏れるとまずいのだという意識を共有し、秘密にする手段を共有したうえで、電話をかけないといけないのです。

■2023年06月23日(金)  もう鉄道は本業ではないでしょう - まあ、鉄道事業が本業の鉄道会社が日本に何社あるのか知りませんが
銚子電鉄、2年連続の黒字達成へ 変わらぬエンタメ鉄道の悩みとは
いや、それ株式会社としてすることですか?トータルで黒字が出てればいいってものでもないと思うのですが。
もちろん杓子定規に考えるべきではないので、銚子電鉄の鉄道事業というのはもはや本業ではなくむしろ借景などによるテーマパークを構成する一要素なので、エンタメでいいのだと割り切ることは可能ではあるでしょう。その場合地域の足などというのも従でしかありませんから、できる範囲でということになりますし、メインの顧客である観光客、応援乗車客を優先することになります。つまり観光客、応援乗車客で満員になっていた場合も一般乗車客の方がそういうものだと我慢する、観光向け乗車券しかなくなってただ乗車したい場合には高いだけの料金になっても受忍すべきということですね。
開き直るというのは妙な物販に走ることではなくそういうレベルで事業を捉え直すことを言うわけで、もちろんその事業として今のような物販や観光客誘因策をするでいいのですが、フリだとしてもくそまじめに鉄道事業をやるような顔をしているのはおかしいし、もちろん周囲もそれを求めるべきではないのです。

■2023年06月23日(金)  ちょっかいをかけられた警察官と捜査官の皆様はお気の毒に
パトカーや交番に生卵投げつけ容疑 「パト鬼したかった」17歳逮捕
まあ、捕まる可能性を踏まえてやったのでしょうし(追いかけてきた警察車両から逃げるゲームなわけですから、失敗すれば当然捕まります)、馬鹿だなあとは思っても、楽しめてよかったねと言える気はしますが、警察にとっては迷惑ですよね。その場さえ逃げ切れば、一年近くに渡って地道に追い回されるとは思っていなかったのだとは思いますが、本来警察というのはそういう組織であり、その意味で本気にさせない線で遊ばないといけないのです。動機がまさに警察に迷惑をかけることですし、官憲というのはそういう遊びの対象になることを慣習法として義務付けられているので仕方ないのですが、挑発行為に及んだ悪ガキを追い掛け回す羽目になった警察官の方々には気の毒としか申し上げようがありません。

■2023年06月23日(金)  水泳はもはや学校で扱ってよい内容ではない
女児の水着めくり撮影「ルール違反か確認のため」 容認の校長を処分
だから水泳の授業は無くすべきだと思うんですがね。もはや学校にとっては扱いが微妙過ぎるでしょう。水着の問題もそうです。体育は全般的にそうですが、器械体操などの体の操作を教員が補助する必然性のある内容は原則廃止するべきですし、球技のような器具(ボールだって器具です)を任意に扱う技術を習得するものも、団体での競技を前提とするものも廃止するべきです。個人単位の競技も望ましくないとは思いますが、競技による順位付けが教育上必須だというなら仕方ないでしょう。正直そんな無能な教員に教育を担当して欲しくないですが、とりあえず現行の仕組みや要員を前提にしないわけにはいかないですから、まずはそれで我慢して、早急により良い方法論を開発しそれを習得した要員を現行要員に代えて現場に配置していくべきです。旧式教員は、リスキリングに応じなければ免許失効、解雇ですね。競争や順位付けに頼らない教育法というのは今までいくらでも提案されていますし、それなりの評価も出ていると思うのですがね。

図書館で、小学生に声をかける不審者に遭遇した母は…… 安全だと思い込んでいる場所でのトラブルと注意喚起に驚きの声
これも似たような話で、社会的には自己防衛の能力に乏しい子供に安全な場所などないと考えるべきですし、保護者としては目を離していい場所はないと考えるべきです。もちろん子供を集めることを目的としたイベントや場でも同じです。常に子供に危険が降りかかることを想定し、それを未然に防ぐべく働きかけを行う責任を負うのは保護者を措いてありません。本来PTAのような仕組みとは別に、保護者には責任を負う子弟について学校などにあり得る危険を指摘して対応を求め、対応が十分に実施されない場合は危険の発生源となる行為の差し止めと対応を求める申し立てをしかるべき機関に行う権利が認められてしかるべきです。もちろん保護者には、被保護者に対する保護の義務の一部として、業の一部として保護を受託する第三者の実施する役務について、たとえそれが保護者の保護以外の義務を受託実施するためのものであっても、保護者自身の義務の履行を要件に役務の適用を拒否する権利を認めるべきでもあります。つまり学校の安全確保が不十分なので十分に確保されるまで体育の授業は受けさせないといったことを、個別の児童生徒ごとに認めるべきなのです。

■2023年06月23日(金)  買う価値のないものを買わないことに何の不思議も悪意もないと思いますが
ニュースへの対価義務づけ、カナダで法案可決 メタは配信停止で対抗
対抗というより、これはMetaのやりようが正しいです。Metaから見ればあるアカウントが勝手にメッセージを出しているという話で、それこそうちが費用を払えと言うならうちのプラットフォームから出ていってくださいと言うのは当たり前のことです。もちろん報道事業者も配信が嫌なら止めればよかったわけです。売らない、買わないというのは絶対的な、否定しえない権利であり、それを行使することにいかなる問題もありません。だからこそ、ボイコットされるような行動は慎むべきなのです。
この件が、ニュースが流れないFacebookなんか用がないとユーザーが減るのか、それともFacebookというプラットフォームに何の変化もなく終わるのかはわかりませんが、我々は有益だ、金を受け取る権利があるというのはあまりに傲慢な言い様です。まずどうすれば売れるのか、配信各社にはしっかり考えていただきたいものです。

■2023年06月23日(金)  本屋の主はAIに頼らないと需要も読めないのか
紀伊国屋書店など3社が新会社設立へ 書店主導の出版流通めざす
趣旨は分かりますが。
「AIを活用した需要予測で返品や欠品を減らすなどして書店の利益を増やし、経営の持続性を高める」
AIに頼らないと需要も読めないような人が経営する書店は潰れてしまえ。商人の片隅にも置けないってもんです。
そもそも本屋に買うような本はもう売ってないでしょうが。これで返品率を下げる、在庫コストを下げるなど、売れ筋の本しか置かれなくなる様子が目に見えます。なら書店など要りませんから、書店も取次もなくして、出版社から直接買う前提にして決済手段を整えて欲しいものです。

■2023年06月23日(金)  運送コストが無料だなどという非常識を信じる人なんかいないでしょう
「送料無料表示やめて」トラック業界訴え 2024年問題ヒアリング
まあ、ヒアリングなら言っていいでしょうね。
ただ、自分たちが馬鹿なことを言っているという自覚は持って欲しいものです。いわゆる送料無料表示というのは、売り手が送料を負担すると言っているのです。まあ、なんで楽天の荷物だと無料なのにうちで呼ぶと金を取るんだと言われたらそれは反論していいですしそんな仕事は受けるべきではないですが、じゃあ、送料売り主負担とか、送料楽天負担とか書いたらそれで良いのか。おそらく記事から見るにそれで良いのでしょうし、それならそれでいいですけどね。とはいえ言葉尻を捉えてケチをつけているという認識は持つべきです。
もちろんこれが不当表示にあたりうるという消費者庁の判断自体は是認できますし、実際には送料がかかっているのに送料無料はおかしい、ちゃんとコスト構造を明示するべきだと言うならそれはそうなのでしょう。ただしそれは、運送屋の士気が落ちるからではありません。適正なコスト構造を実現する第一歩がその明示だからです。物であれ人であれ移動のコストというのはオーバーヘッドですから、例え100円であれないに越したことはありません。葉書を一枚送るのに80円とか90円かけるよりは月五千円払ってメールを送る方がましです。個人的には運送業の重要性や運送業界の事業努力には敬意を払っていますし、個々のドライバーさんなりハンドラーさんなりはかけがえのない仕事をしていると思っていますが、とはいえ「苦労して再配達までしているのに、送料無料と言われるとやりきれない気持ちになる」というのは、「送料無料表示により消費者に運送コストへの意識がなくなっているのではないかと危惧」というのは、あまりに運送がしないで済むならそれに越したことはないもの、物それ自体のコストとは認めがたい費用だという認識に欠けます。まあ、もちろんちゃんと運送コストを明示した方が、それこそ消費者も余計な運送を発生させないよう心掛けるというものではあるでしょうが。ドライバー不足だと言うなら、そういう解もあるんでしょうね。
なんというか、30年ほど前に、うちのマンションの一階には冷蔵庫があるという(つまりマンションの一階にコンビニが入っているので自宅に大型の冷蔵庫は要らないという)表現を見たのを思い出しました。

EC事業者「送料無料表示が原因ですか?」2024年問題ヒアリング
それはそう言うでしょう。送料無料とは送料を店が被っている意味だというのは全く正しいことですし、そう言うからには運送業者から請求される運送一件当たりの送料が上がっているというデータもあるのでしょう。
もっとも、ある意味たかが広告の問題ではあるわけで、交渉でそうは書かない、その額を店が被るにしても送料無料ではなく送料相当額の割引と書くという合意もあり得るとは思います。EC業者側が言っているのは価格構成としてそういうことですから、それをちゃんと書けというのは消費者政策上あってよいことではあるのです。

■2023年06月23日(金)  なら不足分は父兄が寄付すればいい
授業料の「完全無償化」で不利益に 私学に通わす保護者ら府に意見書
「一方的に授業料を“値切る”ことで、学校が教育内容を維持できなくなれば、いままでどおりの教育を受けることが出来なくなる」
これはその通りなのですが、この父兄は私立の学校に授業料しか払わないとでも言うのでしょうか。私立学校というのは立派な公益非営利団体ですので、どんどん寄付をすればいいのです。現在の授業料に比べて府が支給する授業料相当額が少ないと言うなら、その差額分を寄付すればいいだけのことです。もちろん経済的に寄付が難しいご家庭もあるでしょうし、その分は余裕のあるご家庭が寄付をすればいいのです。一律に授業料を取るよりもよほど公平ですし、授業料のような根拠不明な徴収金よりも寄付しろって言うけどなんに使うんだと言える寄付の方がよほどましでしょう。もちろんそこで説明を信用できないような、あるいはまともな説明もせずに足りないからこれだけ寄付しろと言ってくるような学校なら、子供を通わせなければよいのです。公立はちゃんとあるのですから。もちろん、新学年の相当前に次年度の予算をちゃんと立て、設備の整備も含めてこういうことをするからこれだけの負担をお願いすることになると、受験生も含めて説明することは義務でしょう。入学手続をして入学式に臨んでみたらいきなり高額の寄付を求められて青くなるような状況を作り出すことは詐欺にも等しい行為です。

■2023年06月23日(金)  それは戦争を吹っ掛けられる方が悪いよ
ゼレンスキー氏、原発への「テロ攻撃」警告 「占領から完全解放を」
タイトルを見て、ウクライナ側が占領下の原発に破壊工作、反ロシアテロリズムを仕掛ける意図かと思いましたよ。されたくなければ解放して撤退せよ、という。
まあ、いいのですが、それを言うならそもそもロシア軍の接近や占領を許したウクライナ側に責任があります。ウクライナは同原発を十分に管理する能力を持たず、運営の資格がないことを認め、同原発と周辺地域の主権を全面的かつ永久的に放棄して国際連合安全保障理事会の管理下に置くべきです。もちろん、その安全保障理事会には常任理事国としてロシアがいるわけですが。

■2023年06月23日(金)  人間だって同じだ
ChatGPTの自信満々なウソで思考ゆがめる恐れ 子ども特に注意
これは人間でも親や学校教師が日常的にやっていることであり、その思考の歪みから脱出することが個人の知的発展につながっていると思います。もちろんできなかった人は一生その歪みに囚われ続けるわけで、そこは問題ですが、人工知能に限った問題ではありません。まして親や教員は自信満々なだけでなく権威すら背景にしているわけですから、その害悪は人工知能の比ではないのです。
もっとも、おそらく対処法はそう難しくなく、「教えてくれる」人を信用しないよう躾けることです。教師が嘘を言っている可能性に気付くことが学校教育における実質的な達成の一つであり、大学で教授の「教え」に甘んじず調査と議論によって切磋琢磨する学徒を育てることにつながります。それができない人は、工場で班長の言うことに従う人生がお似合いです。

■2023年06月23日(金)  むしろなんで今更在来線を引く?
JR「羽田アクセス線」は特急専用路線になる、その3つの根拠
いやまあ、JRが羽田空港アクセス線を今さら作るなら、新幹線規格にして東北・上越方面乗り入れでのぞみ料金でも取ればいいじゃないかと思うわけですが。これなら全車指定でもいいわけですし。もちろん中央・房総方面は惜しいのですが、それなら成田アクセスも新幹線にすればいいだけのことで、中央線方面の客は東海がリニアで拾って品川乗り換えで十分です。新宿や池袋など放っておけばよいですし、なんならNEXが新宿まで行くのですから、高架でも足して新宿・池袋方面に新幹線を通すなり、あるいは八王子あたりに新幹線新駅を作って東京駅の新幹線ホームを廃止し、とにかく東京が中継点の人は山手線、在来線に乗らないようにすればよいのです。もはや新幹線を作る芽がないところは仕方ないですが、在来線特急など原則廃止で良いでしょう。

■2023年06月22日(木)  どこまで意味があるやら
ネット上の危険製品、削除体制強化へ 事業者による「製品安全誓約」
いやこれ、民法にでも典型契約として処分への事前同意契約のような形で盛り込み、出品者が事業者に安全を誓約する形にするべきだと思うのですが。もちろん事業者による危険な製品という指摘への対応はあってしかるべきですが、出品物のスクリーニングが事後的になる時点で製品安全誓約としては機能していません。善良なる管理者の注意義務の水準を設定するだけの話です。もちろんマーケットのカジュアルさを損なう措置なのでカジュアルさを売りにしてきたマーケット事業者にはありがたくないことになるのですが、そもそもカジュアルで済む範囲でなくなったからこういう話が出てくるわけで、せめて出品物の安全性についてアップルやグーグルのアプリショップ程度の責任を持ったスクリーニングが必要ということではないでしょうか。

■2023年06月22日(木)  こんなことになるんじゃないかとは思ってましたが
お客の同意ないのに「プライム会員に加入」 米当局がアマゾンを提訴
気づかず入会、アマゾンプライムは「ダークパターン」 米当局が提訴
AmazonをFTCが提訴 「プライム」の“詐欺的”な加入/キャンセルプロセスをめぐり
アマゾンは数百万人のユーザーを騙してプライム会員にさせたと米FTCが指摘
さすがにあれは酷かったので、むしろ遅すぎるくらいと言うか、最近若干ながら改善はされてきていますね。避けるのが少しは楽になっています。
とはいえ、「FTCの主張は事実関係も法的にも誤っている」というAmazonのコメントはさすがに不愉快なわけですが、まあ、被告人(一応民事訴訟扱いなので正しくは被告ですが正直被告人と呼ぶことに違和感を感じません)としてはそう言うしかないでしょう。FTCが頑張って立証してくれることを期待します。
でまあ、こちらがASCII.jp記事から辿ったFTCのニュースリリースで、ここからワシントン西部連邦地裁にファイルされた訴状を読むことができますが、結構黒塗りされています。まあ、個人か何かが特定できる名詞でしょう。とはいえおおむね内容は読み取れ、まあ、多分Amazon.com/.co.jpを使った経験があり英語の読める方ならああ、あれね、とわかるのではないかと思います。なんかでっかいオレンジのボタンと書いてありますが、そこまででかかったかどうかはともかくとして、ともかく辿っていくと、非常に押しやすい位置に「Prime無料体験を申し込み」などというリンクがあるという話です。あれはむしろ「無料体験を申し込まずに購入」だったかなんかを普通のチェックアウトへのリンクだと気づかずに困ってしまうのが問題なわけですが、うっかり押してしまうと、その後何度も「本当に退会するの?」という、amazon.co.jpを退会しようとしているかのような問いかけを潜り抜けてキャンセルしないといけないので、なかなかに精神的なハードルが高いものでした。唯一の対策は、自動引き落とし可能な決済方法を登録しないことです。つまり日本の場合Amazonギフト券での決済(紙)だけにしておけば、決済方法がないのに申請しようとしたというエラーメールがそのうち来て、キャンセルの機会ができるはずです。サイト上でのチャージ手段を登録している場合、そちらに請求がいくでしょう。かならず、コンビニなどで買って番号を登録してチャージするギフト券の方でないといけません。

■2023年06月22日(木)  味わうことを人工知能に任せて何が嬉しいのか
音楽や酒が「分かる」AIがいたら代わりますか 人間しか出来ぬ営み
頭の部分がAI生成だそうです。やってくれます。「定型的なそれっぽさが必要とされる場面で、AIは人間以上に勤勉に働いてくれそうだ。」というのは全くその通りです。
ただし、少なくともこの記事のタイトルは勘違いをしています。人工知能が問題になっているのは生産、供給の担い手として稼ぐ人間を排除する可能性がある - というか商業的な作品についてはまず間違いなく人間は排除される - ということで、もちろん流通についても排除される可能性はありますが、享受については排除してしまったら意味がないというか、経済的に意味がある状態を作り出すことは可能ですが、それはただの馬鹿でしょう。享受する人たちが受け入れてくれる「作品」、お金を払ってくれる作品を、安く、わがままを言わずに「生成」する道具として人工知能に期待がかかり、かつ「暖簾」を作り出すためにネームバリューのある故人を引っ張り出しているというのが、娯楽産業における人工知能の扱いの現状です。研究者・開発者がそう言っておけばお金が出るからとそこに乗ってくるのはともかくとして、創造と享受からなる芸術文化全体を人工知能で代替しようという話では、少なくとも今のところはありません。もちろん芸術作品を享受することで生じる情動がケミカルなレベルで、あるいはフィジカルなレベルで把握された暁には、享受する人工知能が流し込まれた作品に応じた情動をそれ - 人工知能 - につながれた人間に引き起こす(例えば強制的にベートーベンやシェーンベルクに感動させる)ようなことも起きるかもしれませんが、とりあえず金儲けか全体主義のいずれかにつながるのでなければそんな話は出ても来ないでしょう。
また商業的に作品制作が人工知能に代替されたとして、それでも作品制作に挑むクリエーターを文化から排除することはできません。他のことで稼いででも創作をせずにはいられないクリエーターのアンダーグラウンドな創作活動こそが、最終的に商業主義に絡め取られつつも現代文化を支えてきたことは明白でしょう。芸術産業の部分は会社が人工知能を駆使して作るものになるのだと思いますが、その一方で、手持ちの中で創作を行うクリエーターに取って、人工知能はなくてはならない道具になることも、個人的には確信しています。創造性の発揮ではなく、創造物の洗練や具象化において、人工知能が役に立つことは明らかです。例えばマンガ製作において、ストーリーの構築やそれをコマという単位でページに割り付けるコマ割りのような作業は一般に作者が(商業では多くの場合編集者と相談しながら)行いますが、位置や姿勢、表情といった部分は作者自らが書き込むことが多いですが、服装の細かい部分や効果、背景などはアシスタントと称する人たちが行うことが普通だと聞きます。人工知能は、アシスタントを動員できないクリエーターが自身で本質的でないが丁寧な作業が必要だと判断した部分を担うことができるでしょう。またストーリー作りやコマ割りにしても、判断に困ったときに人工知能は相談相手となりえます。もちろん制作工程のどこに人工知能を動員するかは、作者の判断です。それがアイデア以外、あるいは作品のコンセプト以外の全てに及んだとして、その権利の所在を論ずるのは法律家の仕事でしょうし、その芸術性を論ずるのは評論家の仕事でしょう。
また、実演家の商業的活動に影響が出ることは明白ですが、一方で例えば音楽史において、19世紀末から20世紀初めの作曲家たちが少なからず実演家の恣意を排除しようとする傾向を持った点も参照されるべきです。そのような作曲家としては、ロッシーニやヴェルディ、ストラヴィンスキーやマーラーがいます(リヒャルト・ワグナーもそうでしょうかね)。手下の実演家の制御を目指したという点では、トスカニーニやバーンスタインなどの指揮者もその口かもしれません。彼らが存命なら人工知能に実演(楽器の演奏)を任せることを考えたかもしれないと、ふと思うことがあります。というか、ストラヴィンスキーなら人工知能を使う前に自分でサンプリングや波形の編集から打ち込みまでやってシンセサイザーとシーケンサーを絶対視しそうな気もするのですが。リヒャルト・シュトラウスを除けばAI(作曲家名)などというものは唾棄しそうではあるにせよ、偉人伝に出てくる作曲家たちは、人工知能に真似されたところで、ならばそれを超える作品を生み出そうと奮起しそうではあります。
ともあれ、人間の営みに芸術産業が寄生していると理解するものだと思いますし、芸術産業に依存するクリエーターであれ芸術産業の資本家が駆使する人工知能であれ、享受という営みに貨幣経済という回路を通じて作品を供給するという意味では同一です。供給された作品が芸術であるかどうかは、享受した側が決めることです。これは創造された作品の流通役として商業資本が寄生することについても同じで、作品流通があろうがなかろうが、現にというか既に芸術というものを人間が知っている以上、流通の機会があろうがなかろうが創造は行われますし、作ってしまったものを流通させる手段ももはや事欠きません。儲けにはなりにくいかもしれませんが、投げ銭式に集めることも可能ではあります。むしろ商業的作品流通の方が創造に関わる役目を終えたと理解すべきではないでしょうか。

■2023年06月20日(火)  頭を良く見せようとかするからこうなる
「女性DNAに虐げられた歴史」横須賀市長 「不用意な発言」と釈明
「女性のDNAに…」発言、横須賀市長がおわび 市民らは署名提出
趣旨としておかしなことは言っていないと思いますが、頭良く見せようとしてDNAとかミトコンドリアとか言うから問題になるんですよ。文系や理論系が恰好をつけてこういう理学工学の専門用語を使うことがよくありますが、非常に恥ずかしいことなので、やるならまずその学部をそういう専攻で卒業してから言って欲しいものです。別に深淵だとかなんだとか言うつもりはありませんが、ちゃんと定義がある言葉を文学屋的出来心で比喩的に意味を拡張しようとしないでいただきたい。少なくとも専門用語を使ってコミュニケーションを取る世界を経験していれば、それがどれだけ迷惑な行為かわかるはずです。理工系的には言葉の意味なんて痩せ細っていても厳密精密でありさえすればいいわけですから。DNAはデオキシリボ核酸のアクロニムであり、遺伝要素という意味ではありません。それにはgeneなりMendelian factorなりという言葉があります(後者は基本的に物的なものでしょうけど)。デオキシリボ核酸に怨念や無念さが刻まれるわけがありませんし、ミトコンドリアは確かに母親に由来するわけですが、新しいものができるときに働くのはその中のデオキシリボ核酸であり、ミトコンドリアが永久に引き継がれていくわけではありません。
まして、仮に女性に世代を超えた社会的差別への怨念や無念が絡みついているとして、それが物的遺伝現象に由来するなどと言うのは不見識です。それを言うなら男性だって母親からその種の怨念や無念を引き継いでいることになるでしょうし、実際物的遺伝ではなく記憶の引継ぎだとしてもそういう怨念や無念が現代からも男性からも見えているからそういうことを言えるわけです。それを変に生物学用語を使って無意志的に扱うと見える表現をしたことは、例えその種の怨念や無念を踏まえて女性の活躍を保障していくことが必要であるという趣旨だとしても、不見識です。それを市長職にある個人として公式かつ真摯に謝罪することは当然でしょうし(もちろん横須賀市長としてではなく、横須賀市長たる上地克明としてですからね)、世界の生物学者、遺伝学者にも、自分は遺伝子というのがなんだかもわからず専門用語をふりまわした愚か者です、申し訳ありませんと謝罪していただきたい。この際ですからメディアも、何でもかんでも引き継がれる情報をDNAと表するのをやめて欲しいものです。例えば計算能力くらいならDNAに由来してもおかしくないとは思いますが、例えば企業風土がDNAに由来することは不可能です。

■2023年06月20日(火)  隣人かもしれない。だから何?
難民は海の向こうの人ではない、私たちの「隣人」だ 安田菜津紀寄稿
もちろん、日本に来るとなれば飛行機で来るのが一番効率が良いでしょうし、難民というのは避難民のことで、本来亡命者も含みますから、これだけ航空運賃が安くなれば、着の身着のままで空港に降りてくる人だっていくらでもいるでしょう。また日本滞在中に帰国のしようがなくなる事態も、アフガニスタンやミャンマー、タイなどの事例を考えれば十分あり得ます。彼らは隣人でしょう。
だからなんでしょうか。もちろん目の前に困っている人がいれば保護してもらうために警察には連れていくかもしれません。しかし、今日の宿に困っています、泊めてくださいと言われて泊めるでしょうか。それは、例えば入管の留置施設に入れるのと何か違いますか。もちろん留置施設に人道上の問題があるかもしれません。それは警察でも入管でも同じです。しかし自分の家に泊めるのは御免だ、それが普通の感覚でしょう。なぜ、困っているからと言って滞在権を認めないといけないのでしょうか。あるいは隣国に徒歩で脱出するのがやっとの難民を引き受けないといけないのでしょうか。文字通りのお隣さんにしろ、せいぜい余っている食べ物とポリタンクに入れた水を渡す程度で、屋根が落ちましたと言われて泊めますか?
滞在させろ、社会に受け入れろというのは、家がないから止めて欲しい、屋根が落ちたから止めて欲しいというのと同じことです。それは、まあ、ユダヤ教やキリスト教の隣人愛からすれば冷淡な話ではあるでしょうが、家内の安全を犠牲にしてまですることではありません。
というのがむしろ常識だと思うのですが、まさか世の中では、家に問題が出るとホテルに泊まるのではなくお隣さんにお世話になるのが普通なのでしょうか。なんかそんなことを言われて、断って格安ホテルに泊まった経験はありますが、変だと思いますけど?

■2023年06月18日(日)  学問の自由を守ると称して全体主義化する方がお笑い種
民間技術も軍事利用される時代 学術界は学問の自由をいかに守るのか
学術界に守る能力などあるわけがないと思いますが。
そもそも民間技術が軍事利用されるのと民間人が軍事技術開発に拘束されるのとは事情が違い、軍用に使っているけれども単に顧客としてで、技術自体自由に運用できているという状況は普通にあります。防衛省だって、この技術を自衛隊で使うから事業活動は全面的に防衛省の指示に従うようにとか、買いたいから関係者全員の身上書を出せとかは言ってこないでしょう。もし言ってきた場合、気に入らなければ、その条件ではお売りしませんと言うだけのことで、それができない制度があればそれは自由の侵害です。
大学もそうで、確かに大学組織を軍事研究に動員することは学問の自由への侵害ですし、まともな研究費補助が軍事研究だけになったらそれはそれで政策としておかしいわけですが、他も選べる中からある研究者が個人的に軍事研究に協力するのは、むしろ禁止する方が学問の自由の侵害というかパワハラでしょう。もちろん、学生が研究室に入ってくるときに、配属されてから「うちは軍事研究をするからクリアランスチェックを受けて」などと言うのは不当な後出しじゃんけんで、配属手続の際にこの研究室では防衛省のクリアランスチェックを受けないといけないと明示しておかないといけないでしょう。企業でも共同研究において教員や学生に守秘義務を課すことはあるはずで、そこで共同研究に参加するかどうかは教員や学生が個別に選択することであり、問題なのはそこで選択の自由が確保されているかどうかです。
とはいえ、企業や政府が本気になって動員をかけてきた場合、学術界にできるのは辞職して国外逃亡程度です。普通の労働者と違ってそれが比較的容易なのは学術関係者の利点ですが、動員自体を無意味化することはできても動員制度の確立を阻止することは不可能です。もちろん学術は業界利益団体ではなく個々の研究者によって守られるのであり、個人の組織に対する抵抗として逃亡は決して恥ではありません。

■2023年06月18日(日)  政府の戦略で日本復活しないことだけははっきりしていると思う
先端分野の競争力強化に重点 政府の戦略で「日本復活」できるか
それこそ効果はないので財政再建というか国債償還と国債発行抑止にあてた方がいいような気がしますがね。やり方が悪いというよりは何をやっても無駄だというだけですが。
もちろん単純に競争力を強化したいなら、ドルを突っ込んで先を行っている会社を買い占めればいいわけです。だめなところに買われてもろともに潰れるかもしれませんが、競争力としては競争相手も一緒にこけるわけですから劣後するということはないでしょう。独占禁止法も停止し、グローバルに一業種一業者にしてしまえば競争という意味では優位になります。
とはいえ補助の範囲で競争力をつける、競争的市場を国内的に維持したまま国内の事業者に世界市場での競争力をつけるとなると、技術力がなくても買ってもらえるものが作れる分野(例えば食糧や低価格衣料品)で補助金を突っ込んで輸出価格をダンピングしまくるくらいしかありません。これらは必ず需要があるので、値段さえ十分に下げれば確実に競争に勝てるからです。今ならウクライナに軍用消耗品を売りまくるのもよいでしょう。もっとも支払い原資はなさそうなので借款として積み上げておくしかないですが、デフォルトされなければ返済という形で後年の収入になります。

■2023年06月17日(土)  それはそうですが岸田さんのせいとまでは言えるかどうか
「岸田内閣、地方の感覚が欠如」地方議会出身の自民・萩生田氏が批判
「何かやるときに、今はこれ(予算と政策)を地方に届けるにはいつ執行しなければならないのか、常に話題になっていた。」
確かにこれは必要にして当然のことで、これをやれ(本当はこう決めたのでやって欲しい、ですね)と言ってその場でできるわけはないし、もちろん議会が絡めば審議の時間も必要ですし、召集の手続もあります。普通は物事というのはある程度スケジュール感があってその中で進んでいくわけで、なんとなく地方相手に限らない気もしますが、見通しを立てて進めていかないといけないのです。それができていないというのは事実としてあると思います。
とはいえ岸田政権は安倍政権と異なりCOVID-19対策のただなかで成立した政権であり、とにかくすぐにやらないといけないことが山積みになり、さらにそのなかでロシア・ウクライナ戦争への対応まで迫られたわけです。スケジュール感が狂っていても仕方ないように思いますし、とにかく案件を通すための国会対策で手いっぱいで円滑な執行までは考えていられないというところもあるでしょう。円滑な執行どころか立案のそこかしこに齟齬が出ている状況で、失敗しながらでも前に進んでいくしかないなどと言っているわけですし。
とはいえ地方自治体に事務を積み残されて困っている分には、地方自治体を急かしさえしなければ、当座仕方ないで済みますので、次の衆議院議員総選挙を目途に元に戻す感じではないかと思います。
だいたい菅内閣の時だってごたごたしていたじゃないですか。

「真摯に受け止める」木原副長官 萩生田氏の「地方の感覚欠如」批判
まあ、真摯に受け止めるしかないでしょう。それに内閣官房副長官というと官房長官を補佐してその手の段取りを官邸側としてするべき立場でしょうね。
とはいえ「多分あるんだろう」ではいささかまずいと思います。せめて、あることは認識しているが手が回っていない、円滑な進行へのご協力をお願いしているくらい言わないと。

■2023年06月17日(土)  少なくとも法人の事業分離は財産権の侵害を構成しない
大手電力の「所有権分離」、西村経産相が「財産権侵害」に言及
よくこの、憲法29条1項だけ取り出した解釈が出てくるのですが、大手電力と言えども企業です。単なる一人の自然人ではありません。
まず同条第2項として、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定めるとあります。つまり電力会社の「資産」を損なうような政策は第3項の適用対象となる可能性がありますが、発送電を資本の面で分離すること自体は法律で決めてもかまわないことです。個人たる自然人が一人で運営している事業を強制的に切り分けるとなると問題が出るでしょうが、事業組織として分離までしてある発送電を同一資本が経営してはならないとすること、そして相互の、あるいは持ち株会社の持ち株を売らせるかなにがしかの債券と交換させること自体は、憲法の定める財産権の保障を損なわないと考える方がまっとうでしょう。
それから、憲法上保障されているのはあくまでも個人たる自然人の財産権です。団体への適用は法人格を持つ団体について財産権を類推適用しているにすぎません。例えば会社法で、「株式所有を目的とする株式会社は設立してはならない」と定めればそれは通りますし、まず確実に合憲でしょう。株主にしたければ合名会社なり有限責任投資組合なりを使う方法もあるので、出資者の財産権を侵害することにならないからです。単なる法律上の仕組みに過ぎない団体なり社団法人なり株式会社なりがそんな権利を持つ方が変です。まあ、団体はそもそも完全な財産権は認められていないわけですが。

■2023年06月16日(金)  無意味なコストのかかった高い乾燥品ですか
「未利用野菜だから安い」を変えたい 乾燥加工に取り組む代表の挑戦
安いことのどこが悪いのかと言う気がするのですが。と言うと極論ですが、そもそも日本では安い野菜というのが一般的に流通しません。だからこそ、訳アリで安いというのが売りになるわけです。コストからみれば十分安いとはいえ、消費者の感覚からすれば高いのです。まあ、もしかするとゼロに近いほどいいだけかもしれませんが。
手間をかけた、工夫した、品質のいい、製品だから相応の値段で売りたいということばかり褒めるのは止めるべきですし、正直あの、包装の材料費や手間賃を払っているようにしか見えない一家族向け一日分パッケージの方を何とかして欲しいものです。ジャガイモや人参なのですから、ちゃんと保存すれば一か月程度はもつ方が当たり前でしょう。ならばせめて米と同じで10kgが最低単位であるべきですし、それで1000円程度であることが望ましいと思います。ユーキだムノーヤクだ丹精した野菜だと高値で売るのではなく、もっと手をかけない、安く売れるものを作れないものでしょうか。
また、本来乾燥野菜というのは自家製造して保存しておく類であり、売りになる類ではないと思います。本来各家庭で旬に60kgも買って保存処理をして食い延ばす方法論です。まあ、工場で作って軍隊や社員食堂、学校給食で使うという話もありますけどね。いずれにせよ安い時期に買って後々使うという性質のものです。それに味が濃縮されるとか何とか変な付加価値を付けるのは、あまりいいこととは思えません。
まあ、本人たちの罪かというとそうは思わないというか、こういう売り方もあっていいし志もありだとは思うのですが、ちょっとその発想は生産者サイドで暢気すぎないかと思うのです。例えば給食費が上がるとか言っているわけで、ならばむしろそちらに十分な品質の野菜を安く供給する方が大事ではないでしょうか。

■2023年06月16日(金)  ぼっちが恐怖?
ぼっちの恐怖、相次ぐ事件 社会学者「孤独は個人の問題ではない」
もちろん孤独は個人の問題ではないのですが、だからと言って孤独に誰かが口を出してくるなど御免こうむります。
もちろん実際に事件が起きているわけなので、孤独がなにがしか反社会的行動に個人を追い詰めてしまうケースがあることは理解します。とはいえそれは社会的結合も同じであり、つるんで流されて悪事をする例などいくらでもあります。ならつるむのは悪だと言うでしょうか。私は言いますが、まあ、普通はつるむこと自体を悪とは言わないと思います。「強制的な人付き合いが減ったぶん、人間関係は主体的に作らないとできない、自己責任のものになりました。」と言う以上、人間関係は強制的にであっても作っておくべきものというのが前提になるわけです。強制的なものにしろ主体的に作ったものにしろ人間関係が是認しうる内容のものとは限らない、むしろ人間関係は個人を悪徳に拘束しがちだと思う立場から見れば「強制的な人付き合いが減った結果、人間関係は主体的に作るとその内容について責任を問われる、自己責任のものになりました。」と言うべきだと思うのですがね。
まずぼっちの恐怖については、人間関係がないことではなく、人間関係がないことが不備と見做され、そう認定されることへの恐怖であると思います。実際この記事のような言説が為されるわけですから、ぼっちと言われれば落伍者と言われていると思うのは仕方がありません。ぼっちと言ったという理由で他者に攻撃性を向けたということは、人間関係に乏しいことを本人が自身の欠陥、それも指摘されることによって人格を致命的に毀損されるような欠陥と認識していたということでしょう。また環境においても、社会的地位を持つ親を持つ「不安定な雇用の中にいる若年層」のような「不遇な」人物とされる状況であり、それこそジョン・ガルブレイスの言う「医者の親に生まれた周囲にあわれまれるガレージ組み立て職工」の類だと自分で思い込みがちな状況にあったと言えるでしょう。おそらくこれもあって周囲との関係性も縮減していたと思います。このように、孤独ではなく孤独や階級降下へのスティグマが、むしろ社会の問題です。

銃は「不安定な心」補う装置だったのか 社会心理学者が見る長野事件
「どのような対人関係を望むかという「願望水準」と、実際に獲得した「達成水準」との食い違いの程度が大きくなると、その人は孤独に陥ることになります。」というのはその通りで、まあ、願望水準に対して対人関係の形成が未達成の場合に孤独になるということでしょうかね。逆に願望水準に対して過剰に人間関係を構築してしまう(させられてしまう)とそれは別の悩みのような気もしますが、孤独の一類型と分類することも不可能ではないでしょう。
とはいえ居場所がないと心が不安定になるというのはどうなのでしょうか。いえ、挙げられた三つの「居場所」のうち「人間的居場所」に孤立状態を含むのであればそう言うことは可能でしょうが、だとすれば「ただ、おそらく人間的居場所、つまり安らぎを得られる何らかの「安心基地」が家庭内にあったのではないかと思います。」という推測は、報道された事実関係から言って的外れではないかと思います。むしろ社会的居場所に不満があり、人間的居場所についてはむしろあるべきだった本来性を想起させられる場所となり、匿名的居場所については匿名性を主観的に失っていたことで心の安定性を欠き、その結果あるきっかけによって暴力行為に至ったと理解する方がわかりやすいのですが、一体どういう理由で「家庭によって安定化されていた心が本来匿名的居場所であるはずの場におけるきっかけの発生によって安定を失った」などと判断するのでしょうか。

「ぼっち」埋める居場所いかにつくるか 長野の事件が投げかけた問い
「容疑者の「現在」だけにとらわれず」
これはいいんです。犯罪行為は犯罪行為として、動機における孤独を問題にする場合背景をちゃんと見ることは重要です。もっともそれは警察や検察官のすることだとはあまり思いませんが。とはいえ、
「好きで孤立する人はいない」
はないです。本当は誰かと話をしたり、つながりたいという思いや葛藤を抱いたりしているのではないかなどと、余計なお世話です。独りでいたいのにいさせてくれないからこそ主観的孤独感に苛まれ苛立つ場合もあります。苛むつながりもあれば癒す孤独もあるのです。人間は他人を見下げる生き物であり、見下げられることを恐れる生き物です。人が集まった状態で安定化するとすれば、それは階層構造が完全に安定している場合です。階級制度に慣れた平民は貴族に見下されたからと言って不安は抱きません。

■2023年06月16日(金)  犯罪を明らかにすればいいってものじゃないというのは警察学校で教えるものだと思うのですが
「覚醒剤が本丸の別件捜査」 不起訴処分の男性ら、損害賠償求め提訴
なんかこの手の話が増えている気がします。もちろん警察としても嫌疑に関して相応の根拠と問題がある点を認識したうえでのやり方なのだとは思いますが、とりあえず「本丸」の嫌疑の内容が強制捜査に際して明示されない傾向がある=拘束され尋問されて初めて本来の容疑が明らかになることがあるという点は制度的に解消した方が良いと思います。犯罪容疑者の拘束が遅れるとしても、強制捜査においてはまず捜査の内容が裁判官に審査され、さらに強制捜査の開始に先立って容疑者に知らされるべきだと思うからです。逆に言えば現行犯であれ令状であれ、逮捕や家宅捜索などの理由となった嫌疑に関わらない、いわゆる「余罪」の捜査は厳禁ということです。
というか、少なくとも都道府県警の警察学校のカリキュラムを管轄地裁が認証する、当然そのカリキュラムには無罪推定の原則や強制捜査における謙抑が十分に盛り込まれていなければならないし、その点は地裁や最高裁が認証基準を公開して担保する感じです。もちろん内部告発もありで、それを含めて警察学校で認証内容に反する教育が実施されていると疑われる場合は地裁の指示で地検が捜査するなり、地裁に監査部門を設けるなりということになります。

■2023年06月16日(金)  そんなにコードを書くのは嫌ですか
ChatGPTでプログラミングのフラット化がはじまっている
「プログラマーが《IF-THEN-ELSE や WHILE》の地獄から解き放たれるときがきた!」
これを読んで、あ、だめだなこれ、と思いました。
元々コードを書くというのはさほどの苦行ではありません。もちろん一時間に数万行などというすさまじい生産性を要求されれば別ですが、コンピューターに何をさせたいかという思考はプログラム言語でするのが最適ですし、当然それをそのまま書きおろして肉付けしていけばちゃんと動くプログラムになります。まあ、効率が良いかというとまた別ですが、昨今のコンピューターや最適化コンパイラは通常の用途ならかなり効率の悪い、条件分岐とメモリブロックの移動・コピー、コンテキストスイッチを多用したコードも快適に実行してくれます。まあ、ホスト環境でのマルチプロセスGUIなんてそればかりやっていますからね。アプリケーションのコードもその恩恵を受けるわけです。
そうなると、他人がプログラムを生成するというのは、プログラム言語ではなく自然言語で指示を出すわけですから、極めて効率が悪くなります。もちろん、全く知識のない機能を使おうとしたときにはサンプルプログラムを探すより生成型人工知能にサンプルを生成してもらった方が手っ取り早いかもしれません。とはいえ、さすがにこれこれの型番のADCボードのLinuxデバイスドライバをPythonで書いてくれなどと指示して、まともなものが出てくるとも思えません。デバイスドライバがどんな動作をしなければならないかも含めてプログラマーのイメージが十分精密に構築されていることが不可欠であり、少なくとも私の場合、そこまでイメージが構築できていえればコードは頭に浮かんでいます。
もちろんコードを書きたくない、プログラムを作りたくないというなら話は別で、人件費よりはよほど安い使用料で便利なアシスタントを雇っているようなものでしょう。せいぜい活用するとよいと思います。
個人的には、とりあえず何かの生成型人工知能に所得税の確定申告書一式を生成させるあたりが目標かと思っています。別に書くのはさほど難しくはないのですが、何の書類がいるんだっけ、どの様式が必要なんだっけというところでバタバタするので、例えば出納帳簿をアップロードして確定申告書を作ってくれと指示すると必要な書式をまとめてくれる感じになるといいわけですが…まあ、サービスでとっくに出ていそうですし、有償版にでもしないとだめかもしれませんけどね。

■2023年06月15日(木)  あれは実はウクライナ支援ではない
「ウクライナ支援と差がある」 西側諸国とグローバルサウスで溝も
我々が行っているのはウクライナの支援ではない、ロシアを排除するための軍事外交であると言ったら納得するんでしょうかね。まあ、なんかウクライナばかり目立っていろいろしてもらって羨ましいと思うこと自体には無理もないとは思いますが、ならロシアか中国から喧嘩買って来いと言われたらどうするんでしょうか。

グローバルサウスが警戒すべきロシアの「帝国主義」と「再植民地化」
さて、これで納得してもらえるでしょうか。もちろん帝国主義化や再植民地化は問題の本質ではなく、ロシアという自分たちが制御不可能なパワーをこの際だから排除しておきたいわけですが。

■2023年06月15日(木)  人間なら身内だからいいわけ?
AIがクリエイターの権利を侵害する可能性、日本音楽作家団体協議会が声明
人工知能だけの問題じゃないと思うのですが、それともなんか似たような曲ばかり違う人が歌っているのはちゃんと権利処理されているとでも言うんでしょうか。むしろ類似性を判定するために人工知能を活用されてはいかがでしょうか。そして類似度に合わせて配分比率を決めておき、徹底的に配分を行うのです。それなら、人工知能が何か似たような曲を作ったところで類似度に応じて金払えと言えます。

■2023年06月15日(木)  それ有休か?
夏冬の有休、正社員は3日→1日 JP労組が会社案受け入れ正式決定
制度的有給休暇の定義を知っているとなかなかに奇妙な話なのですが、これはつまり、夏休みと冬休みのことでしょうか。一斉に取るのではなくある期間中に分散して取る。確かに休んでも月給額を減らされないという意味では有給休暇なのですが、どう見ても普通に言っている有給休暇ではないので、その略語である「有休」という言葉を使うのはおかしいと思います。
まあ、世の中には計画有休という考え方も出てきていますが、これもいつ取ってもいいけれど年間で消化するべき有給休暇(有給休暇は休んでもいいのではなくこの日数分は労働日に入れてはならないという意味であり、つまりは付与される有給休暇を除いた労働日に応じた年間の標準給与額を定め、週給にしろ月給にしろそれに応じて支給するということです)を期間の初めに取得計画を出す形で消化を徹底しそのために業務も調整するという意味で、労組が身内向けに特殊な言葉を使うのは勝手というものですが、報道機関はそれを普通の言葉に翻訳して記事にする責任があると思います。

■2023年06月15日(木)  ならどうならよいのか
共同親権「導入ありきの議論やめて」 子を危険にさらす 弁護士会見
懸念はわかります。しかし、どうしろと言うのでしょうか。
少なくとも戸長制度を前提としない以上、親権は(元)夫婦による共同親権であるべきであり、単独親権とする場合を裁判所が関与した特別の場合にするというのはむしろ当然の制度です。もちろん、DV等の問題の場合にどのように取り扱うかを十分に詰めることは必要ですが、今の制度の方が都合がいいから共同親権の検討は白紙にと言うのであれば、むしろ出生を原因とした親権という制度の方を例外にするしかないでしょう。つまり、産んだ人や産ませたらしい人には産まれた子供に手を出す権利も義務もないという形です。別途自分が、自分たちが保護し育てるという申請をして、それを例えば家庭裁判所が認めて初めて「親」になれるわけです。もちろん申請を許可する場合には様々な条件が付き、行政当局による監査が随時強制的に行われ、条件が損なわれた場合は親権消滅、当然離婚は親権消滅の絶対的理由となります。そして申請を出さない、もしくは申請が許可されない場合は、産まれた赤ん坊は行政当局にそのまま取り上げられ、養育施設や特別養子縁組という形で適切な保護者に育てられることになります。私はこのような制度でもよいと思うわけですが、共同親権に反対する人たちは、そう主張する覚悟があるのでしょうか。生みの親だから適切に育てられるなどとは思わないとして、なら誰なら適切に育てられるのか。児童保護の現場では養親であっても親として家庭的に接する保護者の下で育てられるべきだという発想が中心になっていると聞きます。こんな保護者スクランブルな制度が現行の家族法制や戸籍法と整合するのかどうかはともかくとして、具体的な事例への個別的な対処を超えて共同親権を認めることが問題だと言うなら、生みの親というのは親たる資格が本来ないと考えないといけないと思うのですが。

■2023年06月15日(木)  内心で喜んでいる治安関係者もいそうですが
ギリシャ沖で難民らの船沈没 少なくとも79人死亡 数百人が乗船か
行方不明は数百人の恐れ 船長逃亡の証言も ギリシャ沖の難民船沈没
冷たいようですが、自業自得でしょう。定員過大の状態で出港した船長の判断も問われるべきですが、そもそも難民の乗船希望者であれば、船長に十分な選択肢が与えられなかった可能性もあります。またそもそも正規の出国でもないでしょう。避難するのになりふり構っていられるかというのはその通りですが、ならばそのリスクも引き受けるしかありません。安全基準や手続にルーズな船長が指揮する船に過剰積載で乗る時点で、目的地到着前に沈没溺死するリスクは見込んでいるものです。
そのうえで、沈没海域の周辺国が難民とわかっていて救助を出すかというのは問題です。国際海洋法上は無茶な積載をした不法移民が乗船した船とはいえ救助するべきですが、この場合出発国なり出身国なりに速やかに送還するのが筋とはいえ、保護した時点でその部分で問題が出るのがわかり切っています。民間団体の船に救助させて、その乗客と認定して寄港を拒否する方が楽くらい思っても、おかしいとは思いません。

ギリシャ沖の船沈没、密航手引きの疑いで9人逮捕 救助対応に批判も
密航って、普通は船長の許可なく勝手に船に乗り込むことだと思うのですが、何をどうやって船長の許可なく過積載になるまで乗客を積めるというのでしょうか。密入国手引きの疑いででしょうかね。もっとも沈没した船から救助されて上陸するのが密入国になるのかはいささか疑問で、とはいえ身元証明書類というか出国許可なく入国することを要件とすることはできるのかもしれません。
そしてNGOは、救助対応を批判するというなら自分で救助したうえで、海難救助に則った保護制度を悪用するのではなく、ドイツにでも乗客として運んだらいいのです。地中海から大西洋に出てフランス沖を回り込むだけです。人命尊重とか人権尊重とか言うなら最後まで責任を持つべきです。

■2023年06月15日(木)  聞く力というよりは言う力の問題では?
経済界「税も含めた議論を」 少子化対策、首相の「聞く力」どこへ
いろいろな意味で聞かないといけないような提言ではなかったというだけのことですが、そもそも経済三団体(と主要労働団体)の提言はここ数年ろくなものがありませんので、無視していいです。その意味で、財界の力が落ちたというのは政治力というよりまともな、受け入れ可能な提言を作る力が落ちているということだと思います。懸念懸念とピーピー騒ぐだけでは子供が泣き叫んで駄々をこねているのと変わりません。
どちらかというと、その程度の人たちが企業経営者や労働団体指導部をやっていることの方が危機的だと思います。税で財源を手当てすべきだと言うなら議員がそう言っても当選に不安がないような形で出してくるべきですし、所得制限の撤廃に反対なら効果だけでなく有権者に自信を持って見せられるような対案を出すのが筋です。商談とはそういうもので、自分の都合だけ言って押し切ろうとするのは下手をすると取引における優越的地位の乱用ですし、そうでなければ取引を切られます。商売を下に押し付けるのに慣れて勘を失ったんじゃないですか?

■2023年06月15日(木)  こういうのは発注リスクが跳ね上がるわけですが
校務支援システムBLENDに設定ミス、成績表に誤り 宮城の私立高
設定ミスって、評定平均って設定を調整しないといけないほど複雑な出し方をしましたっけ?重みづけでもしてたんでしょうか。
まあ、ちょっとこれはないですね。間違っていたのが七割だったということは、計算式自体が間違っていたというよりはある状況で使うべき式や定数が間違っていた(その分岐を決める設定を誤っていた)ということなのだと思いますが、当然分岐の試験については条件を網羅するように行うべきであるはずで、制作者としてあるまじき失敗です。弁護の余地はおそらくないでしょうし、下手をすると検収において発注者を欺いて納品を完了させたという判断になりかねません。試験ができるように設計すること、そして納品時も含めてちゃんと試験を行うことはSIとして最低限のルールです。
もっとも、そこで納品時の試験費用を積むと発注者が値切ってきたりするので、難しいわけですが、そんなことはわかり切っているわけですから、納品時に試験を極力やらない、短時間、定型、自動の試験で済ますように設計しないといけません。それこそUIとコアロジックの分離などはそのための技法です。この会社(どうも一枚看板らしくていきなり製品の紹介に飛ばされます)への発注は注意するというか、ユーザー側で納得できる試験を設計し、その合格を以て検収とする必要がありそうです。ここでこういう事例が発覚した以上、今後この会社の製品を入れて問題が起きた場合、それは確認を怠った発注者の責任ということになります。

■2023年06月14日(水)  牧師が人工知能に説教まで任せたら信徒から負託された義務を懈怠していることになりませんかね
ChatGPTによる「AI牧師」が教会で説教を実施
いやまあ、プロテスタントなら牧師の説教に特段の意義は認めていないでしょうから(せいぜい礼拝の前座)構わないのかもしれませんが、少なくともカトリックでやったら涜神の行為だと思いますよ。
つまり、礼拝堂に集まるという行為を神学的にどう解釈しているのかという問題で、少なくとも人工知能に神の印なんてものはないでしょう。牧師はせいぜい神学を一定以上のレベルで修めた世俗的な助言者に過ぎませんから、説教を含めて牧師の神学的助言をどう聞くかは自らの司祭である信徒本人に委ねられる問題だとは思いますが、当然にこの場合の説教というのは宗教的儀礼の一環ではあっても中心的な部分ではありません。カトリックの礼拝儀式においては神が叙階の際に聖職者として印をつけた(この印の効力が歴史的に問題になってもいます)聖職者が神と子と聖霊の代理人として公認された教義について講話をすること自体が霊的な意義を持った行為とされるはずですが、プロテスタントにおいてはそれはただ人が教説を語っているに過ぎないとされ、儀式の重点はそれを行うことに霊的な意義を付与された礼典の執行にあるはずです。礼典自体は何らかの形で霊性を付与する仕組みに支えられているはずで、教説の構成上牧師の存在が必須でないにしても、一般に礼典の主催者を務める牧師(繰り返しますが牧師である必要はなく信徒団に承認された人であれば良いはずです)が人以外であった場合に礼典の聖性をどのように確保するのか、人以外のものが執行する儀礼に霊性を付与する神学的根拠があるのかが問題になると思います。下手をすると礼拝というのは信徒が集まって祈っているだけで、それ自体は神聖でも何でもないというなかなか身も蓋もないというか無教会派みたいな結論になってしまいそうなのですが、それでいいのでしょうか。もちろん、無教会派の場合は一定の形式的な要件によって霊性が付与されることを排するのであり、信仰を以てなにがしかの行為を行うことがその行為に目的に即した霊的効果を付与すると説くはずですから、人工知能に教説を語らせることには、博学に裏付けられた言葉であるという以上の意味はないことになります。
一方で、牧師という教導役を置く教派において、その役割は信徒団による礼拝堂の管理を含めた一定の負託に基づいて成り立つはずです。そこには通常礼拝における説教も含まれます。確かにそこに霊的な実質はないでしょうし、牧師が説教の実施を他者に委任することも可能だったとは思いますが、その場合説教のみを委任されている説教者は牧師ではないでしょう。牧師の主催する礼拝に霊性を付与する仕組みも含めて、人工知能が牧師をするということには何か神学上の無理がありそうに思います。例えば、いわゆる聖餐の執行も一般に牧師の役割だと思いますが、ロボットが執行する儀礼においていわゆる聖変化を認めるのでしょうか。なぜ単に世俗的な集まりの場において人工知能に教説を語らせるのではなく、礼拝堂において霊的ではないにしろ儀式の一環である説教という形で行ったのか、あるいは礼拝の執行という形態を用いたのか、問題として提示している「礼拝において信者とAI間のやり取りがなかったこと」など以前に、神学上の立場として異端というか一種の無神論ではないのかという印象を受けます。
個人的には異端教説の支持者であろうと無神論者であろうと構わないというか私自身無神論者ですが、いかに真面目な意図の元であろうと礼拝儀式をパロディー化することが信仰の名において認められるものなのかは、穏当な信仰に一定の敬意を払う立場として、懸念せざるを得ません。

■2023年06月14日(水)  暇で退屈ならいいじゃないか
暇と退屈の倫理学
遡って読んでみたわけですが。
問題意識はやはり共有できます。とはいえ、なんか違うんですよね。とりあえず引っかかったのが冒頭のウィリアム・モリスの話で、アーツアンドクラフト運動が無印良品化したのはまあ、当然として、そもそもアーツアンドクラフト運動やその背景となったモリスの発想はどう評価されるべきなのか。もちろん革命が達成されたら何をするかという問題は大事なわけですが、一応百歩譲って自らの生活を「飾る」としましょう。そもそも革命が達成された後、労働者というものがあり得るのかという話はあるのですが、そこは棚に上げます。革命を達成した労働者が自らの生活を「飾る」、ではその「飾る」とはどんなことかと思えば、アーツアンドクラフツ運動で「提供」されたもので、家を、テーブルを、庭を、自分自身を、「飾る」と言うのです。こんな馬鹿な話がありますか。こんな発想では失敗するのが当たり前で、それこそアドルノが映画論に走ったベンヤミンに比べて音楽論で愚痴を言うことしかできていないようなものです。もちろんアドルノの芸術批評は個人的には深く重要だと思うのですが、とはいえ彼が未来の音楽と信じたはずの現代音楽は彼が百均の棚に並んでいるようなものだという感じで批判していた通俗音楽(当時はジャズで、アドルノはジャズがアートシーンからほぼ押しのけられ、ロックを基盤にした商業音楽が普遍化するまでを生きています)にほぼ塗りつぶされてしまいました。彼が私淑していたシェーンベルクやベルクさえマイナーであり、クラシックと言えばトスカニーニの指揮する楽団が演ずるベートーベンやマーラー(のレコードというかCDとか音楽配信)だったりします。そんな放送される大衆音楽塗れの消費文化と、アーツアンドクラフツ運動による装飾を入手するのとはどう違うのでしょうか。正直私は、消費者生活協同組合運動自体の意義は評価しつつも、コープの店舗とスーパーマーケットを区別する正当性を感じられません。それは他人の美、他人の芸術、他人の価値をありがたく貰ってくるだけのことでしょう。カタログから選んだ商品で自分の個性的な空間を演出するのと何も変わらないではありませんか。もちろんアドルノやベンヤミンについても、芸術は特権的芸術家が大衆に与えるもの(アドルノの芸術趣味についての感覚やベンヤミンの複製芸術という概念はそういう趣があります)であるという言説空間から抜け出られていないわけですが、そこには同時代現象として、大衆による芸術(例えばドイツの合唱運動)が芸術として見るもののない通俗芸術の劣化版に留まった挙句全体主義に国民を動員する回路に堕した経験があります。今の日本の芸術文化というのもそういうもので、上から目線の売り物、素人の役体もない手びねり、主として学校での全体主義的実演組織から構成されています。とはいえそういうものなのだとすれば、革命ののち労働者が生活を飾るなどというのはナンセンスと言うべきでしょう。大型雑貨店でウェッジウッドのティーカップを二客買ってくる、かつての革命的前衛にどこかしら似た指導者に従ってどれも同じように聞こえる歌を合唱するのと変わりありません。人はパンだけで生きるべきでもない、それはそうかもしれませんが、生きることをその辺に生えている、いや、それならまだましで誰かバラ栽培の専門家とやらが配っているバラで飾る、なんだか隣の家も同じようにバラで飾られているくらいなら、バラを入手して飾り付ける手間が省けるだけパンだけで生きている(=食っちゃ寝の)方がましではないでしょうか。別に本人の「好き」で似た様なバラで似たように飾られているなら構わないようなものですが、それは文化産業の与えてくる「良い趣味」とどこが違うのか。解放されてすることと言うなら本来それを問わないといけないでしょう。「革命後」を構想したという点の評価はあり得るにしても(その点はマルクスあたりの、来たるべき革命後の社会は生産の統制によって労働者の生を十全に発揮したより経済の発展段階に即した総合的な生産性の高い社会になるという言説よりはましではあり得るでしょう)、それ以外が全くダメですので、少し扱いを考慮した方がよかったろうと思いました。
まあ、本編のパスカルから持ち直しましたが、正直いつ落とされるかと思うと不安でなりません。もちろんそれも書き方というものですが、落としたとして、その伏線をちゃんと回収してくれるのか、放置されて、この人実は馬鹿なんじゃないかと思って読み終える羽目になるのか、理解以外の部分で何とも疲れます。
それとガルブレイスはちゃんと読んでいないので本当にそう言っているのかはわからないのですが、消費者主権という語自体はそもそもが資本の論理に塗れた、つまり資本は色々と「いいもの」(goods)を提供しますよ、そこから望みの物を選ぶ権利は消費者にありますよという意味であり、カタログに資本の提供するものしか載っていない、これが欲しいと思うことがあったとしてもカタログに載っていなければ手に入らないというのは消費者主権という発想のむしろ前提です(この後の章でもそのあたりを盛大に貶していますが、そういうものであり、むしろ資本は「消費」の全面化によって生の全体を産業に動員することに成功したという指摘の方が重要でしょう)。そのあたりは1980年ごろにはとっくに広く認識されており、このあたりに例えばパッケージツアーの衰退と個人旅行の流行が始まります。まあ、日本がそのあたりというだけで、欧米だともう少し早いかもしれません。これも、少なくとも経済学から見た消費側による駆動というのは、計画によって供給するものを選定するよりは、様々な供給者が様々なgoodsを供給し、そこから消費者が選ぶのが、経済、つまり生産資源の分配の中期的最適化において望ましいという意味です。つまり、トラバントしかないのよりはクラウンとカローラとアルトとシティーととメーカーが複数、製品も複数あって、その中から選べるような形が経済的な合理性として望ましいという程度の意味でしかないのです。それを、消費者の本質的な決定権が損なわれているなどというのは、社会制度の批判としては成立しますが(もっともそこでアドルノのようにジャズなんか糞だ、トスカニーニはいかんという批判に走る人もいるわけですが)、消費者主権論への批判としてはその幻想性というか勘違いしたのかさせたのか知りませんが広告屋の嘘つきという程度の意味しかありません。歴史的には結局資本や政府が全部握った権威主義じゃないかという批判から、ホビー側のパソコンの運動(誰から買っても同じものの上に好きなように仕組みを立ち上げる)が立ち現れ、学術系の業界を中心にインターネットにつながっていくのですが(ソース嫁文化です)、やっぱり無教養な愚民にお金を払ってもらう方が色々便利だよねということになっているのが現状です。もっとも、技術的な素養を培った人は、光ファイバー回線利用契約とインターネット接続サービス契約、携帯電話回線契約さえすれば、コネでわりと自由に、ネットで自分(達)で作ったものを楽しんでいたりします。そして彼らは新しい階級の有力な一員なので、私が時々ここで意図的にやるように、自律的に仕組みを組み上げるだけの素養を持たない愚民を嘲笑っていたりします。医者どころか、ちょっと愚民が好む仕組みを作り上げて宣伝すれば学位などなくても成功できる特権階級だったので、ハイスクール卒とか大学中退とか大学院中退とかで教養階級としてブイブイ言わせていたりします。そこから変な発展の仕方をしたのがいわゆる裏ネットとかなのですが、愚民を保護するためという名目での資本(ホビーを超えて事業を展開する資力を持つという意味でまさしく資本)に都合の良い規制を敷こうという動きが強まっている感がないでもありません。アドルノの「趣味」もアーツアンドクラフツ運動も「これこそがあなたの求めているものである」と押し付ける点で特権階級意識と広告屋的根性に溢れており、昨今の「ガクジュツケンキュー」とか「ブンカ」もそうですが、帝国主義的な発想です。一方で芸術(や学術や技術)が洗練(有閑階級にはそれこそこれを追求するだけの暇と意識なり習慣なりがあった)を前提とするだけに、「こうした不幸にあった個人…は社会からぞっとするほどのあわれみの目で見られる」という発想に走ることに、何の不思議もありません。むしろ「ガレージの職工がなぜあわれみの目で見られないといけないのか」という視点の方がルサンチマン的勘違いです。現代のガレージの職工が、工場から出荷された部品を組み立てひたすら数をこなす哀れな職である以上、あわれみの目で見られるのは当然なのです。むしろ論われるべきは、医者もあわれまれる職になりつつあるということでしょう。健康志向と高齢化によりひたすら人体の修復に追われ、医療保険システムで管理され、挙句になれれば儲かるのだからと高額の学費を取られたり、崇高な職なのだからと要求される技能や求められる責任に見合わない安い給料で24時間働かせられたりするのが今の医者です。こればかりは、まだ医療が牧歌的だった時代の人にはわからなかった感覚でしょう。その意味では教授もそうで、秘書を取り上げられ、技官も取り上げられ、学生をこき使うのは禁止され、学内外の会議に縛られ、競争的資金を獲得するためのプレゼンテーションを時間外労働で作っていたりします。この点こそが、國分氏の主張から導き出されるガルブレイスの発想の問題点であり、差別がどうとかいうよりは全てが資本から見た効率性に取り込まれてあわれなものになっていくのです。いや、なんというか、1980年代に新しい階級と似たようなことを書いていた本があったなあ。知価革命でしたかね。
暇と退屈の経済学の章において國分氏は「モデルチェンジが激しいから機械に設備投資できず、したがって機械にやらせればいいような仕事を人間にやらせなければならない。」と指摘します(これに続く雇用の不安定化への主張には全面的に賛同しますが)。一応、資本も「改善」を企図してこなかったわけではないと、弁護しておくことにしましょう。つまり、ロボタイゼーションです。1980年代には小型部品の切削、ねじ止め、溶接程度がようやくできるレベルだったロボットが、いよいよプレスや鋳物の型やガラス吹きまでできるようになりつつあります。電子部品の取り付けも機械ができるようになりつつあります。もっともまだまだ人間を買い叩いた方が安い(ユーザーに機械をモデルチェンジに合わせて調整する技量のある技術者がいない)わけですが、この自動加工の技術的洗練と低廉化は暇潰しの格好の道具を作り出していると主張したいと思います。とはいえロボタイゼーションは当たり前に労働機会を、それも設備投資が可能な程度に収益が上がるところから奪っていきます。昔は自動車工場で半年働くと残り半年は申し訳程度の米を出荷しつつ自給生活を送れるほど稼げたらしいですが、今では月々食っていける程度の給料がもらえる代わりにそれが全額生活費に消えます。やっていることはというと、ロボットにやらせたのでは割に合わない、シートのクロスのほころびの検査とか自動塗装の色むらの検査とかで、もちろんこれも、安上がりに自動化する技術開発が行われつつあります。特権階級から落ちこぼれたソフトウェア技術者が必死になって作っていたソフトウェアも、今や「生成型人工知能」で作れるようになりつつあります。オフィスオートメーションは確かにお笑い種で、いないと困る事務員の代わりにいつでも取り換え可能なワープロタイピストとエクセル絵描き、そして事務員に事務仕事をしてもらう有閑実業階級だったはずの「会社員」の事務労働者化(自分でワードやエクセルを使うというかワードやエクセルに使われる)を招きました。多分今の自動化の波も、生成型人工知能の生み出したバグだらけ、問題だらけの生成物を、人間が安い賃金で必死に朱入れする結果に終わります。とはいえ、モデルチェンジしたらねじの位置が変わってロボットが使えなくなったというような話程度は解決してきたのも事実なのです。
なおこの関係で笑えるのが半導体集積回路製造で、設備投資の都合(人間は半導体集積回路を手で作ることができませんので、写真と化学処理を中心にした機械を操作して作ります)で部品がすぐに手に入らなくなり、半導体集積回路を使った製品を作るメーカーがモデルチェンジを強いられるという事態になっています。当然エンドユーザーは、新商品を買って二年ほどすると、壊れて修理に出しても、申し訳ありませんが部品在庫払底のため修理できませんと言われるか、新品を買った方が安い在庫管理費を取られる羽目になります。このため、モデルチェンジすれば買うのを止めればいいという発想はすでに時代遅れになり、壊れたら買い替えるしかないことになっています。まあ、買わなきゃいいだけのことではあるんですがね。
もうひとつ、頻繁なモデルチェンジに関わる論点を上げておきましょう。機構規模がソフトウェアとして増大し、複雑化したこともあって、完成していないものが出荷されてくるのです。完成するまで出荷しなければいいじゃないかと言っても、マーケティングからそろそろモデルチェンジ、財務からそろそろ儲かるネタが出ないと資金が尽きるという煽りがかかりますし、そもそもすでに不備なものが普及しているため、それを直すことは続けていかざるを得ません。その結果が、毎月一度以上来る「アップデート」です。誰も、問題が実際に起こるまで、止まったら困ってしまうような機材が本当にちゃんと動くのかどうかを知りません。メーカーは諦めて、問題が出たらアップデートしますから製品をネットにつないでくださいと言います。そしてネットにつなぐと、今度はその不備を突いた「ハッキング」に見舞われるのです。
さて、章が変わっていよいよボードリヤールが登場しました。消費論です。観念や意味を「消費」するというのが消費論の核です。國分氏はボードリヤールがこれは最近になって始まったと言っていると主張します。ボードリヤールが言っているかどうかは措くとして、「消費」が始まったのは最近かというと、個人的には非常に大きな反証があると思います。それは、帝国と戦争です。どちらも紀元前からある、私の知っている限りではとりあえずエジプト中王国あたりまでは遡れるもので、王権が周縁部を内部に取り込んでいくのが帝国、その場合を含めて利権を獲得あるいは維持するために行われる武力行使が戦争としておきましょう。帝国というのは、やっているのが王権であるというだけで、「消費」そのもの、「浪費」ではありません。記号であるがゆえに限界がないという点も全く同じです。帝国は決して完成しません。とりあえず完成に近づいたのが20世紀の米帝とソ連帝国ですが、あの時点ですでに、帝国が完成したら内乱が起きるだけだなどと言われていました。帝国を維持するためには内乱は鎮圧しなければならないのですから、ひたすら資源を消耗していくだけです。獲得する資源の方が長期的にも消耗する資源より多いというのが帝国樹立の基本理論ですが、ある意味ウォーラーステインのヘゲモニー論で、消耗部分は他人にさせて首根っこだけ握るという転進(いわゆる撤退の言い換えとしての転進)に伴って破綻しています。戦争も決して終わりません=なくなりません。自分の都合を押し通すために武力に訴える人は必ずいるからです。ここ一年ほどロシアとウクライナが戦争をしていますが、あの戦争が鎮静化するなどと思っている人はもはやいないでしょう。ロシアがウクライナを降そうがウクライナが領土を回復しようが国境紛争は止まりません。またここ二年ほどですか、ミャンマーでクーデター政権と前政権を神輿にした反クーデター派が武力闘争をしていますが、ご近所のタイやカンボジアの政情不安も含めて、もちろん反政府派が武力で政権を奪取し国際的な承認を求めているアフガニスタンも、何しろ武力でもって政権を奪取できると示してしまったわけですから、下剋上は止まりません。これも国家の統一、国家の正当政府という記号の「消費」でしょう。しかも国際社会は、既存の国家の領土的枠組みを絶対視するという形で国民的国家という記号の「消費」を強要しています。そのことは旧ユーゴスラヴィアでの紛争で見事に示されました。同様の例は少なくともここ一万年ほどは挙げる例に困らず、どうにかしようという工夫は失敗し続けています。むしろパスカルやハイデガーではありませんが、人間は有閑化して退屈すると戦争という形で「消費」に走る(それができるのも有産階級で、その意味では暇が大衆化した結果退屈した大衆が支持する総力戦になったのかもしれません)と言える可能性すら見えます。
そしてこの章の終わりにマルクスとアーレントが扱われます。國分氏はアーレントのマルクス理解の欺瞞性というか勘違いを疎外論において暴露するのですが(なお、疎外論と本来性の有無とは区別されるべきだ、本来こうだったなどと万能薬を提示することなく疎外と向き合う必要があるという点は全く同感です)、興味深いのは、ここで國分氏が肯定しているマルクスの自由の王国における労働がアーレントの「仕事」と形態において奇妙に似通っていることです。もちろんアーレントは「仕事」にしろ「労働」にしろ、もちろん「活動」にしろ「世界」との関係で論じており、その点において「仕事」も「世界」から見た外的有用性に縛られます。とはいえ、それは「労働」と比べれば外的要求から解放された営みです。ちなみにアーレントの「活動」はさらに外的要求から解放の度合いが高まっているわけですが、一方でマルクスの「社会による生産全般の統制」に代わる動員の機序を設定するためと理解していますが、「世界」からの評価が語られます。アーレントにとって統制は、世界大戦とファシズム(その眷属としてのスターリン帝国)をもたらすものであったと理解できると思います。これは何としてでも否定されなければならなかった。とはいえ、これはフランクフルト学派にも共通する問題意識と思いますが、社会への動員から人間を解除すると論じることはできなかったのです。統制によって立ち現れるファシズムを打倒したのは個人を徹底的に動員した民主主義勢力だったからではないでしょうか。ルソーの自然状態が一種の突き詰めたモデルならば、人間を動員から解除する術は見出すことができなかった。この点は、20世紀の資本主義と社会主義・共産主義において顕著な枷となり、アナキズムはその直視から逃避しました。もちろん消費社会も資本による「消費」への動員と見ることも可能でしょう。マルクスにおいて統制を呼び出し、アーレントにおいてマルクスの「誤読」や「世界」の概念(これがハイデガーに由来することは明白ですね)を呼び出した要因として、ルソー的文脈において解除されえない動員も、疎外と並んで直視する必要があるように思います。
そして、國分氏はハイデガーを論じるわけですが、氏は退屈の第三形式において決断した人間は第一形式における人間と同じくミッションの奴隷になっていると主張し、第一形式=第三形式と主張します。ここに大きな論理的飛躍というか論理の裂け目が出現しています。確かに第三形式において決断しミッションの奴隷となった場合、何らかの事情によってミッションの遂行から遠ざけられた場合退屈の第一形式に落ち込むことになります。その点は氏が例示する通りです。しかし、第三形式において決断をしない場合はどうなるのでしょうか。退屈から逃れようと思うなら決断するべしとハイデガーは説くわけですが、退屈から逃れるというのは義務でもなければ切迫した問題でもありません。それこそ第二形式において平穏な生が謳歌されるごとく、第三形式においても敢えて退屈でいることはできます。この点は、第一形式が状況の変化によって改善されない限り受け入れがたいこととは大きく異なります。第一形式における退屈は外的要因によってもたらされた、つまり本意でなくミッションから遠ざけられたことによるものであり、そもそもミッションにとらわれていない人でもない限り苦痛を余儀なくされます。それこそこの前の大雨で新幹線が止まって立ち往生した人など、見通しが立たない退屈を同様に退屈にいら立つ人の群れの中で味わう羽目になりました。今なら個人的にばっかじゃないのと思うことができますが、やはり稠密なスケジュールで充実を味わうことを(もしかしたら自らによって)義務付けられた立場ではいらつかざるを得ないでしょう。しかし、第二形式はもちろん、第三形式もそうではありません。第三形式において決断をすることによって第一形式の前提段階に移行するのであり、第三形式において決断を避け、とりあえず全てをぶん投げ退屈に身を任せることも可能なのです。というか歴史的にこのぶん投げは非常に困難であることが示されてきて、決断した結果なかなかに傍迷惑な状況を作り出した例に事欠かないのですが(それこそCaltago delenda estなどもそうも読めるかもしれません)、第二形式と同じで心を蝕みはするにせよ、非常に空虚な慰めではありますが、耐えれば済むのです。ちなみに耐えるのに座禅をするのはあまりお勧めできません。やった結果うっかり決断してしまう危険があるからです。國分氏が説くように、この決断だけは絶対にしてはいけません。自身の奴隷化で済めばよいですが(もちろん本当は良くはありません)、下手をするとレーベンスラウムとアーリア的聖性を守るために真のドイツに身も心も捧げた挙句戦争犯罪人や人間以外と判定されることになるかもしれません。ここでhowが問題になるわけですが、耐えろと言うのは簡単なのですが、正直この退屈に耐えるという「決断」をするのが一番楽なのかもしれないですね。
そして、國分氏は退屈の第二形式のような豊かな平穏の退屈をなぜハイデガーは否定するのかと言いますが、そのような退屈を問題としたというよりはそのような状況を退屈と感じてしまわざるを得ない心性をハイデガーは問題にしているような気もします。これはもちろん原典にあたらないといけないわけですが(原典を読んだ結果國分氏のようにハイデガーは第二形式も含めて退屈であることを否定していると判断するかもしれません)、退屈というのは確かに毒性の強いものであるにせよ気分なのであり、ハイデガーは戦間期に蔓延したその種の気分を問題視しているかもしれませんが、とはいえ殊更第二形式を否定しているというわけでもなさそうに思うのです。むしろ退屈という毒を解毒しようとして分析した結果あの三分割になっているわけで、國分氏が退屈に良い退屈と悪い退屈があると言うとすれば揚げ足取りではないでしょうか。もちろんハイデガーの解毒剤の処方には大きな問題があるわけですが、退屈を問題視する人に例えば退屈なんて大した問題ではないなどと言ったところで話は通じないでしょう。その意味で、國分氏はハイデガーの議論を捻じ曲げ、敢えて言うなら社交の評価に話を持ち込もうとしています。社交を評価するなら第二形式を否定することはできません。これはアーレントが「世界」を保持するために「労働」と「仕事」と「活動」を分けざるを得なかったのと同じではないでしょうか。
そして結論において、國分氏はハイデガーの第二形式をむしろ人間本来の在り方と結論し、退屈を無害化する方法の一つとして日常を楽しむことを挙げます。ラッセルの高踏趣味というのは全くその通りで、これはアドルノとも共通する鼻持ちならない洗練への憧れであり、別に洗練などなくても退屈をしのぐことはできます。洗練には全く馴染みのないプロレタリアートの創作が現状手びねりの壺とも茶碗ともつかない、漏れることだけはない(多分)オブジェになってしまうのは仕方のないことで、うまくいかないという絶望と周囲の嘲笑 - もちろん嘲笑する側のレベルもさして違わない - に耐え(まあ、世界なんか気にしなければいいだけですし)、暇に飽かせて精進していれば、多分退屈はしないし、いつか芸術に到達するかもしれない、解放されて暇になるというのはそんな希望を備えた話だとは思います。とはいえ、モリスのような鼻持ちならない系(だってアーツアンドクラフツですよ?DIYならまだしも)を好意的に引き合いに出したり、第二形式を特別扱いし、第三形式=第一形式なる等式をハイデガーを捻じ曲げて導き出すことは感心できません。退屈についていえば、むしろ退屈の第三形式も第二形式と同じく人間本来のありようでしょうし、もしかすると第一形式さえもそうで、人間とは条件が整えば退屈する生き物なのかもしれないのです。そこで退屈はいけない、退屈を克服しなければならないなどと考えることがそれこそ退屈に毒された挙句に覚せい剤を飲むような間違った処方であることは間違いありませんが、第一形式はあまり経験したくない(けれど実はよくある)とはいえ、第二形式や第三形式と等しく、資質次第ということにはなるのですがやり過ごすことが可能なものです。ハイデガーが退屈に耐えられない、よくある類の退屈をやり過ごすことのできない資質だった点は彼の個性なのだとして、そんな彼だからこそ退屈自体を分析する意欲を持ったのでしょうし、多分それは、パーティーに出るよりもよほど彼にとって退屈しのぎ - 彼自身はそうは思っていなかったかもしれませんが - になったのではないかと思います。
一方で、國分氏は消費社会を退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会と再定義します。確かにそのような面があります。あるのですが、しかし我々はなぜ物を受け取るように記号や観念を受け取れないのでしょうか。もちろんドゥルーズの消費社会論においては記号や観念はそのようなものと定義されているわけですから、消費することはできても受け取ることはできないわけですが、果たして記号や観念とはそのようなものでしょうか。私達は、あたかも美味しい食べ物を味わうように記号や観念を味わうこともできるとは考えられないでしょうか。というより、芸術や学術とは結局それではないでしょうか。芸術にしろ学術にしろ記号を処理して観念を操作表現するもの、あるいは一定の規則に基づいて記号として処理し観念を読み取るものと理解することができます。哲学であろうと自然科学であろうと、そこで扱われているのは記号と観念であり、少なくとも私は個人的経験として、岩石を何らかのテーマに沿った研究対象、試料として処理し、分析し、その結果を考察していたと認識していますし、その結果抽象される理論は観念そのものでしょう。素粒子物理学者が扱うのは物や物理法則そのものではなくそれについての認識を抽象した観念であり、どうやらその観念が物や物理法則とある程度対応しているらしいというだけのことです。個人的にはその観念はとても美味しそうに(たまにまずそうなものもありますが)、かぐわしく(香ばしかったりもしますが)、美麗に(いい加減に継ぎ接ぎしたように見えるものもありますが)、手触りが良さそうに(たまに一部の足つぼマッサージ器具みたいな触り心地のものもありますが)、感じられます。まあ、それは私がああいう記号や観念を楽しむ訓練をある程度積んでいるということであり、別に意味不明の絵文字の列だと思う人がいてもいいわけですが、とはいえ記号も観念も「受け取る」ことはできると言えるように思うのです。確かに満腹することはないかもしれませんが、一方で記号も観念も無尽蔵です。さすがに素粒子物理学の記号や観念は最近やたらと高価になったので、物も浪費させてもらわないと好き勝手に漁るわけにはいかないのですが、それこそ直径30kmの土地と数兆円という限られた金銭に対応する機材、それを動かすための有限の電力さえあれば、尽きせぬ記号と観念を受け取り続けることができます。これはある意味浪費と言えないでしょうか。もちろん同じことが、芸術にしろ哲学にしろ文学にしろ言えます。それらを消費財という有価物ではなく、限界生産費用がゼロかつ有用性から価格を導くことができないという意味で値段の付けられない記号や観念として受け取り、そこからできる限りの記号や観念を汲みだすことは、退屈の第二形式を「生きる」格好の退屈しのぎではないかと思うのです。
そしてこれは、退屈の第三形式をしのぐことにも通じます。というか、ハイデガーの考察を見る限り、退屈は直面した状況を無駄、無価値と看做すところに発生するように思います。これは結構難しいことだとは思いますが、無駄で無価値で何が悪いかと開き直って退屈しのぎに走ることが、この種の退屈を決断に頼ることなくしのぐコツなのではないでしょうか。こういう本を読んでこんな駄文を書くのもそうですが、正直國分氏は議論の展開において誤りを犯していると思いますので、問題意識や結論に共感できるとしてもこの本を読んだ時間はある意味無駄で無価値であったことになります。金返せとまでは言いませんが、直して書き直せとは言いたいです。とはいえ、議論の展開において誤りを犯していなかったからと言ってこの本を読む時間が無駄で無価値でないとも思えませんし、そもそも本を「読む」というのはそういう時間です。時間を浪費するのです。胸焼けすることも満腹感を得ることも逆に飢えを感じることもありますが、目的があって事典を調べるとでも言うならともかく、だいたいにおいて本を読む時間は無駄です。すでに内容を踏まえている他人にぶん投げる方が効率的でしょう。そもそもこんな駄文(私が書いているこの文のことです)書いても読んでも財布の中身は増えません。とはいえ、その浪費は個人的には楽しく感じられます。
註で、ぎょっとさせられました。「スローフード」というのが、「ゆっくり味わう食だ」と言うのです。これは対語とされる「ファストフード」(というかスローフードがファストフードの対語)が素早く食べられる食と定義されることにもなりますし、実際そのように定義されています。個人的にはファストフードとはすぐ出てくる食事だと思っていますし、それを食べる人がゆっくり食べようが一口で飲み込もうが言葉の定義には関係ないと思っています。マクドナルドのハンバーガーをじっくり味わって食べようがフェットチーネアラボロネーズをかき込もうが勝手というものでしょう。もちろん(江戸前)寿司はどちらの意味でもファストフードです。しかし、國分氏のこの註での論述は食べ方の姿勢の問題に語義を転換しています。どうも、少なくともスローフードについてはそのようなとらえ方があるようなのですが、だとすればスローフード運動が大衆から拒否される事態を想定せざるを得ません。もちろんしかるべき料理をじっくり味わうことは美食において重要な姿勢であり、かつ有閑階級が発達させた洗練された文化でもあります。テーブルに運ばれてきたワンプレート料理を15分で食べきるなどというのは洗練の欠片もない庶民文化であり、皿が数回替わるコース料理が、それこそ日本の会席料理を含めて洗練された食文化であることは言うまでもありません。しかしその洗練は、高踏文化への接近という危うい路線でもあります。その全面化は、洗練されていない文化の排除を容易に招き寄せます。つまり、刺身は残りますが江戸前寿司は排斥され、サンドイッチ、ハンバーガー、おにぎり、フィッシュアンドチップス(あれはsophisticatedもあるらしいですが)も同様、パスタも乾燥が排除され手打ち礼賛になるということです。一時期、いや今もでしょうか、そばやうどんの乾麺、機械打ちの生めんが見下され手打ちが手打ちであるというだけで礼賛された時期がありますが、製作の実践であればともかく、食文化としては極めて危険な風潮ではないかと思えてなりません。むしろ、洗練された文化の消費を求めないことが重視されるべきではないかと思います。大多数の庶民にとって、少なくとも今のところは、洗練された文化というのは異物でしかありません。皿の両脇に合計10本近くカトラリーが並んだコース料理を前にすれば怖気づきますし、半日がかりの堅苦しい茶事など招待されても行きたくないでしょう。そのようなコース料理や茶事は洗練された高踏文化として尊重に値しますが、それこそが文化でありそれこそが洗練のモデルだと言うなら、保守にしろ前衛にしろただのスノビズムに堕していると思います。目の前に放り出された(あるいはその前に放り出された)スノッブな創作物を賞玩し物の品質がどうとかいうよりも、本人が目の前のものをどう受け取るかが、退屈しのぎにおいても重要ではないのかと思います。例えば、ベートーベンの音楽を素晴らしいと思うように躾けることは文化帝国主義ですが、ベートーベンの音楽の形式的構成を読み解く(例えば第9最終楽章に合唱が入ることの意味も含めて)能力を培うことは普遍的教養であり得るでしょう。そのようなスローなものの復権はあってしかるべきとはいえ、ファストを繋いでいってできるロングもまたスローであり得ます。ポップスのパフォーマンスイベントなどはこれでしょうし、そもそも個人的にパフォーマンスは味わうものとは思えません。大衆は疲れているからとにかくじっくりと味わうようなスタイルは不適切で、大衆に即したくつろいだスタイルを芸術として作り出していかなければならないとブレヒトは劇脚本について言ったそうですが、疲れていないにしても、そのようなスタイルを好むという嗜好は、ゆっくりと咀嚼し対象に寄り添っていく嗜好と同様に尊重されてしかるべきだと思います。
また情報の高は作り手だけが盛り込めるものではありません。感覚が感覚器においては対象の構造や組成、状態に応じたシグナルである以上、そのシグナルが感覚として認知される過程で食べ手も大いに情報を盛り込みます。逆に食べ手に受容の準備ができていないのに情報を盛り込んだところで何の意味もありません。食品を味わうに値する充実したものにすることは、料理人の姿勢としてはあり得ますが、重要ではあってもthe onlyではないでしょう。
そして、何より廃棄されるべきなのは権威主義でしょう。統制や世界、ハイカルチャーのような権威を再構築してしまえば、それこそ本来性の追求になりかねません。

補足としてモリスを読むのが辛いです。共感できるところもあるのですが、おおむねこの一世代後に相当批判されたレベルの空想的芸術至上主義が基調なので、それこそ不動産ディヴェロッパーあたりがおためごかしに引っ張り出してくる夢想を真面目に語っているように読めます。まあ、この世代までは相当徹底的に物事を考え抜いた人か調べ抜いた人でないとまともに読める論説はないので、仕方ないと思って読むわけですが。

■2023年06月14日(水)  IT系ニュースに朝7時は中途半端
アスキーニュース7
まあ、元ネタがテレビやもしかすると古のラジオの七時のニュースなのは丸わかりですが、感じからするとラジオのパーソナリティーが気になったニュースを列挙してコメントする奴ですかね。
AIのアイドルとしての運用と定期的なコメント付きインデックスの生成という発想自体は正当的であり、今のところ間が抜けてはいないのと、末尾にあるエピソードや「はげまし」が結構考えられているので、インデックスの確認すら面倒な向きには便利でしょうし、朝にちょっとした癒しが欲しいという人もいるのでしょう。まあ、個人的には別にニュースにパーソナリティーは要らないとは思いますが(そういう意味では無個性なAIが淡々とニュースを紹介する話があっていい気がしますが、どのみちAIがどうやってそのニュースを無数にある中からピックアップするか、そしてニュースの供給源に対するいわば支払いをどうするかという問題はあります)、マスコットとかペットの感覚での運用はありでしょう。
もちろんこの種の運用に特定ユーザーへの最適化を組み合わせたフィルター付き情報アシスタントには、色々と問題が伴います。デフォルト、あるいは基本となるフィルターセットによるバイアスの問題がありますし、それをベースに最適化されたフィルターを通ったニュースのみを浴びることになる視界の狭窄や、ペット化したキャラクターAIへの耽溺は、現代社会において好ましい状況ではないでしょう。まあ、だから何だという話もあるのですが。
使い勝手の点で気になるのが、これがITニュースなのに午前7時で良いのかということです。ビジネスパーソン相手なら、一時間繰り上げて午前8時に出勤する際の移動の中で見るという意味で手頃なわけですが、ITニュースの性質上、午後7時か午後9時のニュースをモデルにするべきだったのではないかと思えます。まとめる時間帯としては、日本国内のニュースが中心なら午後7時ごろ、世界まで見るならヨーロッパでスケジューリングされた重大ニュースが出揃いアメリカ大陸ではまだその時間になっていない午後10時くらい、後はそれを受けてライターさんが原稿を上げてくるらしい午前3時くらい - いや、そういうタイムスタンプがあるんですよ - が候補になるかと思います。
それと、これを新着記事欄に出すのは止めてもらえないでしょうか。後ろについているAIニュース7のクレジットが消えがちなので、新着記事のインデックスとして今日のAIニュース7を読んだ後間違って踏んでしまいます。せめて編集部のお勧めとかASCII倶楽部の枠の間に入れるべきだと思います。

■2023年06月13日(火)  パタゴニアは日本事業から撤退し日本支社を生産すべきではないのか
パタゴニア日本支社に「5年雇い止め」撤回求める 労組が3万筆署名
額面通りに受け取ることはできないにしても、三万筆というのは企業に対する抗議の署名として無視できるものではないと思います。
まず、このような抗議が起きるような雇用制度を利用したパタゴニア日本支社経営幹部は明らかに経営方針を誤ったと言えるでしょう。その誤りが大規模な雇用を伴う事業展開そのものなのか、それとも雇用の柔軟性の確保という方針なのかは現時点ではわかりませんが、対応を誤れば不買運動すら起きかねない状況にパタゴニアの日本事業が置かれている以上、現行の事業展開方針を含めて日本事業全体は根本的に見直されてしかるべきです。
一方で労組側は、正直こういう制度を運用するような経営陣の下で働きたいのでしょうか。パタゴニア本体の経営陣も、日本支社においてこういう発想をする経営陣を信任するような方向性を持っているわけです。それはパタゴニアの表向きの経営方針ではないのかもしれませんが、現行経営陣の意識においてそれと背馳するものではない、むしろ整合するものだと理解するのが筋だと思います。そうであればむしろ、パタゴニア製品の販売代理業を自分たちで立ち上げるのが、中の人たるパタゴニアファンの取るべき道ではないかと思います。こういう人たちにとってパタゴニアの経営陣の具体的な経営行動自体はパタゴニアというブランドを構成する本質ではなく、それはむしろ出てきた製品の方にあるわけでしょう。ならば、一定の合意の上で自分たちの発想でそれを売るというのが、パタゴニアというブランドへのシンパシーを抱き、それを掲げることを望む人の取るべき道ではないでしょうか。もちろん、別にパタゴニアそれ自体には拘りはない、潰れそうにないところで安定して働ければいいというなら、雇用制度について争議などせずに他社に移動するべきです。
そして世界的な事業展開策として、パタゴニアは日本での店舗直販事業および直接卸事業はいったん終息させ、せいぜい経営と事務の最小限の営業所だけ残して、日本支社を解体清算するべきです。当然現場労働者は規定の退職手当を支給して全員解雇となります。仮に日本で直接に販路を管理することにメリットがあるとしても、雇用問題が起きるようではデメリットの方が大きいでしょう。もちろん事業終息によってパタゴニアのブランドが日本である程度失墜することは避けられないでしょうが、雇用問題がこじれても同じ事というか、そもそもここまでこじれることでそれなりに失墜しています。まあ、パタゴニアは本社の経営で香ばしい噂も聞こえてきますので、ブランドとしての先行きを個人的には危ぶんでいますが、それにしても、どう見ても労使の信頼が失われ、辛うじてブランドへの愛着でつながっているというのは健全とは思えません。とりあえず売るだけなら、通販でも販売委託でもよいはずです。

■2023年06月12日(月)  散髪一回1500円は安くはないよなあ
マンション内、無免許で散髪 容疑でベトナム人を逮捕 3千人利用か
もちろん日本の法律として無免許で床屋をするのはいけませんので、たとえ一人であろうが犯罪には当たるのですが、理容師法なんていうマイナーな法律、外国人は知っているものなのでしょうか。むしろ理容美容専門学校以外の専門学校ではそんな豆知識は教えないでしょう。一応ヨーロッパ文化圏では理容師というのは外科医と同源の免許職、専門職ですが、そんな概念のない地域の出身だったりすると、腕に覚えがあれば知り合いの髪を切ってお金を取るくらいはあると思います。それこそ明白に店舗営業用の機材まで揃えていたとか何度か指導をして従わなかったような悪質な事例であれば逮捕は止むを得ませんが、通報があったとはいえバリカンとカミソリがあった程度で現行犯にしても逮捕はどうなんでしょうかね。もちろん人数などどうでもいいわけです。それに、理容と美容整髪は管轄は保健所のはずで、通報があったにしてもまずそこが対応するのが筋な気がします。とはいえ否認しているというのは知っていてやった可能性を示唆するわけで、互いに事を荒立ててるんでなければいいのですがね。
どちらかというと専門学校の就学査証で床屋を営業する方が問題ではあるはずで、とりあえずやりやすい容疑で逮捕したのかなという気がします。それにしても一回1500円はカットだけの安床屋に比べて安いとは言えないのですが、それで客が付いたというのは、腕がいいのか、言葉の問題か何かでしょうか。確か洗髪と顔ぞり、洗顔で2000円以上が相場だったと思いますが、カットのみ、髪の切れ端は掃除機で吸い取る形だと1000円だったような気がします。

■2023年06月12日(月)  まだ30年というかもう30年というか
ベルルスコーニ元首相が死去、86歳 イタリアのメディアが報道
「庶民に愛される愚か者」演じたベルルスコーニ氏 ポピュリズムに道
ありゃ。結構元気そうだったイメージがあるのですが。そもそもこの人はタンジェントポリ騒動以降に出てきた印象があるので、もう一回くらい表舞台に出てくるかと思っていました。これでイタリアの右派というか文化保守派は完全に世代交代でしょうか。

■2023年06月11日(日)  個人の意思はとっくに歪んでいる
生成AIは「個人の意思ゆがめる恐れ」AIと民主主義は共存できるか
「私たちの意思決定のあり方がどうなっていくのかに議論の核心がある。近代立憲主義は、これまで個人の『オートノミー(自律性)』を重視してきました。個人が他の干渉を受けずに主体的に意思決定できるという考えです。この基本的な原則がAIの登場で、根源的に揺らいでいるように思います」
これは率直に言って馬鹿げた考えで、そもそもそのように重視されるオートノミー自体はマスコミュニケーションメディアによって腐食させられています。近代立憲主義の前提とする主権的個人は判断においてオートノモスな存在であるとともに他とコミュニケートすることで判断を繰り返し自身の価値基準を調整していく主体ですが、特権的な発信者の見解を一方的に伝えるマスコミュニケーションメディアの全面化によってこの理念は大きく揺るぎました。もちろんマスコミュニケーションメディアが政治的議論における共通基盤を作る役割も認められますが、政治活動側から頻繁に発されるマスコミュニケーションメディアへの警戒感(政治的中立性の要求や事実と見解の分離のような表現手法への準拠の要求など)はそう理解するべきですし、また政治活動側もそのような理念を自身に都合の良い形で揺るがそうとしてきた面(つまりはプロパガンダ)もあります。なお、ここでのマスコミュニケーションメディアには、学校(特に中等教育までの学校)も含みます。
会話ベースの生成型人工知能はその種の脅威の最新のものにしかすぎません。その性質はむしろ、ソフトプロパガンダの一種と捉えられるべきでしょう。マスコミュニケーションの一種であるにもかかわらず、個別的なコミュニケーション主体と誤認され、警戒が薄れてしまうわけです。これは例えば政治活動家が個別の面談をするのと同じモデルですが、会話ベースの生成型人工知能はそれをすさまじい時間効率でやってのけます。政治活動家は面談を並行的にこなすことはできず、これがいわゆる政治活動家のオルグ、リクルーティングを必然にし、その過程で多様な見解が政治活動に反映されていく回路が形成されていたと考えることが可能ですが(その点から共産主義政党の民主集中制あたりが批判されますが、個人的には半分くらいは事実誤認だと思います)、会話ベースの生成型人工知能の場合、反応パターンの回帰的調整は発生するものの、本質的には一つの「信念の体系」なのであり、それが多数の「他」を相手にしている以上双方向のコミュニケーションという面があるとはいえマスコミュニケーションなのですが、チャンネルが一対一の双方向のものであることが強調されるがゆえに多様な主体と対話していると受け手が誤認し、かつ政治活動側にとっては非常に都合の良い自己の分身を作れるわけです。それが一見反応的な対話であること、そして会話ベースの生成型人工知能が一般に非常にポライトに調整されることも、プロパガンダのチャンネルとしては望ましい特性でしょう。つまり、「楽しいプロパガンダ」あたりで指摘されているような、受動的なモードでの政治的意見の刷り込みを効率的に行うツールとして使われる可能性はあります。とはいえこれ自体は娯楽としてのプロパガンダにおいて既に実装済みの手法であり、またSNSにおいてもこれに近い実践は見られます。ことさら会話ベースの生成型人工知能の問題とする理由は、例え量的な差が質の違いに転化する場合を考慮しても、ないように思います。

■2023年06月11日(日)  経済と企業を一緒にするな
自社株買い過去最高、バブル後高値を演出 投資・賃金とバランスは?
「日本経済の持続的な成長には設備投資や賃金のさらなる増額も欠かせず、急増する株主還元とのバランスが問われることになりそうだ。」
これは考え方が間違っていて、投資需要が落ち着いた成熟した企業は積極的に配当や自社株買いを行い、資本金として借り入れた資金を投資家に返すべきです。この場合、次期以降も同等の利益が得られるような場合は配当になりますし、使い道のない余裕資金の一回限りの処分なら自社株買いになります。どのみちその企業にお金を置いておいたところで活用はできないわけですから、企業の外に出してしまわないといけません。一方そうやって投資家に返却された資金は投資需要が高い企業の株を買う形で投資に回ります。そうやって適切な企業が設備投資を行うことで経済成長を行うというのが、株式や株式の市場取引を介した金融の仕組みです。
もっとも賃上げについては、賃上げをないがしろにしてまで配当や自社株買いをすることには問題はあります。バランスの問題でもあるのですが、少なくとも配当と賃金(と内部留保)は適切な水準の賃金を前提にするべきでしょう。一方で資本金に当たる資産から賃金を払うのはむしろ問題のある行為で、長期的に見るべきであるにせよ、本来は売り上げなり粗利益なりの範囲で賃金を支払うべきです。もちろん資本金以外の借り入れの返済や利払いはそれに優先するでしょう。また成熟した企業の場合人員が余ることもあり得ますから、そうなれば何らかの人員規模削減策を実施することもあり得、つまりは給与水準は上がるものの解雇者が出るということも出てきます。もっともこれは理想論であり、現実的にはそこまで機動的な人員規模の調整には制約があり、定年繰り下げや早期退職制度、減員不補充がいいところでしょう。一応余った人員を余ったなどと言わず使いこなすというのが常識ではあります。ただしその結果資本生産性を下げることは株主の利益を損なうものだという認識はあってしかるべきですし、人員だって限りのある資源ですから、使う当てがないなら解放するというのも考え方です。もちろんその場合に、転職の斡旋とか職探し期間中生活やリスキリングに不足しない程度の退職手当とか、とにかく毎月サラリーが入ってくるのが数十年安定して続くなどという馬鹿げた発想のもとに組み立てられた社会制度の下で不利を招かないような施策の実施などが求められます。
そうやって借り入れの利払いや返済、妥当な額の賃金の支払いを行ったうえで持続可能な水準の配当を払い、その上で発生した剰余の使い道がないなら、自社株買いを行って遊休資金を解放するべきなのです。また投資案件も配当を持続できることを前提に取捨選択するべきで、回収期間の長短は個別に論じるにせよ、トータルで配当を引き下げることが明らかな投資はするべきではありません。

自社株買い過去最高、バブル後高値を演出 投資・賃金とバランスは?
賃金はまた別ですが、投資が適切かどうかは経営判断の問題です。自社では効果的な投資を行う余地がないと経営陣なり株主総会なりが判断した場合は、自社株購入による資本金の償却は適切な方法の一つです。もちろん、自社株を、例え企業統治上の問題に対応するそれなりの制度があるとはいえ、会社が保有するよりは、自社株買いしたうえでその分を減資するべきではあります。経営陣の一存で新規に株主資本を調達できる(保有する自社株を売り出す)というのは健全な状態とは言えません。新株発行における株主総会の同意は株主構成が不慮に変わることが株主団にとって不利益な場合があるからですから、浮動とはいえ個々の株主の判断のもとに行われる売買ではなく、経営陣の意図で株主構成が変わるような余地を認めることは不適切でしょう。
一方で、自社株買いによる高値が発生することは、証券投機家の予測を誤らせ、証券市場の機能を阻害する可能性はあります。大規模な買いにより証券価格の個別的な上昇が起こった場合、あるいはそのような上昇が広範に発生した場合、基本的にはその証券を保有する人が証券を売却することで約定価格がつき、保有者が売りが増えて価格が下落することを想定することで確定売りが十分に発生し、価格上昇が止まり、下落します。しかし例えばそれこそ日銀の国債買い入れで発生したようにこの価格であれば相当の期間いくらでも買いがあると予想された場合、保有者は価格下落を予想せず、確定売りには(別に後で売ってもよいので)抑制がかかりますし、その結果価格が高値で安定します。あるいはより高い価格であっても買いが入ると予想すれば価格が上がっていきます。もちろん自社株買いであろうと価格なり買取規模なりに上限はあるわけで、そこに到達し、自社株買いが終了すると予想されれば価格上昇が止まり、あるいは価格が下落し、予想の転換が急激かつ大規模だった場合暴落もあり得るわけですが、こうした急激な価格変動が個別の銘柄のみでなく市場全体として起こることは、規模や分散を基盤にした安定した資金流通という市場機能から見て望ましいことではないでしょう。

自社株買い優先で「日本経済縮む」 雪崩打つ企業、問われる利益分配
「自社株買いに巨額の資金を充てる余裕があるのなら、ガス料金を値下げする余地はないのか。」
これは愚民の浅知恵というしかない発想であって、資源価格というのはその場限りのものですので、差益が出た場合料金を引き下げるというのは、それこそこの二年ほど冬場に顕在化したような、差損が出た場合料金を上げるというのと裏腹なわけです。もっとも消費者に還元する方法がないかというと、例えば小売価格安定化基金を整備してそこに溜め込むような方法論はありそうな気はしますが、正直それで小売価格の安定化ではなく事業組織の既得権維持(つまり資産含み益のような、買い入れ価格上昇に限らない、経営上の失敗から財務上の問題が出たときに任意に動員し経営の失敗を糊塗する資金としての運用など)に回らないという信頼感は持てません。
おそらく現在のガス事業者に持続的な料金引き下げの策は、少なくとも大規模な人員削減=使用者都合解雇を伴う事業再構築を行わない限りなく、それなら自社株買いで資金を株主に戻し、株主がより効率的な事業を発見して投資することに期待する方が健全というものでしょう。

投資→成長のサイクル回らぬ日本 「自社株買い株高」に潜む死角
伝える文脈の問題もあるのでしょうが、例え経営学者であっても、こういう発想が一般的なのだとすれば問題があります。まして経済学者ならなおさらです。
投資によって成長するサイクルはあくまでも経済全体として回るものであり、個々の企業、事業については投資需要の変化やそれ自体の縮小はあり得ます。例えばNTT東西の固定電話事業は、ユニバーサルサービスとしてならともかく、これ以上投資をしても成長には繋がらないでしょう。むしろIP電話や携帯電話回線網と共通する広域通信基盤を整備する方に投資需要、投資機会があります。もちろんラストワンマイルの高速公衆回線の整備もありますが、基幹回線網の帯域強化はその前提でもあります。これはNTT東西ではなく、例えばNTTコミュニケーションズあたりが担当しているわけです。この場合経済における正常な回路としては、NTT東西が自社株買いを行い、それで得た現金を投資家がNTTコミュニケーションズ株の購入に使うといったものになります。経営論の上ではNTT東西の余剰資金をNTT持ち株会社あたりがNTTコミュニケーションズに融通するのでもよいわけですが、そこで適切な規模の判断を下すのが各企業の経営者ではなく投資市場であるというのが、現代の経済学の理想論でしょう。市場からどの程度の資金が集まるかで、経営者の行動に規律を与えるわけです。もちろん期待が高い場合は株価上昇につながり、その場合経営者は株式の増発を通じてさらなる資金調達を検討できるでしょう。
ひとつだけ問題なのは、自社株買いで市場に放出された資金がどこに行くかです。株価上昇が自社株買いに由来する、つまり発行企業の資金余剰を示しているだけなら、逆に資金需要のある企業もあるわけですから、大した問題ではありません。「設備投資や賃上げなどの『人的投資』をするよりも、確実に株価が上がる自社株買いが先行しているように見えます」と言いますが、経営者として自身の、あるいは会社組織の能力としてこれ以上の投資に意味がないと判断していることはあり得ますし、その結果としての自社株買い、投資家への資金の返却はむしろ合理的な行為です。経済局面に応じて相当数の企業が資金余剰を抱えることもあり得るでしょう。ある事業組織で設備投資や人的投資の効果がないとしても他の事業組織でもそうであるとは限らないですし、基本的には投資家に返却された資金は投資需要のある企業に再投資されていくだけです。株価や配当額ならまだしも、預金通帳の残高や手元の札束を見ることに喜びを見出すようなのは投資家でも投機家でもありません。そこに金があるならどう使うかが問題なのです。問題なのは、そうやって投資家に返却された資金が価格の吊上げに回っていく状況で、つまり資金需要のある有望な企業がないために値上がりしそうな株を高値でも買い占め、鞘取りを目論む意図が卓越している場合です。ここで資金需要のある有望な企業がないというのは、資金運用者がアクセスできる市場にそのような企業がないという意味で、市場外にそのような企業がある可能性は現在でも十分にあります。まあ、なければないで、それは日本経済が成熟しきってしまったということで、それこそ海外投資にでも向かうのが健全なのでしょうが、市場外に資金需要があるのに見えないために資金が市場内に滞留しているのだとすれば、経済として投資による成長へのサイクルが回っていないことになります。本来新興企業市場などはそのサイクルを回すためのものですが、資金の流入が投資信託あたりを通してのものの場合、受託者のリスク回避志向が新興企業市場を過度に回避することになっている可能性はありますし、もちろん証券市場での運用を前提とした投資信託であれば上場もしていない企業には投資しないわけです。その結果資金が整備されたリスクの少ない市場に滞留することはあり得るでしょう。それでももちろん、企業内に滞留するよりはよほどましなわけですが。
つまり問題は自社株買いをする企業ではなく、投資家の動向、その投資家の動向にバイアスをかけている市場制度の状況ということになります。

「創業家支配」ツルハに突きつけられた株主提案の中身 業界再編も?
ある意味こういう企業こそ自社株の回収を行い、減資して株主構成を安定化させるべきです。場合によっては上場廃止も見込むべきでしょう。逆に言えば、株式上場企業の経営が安定するような状態はおかしいのです。もちろん十分な配当を出せていれば経営陣に不満を出されることは少ないかもしれませんが、一方で安定配当を十分に出していれば普通は好感されて株価が上がるわけですから流通株価ベースの利回りは低下します。株価に対してパフォーマンス不足と指摘され、事業の換金や一層の配当増を要求されることがあり得ますし、事業資金を資本金として調達していればその分株主構成は不安定になります。

■2023年06月10日(土)  空間の制約がある以上リスクを取って判断するしかなく、それならより積極的であるべき
ファン熱望の品切れ本、書泉が復活計画 書店員の目利きで魅力再発見
目利き以前に、いかなる本であっても、少なくとも著作権や出版権が保護される期間中、著者の権利行使ないしは義務の履行を唯一の例外として、品切れや再版未定、絶版の状態にあってはならないと思います。これは法を制定してでも著者と出版社に義務付ける筋であり、出版とはそのようなリスクを引き受けることでなければなりません。もちろん紙での出版はそのリスクが過重になることもあり得ますが、今ならそれなら電子書籍にすればよいことです。
その点は於くとして、ディスプレイなどへの工夫はあってもただ出版された本を売る経路と化していた書店が(紀伊国屋や丸善、そして地方主要都市の一部大型書店などのように出版部門を持つ例外はあります)、書籍の企画から小売りまでを一貫して手掛ける文化産業の主体に復帰することは望ましいことだと思います。それはあくまでも文化産業に過ぎず、産業という場所から書籍文化を扱うにすぎませんが、その一方で実体を持った物を大量に流通させるという産業ならではの役割を、直接に消費者と対峙しつつ果たすことこそ、書籍商としての本能的な欲望であってしかるべきですし、まず流通させるべき出版物を自身の目で見つけるというのはその第一歩でしょう。もちろんその先には、流通させるべき作品や作品を生み出すべき著者を見つける出版企画という道があるわけです。

■2023年06月10日(土)  過酷でなければいいというものでもないと思う
「最もひどい扱い受けている畜産動物」 苦しみを減らすための20年
感情移入すればあれはなしだろうというのはわかりますが、そもそも家畜は目的を持って飼育される物ですし、厳密に動物福祉の観点から考えれば畜類の飼育自体が虐待行為となるでしょう。コンパニオンアニマルにしても、虐待を加えていないから良いという話ではなく、自然の環境と大きく異なることを意識して構築されている人間の生活環境に引き込んでいることがすでに虐待ですし、保護区的な環境であっても管理していることがまず虐待と言うしかありません。寿命が延びるから、生存が確保されるからいい、うちの子は家族だなどという欺瞞的な論をこそ糾弾すべきであり、つまり解放飼育であっても行為としての虐待には違いないのです。不完全な主体として管理保護することと機能を利用する物として効率的な環境で使い捨てにすることは、自由な主体であるべきという視点から見ればたいした差はありません。
また、可視的な大動物にのみ感情移入するのも偽善的であり、そもそも生命は他の生命を節度無く毀損することで成り立っていることを前提にしなければなりません。石鹸で手を洗えば不可視的な微生物が死んでいますし、呼吸により不可抗力で体内に取り込まれた微生物の多くもそうです。仮に生存空間の分離が最小限度の必要悪たる虐待行為であるにしても、害獣を追い払い、有害昆虫を駆除・排除することを、人間において前提とされるような合意を基盤として行っているわけではないでしょう。釈迦は自らを刺そうとする虫を殺さず、地面を這う虫を避けて歩いたとされ、例えばジャイナ教徒なども同様の倫理観を持つとされますが、段階的にでなくそのような倫理を即時かつ自己について全面的に徹底することこそ、擬人化なり感情移入なりによって動物福祉を主張する立場に求められる振る舞いでしょう。ちなみに、いかに動物を法の範囲とはいえ虐待していようと、他人の資産を暴力的に奪取(主観的には解放)することは犯罪です。あくまでも自己の振る舞いにおいて徹底するということです。

■2023年06月10日(土)  哲学的議論において名辞は須らく括弧を付されるべきかもしれない
目的への抵抗 - シリーズ哲学講話 -, 新潮新書
著者の問題意識には強く共感できるのですが、正直用語法になかなかに抵抗があります。例えばボードリヤールの「消費」が括弧なしで用いられていますが、この語はボードリヤールが自身の議論において特別な意味を付与して(あるいは絞り込んだ形でイデアを定義して)用いているものであり、一般的な消費の語義とは重なる部分があるとはいえボードリヤールによって発見され命名されたというものではありません。むしろボードリヤールは現代社会に典型的なひとつの行動形態を見出し、それを形容するために既存の消費という言葉に特別な意味を付して用いたのです。その消費を括弧なしで用いることは、哲学的議論においては杜撰の誹りを免れないでしょう。これはその後アーレントを引く部分でもそうで、もちろんアーレントは多くの日常的な言葉に独特の意味を付して裸のまま著書で用いている - おかげで和訳がことごとく変なことになっていて、アーレントの付した特別な意味を汲み取ろうとすると一般的でない漢語を使うことになるのですが、それをやるとアーレントが日常的な言葉を用いることで導入した語感が決定的に失われ、文脈を取りがたくなるのです - ことで、個人的にまともに読めない本を書く人の上位陣に入っているのですが、そのアーレントが発見した定義による「目的」を自身の文章で括弧なしに使うことは杜撰に過ぎると思います。
もちろん括弧を付けるというのは書き言葉独特の表現方法であり、例えばアーレントのいわゆる和訳語活動とは本人が書いた英語ではactionに他なりません。アーレントは自身の講義でもまさにそのような意味でactionと語ったことでしょう。そのように意味をずらして用いることが大学の初等課程(今のいわゆる教養課程)で学んだ才人が等しく身につけた芸の一つであり、それを自在に操ることは20世紀の哲学者の真骨頂の一つとすら言えます。だからこそ読み手や聞き手は読み聞く場合にその言葉を括弧に入れて、書き手や語り手に特有の定義をを持った言葉として扱うことを求められます。そのリテラシーがない者にとっては、この種の哲学的言辞はデマゴギーに等しいでしょう。それこそそう書くしかなかったのだとしてもそうなのであり、語り手、書き手はそう語り書いたことを恥じる必要はありませんが、これもまさに著者の言う目的が手段を正当化している例でしょう。
そして、他人の語りや書物を引き合いに出して語り書く場合、その(いわば二次的な)語り手、書き手は自身の語と引き合いに出した人の語を区別する便宜を聞き手や読者に提供するべきであり、講義においてこの講義ではこのことについて語るという限定や書物において括弧を付するという様式はそのためのものです。それをしないならば、その二次的な語り手や書き手は自身の語をもって引き合いに出した人物の思想を誤解させていると評するしかありません。原著を読んで誤解するのは勝手というものですが、いやしくも先達を引き合いに出すのならば自身の定義と自信が参照した定義(もちろん読みにあたって誤解しているかもしれませんが)は区別してしかるべきです。
そしてもう一点、近年見られるSNS否定論について、この「SNS」も括弧に入れられるべきでしょうし、おそらくSNS否定論が指摘するような事態を招くために仕組みとしての「SNS」が開発されたわけではないと主張したいと思います。SNSは本来Social Networking Systemの略語です。つまり人々を網目状に結びつけることを理念(理想と言ってもよいかもしれません)として構築されてきた一群の仕組みです。しかし、人々を網目状に結びつけるというのは双方向的コミュニケーションを何らかの意味で前提にする思想の理想でもあります。と言うより、その理想をより広範囲に実現する仕組み、19世紀に自由な言論の代名詞とされたマスコミュニケーションというハブ型結合を権威的な仕組みとして克服することが、「SNS」が生まれる際の理念であったと言えます。おそらく國分氏はこの理念自体を否定することを意図してはいないと思いますが、そうであれば、なぜそのような人々の特権性のない結合を意図した仕組みが特権的発信者の垂れ流すインスタントなメッセージとそれに追従する脊髄反射的なメッセージの飛び交う場になったのかを問い、そのような必然性を備えた仕組みを「SNS」と呼ぶ程度の慎重さは必要だと思います。
もっとも、動詞としてのnetworkはbind or glue people mutuallyという意味ではないかと思わないでもないのですが。もちろんこのbindは両義的にlisp的な意味合いでのbindです。

日本哲学の最前線, 講談社現代文庫
上記著書の著者の「思想」についての評が含まれるので読んでみたのですが、読みとして理解できる部分がありつつも、いささか辛いというか、弁証法と生成という観念がいかに思想を腐食させたかを示すような文章になっています。まあ、弁証法と生成という観念なしに19世紀以降の西洋哲学を語ることは難しいわけですが、1940年代までの著作ならまだしも、21世紀になっていまだに弁証法や生成を内実を伴った有効なキーワードとして疑いなく用いている様子に接するのは疲れます。どう見ても本書における弁証法や生成は形式的な、つまり提出された命題に対して対話的に、典型的には反例を示すことによって、命題への理解を深めていく論述の方法論ではなく、命題を提出し反命題を対置して対照することで合を「生成」する、あるいは対立物相互の絡み合いにその対立の克服と新たな(しばしば解決としての)状態の「生成」を見る18世紀弁証法哲学的腐敗に塗れた用語です。もっとも弁証法はまだしも形式的でありうるのであって、この腐敗を招いているのは「生成」という観念でしょう。これを導出に変えるだけで、ずいぶんとまともに見えるようになります。もっとも前述のように近代西洋哲学を論じるうえで18世紀的弁証法哲学の語法は不可欠ですが、少なくとも概説や解説においては、この語法は括弧に入れて用いなければならないでしょう。例えばハイデガーの思想を記述する際にこの種の弁証法や生成を用いないわけにはいきませんが、それは著述や講話において先験的に設定された結論を導出するために用いられる道具としてとらえ直されなければならないと思います。すなわち結論は導出されるのであり、結論が生成するのではないということです。
弁証法−生成の観念は自身この観念の上に思想を展開していると読める苫野氏を扱う部分で頻出しますが、「生成」は本書の全体に出現する以上、山口氏が本書を書く上で基盤にする観念の一つでしょうし、それは最後の山口氏自身にも関わるまとめにおいて明確に読み取れます。この「生成」という個人的には、特に形而上学(つまりイデアの学)においては何かの勘違いとしか思えない語へのこだわりは、本書を読むうえで大いに躓きを強いてくれました。現代の哲学的問題の一つとして不自由論とそれを通しての自由の概念の追及があるという点は(ここ三百年弱の中で何度目かのリバイバルではあるにしても)適切な見解だと思いますが(敢えて卓見とは言いません - 見ればわかるからです)、正直弁証法哲学がニーチェを通してハイデガーを経由した必然から明白に見て取れるアーレントの先の(つまりアーレントの理念が導き出すところの)ディストピアにヘーゲル的生成観念を以て対することは、アルコールを燃やす自動車で地球温暖化に対応するような話だと思うのですがね。

■2023年06月10日(土)  原稿などホテルででも書けるでしょうが
東海道新幹線の運休で大混乱、JR東海の対処は適切だったか
「JR東海をはじめ交通機関各社が旅行の変更、取りやめを呼びかけていたけれど、私にはやめられない事情があった。」
まず大前提として、悪天候が予想される状況では長距離移動を避けるべきです。今回の杉山氏のような事情がある場合、二週間前に現地まで移動する予定を組み、拠点への帰還なり次の行先への移動なりも一週間程度の余裕を見ることが求められます。その日に乗れないとまずいようなぎちぎちの旅程を立てるべきではありません。いや、別に立ててもよいのですが、それは例えば成否にかけるような、つまりテクニカルな乗り鉄系の乗り換えをスムーズに行う限界にチャレンジするとか到着地点に時間通りに到着できるかのチャレンジとかの場合です。大事な用事であるほどリスクは重く見積もるべきであり、出張するセールスパーソンであっても失敗したら辞表を書かないといけないような商談にギリギリの旅程で臨むなど、貴様仕事を何だと心得ているレベルの愚行です。
その前提の上で、新横浜発の臨時列車が欲しかったというのは確かに妥当な感想でしょう。JRも予約状況や旅客の動向データからどこにどの程度の乗客が集まるかは - 時間の厳密な予想までは難しいにせよ - 推測が可能なはずです。そこで東京駅と品川駅の客を優先的に捌くという判断の是非は問いうるでしょう。
とはいえいかに列車の詰込みに長けた日本の鉄道でも一定の時間に走らせられる列車の数には限界があります。電車である以上新横浜折り返しの列車を設定することが可能だとしても(上りと下りの間のポイント設備があればということになりますが、2015年の記事によるとあるようです)、新横浜以降その列車も東京発、あるいはもしかすると品川発の列車も同じ線路を走るわけですから、増発には限界があります。列車の入れ替えにも相応の時間はかかるものであり、通常本来の進行方向とは逆側から列車が線路に入るというなかなかに危険な状況が発生しがちなため、少しでも多くの列車を線路に詰め込もうとしているような状況では躊躇せざるを得ないように思います。あるいは入れ替えを行わないとすれば、混雑する東京駅東海道新幹線ホームから空荷の列車が出発することになりかねません。さすがにそれは東京駅で暴動が起きるでしょう。その全席が空いた列車が品川駅を通過する場合も同じで、ホームに待っている客があれはなんだとクレームを入れることは容易に予想できます。

■2023年06月10日(土)  個人情報の管理とセットの切り替えの権利
なぜか今日、impressのサイトを開いたところ楽天の名義で、中古制服なのかなんちゃって制服なのかわかりませんが、女子中高生の制服姿と、おそらく事務職か総合職系の女性の臀部を強調した膝丈タイトスカート、そしていわゆるブルマーの広告が出てきました。まあ、服の広告なのだと思います。楽天名義で広告に性的な商品が表示されることは個人的にはよくあることで、不快ではあるものの属性なり傾向情報なりの影響としてあっておかしいとは思いませんし、楽天が入り口としてそういうものが効果があると考えて押している可能性もあります。後者などはそれこそ商人の自由というもので、見せられる側としてはコンテンツを参照できなくなるリスクを勘案しながら広告をブロックするくらいです。ちなみに内容の選択を行っているのはgoogle adserviceのようです。
とはいえ、この表示がなにがしかの個人的な行動の傾向の分析によるものだとすると、問題はあります。別にそんなものが表示される筋合いはないなどと言うつもりはないのですが、まずYahoo関連ならまだしも楽天でそんな買い物をした覚えはありませんし、そもそも個人のパソコンだからといってその類ばかり閲覧しているわけでもありません。例えば風景写真の情報を閲覧しようとしてその手の広告が表示されると非常に不快なわけです。もしかしたら普通にファッションとしての女子学生服や類似デザインの扱いなのかもしれませんが、属性を解析した結果なら私個人がそれを着る、あるいは作業着などとして他人に着せると判断する理由はないはずで(もちろん娘の学生服を買うなら指定の服飾店で採寸して買います)、性的関心の中でそのような衣服を扱う前提で表示しているとしか解釈できません。いったい何がどうなってそのような評価がなされているのか、もし個人やその代替物に結びついた形で表示の選択が為されているなら基準となっている情報についてはその個人に対して管理の手段を提供するべきですし、もし個人ではなく一定のカテゴリーとしての選択ならカテゴライズについて拒否の手段が与えられることが望ましいでしょう。もちろん広告の拒否や表示された特定の広告についての意思表示の仕組みはそのような手段の一つですが、有効に機能した印象がありません。この広告は気に入らないと意思表示しても同じ広告が表示されるのです。ランダムであればどうしようもありませんが、少なくとも閲覧するページや端末情報なりを判断して表示すべき広告を選択しているのであれば、同じ端末を使うことでその端末に表示された広告の選定基準を検索することができるはずで、当然Amazonのリコメンドのように適用されては困る基準をオミットすることもできるはずではないでしょうか。Googleにログインして使っているわけではありませんから、ログインしないとその手の操作ができない技術的な理由というのも全くないはずです。
もちろん広告主だけでなくサイト側でそのような広告を優先して表示するよう設定している可能性もあり、その場合閲覧者側での拒否はできないのが当然ですが、少なくとも自分の環境に紐付けられた基準にそのような広告の表示につながるものがあるかどうかは確認できることになりますし、自身にそのような基準が紐付けられていない場合、そのような広告を閲覧者に示すページ自体の扱いを検討することも可能になるでしょう。
広告表示の最適化を謳うなら、閲覧者が見たくない広告を排除する仕組みを提供することは、広告システムの信頼性や表示される広告への信頼につながると思います。また、正直アクティヴィティーによってその手の基準を切り替える仕組みというのも技術的には可能ではないかという気がします。広告が掲出されているのであれば、その広告から閲覧者の現状のアクティヴィティーに即した基準のセットを選べるコントロールパネルを呼び出すような機能の実装は可能でしょうし、現在行っているアクティヴィティーに差支えのない広告が表示されている場合はセットの切り替えは無用だとしても、突発的な相談事にほら、ここのページにこういう風に書いてあるから読んでやってみてなどと指示するときにいきなりたゆんたゆんのおっぱいをタッチしよう的なゲームの広告が表示されてしまうときにセットを切り替える理由は十分あります。テレビが表示される広告を選べないからといって、広告とはそういうものだなどと考えるべきではありません。

■2023年06月10日(土)  居住地を管轄する政府が意に沿わないことをやった場合脱出するというのは極めて正しい
何十万人ものロシア人が国外脱出
居住地や現在いる社会に過度のこだわりを持たず、移動する、移動し続けるという発想は極めて大事だと思います。
とはいえ、移動先に定住するとか、移動先で短期的にであっても就労せざるを得ない、つまり移動を続ける資産がないというのは問題です。移動によって元いた社会を離れる以上、生存の担保は元居た社会を超えて通用する関係構築の資源、つまり金と生産能力に限られます。今のところ金融市場での資金運用を除く稼得は規制対象ですから(金利収入の獲得すら資産の場所次第で危険にさらされます)、定住して就労する、あるいは就労に準じた行為で稼ぎを得ることが問題になるわけです。移動してきた者は市民ではなく客人に過ぎませんし、移動してきた者の就労や稼得活動は既得権を侵しますから、自身の既得権を侵される市民の反発を受けます。また客人は程度や属性によっては市民たちの社会を揺るがすものとして警戒排斥されます。客人に許されるのは、隔離された宿泊施設に居を置き、現地の市民社会から貨幣を吸い上げない範囲で、かつ現地の社会を否定したり過度に関わったりしない形で行動することだけです。もちろんこれは避難民であっても同じです。法的に一円化され基盤とされた市民社会が国家社会のみである以上、国家社会の内部社会とされる「地域」や「職場」への溶け込みはかえって国家社会からの排斥を引き起こすこともあり得ます。
つまり移動自体は正当ですが、問題は移動自体を問題なく永久的に行い続ける、いわば覚悟と、その手段の確保です。他の、例えば安全な場所に定住する手段としての移動は極めて危険な発想です。移動者が移動先で容認されるのは、移動者が客人として適切に振る舞う場合のみです。トランジットすら拒否するというのは相当異例なことですが、総体として一定の属性を持つとされる個人やトランジットに際して実質的な入国が発生する場合については規制がかかっていて、相応の客人として振る舞える人物であることを証明しなければならないこともあります(トランジットヴィザの提示など)。移民、避難民問題を考えるうえでは、人権という視点よりは客人の市民化という軸で考えるべきでしょう。客人が即市民になれるというのはかなり突飛な発想だと思います。

■2023年06月09日(金)  ルールを守るべきなのはわかりますし合法的であるべきなのも確かですが、わいせつ規制などの枠内での過激なポーズ自体が規制の理由というのは気にはなりますが
過激なポーズ撮影が判明 県営プールでの「水着撮影会」を不許可に
まあ、単純所持で犯罪を構成するような「過激」な絵を作る行為への利用は望ましくないとは思います。
そのような場合を除いて、被写体が「羞恥心を喚起させる」レベルの過激なポーズを取っている様子を見ること自体を不快とする人、あるいは年齢などの基準からそのようなものを見ることが望ましくないとされる人を排除したうえでの撮影会であれば県がどうこう言う筋合いはないというか言わないことが望ましいと思うのですが、一応公共施設の専有ですし、苦情が来ているということは見えていたんでしょうね。このあたりはイベントを実施する主体が十分に配慮すべきことで、配慮が不十分、実施の前提を確保できていないという事実が出てしまった以上、信頼関係の構築からやり直しになるのは仕方ないことだと思います。
とはいえ慣れの問題と言えば慣れの問題で、昨今(というわけでもないか)スポーツウェアは際どいのが多いですからねえ。

6月24日・25日の「近代麻雀水着祭2023」開催中止。“会場側からイベント中止の要請”
というわけで、正式にイベント中止のアナウンスがあったようです。
なんと言うかある意味現代らしいイベントというか、ノリがねえ。麻雀雑誌がやるのはまあ、ありがちと言えばありがちと言うか、別に自動車雑誌やバイク雑誌あたりがやるのだってありそうですからね。ただ、できればこういうイベントは大々的に参加者を募ってするのではなく、金持ちがプライベートなところで乱交パーティー兼用でやる程度に留めて欲しい気がします。写真撮影を目的にした健全なイベントだからいいというものではないし、アイキャッチを目的にした商業写真というのは基本的に不健全です。当然どう見てもその影響を強く受けた水着女性の撮影会も不健全ですし、軽装の女性一般に性的印象を感じるとか特定の女性の水着姿にセックスアピールを感じるとかはあっておかしくないし、場さえ弁えていれば表出も許されると思いますが、パブリックイベントとして堂々と謳う、そういう表出の結果としての行動=写真撮影を公的手続を行い、公共の施設を占有して、公然と技能の習熟に値する行為として勧奨するというのはどうなのか。それこそ女性の肉体美の表現なんて、文化勲章を諦めた人がすることだと思うんですけどね。一件でもあったら叙勲資格から外れるくらいで。

公営プールの水着撮影会、一律不許可を撤回 埼玉知事「適切でない」
もちろん一律不許可は適切とはあまり思えないわけですが、とはいえ短期的には必要な措置だと思います。もちろん県がそのような利用による公園使用料の確保を狙っているなら話は別ですが、多分そういう話ではないでしょう。確かに公共施設の利用の規制は民間人にとって権利を制約される事態ですが、むしろ重要なのは許可基準の透明性でしょう。苦情があって許可の撤回が起きるというのは、透明性が低く許可基準が一般に認識されていない、あるいは一般の望ましい利用の認識と異なっているという判断の十分な根拠だと思います。この手の施設は、特にイベントについてはいやおうなく巻き込まれる周辺住民や公園としての日常的な利用者への配慮も必要であり、イベント主催者に配慮の確保を求めることはもちろん、許可に際してその手段について具体的な検討が行われるべきです。いくら集会の権利が憲法上の権利として認められているからといって、何でもやっていいとは思えませんし、むしろ平穏に行うことを義務とするべきでしょう。もちろん平穏の内容には、関係のない人に不快なものを見せたり不快な音を聞かせたりしないことも含みます。
現在申し込まれている6件のうち4件は許可するという判断のようですが、むしろその4件も含めて、主体が県にせよ管理者にせよ、外部有識者による許可基準およびイベント運用ガイドライン策定委員会を設置し、今年度一杯程度を目途に基準が答申され、採択されるまで同種のものには許可を出さない、既に行われた申請は一度許可したものも含めて原則不許可、許可を撤回というのが望ましいと思います。

公営施設で水着撮影会は表現の自由? 未成年モデルや過激ポーズも
少なくとも適正な配慮をしての利用は原理的に認められてしかるべきだと思います。まあ、水着撮影会なんてものを主宰する主体の品性は疑われて構いませんが、品性下劣だからやっていけないというものでもないでしょう。
ただし、公営施設である以上違法な行為に使われては困るのであり、当然その点を含めた利用基準は公然かつ明確なものである必要があります。また違法ではないまでも、例えばこの種のイベントに付きまとう傍から見て不快という状況を作り出さない、まあ、ここまでするならやっていてもいいかと思える程度の配慮は求めるべきですし、最低限行うべき具体的な措置も明記されていてしかるべきです。もちろん違反すればその具体的違反に対するペナルティーの適用と今後の利用からの排除ということになるでしょう。それができるだけの枠組みをちゃんと作ったうえで運用するべきだと思います。
それでもまあ、周囲への主張を目的とする集会でないだけましというもので、その場合規制が難しいうえに対立が先鋭化しがちです。

■2023年06月09日(金)  お前にそんな権限があるのか
岸田首相、ゼレンスキー氏と電話会談 ダム決壊で500万ドル支援へ
まあ、たかが五億円ではあるのですが、それこそ財政再建と比べて出すべき費用なのでしょうか。そもそも支出の根拠は何なのでしょうか。支援することが悪いというのではありませんが、そもそも国会が会期末に入りかけており、突発的な支出を審議にかける余裕はあるのでしょうか。ないのであれば、そのような支出をすることには制度的な疑義があると思います。
もちろん岸田氏が個人的に五億円を送るというなら全く問題がありません。パーティーでもやって集めても同じことです。日本国として、国家の財源から、行政機関の一存で出すことが問題なのです。

■2023年06月09日(金)  むしろ現役公務員を高い塀のある官舎に閉じ込め出退勤も送り迎えすべきではないか
立憲と維新が国家公務員法改正案を提出 対立も天下り問題では協調
規制してしまうのが手っ取り早いのは確かなのですが、役人だからといって退職後の就職先を規制することは自由を侵害していないかという気もします。むしろ、去年まで同じところにいた人物だからといってホイホイと話を聞いて忖度する現役組の脇の甘さに問題があるでしょう。退職した以上公務員ではない、ただの部外者だし、会合や交流に倫理規制が適用されることはもちろん、便宜を図ることは背任であるという点こそ明確にすべきですし、現役の役人である以上交際には慎重を期すべきであることは言うまでもなく、退職公務員との交際は避けるべきものに含まれます。退職したら翌日から現役の元同僚の自宅を訪問すると入れてもらえず追い返されるというのが、公務員でなければなりません。

■2023年06月08日(木)  公開を制限するなら権利行使にも制限を
特許公開を制限、ステルスやロケットなど25分野 経済安保で制度案
公開を制限するなら特許として出願を認めるべきではありません。近代特許制度は一定期間の実施の独占や実施許諾権を代償として公開によって利用や技術開発の基盤的な情報を社会に提供することを目的とします。技術を権利者が独占することではなく、情報を公開することで技術開発を広範に促進することが目的なのです。公開しないならトレードシークレットで十分です。その上で、経済安保とやらの監督官庁が技術の登録者に経済安保関連分野に限られた独占的な実施を保障すればよろしい。その外で第三者が技術開発をすることまで制限するのでは筋が通りません。
一応制度的にはこの発想に近い枠がはまっているようで、防衛関連の調達に参加する場合に限定され、何でもかんでも防衛技術として管理するという発想ではなさそうです。もっとも仲介業者が防衛省に売った場合はどうなるのかという問題はありますが、まあ、買うから忠誠宣誓をと言われたら拒否して買ってくれなくていいと言えば済むことでしょう。とはいえ最悪潜水艦特許じみたものになりますので、公開を禁止する場合特許としての権利行使に、例えば同一性のある技術の開発実施に対する権利主張をさせないような制限を加えた方が良いとは思います。何しろ公開されない以上、うっかり同じものを開発してしまって恐喝されてしまうリスクが出てきます。

■2023年06月08日(木)  それこそ株式会社に転換させればいいのでは?
マンションの建て替え 所在不明者を決議対象から除外 法制審が試案
そもそも区分所有だの管理組合だのに無理があります。そもそも組合という仕組みにするから事業、つまり物件の管理に無理が出てくるわけで、元々株式会社にでもしておけばよかったのです。これなら、役員室=個人所有部分にあたる区画を私費でどう飾ろうと住人の自由で済まなくもないでしょう。売るときは退去したうえで居住部分への権利の標章である株券を売り渡せば済みますし、株主権の行使を怠ったところで積極的に行使する人たちへの影響は少なくて済みますし、一方で株主として認められるべき権利を株券を無効化するような形で否定するには相応の手間もかかります。
管理組合という形に固執したままで多数決原理を持ち込むようなことをせず、区分所有制度自体を撤廃し、移行期間内に株式会社化するか所有権を放棄するか決めさせればよいでしょう。もちろんデフォルトは放棄で、その結果無管理の不動産となり、現に占有居住している人たちが実効ある占有の結果不在者を排除して所有権を取得するか、地方自治体が管理を引き取ることになるはずです。それこそ自分たちの所有物だから組織が麻痺すると管理が行き届かないわけで、その程度の責任感しかないなら賃貸に住む方がましでしょう。

■2023年06月08日(木)  農林水産省を潰してもたった二兆円ですが
サンマからイワシへ、水産庁が「魚種転換」のすすめ 海洋環境変化で
当たり前のことです。狩猟は成果を制御できないのですから、獲れたもので何とかするしかありません。
とはいえ、それで済むのなら水産庁は要りません。環境省で十分です。もちろん廃止するなら賛成しますし、振興とか(転換)補助といった発想がそもそも問題を発生させていると思いますが、自己否定するような当たり前の話を捻りもなく持ってくるようで役人が務まるとは、ある意味いい時代だという気がします。
財政再建の都合から言えば、保全関連事業を環境省に移管したうえで、農林水産系の協同組合に日本放送協会のような形で全権を委譲して農林水産省ごと潰した方がいいと思いますが、とはいえ潰したところでたった二兆円のようです。

■2023年06月08日(木)  そもそも「マイナの哲学」とやらと銀行口座は相いれません
「マイナの哲学、理解不足」 識者が指摘する「家族口座」問題の根源
もちろん、マイナンバー制度自体は個人を管理するものであり、制度の外側で他人に関する情報が本人のものとして登録されることを、想定もしていなければ、運用上認めるべきでもありません。その点は明白です。
とはいえ、その場合、銀行口座をマイナンバーと結びつけるというやり方は明らかにマイナンバー制度の発想と違背します。どうも銀行口座は個人のものという思い込みが識者の一部にあるようですが、これは明白に間違っており、銀行口座は団体を単位として管理されるもので、たまたま団体の一種として一人だけが運用している状態があるにすぎません。行政上の便宜として個人と明確に結びついた送金手段が必要であるならば、送金手段自体を開発する必要があります。

「突破力」の河野太郎氏 マイナンバー「普及ありき」のずさんな対応
でもって、「マイナの哲学」を全く理解していないのに組織的な反対がなさそうなところから普及を進めようとするとこういう言われ方をするわけです。河野氏の「突破力」は、ある意味では実績を積むために割切ったところはあるのかなとは思っていますが、なりふり構わず、マイナンバーカード関連であれば普及という一点に絞っている印象を与えています。もちろん古典的には鉄道も道路も報道機関も近い部分がありますが、とにかくインフラにしてしまえばそこそこ便利に使えるようになる、とはまあ、思えなくもありません。少なくともマイナンバーカードは公的身分証明書としてはなかなかのものなはずなのです。普及の為にと称して変な機能を吟味もなしに後付けするから変なことになってますけど。やはりまずは、自動車運転免許証と国家公務員の身分証明書を統合するべきだと思います。警察庁と人事院ですね。また各種国家資格の証明証として使用できるようにするために、資格運用制度の調整と有資格者運用事業者への資格認証機器の普及を進める必要があります。中小も含めてゼネコンが照会用端末を整備していれば元請の責任で従事者の資格の表示ができますし、それこそ自動車にもマイナンバーカードを読み取って運転者を認証する機構の装備を義務付けるのもよいでしょう。従業者全員について相応の身分証明書で身元の確認を義務付ける方向性もあり、建設業における不法就労のハードルを上げるでしょう。これは国土交通省や厚生労働省の管轄です。また投票時や公務員試験受験時の本人確認をマイナンバーカードで行う、選挙の投票でマイナンバーカードがない場合相応の本人確認のできる設備を持つ管轄の選挙管理委員会事務所で投票を行うことになるというのもありでしょう。これは総務省あたりでしょうか。どれも、他人の情報を登録する正当な事情が全くない事項です。健康保険のように世帯単位であるとか、銀行口座のように決済の単位で運用されているに過ぎない=名義は代表者のものに過ぎないといった問題はありません。
このあたりを突破力とやらで進めるというなら、強引であろうと無茶であろうと無駄金を使おうとある程度評価するんですけどね。

■2023年06月07日(水)  無神経ではあるのでしょうが、止められるかというと難しい気がします
長野の猟銃による殺人事件2日後に「狩猟免許取ろう」 石川県が告知
まあ、狩猟免許自体は銃を使うことは前提ではないわけですが、このタイミングでうっかり銃を持った狩猟者のイメージを使ってしまう、あるいはこの件のようにそう取られてしまうと問題なんですよね。
言い方はどうかと思いますが、知事として不快だと明言した点は好ましい部分があります。もちろん知事の責任とは言い難いので、形式的な謝罪をする必要もないとは思いますが、経緯を調べ、おそらく発出の決裁を含めた制作過程に由来するのであろう問題点について再発防止策を検討することが望ましいでしょう。もっとも、この場合必要なアナウンスですし、害獣被害の抑制のため狩猟者の増加を目論んでいる事情はあります。単なる試験のアナウンスだけでなく、狩猟免許の取得を呼び掛けること自体は織り込まれていたでしょうし、それを二日前に止めることができたかというと、手続の仕組み上疑問はあります。せいぜいが、単に事実を報知する公式のアナウンスと、政策の都合を織り込んだアナウンスを分け、後者は随時発出を中止できるようにするくらいでしょうか。

■2023年06月07日(水)  置いたままにしたのが手帳やログブックでも同じことです
教諭のタブレットを離席時に児童が見て…メモにショック、学校謝罪
これ、当たり前ですがタブレットだからという問題ではないです。むしろタブレットやパソコンの方が、オペレーターを検知してロックをかけることも可能なだけ - もっとも相当使いにくくなりそうですが - ましで、教卓にその手のメモを記入した手帳やファイルを置いていけばまったく同じことが起こります。もっとも、タブレットということで(ロックをかけておけばですが)「見えるはずがない」という油断を助長した面はあるかもしれません。いずれにせよ、タブレットでもスマホでもパソコンでも放置して離席するというのはあってはならないことです。もちろん原則論として、他人が見ることが可能な場所でセンシティブな情報を取り扱う、表示させるようなことはしてはなりません。事態として、事務作業中の担任の背後から児童が覗き込んでも同じ事だからです。二重にも三重にも迂闊な話で、可能ならばそれこそ記憶を強制的に引っ張り出すような機械で恥ずかしい記憶を曝し、機密情報を迂闊に取り扱うというのが何を意味するのかを体に刻み込むくらいの罰が望ましいでしょう。

■2023年06月07日(水)  どうせワードかエクセルのデータを直接かエクスプローラーで公開フォルダーに保存したんでしょうね
教員が保存先誤り…成績などの情報、児童6人がタブレットから閲覧
「パーソナル」コンピューターなどという設計思想からしてセキュリティー的にがばがばなものを安易に業務に使うからこうなります。ネットワーク絡みのシステムにせよ、スモールビジネス向けまでのものは本来センシティブなデータを扱う前提では設計されていないのです。学校のようなセキュリティークリアランスに大きな差がある場でワードだのエクセルだの言ってはいけないのです。
と思うのですが、かれこれ40年以上、そのあたりはさっぱり進歩しませんねえ。もちろんそのあたりへの対処をちゃんとしたシステムはあるのですが、お金に余裕がある大組織向けで、しかもワードだのエクセルだのとの組み合わせに難があることが多いので、新入社員が即戦力にならなくなるため敬遠されるのはもちろん、社外との関係で扱わざるを得ないその手のデータの取り扱い - もちろん取引先に求められればさっとワードなりエクセルなりのデータが出てこないといけないということも含めてです - の問題で、それこそ原発の制御室や軍隊の連隊司令部以上のレベルでないと運用できないのではないかと思います。

■2023年06月06日(火)  そもそも発注された仕事をそつなくこなすのは絵描きだろうと脚本家だろうと作曲家だろうとクリエーターじゃない
AIへの信頼「壊れ始めている」 クリエーターに危機感、共存の道は
まず信頼と言うなら、信頼はそもそもなかったでしょう。信頼できるほどのものになってきたのが最近で、それですら慣れない人が使うと偽札みたいな紛らわしいミスをされてチェックに手間がかかるわけです。もちろんプロが作ったからと言って安全ではないのは、色々と差別的な表現やら悪ノリやらが炎上していることから明らかでしょう。プロが高額の人日を使って試作したものに没を出すか、機械に仕事をさせることに熟練した人に機械でサクサク作ってもらって、納得できるものができるまで何度も突き返すかを問われています。
そうである以上、当然作業単価は下がります。無限責任の下で提供するというなら別ですが、何がどこまでクリエーターの責任なのかなど決めようがない以上、機械に安上がりに作らせてしっかり選ぶところにお金をかけるという選択を否定できません。場合によっては、クリエーティブな仕事を人間に発注することがなくなる可能性すらあります。
その場合、降ってくるような仕事がなくなって、むしろクリエーターが自分の作品を売ってくれる人や会社を雇うわけです。まあ、人工知能にマンネリズムを実践させているようなコンテンツ販売業者に自分の作品を売らせようなどという奇特な人がどれだけいるかはわかりません。もちろんクリエーターの負うリスクは大きくなりますが、その場合自分が関わらない部分のコストを最小化するために、人工知能は便利な存在であるでしょう。極論として販売コストがゼロであれば、絵の複製 - デジタルデータでもよろしい - を一枚千円で一万枚売れば一千万円です。人工知能はそういう、自分のネタで他人を働かせて儲けようという人がコストを節約するための道具であり、他人の発注をこなして稼ごうなどという志の低い人にとっては競合でしかありません。

■2023年06月06日(火)  そもそも仕事のボリューム自体が減るような気もするのですが
AIに代替されにくい仕事は? ChatGPT時代に求められるもの
こういう問題設定は、正直既に落第だと思います。問題は、どんな仕事が代替されにくいかではなく、代替されにくい仕事にどれだけのボリュームがあるか、代替されにくい仕事で十分な稼得を得られるかです。これはすでに悲観論も出て来ていて、もちろん人工知能にできない仕事はあるけれども、計算として実装が難しいほど高度で曖昧なため基礎的な訓練を受けた程度では仕事ができないとか、人工知能だけではなく付帯設備も必要でそこに投資する資金余裕はないから、知能に腕やら脚やらがついている人間を安上がりにこき使うのでなければ廃業するとか、そういうことになるから稼いで食っていくなんて幻想は捨てなさいと言っている人もいるわけです。就労可能性というのはあくまでも需給の問題なので、少子化で労働供給が減ろうがそれ以上に労働需要が減れば人余りになりますし、生きていける程度の稼ぎしか得られないのはもはや仕事とは言わないのです。どう見ても自動化をするお金のある所は自動化を進めていき、残るのは自動化できない業務かお金がなくて自動化を進められない事業です。前者は相当部分が高度なうえにボリュームが少なく、後者は満足な給料を払えないのでやりがいを食べてやってもらわざるを得ないブラック職場なのです。

■2023年06月06日(火)  一度全部消す方がいいんじゃないの
首相「全データ再点検を」→厚労省「点検しない」 マイナ保険証問題
「システム上できない」と言うから何事かと思えば、「自分で登録したものと、自治体職員など他人が介在して登録されたものは、システム上の見分けがつかず、点検できない」だそうです。馬鹿じゃないでしょうか。もちろん他人が介在して登録されたことを示すフラグなどはないでしょうが、見分けがつこうがつくまいが、問題は他人名義の口座が登録されていることそれ自体であり、原理的には全データを検査し登録された口座の名義を確認すれば済みます。
とはいえ、8000万件を漏れなく確実に点検できるかというと、まあ、あまり現実的ではないでしょうね。点検の過程で点検ミスどころか不正な操作や情報漏れなどが起きる可能性もあります。また全預金者の口座について回答させられるに等しい負荷がかかるであろう銀行には相当迷惑な話でしょう。もちろん筋論としてはこうした大規模なチェックを想定しておくべきだったわけですが、今さらそう言っても当座は仕方ありません。
正直一番簡単なのは、一度取引口座の登録を消去することだと思います。本人から口座廃止や切り替えの申し出があった場合や、口座にアクセスしようとしたらできなかった場合などに、口座情報を消去するという仕組みは確実にあるはずです。コマンド一発で全削除するような仕組みがあるかどうかはわかりませんが、チェックするよりは機械的に消していく方がよほど間違いがないでしょう。口座情報と一緒にマイナンバーの台帳のエントリーごと消してしまう可能性はありますが、対応する情報は戸籍なり住民票なりという形で存在するので、おそらくそれとは別になっているはずのデータベースを吹っ飛ばしたところで被害はたかが知れています。マイナンバーカードを提示したら照会できないという事態が起こるかもしれませんが、今ならまだ利用は普及していませんので、間に合います。

■2023年06月03日(土)  予約時にHDMI接続のできる24インチ以上のサイズのモニタを部屋に用意しておいてくれと頼む方がましなような気は相変わらずしますが
後ろ指をさされずにスーツケースに23.8型ポータブルモニターを入れる夢かなう
おめでとうございます。ついにモバイル(自称)の(自称)が取れましたね。
まあ、スーツケースやキャリーカートの場合車輪がついていますし、おおむね航空便のエコノミークラスの運賃に含まれた受託輸送荷物上限重量である20 kgを目安にするものですので、3 kgというのは覚悟程度の問題です。ワインボトルを4本ほど入れるのと等価な程度の重さでしかありません。逆に言えば、ここで500 g程度減ったからといって影響はあるのか、まあ、USBハブ1台と下着の着替えをもう一日分くらいは突っ込めるかも、という話でもあります。
ところで、ホテルというのは結構融通がきくものでして、特にビジネス客の受け入れを銘打ったホテルやそれなりの高級ホテルの場合、予約時にテーブルタップが欲しいとかモニタが欲しいというと用意してくれたりします。90日くらいホテルを日替わりで飛び込みで旅行するとでもいうならともかく、予約時に交渉する方がましなんではないかと思うのですが、どうなんでしょうね。まあ、成都の某ホテルは部屋のLANレセプタクルのケーブルが断線していましたが。

■2023年06月03日(土)  住民投票でもやったのかと思った
小松菜→もやし 牛肉→鶏肉… 給食限界 懇願し値上げした自治体
値上げ自体はあり得ることですし、そこで説明を尽くすのも良いことですが、「懇願」はしてませんよね。懇願というのは受け入れてくれるかわからない相手に強く願うということであって、この場合給食費は市当局の決定で一方的に値上げしたのでしょうから、「給食限界 懇願し値上げした」というのは文としておかしいと思います。この場合、普通は(記事の内容からも)給食内容の切りつめで予算内に収めるよう頑張ってきたが給食の質を維持するためにはもう限界なので値上げさせてほしいと懇願したと読むと思いますが、実態としては値上げを決定し、その上で給食内容の切りつめで予算内に収めるよう頑張ってきたが給食の質を維持するためにはもう限界なので値上げするから理解して欲しいと懇願したことになります。懇願された側は値上げと理解を押し付けられたのであり、値上げや値上げ幅の妥当性を受け入れにあたって事前に検証する機会があったわけでもありません。ついでに言えば、理解せずに値上げ決定について差し止めの仮処分の申し立てをすることを制度的に防止できているわけでもありません。
説明文書に懇願調の文章を書いて配布した点を重視すれば、この場合自治体という決定主体はなくても常識でわかるので、「小松菜→もやし 牛肉→鶏肉… 給食限界で値上げ 理解を懇願」あたりではないかと思います。

■2023年06月02日(金)  定数を減らさずむしろ金を取ったらどうです
大阪市議会「定数81→70」の維新案 識者「普通の条例案と違う」
議員定数の削減っていわゆる行財政改革、つまり自治体運営コストの削減の問題なんでしょうか。それなら、議員歳費や活動費を全廃して手弁当での活動として、さらに議員に便宜を図る事業・事務について議員個人が費用を負担をするようにして、それで議員定数を増やす手もあると思うのですが。それでなり手が減るなら、大阪市で希望者が百人を割り込むということは考えにくいですし、そもそもお金を払ってでもやって欲しい議員などほぼいない気がしますから、お金を払ってでもやりたい人だけやればいいと思いますけどね。議員を10人減らすよりも、81人がむしろ年一千万円を払った方が行財政改革になるでしょう。
人口の少ない自治体では、歳費くらい払わないと議員のなり手がいない、というか歳費を払ってすらなり手がいないという状況ですが、そうでないなら与えるのは名誉と市政に積極的に関与する資格だけで十分でしょう。コミュニティーの評議員なんて手弁当な方が常識、手弁当でできる範囲でするものでしょう。研究や評議は必要ですが、実施は執行部門が担当するわけですから、拘束を減らす方が楽なはずです。もちろん、市議会議員として活動するための資金を意味不明のパーティーとか口利きの手数料で集めようとするような人は議員に相応しいとは言えません。もちろん選挙で供託金を借り入れて落選すると破産するような人もダメです。むしろこういう政策を実現したいからそのように議会で動いて欲しいという人に担ぎ上げられるほうが人望として望ましいでしょうし(もちろん富裕な人や団体が金に任せて議員を買いまくるのは問題ですが)、そういう人望がないならせめて名誉の分自己資産で市政の役に立つべきです。

■2023年06月02日(金)  民泊規制はわかるとしてなんで賃貸の促進?
フィレンツェが民泊禁止へ 歴史地区で増えすぎ、地元住民の住宅不足
まあ、わかります。民泊を歴史地区で展開して旅行者にプレミアムを付けて貸し出したいオーナーの気持ちもわかりますし、それで住民が追い出されるようなことはおかしいという市当局の立場もわかります。
とはいえ、フィレンツェの歴史地区ってそんなに広かったですか?歴史地区の建物なんてがんじがらめに規制がかかっていて改装もままならず不便で住みにくいのではないかと思いますし、歴史地区の周囲に集合住宅でも作って住民を収容し、歴史地区については利用可能にするように規制をかけた上で家賃や不動産価格規制を撤廃する方が良いような気がするのですが。歴史地区には宿と店と旧跡などのアトラクションがあればよいのであり、いわばテーマパーク、ハウステンボスの手をかけない版でしょう。大金を払ってもそこに自宅を持って住みたい都市貴族の類ならともかく、賃貸物件に入るような細民は歴史地区への居住に拘るべきではない気がします。

■2023年06月01日(木)  なんで隣国で余ってるからといって買ってくる?
売れない穀物に農家悲鳴 ウクライナを支えるポーランドで高まる不満
いや、なんで買ってきて国内で売るんでしょうか?封印列車を仕立ててドイツに送り付けるなりダンツィヒあたりから欲しいところに売り払うなりすればいいと思うのですが。もしかしてポーランド企業にはそのお金もなくて、ウクライナから穀物を買い叩いてきて国内で価格競争を仕掛けるのが精いっぱいなのでしょうか。少なくともフランスやイギリスあたりは、戦後を見込んで戦車や戦闘機を売りつける前に、ウクライナから穀物を一トンでも運び出すことに力を尽くすべきです。どうせ現地価格は下がっていますから、運び出して売れば利鞘は稼げるはずです。またその現地価格でポーランド企業が手が出ない価格とボリュームを発揮すればポーランド農民からの感謝も得られるでしょう。物価が上がる都市民には不評かもしれませんが。

■2023年06月01日(木)  技術者がスペシャリティーを人工知能に頼ってどうする
IoTの「時系列データ」をChatGPTで分析・未来予測するには? ― IoT-Tech Meetup レポート
だから大学で何を勉強してるのと言いたくなるわけですが。時系列データの解析ツールというのはたくさんあり、家庭で家計簿データや水道料金と水の使用料の変動を解析するとでもいうのなら別ですが、IoTならそういうツールを持っているところがやっているはずです。もちろんそこには、大学での学びの一環として時系列分析をそれなりに学び実践もした技術者がいるはずです。大学は貧乏なので、使ったのはRかExcelかもしれませんけどね。それが何でたかが人工知能にこのデータからわかることは何とか訊かないといけないのでしょうか。百歩譲って人工知能が常時IoTで得られたデータをモニターして、対応なり警報の発報なりをしているというなら別ですが、「まず洞察を得ることが可能なこと」のようなエキスパートシステムにど素人が問い合わせているような使い方は余りに情けないです。
コアダンプから16進数表示されたスタックトレースを見て何が起こったのかたちどころに読み取れとまでは言いませんが、担当者=専門家がお喋り人工知能をこういう風に「活用」するというのでは、解雇されても仕方ないと思います。

■2023年06月01日(木)  これ、不便が出てもいいやと思ってるよね?
楽天モバイル、MNP手続きやmy 楽天モバイルで障害
何度やれば気が済むというか、わかっててやってるだろうとしか思えないわけですが?
受付開始初日に申し込みが集中することなど容易に推測できるはずですし、短期対応のための設備容量増強ができないなら申し込みが分散するような方策を練れば済むことでしょう。それが実際には起こっているということは、不便が出てもそれがリミッターになるとか思ってますよね。もちろんそう思うことが悪いとまでは言いませんが、なら「深くお詫び申し上げます。」なんて言うべきではないのです。これこそ形式的な謝罪で対応することまで織り込んだフェイク謝罪でしょう。

■2023年06月01日(木)  これこそ市場から退出してしかるべき事業体であり選択的に経済社会から排除するべき業界
“ボロボロ”の国内スマホメーカー ここまで弱体化してしまった「4つの理由」とは
ぼろぼろとか弱体化とか言いますけど、確かに国内独特の事情もあるものの、それは国内の歪な業界構造を是正するためのものですし、不利な状況にあるならそれを迂回する策を取ったかというと全く取っていないわけです。企業の事業構造上有利なところに進出するようなことは全くせず、漫然とフルラインナップでiPhone対抗とか言っていたわけですから、そもそもスマートフォン事業に向いた組織や経営方針ではなかったのだと思います。
少なくとも政策としてはスマートフォンを積極的に様々な仕組みから排除して行くべきでしょうし、日本国内にはその基盤になる技術や仕組みはたくさんあります。携帯電話という業界が消滅してその技術だけをベースにしたパケット通信によるネットワーク接続とIoTになったとしても問題はありません。TCP/IPは移動体通信システムと違って世界標準です。現地でモバイルルーターを買うか借りればいいのですから、現地でローカルなキャッシュレス決済をしようとでもしない限り不便は生じません。

■2023年06月01日(木)  アナーキズムの視点からは人工知能は個人を脅かさない
AIに脅かされる「個人」 情報を断ち切る規制必要 政治季評
何だこれと思ったらアナーキズムの方でした。左派アナーキズムは人間の全体性重視で仕組みを警戒するので、この主張は納得できます。
もっとも、その意味から言えば「規制」は大変統制左派的で、アナーキストの主張としては整合性がないように見えます。アナーキズムにおける制度の基盤は個人の連帯ですので、コミュニティー単位でのボイコットはあり得ても包括的な規制制度では接頭辞が取れてしまいます。いくら株式会社という制度的化け物が相手だからと言って、対するに客観的制度をもってしたらかえってアナーキストの嫌う疎外を招く近代社会主義的な発想でしょう。
一方で「タダにする代わりにユーザーからの情報が取り放題、というのは、ネット社会では見慣れたやり方だ。」という指摘は、いささか断罪の嫌いはありますが、ネットの市場主義的傾向を表す妥当なものと言えます。もっともその起源は方向は逆ですが商業放送にあると個人的には思います。タダにする代わりにプロパガンダ流し放題というわけです。これに対する解はすでにネットにあり、重田氏の指摘するオープンソースがまさにその一角なのですが、重田氏はオープンソースという言葉の意味を取り違えているようです。オープンソースは少なくともソースコード、理想的には実用的な稼働に必要なソフトウェア一式にヒューマンリーダブルな形でユーザーがアクセスでき、自身の必要に応じて改変調整を加えることができる - 改変物の配布は考え方による - という意味で、そうでないと後発者が極めて不利になるというアナーキズムに根差す発想です。タダでサービスを使えますというのはオープンソースとは言いません。OpenAIもChatGPTなりそのベースになっているGPTなりをオープンソース化することを標榜していますが、現状オープンソース化には至っていません。もっともオープンソース化されたところで構築運用自体が特権的になりうるというのが1970年代以降のネットの発達過程の現時点での帰結であり、データのキャプチャやトローリングが特権的人工知能運用者に独占される可能性については否定できません。アナーキズムの視点からは、このような特権的な立場の発生を抑制防止するエトスの提唱が課題になるでしょう。
さて、人工知能は個人を脅かしているでしょうか。
確かに人工知能は生産現場における人間の役割を奪っていくことを目標としていますが、それが問題になるのはある意味組織された資本的生産様式や極端な分業と組織を基盤とした商品交換経済が全面化した状況の中で無産者が制度的に専門化した労働力(個人的には奇形化された労働力とでも呼びたいところです)の売却による稼得に依存しているためです。おそらく重田氏の見方からすれば収奪的収集とでもいうことになるでしょうが、そのような低コストで収集した網羅的データに基づいた人工知能が、いわゆる限界生産費用における優位もあって労働者や無形の商品の売り手(アーティストとかクリエーターの類)を置き換えることは、この労働力の売却による稼得の機会を二重の意味で奪い、また市場での売買という形のある種の「連帯」の回路を奪う点で個人を脅かすと言えます。二重の意味というのは、まず実際の売却機会を奪い、かつ制度的に専門化された労働力を他の専門分野に適合させる(最近流行りのリスキリングとか)ためのハードルが高いため労働力を売却する潜在的な機会を奪うということです。右派アナーキスト、特にリバータリアンは後者の収奪を過小評価する嫌いがありますが、少なくとも工場労働が成立した時点で浮上している課題であり、それこそ現代の経済学でも「摩擦的失業」として不可避のもの、何らかの社会的対処が必要なものとされている程度には問題なのです。
とはいえこれはそもそも個人が自身が管理不可能な組織(経済社会を含む)の一員(敢えて言えば部品)として生産から疎外されていることに由来する脅威であり、また客観的分業制度によって特定の有用物(物と言いますが労働力を含む無形の商品を含みます)の供給の対価としての生存のための資源(これを抽象化した媒介物が貨幣)の受領という形で組織に拘束されているために機能部品としての置き換えが個人の社会からの切断につながる脅威になっていると言えます。近代アナーキズムは本来こうした状況に対する批判を基盤としたものであり、その意味では分業も商品という形での交換も否定したところに成り立つべきなのが左派アナーキズムです。左派アナーキズムにおいても分担や供給、受領は存在するわけですが、制度的専門化によって特定の分野に押し込められた分業や供給と受領を組織的に対応付ける交換は存在してはならないとされるはずです。供給と受領が対応していなければある個人の供給が他のものに置き換えられたからといってその個人は損なわれません。資源の生産自体は正常に行われる以上受領の機会を失うという脅威が存在しないからです。また分業がないのであれば分担領域は個人にとって特定の機会に関与する自身の能力ないし有用性のごく一部の発揮というだけであり、それが機会の終了であれ分担主体の置き換えであれなくなったとしても全体として個人の無用化という脅威には繋がりません。そのような多面的な個人がアナーキズムの前提のはずですし、それこそスコップで土を掘るのに特化した個人などというものはアナーキズムにおいては否定されるべきであるはずです。それが例えば機会ごとの芸能の提供であっても同じことでしょう。芸能が複製によらない限り個別的なものであることからすれば、人工知能が自分の芸風を真似て表現するならば、自分は芸風をさらに発展させればよいだけのことですし、人工知能はあくまでも自分とは別の産出主体なのですから、違うものを生み出せば済むだけのことです。それこそクライアントに追い立てられてひたすら同工異曲を生み出すよりは、そういうことは人工知能に任せて自分は新境地を追求するほうがましという発想もあり得ると思います。クライアントがお金を払ってくれないと生存の資源を受領出来ないから脅威になりますが、そうした動員による主体性からの疎外を拒否するのがアナーキズムではないのでしょうか。スタハーノフを称揚するのはアナーキストではないと思います。
個人的には、このコメントはアナーキストとして問題へのアプローチを間違えているとしか思えません。人工知能は労働に動員されることによる疎外から個人を解放するものであり、どうも流行か社会管理者の理想か何かであるらしい個人の人格の機能物への複製にしてもむしろ個人の人格を機能視することによって疎外が引き起こされるのであって機能としての動員を複製された人格に押し付けてしまえばむしろ個人は疎外から逃れられるというのがアナーキズムを基盤とした発想ではないかと思います。もちろん個人の人格の機能物への複製 - 例えば手塚治虫をエミュレートする人工知能 - というのは極めて品のない、低俗と言うしかない企画ですが、それが貶めるのは企画者の品性や人格であり、手塚治という個人はなんか他人が似たような作品を作っているという以上の影響は受けません。ライフログの収集にしても、本質的にはプライヴァシー、自己情報管理可能性の問題であり、匿名化されて使用される場合は収奪は経済的なものに限られます。アナーキストも外部に表出した自己情報の第三者利用については、せいぜい表出の可能性について明らかにしておけとしか言わないでしょう。正直ホビー時代末期からのパソコン関係者としては、訳の分からんものなんぞ使う方が悪いとすら思います。グーグルが利用記録を取るのが嫌ならグーグルを使わなければいい、少なくとも検索用データベースの構築技術はそれこそオープンソースソフトウェアとしてアクセス可能であり、機材を用意して時間をかければ作れますし、検索結果の並べ方(例えばグーグルのページランクがそれ)にしてもグーグルのそれが唯一無二のものではありません。むしろデジタル下層民が魔法扱いして崇め奉っていることが物事を混乱させているとすら言えます。検索以外のコンテンツ委託系サービス(ブックやYouTubeあたり)は独占の嫌いが強いですが、正直そうやって集約された他人のコンテンツに依存するのは、アナーキストとしてどうなのでしょうか。コンテンツ管理受託システム自体は独立して構築できるのであり、むしろ連帯を基盤にalternativeを立ち上げるというのがアナーキスト的発想ではないのでしょうか。

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