■2023年06月10日(土)
哲学的議論において名辞は須らく括弧を付されるべきかもしれない
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目的への抵抗 - シリーズ哲学講話 -, 新潮新書 著者の問題意識には強く共感できるのですが、正直用語法になかなかに抵抗があります。例えばボードリヤールの「消費」が括弧なしで用いられていますが、この語はボードリヤールが自身の議論において特別な意味を付与して(あるいは絞り込んだ形でイデアを定義して)用いているものであり、一般的な消費の語義とは重なる部分があるとはいえボードリヤールによって発見され命名されたというものではありません。むしろボードリヤールは現代社会に典型的なひとつの行動形態を見出し、それを形容するために既存の消費という言葉に特別な意味を付して用いたのです。その消費を括弧なしで用いることは、哲学的議論においては杜撰の誹りを免れないでしょう。これはその後アーレントを引く部分でもそうで、もちろんアーレントは多くの日常的な言葉に独特の意味を付して裸のまま著書で用いている - おかげで和訳がことごとく変なことになっていて、アーレントの付した特別な意味を汲み取ろうとすると一般的でない漢語を使うことになるのですが、それをやるとアーレントが日常的な言葉を用いることで導入した語感が決定的に失われ、文脈を取りがたくなるのです - ことで、個人的にまともに読めない本を書く人の上位陣に入っているのですが、そのアーレントが発見した定義による「目的」を自身の文章で括弧なしに使うことは杜撰に過ぎると思います。 もちろん括弧を付けるというのは書き言葉独特の表現方法であり、例えばアーレントのいわゆる和訳語活動とは本人が書いた英語ではactionに他なりません。アーレントは自身の講義でもまさにそのような意味でactionと語ったことでしょう。そのように意味をずらして用いることが大学の初等課程(今のいわゆる教養課程)で学んだ才人が等しく身につけた芸の一つであり、それを自在に操ることは20世紀の哲学者の真骨頂の一つとすら言えます。だからこそ読み手や聞き手は読み聞く場合にその言葉を括弧に入れて、書き手や語り手に特有の定義をを持った言葉として扱うことを求められます。そのリテラシーがない者にとっては、この種の哲学的言辞はデマゴギーに等しいでしょう。それこそそう書くしかなかったのだとしてもそうなのであり、語り手、書き手はそう語り書いたことを恥じる必要はありませんが、これもまさに著者の言う目的が手段を正当化している例でしょう。 そして、他人の語りや書物を引き合いに出して語り書く場合、その(いわば二次的な)語り手、書き手は自身の語と引き合いに出した人の語を区別する便宜を聞き手や読者に提供するべきであり、講義においてこの講義ではこのことについて語るという限定や書物において括弧を付するという様式はそのためのものです。それをしないならば、その二次的な語り手や書き手は自身の語をもって引き合いに出した人物の思想を誤解させていると評するしかありません。原著を読んで誤解するのは勝手というものですが、いやしくも先達を引き合いに出すのならば自身の定義と自信が参照した定義(もちろん読みにあたって誤解しているかもしれませんが)は区別してしかるべきです。 そしてもう一点、近年見られるSNS否定論について、この「SNS」も括弧に入れられるべきでしょうし、おそらくSNS否定論が指摘するような事態を招くために仕組みとしての「SNS」が開発されたわけではないと主張したいと思います。SNSは本来Social Networking Systemの略語です。つまり人々を網目状に結びつけることを理念(理想と言ってもよいかもしれません)として構築されてきた一群の仕組みです。しかし、人々を網目状に結びつけるというのは双方向的コミュニケーションを何らかの意味で前提にする思想の理想でもあります。と言うより、その理想をより広範囲に実現する仕組み、19世紀に自由な言論の代名詞とされたマスコミュニケーションというハブ型結合を権威的な仕組みとして克服することが、「SNS」が生まれる際の理念であったと言えます。おそらく國分氏はこの理念自体を否定することを意図してはいないと思いますが、そうであれば、なぜそのような人々の特権性のない結合を意図した仕組みが特権的発信者の垂れ流すインスタントなメッセージとそれに追従する脊髄反射的なメッセージの飛び交う場になったのかを問い、そのような必然性を備えた仕組みを「SNS」と呼ぶ程度の慎重さは必要だと思います。 もっとも、動詞としてのnetworkはbind or glue people mutuallyという意味ではないかと思わないでもないのですが。もちろんこのbindは両義的にlisp的な意味合いでのbindです。
日本哲学の最前線, 講談社現代文庫 上記著書の著者の「思想」についての評が含まれるので読んでみたのですが、読みとして理解できる部分がありつつも、いささか辛いというか、弁証法と生成という観念がいかに思想を腐食させたかを示すような文章になっています。まあ、弁証法と生成という観念なしに19世紀以降の西洋哲学を語ることは難しいわけですが、1940年代までの著作ならまだしも、21世紀になっていまだに弁証法や生成を内実を伴った有効なキーワードとして疑いなく用いている様子に接するのは疲れます。どう見ても本書における弁証法や生成は形式的な、つまり提出された命題に対して対話的に、典型的には反例を示すことによって、命題への理解を深めていく論述の方法論ではなく、命題を提出し反命題を対置して対照することで合を「生成」する、あるいは対立物相互の絡み合いにその対立の克服と新たな(しばしば解決としての)状態の「生成」を見る18世紀弁証法哲学的腐敗に塗れた用語です。もっとも弁証法はまだしも形式的でありうるのであって、この腐敗を招いているのは「生成」という観念でしょう。これを導出に変えるだけで、ずいぶんとまともに見えるようになります。もっとも前述のように近代西洋哲学を論じるうえで18世紀的弁証法哲学の語法は不可欠ですが、少なくとも概説や解説においては、この語法は括弧に入れて用いなければならないでしょう。例えばハイデガーの思想を記述する際にこの種の弁証法や生成を用いないわけにはいきませんが、それは著述や講話において先験的に設定された結論を導出するために用いられる道具としてとらえ直されなければならないと思います。すなわち結論は導出されるのであり、結論が生成するのではないということです。 弁証法−生成の観念は自身この観念の上に思想を展開していると読める苫野氏を扱う部分で頻出しますが、「生成」は本書の全体に出現する以上、山口氏が本書を書く上で基盤にする観念の一つでしょうし、それは最後の山口氏自身にも関わるまとめにおいて明確に読み取れます。この「生成」という個人的には、特に形而上学(つまりイデアの学)においては何かの勘違いとしか思えない語へのこだわりは、本書を読むうえで大いに躓きを強いてくれました。現代の哲学的問題の一つとして不自由論とそれを通しての自由の概念の追及があるという点は(ここ三百年弱の中で何度目かのリバイバルではあるにしても)適切な見解だと思いますが(敢えて卓見とは言いません - 見ればわかるからです)、正直弁証法哲学がニーチェを通してハイデガーを経由した必然から明白に見て取れるアーレントの先の(つまりアーレントの理念が導き出すところの)ディストピアにヘーゲル的生成観念を以て対することは、アルコールを燃やす自動車で地球温暖化に対応するような話だと思うのですがね。 | | |