日記

■2022年11月30日(水)  なんで実績ベースの計量値を申告して納税する形にしたがるかね
走行距離税、反対意見が相次ぐ 「負担の話すればEV普及に逆行」
もちろん走行距離を管理して実績ベースで課税するなどという発想はそもそもおかしいのであって、例えば道路の整備維持管理費用を算出したうえで均分によって車一台当たりの税額を算出するようなものであるべきでしょう。車を所有するなら、潜在的に道路を使う可能性を持つ者として道路に関する費用を分担するべきであり、動かしていないから、道路を使っていないから負担したくないなどとは言わせない、道路整備の費用を負担したくないなら車など持つなと言わないといけません。それが、車と道路は一体として道路個通システムを形成するということの意味の一つです。もちろん既存の警察機構と分離して交通警察制度を設け、その維持費用を同じ形で賄うのも妥当です。まあ、駐禁や速度超過の取り締まりをする警察官を自動車税で賄っているということだと自動車の持ち主は複雑な気分にはなるでしょうし、不払い運動も起こるかもしれませんが、そもそも交通警察が道路に道路交通システムにおいて求められる機能を確保するためのものであることくらいは、道路交通システムにおいて大きな便益を直接に受け、かつ危険な行為をする主体である以上理解している方が当然と言うものでしょう。野原をオフロードカーで走り回るのになんで自動車税を払わなければならんのだなどという見解は、だったら自分の費用でその車を道路を走れない仕様に改修せよで済むことです。道路を走ってはいけない仕様にならともかく、道路を走れない仕様にするのは無理だと思いますけど。

■2022年11月30日(水)  そもそも贈与と相続は所得税でいいはず
富裕層の相続節税、ハードル高くなる? 贈与税のルール変更を検討
そもそも相続と贈与は同じだと思うのですけどね。もちろん相続が不意に発生し現に用に供されている現物資産を含むことで処理が難しい部分があることは事実ですが、資産所有の主体の変化としての相続と贈与は、同じもの、あるいは相続において発生しうる手続上の混乱を防止するために贈与で処理するという関係であるべきです。ちなみに相続と扶養の関係については、現に無能力者の福祉に貢献しているという根拠で扶養を優遇するという認識が望ましいでしょう。
その上で、贈与税については所得税との一体化が望ましいと思います。ことさら贈与について特別に税を課す必然性はなく、所得として処理してしかるべく課税すれば済むことでしょう。むしろ贈与税の存在自体が明治の不備の多い税制度の名残でしかないのではないでしょうか。

■2022年11月30日(水)  どんどん非上場化して欲しい
「やよい軒」「ほっともっと」の運営会社が上場廃止へ MBO成立
株式についてはこの動きが望ましいと思います。
株式、つまり会社の支配権を簡便に流通させるというのは極めてリスクの高い行為であって、大衆資本主義などという発想が不健全で破綻していることは明白です。経営陣の取り締まりは責任ある株主による解任と債券の実効利率の上昇(つまり債券価格の値下がり)、借入における拒否や高金利の要求によって行われるべきであり、株主構成が流動化するような仕組みは不適切です。
その意味では債券の方に、発行企業の利払い債務を免除する仕組みがあってしかるべきでしょう。十分な信用がある会社であれば、元本が確実に償還されるというだけでも買い手は現れるでしょうし、割引債の発行もあり得るでしょう。それで失敗したら、それは買い手が失敗したというだけのことです。また構造的に発行者が再建をデフォルトさせて投資家の資金をかすめ取るようなことが起きれば、その発行者の信用は低下するわけですし、市場としてはそういう発行者の評価を下げ、上場を引き受けないことが、また格付け主体としてはそういう発行者に断固として低い評価を下すことが、債券市場の信用を維持することになります。逆に言えば、株式市場であれ債券市場であれ、市場自体が信用を失えば投資家が資金を引き揚げて縮小するというのが自然で当たり前なのです。信用の部分が確実に増えないなどというものであれば不見識と言っていればいい(上手にやれば増えるでいい)わけですが、投資家の収益の大半が売買差額に由来し、それを発生させるために価格の上昇が必要だから資金を呼び込み活性化と称するような業界は信用に関わる資格を認められません。

■2022年11月30日(水)  ゴルゴンゾーラなどという料理があるのか?地名とチーズの名前は聞いたことがあるけど
セブン-イレブン商品「カマンベールとペンネのゴルゴンゾーラ」の名称に「順序が変では」と疑問 命名の理由を聞いた
「具材+ペンネ+ソースの順で組み立てた」
ああ、カマンベール入りのペンネ、ゴルゴンゾーラソースがけの意味ですか。
というか問題は、確固たるポリシーに基づいて名前を決めたかどうかではなく、「カマンベールとペンネのゴルゴンゾーラ」という言葉に違和感を感じない感性の方です。イタリア語では語形や前置詞で明示される語の位置づけを省略して、その結果Gorgonsola au penne e camanbereみたいな名前になってしまった(意図からすればPenne con fromage au camanbere e souce gorgonsola)ことをおかしいと思わず表に出してしまう酷い感性が問題なのです。この場合なら、「ソースがけ」を略さず書いていれば全然おかしくないわけで、省略におけるずさんさが非常に目立った例でしょう。

■2022年11月30日(水)  やはり国鉄急行型電車と書いていただきたい
今や姿を消した「急行」に若者が集まるわけ テツ社長が推すトキめき
これはいつ誰が運行した急行かという話があって、例えば東急なら急行という種別の列車は普通に現役です。ですから鉄道会社が例えば最優等列車を急行と称して運行しても全く問題ありません。
記事中にあるように、基本的には列車種別の問題で、各駅停車と速達列車、優等列車(運行スケジュールの上で優遇されるため: 例えば急行や特急はよく先行する各駅停車を駅で追い抜く)を対立させたときの普通と急行ということになります。また各駅停車と一部駅に停車しない列車の対立とも言えます。国鉄においては、1960年ごろまでに急行が有料(急行料金を払って急行券を購入して乗車する必要がある)の優等列車として確立します。一方特急はこの時点では瑞風のような今時の豪華列車に近い感覚だったようです。それが1970年代になると、まず線路自体別の新幹線ができたことで在来線の優等列車、とくに花形の特急や急行が運行されていた東海道・山陽本線の優等列車の影が薄くなります。この時期は交通インフラの充実が叫ばれた時期であり、鉄道も幹線を新幹線で置き換えるような話になって、在来線の優等列車の扱いが微妙になります。そうは言っても新幹線を一気に全国展開するようなことはできなかった国鉄が1970年代に打ち出したのがL特急で、動力の電気化・ディーゼル化で可能になった運転の定時性を基盤に発駅から着駅まで通しで運行するのが普通だった優等列車をネットワークとして組織していきます。つまり特急列車の乗り継ぎです。この時、特急料金を取りたかった国鉄は、整備した列車を基本的に特急扱いにしました。この結果急行を特急に格上げするか特急との料金差に即したものに変更する必要が発生し、種別としての急行の存在意義が消滅していきます。さらに交通の需要増加に伴い、主に近郊区間で追加料金を取らずに通過駅を置いた速達列車が設定され、快速と呼ばれるようになります。これも急行の存在意義を薄れさせました。マニアが好む急行はこの時期のもので、車両にしろダイヤにしろ妙に中途半端なところが魅力と言えます。なにしろ特急の格が下がってくるものであまりしっかりした車両を使うわけにもいかず、かといって普通列車をそのまま停車駅を間引いて運行している快速に対しては別料金を取る以上差別化を図らざるを得ません。特に都市部の近郊区間で車両にエアコンが付くのが普通になっていったことも車両の格を区別することを難しくしたでしょう。電車化して外観は普通列車と同じだけどボックスシートという国鉄の急行型車両が成立した時期なのです。この時期の、辛うじてクロスシートと外観で差別化した安上がりな電車特急車両(今では第三セクターなどでイベント列車として見かけます)とともに、昭和の国鉄のイメージと言っていいでしょう。新幹線の整備に伴って電車特急は新幹線列車に置き換えられ、牽引型の特急が豪華列車として残り(北斗星など)、急行は急行型車両の運行寿命とともに新造されることなく廃止されていきます。
というわけで、列車種別のとしての急行はJRのダイヤからはほぼ消滅、マニアが喜ぶのは1980年ごろの急行型電車です。まだ臨時列車のためなどに保管されている編成もあり、ノスタルジーを見出しやすい対象とも言えますが、急行型電車としては姿を消したわけではない。やはり言葉を扱う商売をしているなら、言葉をきっちり扱ってほしいものです。

■2022年11月30日(水)  鉄道は坂は弱いですから
特急しまんと、坂を上れずに運休 車輪が空転し前進できず 高知
まあ、新改あたりではいかにもありそうな話ですね。個人的には仙山線がこれで運休になっていた印象が強いです。
鉄の車輪に鉄のレールというのはなかなか滑りやすいということで、鉄道は坂を苦手にしています。昔はそもそも鉄道車両の重量に比べて蒸気機関の出力が足りず、登れなかったわけですが、電気やディーゼルになってトルクコントロールが細かくできるようになって登りやすくなったとは聞くものの(このため登山電車が率先して当時蒸気機関車に比べて高価だった電気機関車や電車を採用した)、苦手であることは変わりはありません。現在の経路は土木技術やそのほかいろいろな要因が絡んでいるので、本来安定した運用ができるように線路をより傾斜の少ない経路で引き直す方がいいのですが、さすがにJR四国にその余力はなさそうですね。
滑りやすい鉄の車輪が今でも使われているのは、もちろん最初はゴムとかゴムチューブに空気を入れたタイヤなどというものがなかったからではあるのですが、むしろ摩擦が小さいために走るときの負荷が小さいからです。当然摩擦の大きいゴムタイヤは減りも速く、鉄道車両のような重い車両に大量に物や人を乗せて高速で走らせるとメンテナンスコストがかさみます。色々あってそこを乗り越えてゴムタイヤを採用した例が日本でも地下鉄や新交通システムにあります。逆に失敗した例がドイツのICE1で、タイヤに使われているゴムが原因とみられる事故が起こっています。

■2022年11月30日(水)  殺すというのは根本的な解決策の一つではあるわけですが
東京都立大教授の宮台真司さん、大学で切りつけられ重傷 男が逃走
他人を傷害する行為の是非は別として、宮台氏は刺されても不思議はない人だとは思います。この点は、言論を活動の分野にしている人は須らくそうでしょう。もっとも、大学みたいなセキュリティーの緩い場所を無警戒に歩いている方が悪いとまでは言いませんけども。やるにしても、生卵やパイを投げつけるくらいにしておくものだとは思います。
とはいえ、こういう話に接すると、安倍元首相殺害事件での実行者の行動が随分と吹っ切れたものであったことがよくわかる気がします。普通は逃げられるようにやって、逃げるのです。正直気に入らない言論人への対抗手段として加害して逃げるというのはどうかと思いはします。堕落した言論の自由をかさにきて毒説を垂れ流す罪人に天誅を下した、お前たちはこいつの言動が正しいなどと言えるのか、と演説でもぶった方が、まだ正当性は主張しやすいでしょう。とはいえ、加害という明らかな犯罪行為を実行する場合、逃走というのは精神的な負担が小さいのだろうとは思うのですね。それに比べると、どうも逃走の比重が小さかったらしい安倍元首相殺害犯は吹っ切れているという印象を受けます。

■2022年11月29日(火)  こういうのもメリトクラティックな官僚的思考というんでしょうかね
ジョブ型雇用は「すぐクビにできる制度」? 仕事ができない社員はどうなるのか
そもそも被用者の雇用に対する期待やジョブ定義や達成目標の妥当性もありますので、そこをちゃんと詰めずにうっかり解雇などすると会社を潰します。安易にあいつは仕事ができない、解雇だなどという発想をしてはいけないのです。
経営において柔軟性を重視するなら外部出資や賃労働者など使わず人的会社として事業を行うべきで、そこはジョブ型雇用であっても違いはありません。むしろジョブ型雇用の方が、普通の人なら外部で訓練さえ受けていれば容易に達成できるように職務定義をしないといけないという点で実装のハードルが高いのではないでしょうか。少なくとも客観的な根拠に欠ける経営者本位のジョブ型雇用機構がまともに働いた例を、私は知りません。現場労働者組織を解体するという点で経営者本位のものであるジョブ型雇用ですが(このあたりはフォードの例をちゃんと見ましょう)、逆に組織内コミュニケーションを疎外する面もあり、機能や手順を相当客観的かつ厳密に定義できない限り組織として機能しなくなりますし、もちろん客観性を備える時点でその妥当性が労働者組織を含めた外部から問われることになります。ジョブ定義の粗探しなど非常に簡単で、むしろ客観的な評価に耐える定義を構築するためにはすさまじいコストがかかりますし、ジョブ型雇用を無能を解雇する仕組みなどと考えているようではそのコストは指数関数的に増大します。むしろ解雇不自由に耐えてメンバーシップ組織にする方がコストが安いでしょう。関係とはかくも不自由なものなのです。

■2022年11月29日(火)  単純作業が機械任せになった結果それ以外の面が見えてきている
事務職の需要はなくなるのか? 「単純作業」と見られてきたけれど
極論すれば原理的になくなります。ただし今後はむしろバックヤードが人的組織としてはなくなる半面、これまで削減されてきたフロント業務、窓口業務は再評価される可能性があります。
事務自体はなくなりません。古人の深い洞察からもわかるように、事務というのは物事を計画的に進め、科学的に理解し、検証可能にするうえで必要な管理の基礎であり、個人で行き当たりばったりにやるところから見ればオーバーヘッドであっても、作業を外部化して組織するうえでは必ず必要になりますし、それが多数の主体の間接的な関係に基づくものになればなおさらです。ネットワークプロトコルなど事務の定義そのものという部分があります。しかしその意味での事務は形式化されるほど効果を発揮するので、知的作業だということを除けば全く人間向きではありません。管理や事務を想定して構築されてきた人工知能、知的作業のための自動機械が効果的なのはそのためです。バックヤードは構築済みの形式的な組織作業を自動機械が進める場になり、人間は構築と監督だけを担当します。つまり日常的には無人になります。
しかし、事務というのは自動機械だけで済むわけではありません。事務はその仕組みの外、実世界とのつながりを必要とします。このつながりを失えば、事務は何の意味もなくなってしまいます。実世界で起こることの管理が事務の対象だからです。そしてこの実世界には人間が含まれ、端的には事務機構の窓口を介して人間が事務機構にアクセスする、窓口が何らかの形で事務機構と人間の間を取り持つことになります。この部分が自動化のための事務作業の集約もあって無用視されてきましたが、そもそも派遣や委託であっても窓口部分を無くす、無人化すると効率が低下するということが、明らかになってきました。現在の通俗的な人工知能像にもつながる間抜けな自動窓口の発想が、はしなくも窓口の真の役割を示している面があります。十分な訓練を受けていない人間は、自動化された事務機構の要求する厳密性や形式性、正確性を提供できません。訓練を受ければ可能なのはそもそも事務員という職能が証明していますが、分業が発生したというのはその訓練を受けていると他の能力に支障が出る(時間効率の問題ではあるにしても効率が良くない)ということです。一方人工知能が窓口に求められる人間との仲介機能を持つことは現実的になってきましたが、ATMならまだしも時間空間的に遍在する事務の需要に即して配置できるまでには至っていません。高度な形式的作業における人間の無能さから考えるに、後数十年は無理ではないかと思います。
そしてこの機能が相当高度な段階に到達しない限り、少なくとも困ってくれる人間の窓口への需要はなくなりません。鉄面皮の下っ端役人が極めて評判が悪いのと同じで、お前が馬鹿なのが悪いと見下して淡々と書類を突き返してくる機械みたいな振る舞いよりは、申し訳ありませんがここを直していただけますかとすまなそうに言う柔らかい応対を責任の認識を感じさせるように示す振る舞いの方が、実際にはただ馬鹿で間抜けなだけの人間には効果的なのです。ですから物柔らかな態度だけあっても、責任や裁量、技能という実がない携帯電話代理店の受付嬢みたいなのは、かえって顰蹙を買うわけですね。もちろん態度と実の両方を備えた人というのは能力的にも制度的にも希少なわけで、数をこなすような窓口業務に配置するわけにはいきません。根本的な対処を避けて感情労働の能力だけで問題をやり過ごす人を量産して配置して、適宜事務機構の調整とバランスを取りつつ窓口スタッフを置き替えられる人工知能が出てくるまで耐えるしかないのです。
そして事務機構の調整や窓口の役割とのバランスの確保を責任を持って行うのは、事務機構やその調整について高度な知識と技能を持った人が行うしかありません。人工知能になど任せれば、官僚機構を野放しにしたのと同じく、訳の分からない自律的調整で混乱した無責任状態が現出します。たかが規則を変えるだけだろうなどと言うなかれ、その規則が絡み合った状況を調整するのは、事務機構の取り扱いにおいてけして無能とは言えない高級官僚をもってすら難事なのです。チェックとつじつま合わせのために、法制局などという組織がいくつも常置されるほどなのですから。そして問題が起きたときにごめんなさい、私の責任ですと矢面に立って状況を収めることは、(あまり意味はないにせよ)人間にしかできません。
このような意味合いで、事務職というのは当面必要とされ続けます。ただし感情労働の能力がある程度量産可能になる程度には訓練システムが成熟しているため、この機能だけを果たす職の処遇は決して良くはならないでしょう。あまりに処遇を高めることが求められた場合、その事務職のもたらす利便性自体を上回ってしまい、問題が出てもその職を廃止することになるからです。一方で高度事務職の方は世界的に高給を取る経営者と同程度の希少価値や必要性はありますから、実質的に処遇は青天井でしょう。

■2022年11月29日(火)  人手不足とはこうやって起きるのです
三重県川越町の工場で作業員3人が一時生き埋めに 2人の死亡を確認
正直作業安全確認不備の事案だと思うのですが。
そもそもがこういう労働条件で低賃金で労働させるような発想をするから人手不足だなんてことになるわけで、労働供給を増やせば悲惨な事案が多発するようになるだけのことです。むしろ不足分野の機械化を進め、監督職以外は無人の職場にするべきでしょう。

■2022年11月28日(月)  イギリスではかかりつけ医に電話すると「一週間後なら取れます」と言われるという話がありましたが
「かかりつけ医」定義を法律に明文化 書面で確認、対象患者は限定的
どうせなら医学部に研修終了後実務二年程度を目途に履修するかかりつけ医養成コースを実務大学院としてでも設置したらいいのではないでしょうか。その上で、かかりつけ医の地位を医療の流れの中でしっかり位置付けるわけです。もっとも継続的な健康管理だと専門性に欠けると見られる可能性があるので、むしろかかりつけ医(と救急救命医)以外の医師の一次医療提供を禁止するべきでしょう。公共交通機関などで、「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんでしょうか」の代わりに「お客様の中にかかりつけ医か救急救命医の資格をお持ちのお医者様はいらっしゃいませんでしょうか」とアナウンスされるようになるわけです。またかかりつけ医登録を受けられる上限も定めるべきですね。その上で、かかりつけ医としてやっている収入をきちんと保証するわけです。
もっとも、かかりつけ医制度は確かに医療費提供側からすると望ましいでしょうが、利用する側としては不便な部分が少なからずあります。医療がとにかくかかりつけ医を窓口にして機能するようにしてしまうと、遠隔地での急病への対応が難しくなったりしますし、診療が集中しがちな時期になかなか診療を受けられない、ひたすら待たされるといった状況が発生する可能性があります。

■2022年11月28日(月)  やったら犯罪だよと思うか、そういう稼ぎ方もあると思うか
10歳娘の裸画像「1千〜3千円で」 強制わいせつ容疑などで母逮捕
まあ、売れるものを売ることは防げませんよね。モグラ叩きをするだけです。
とはいえ人間というのは結局こういうものなのであって、それでも人間が子供を作り育てるのが良いことだと言えるのか、全部人工授精と人工出産、社会的教育にでもしてしまった方が、社会的機能としての教育、人間の再生産としては適切なのではないかという気もしないでもありません。もっともそこまでして人間社会が存続すべきかという気もしますが。
でまあ、こういう報道に接したときに、やっちゃダメなんだなと思う人と、そうか、そういう方法論もあるかと気づきを得る人がいるわけで、報道が善悪兼ね備えたものであると思わざるを得ませんし、一方で情報の流通を制約すれば知識の普及を防げるなどという発想には限界があることにも気づかざるを得ません。

■2022年11月28日(月)  言うにしても警察庁長官が下達してどうするのでしょうか
警察組織「あり方を替えなくては」 露木長官、公安委員会会議で
内務省警官僚の悲願、国家警察の再建ということでしょうか。
まあ、今さら国家警察を再建したところで特高警察まで再建するような事態になるのは相当先だとは思いますが、おそらく問題は、犯罪処理が普通の生活から遊離してしまうことでしょう。もともと明治国家の中央集権警察機構構築以降、そこから分離された地方自治体からは警察業務は重荷だなどと見られてすらいたわけで(それで戦後すぐに自治体警察機構が定着せずにとん挫し、都道府県警機構になっています)、警察が自治の問題ではなく単なる権力行使の問題としてコストに対しての効率性のみ求められる状況は、日本占領当局の構想では全く改まりませんでした。以来治安維持、警察業務を特別な人たちが担当する他人事、不備があったら担当者を攻撃してそれでよしとする風潮は全く改まらず、ここで広域捜査や警備の充実を警察庁主体で進めれば、警察組織はどんどん生活から遊離し、警察官という職が国家の犬と見られるようになっていくような気がします。
むしろ自衛隊法を改正して要人警護は警察ではなく陸上自衛隊の業務とした方が、問題は少ないのではないでしょうか。だいたいどこの国も、特に警備は常備軍の近衛部隊が担当しているわけですし。

■2022年11月28日(月)  そもそも尼崎市役所は尼崎市の施政業務を実施するのに適当なのか?
USBメモリ紛失の尼崎市、無断で再委託のBIPROGYに損害賠償請求 「市のイメージダウンにつながった」
あの話は正直酷かったとは思うので、損害賠償請求というか契約違反、違約金を払えと言うこと自体はまあ、理解はできます。それは、お財布の範囲でやってもらえばいいと思います。
問題は、そもそも発注の際に業務実施体制を十分確認することなく委託を行った構造そのものです。契約したとおりにやらないのは受注側が悪いという主張はもはや通じないでしょう。むしろそのような、サービスについて一定の品質を確保するべき案件については、候補者が契約で求める形で適切に業務を実施できるかどうかを十分に評価していなければ発注側の無責任という話になりますし、発注契約の段階でよほどきっちり実施を確保していなければ(それを上回る受注側の悪意によって問題が発生したというのでもなければ)そもそも発注としてなっていないという判断があってもおかしくありません。プロの仕事というのはそういうものです。市民のセンシティブな情報を扱う立場として尼崎市当局が十分な体制を構築できているのかが問題です。不十分だということは十分あり得ますし、その場合そんな執政組織が市として期待される業務の実施を担当していていいのかということになります。そこでじゃあ主体を替えようという話ができないところが親方日の丸の問題点であり、既存の枠組みの中で業務を継続しながら組織構造を変えていくしかないわけです。

■2022年11月28日(月)  Twitter経営者としてはそう言うしかない
イーロン・マスク、「Twitterアプリがストアから排除されたらスマホを作る」と発言
もちろんTwitter事業を継続するという立場からはこう言うしかありません。むしろ質問することの方がおバカでしょう。まあ、排除しないと確信しているという答えもあり得はするでしょうが、マスク氏の事業に対する姿勢と、自由がどこにあるべきかという問題についてのプラットフォームサプライヤーとエンドユーザーサービスサプライヤーの立場の違いを考えれば、Twitterはスマホを買う理由になると言うしかないと思います。もちろん私は個人的にTwitterはキラーアプリではないと思っているわけですが、それとは別の話です。
Twitter余命宣告なんて話もあるようですが、そもそもSNS自体先はないと思いますし、それは体制変更前のTwitterでも同じことでした。むしろその判断が、旧経営陣がマスク氏にTwitterを譲り渡して実質的にTwitterからベイルアウトする根拠だったと思います(正直夏あたりのあのごたごたは、旧経営陣がTwitter事業を見捨てたとしか見えないものでした)。そこでマスク氏が、こうすればTwitterに先ができると思うのは思想信条の自由というものですし、会社の持ち主として法の認める範囲でその信念に基づいた経営を進めること自体は当然のことです。もちろんマスク氏としては、事業の成否という形でその結果責任に直面する覚悟は十分できている、と、思いたいですね。部下が悪いだの顧客がおかしいだの言うのはみっともないことであり、それを見誤ることも含めて経営者としての能力というものですし、どのみち株式会社であれば評判が落ちる以外の被害は実質的にないわけです。

マスク氏が米アップル批判 アップストアがツイッター除外の可能性も
見てもらえるから騒ぐんだと思いますが、そんなに悪ガキ系経営者と別にThe one and onlyでもなんでもないネット上の一サービスの動向が気になりますか。
もちろん、言論の自由よりも言論における品性の方が重要ですとも、と言いたいかどうかは別として、AppStoreからのTwitterアプリの排除まではあり得るでしょう。その場合でもiOSからTwitterにアクセスする方法はあるわけなので、Twitterを排除しているわけではないとは言えます。「好ましくない表現を含む」メッセージングサービスへのアクセスのハードルを猥褻表現へのアクセスのそれと同程度に高めること自体は、Appleのイメージ戦略上むしろ望ましいとも言えるでしょう。Apple製品は基本的に「全年齢対応」であり、穏健リベラルや穏健保守の親が安心して子供に与えられることを想定しているのです。言論の自由と称して過激さを競うような表現が横行する場と距離を取ることは、もちろんTwitterを見限ったという面があるにしても、おかしくはありません。もっとも同じような品のなさから考えるに、AppleTVあたりでもいわゆるテレビ放送については、局単位や番組単位でアクセスにひと手間かかるようにするべきではないかという気はしますが、やはりTVと銘打っておいて普通のテレビ番組が見られないのでは売りようがないんでしょうかね。代替コンテンツへの動線が確保できれば変わってくる気はしますが。
ただし表現における品性はともかくとして、マスク氏の言動は、広告の引き上げや公式のアプリ配布からの除外が問題になったときに、Twitterの経営者として言うこととしては決しておかしくありません。モデレーションがTwitterにとって負担となっていたことは事実でしょうし、人的資源をつぎ込んですら、妥当な線を引くことは容易ではありません。「便所の落書き」をサービスとして持続可能にするうえで、モデレーションの撤廃は必須です。もちろんユーザーとしても、都合のいい情報チャンネルへのアクセスのハードルが無暗に高くなることは好ましくないでしょう。一方で事業モデルとして広告主の意向や外部のプラットフォームの動向に縛られることも望ましいとは考えていないはずで、収益源の在り方にしろアプリケーションサービスとして依存するプラットフォームにしろ、裏で検討している気はします。衝動的な言動の傾向があるとはいっても押し付けられた基準について自制が利かないだけで、マスク氏とて喋ることで行動が制約されることへの警戒はあるようですから、そのうちなにがしかのソリューションが出てきてもおかしいとは思いません。

マスク氏、アップルCEOと会談「誤解解けた」 初の公式声明も
公式声明というのは、会社の名義でもってということでしょうか。確かにこれまではマスク氏の個人アカウントからの発信だったわけですが、だとすればそもそもTwitterは公式な発言をする場ではないという理解ではないですかね。
会談にしろその結果にしろたいした意味はなく、おそらく実もないのでしょう。AppleのCEOとTwitterのCEOとして顔を合わせて話をしたという以上のことではないのだと思います。ティム・クック氏にとってはことさら対立を演出する意味がなく、マスク氏にとっては直接話すことで相互理解を演出する意味があったとは言えますが、何かが解決する、あるいはしたとはさっぱり思えません。向こう一週間ほどのマスク氏の言動以外の何が変わるものでもないでしょう。週明けにまた、Appleのくそとか言いだしても不思議には思いません。逆に言えば、一挙手一投足を注視していても仕方がないのです。

■2022年11月27日(日)  たとえ思っていても言ってはいけない言葉というのはある
プーチン氏、死亡兵の母に「交通事故死も3万人」「人はいつか死ぬ」
あちゃあ、ちとまずいですね。
おそらくこの後、それなら交通事故で死ぬよりは祖国の名誉の礎になった死の方が価値があるといった話になったのだと思いますが、政治指導者が死は鴻毛よりも軽しなどと平然と言えたのは1970年まででしょう。国家と国民のモラルを再建するべきだとしても今の段階で個人にかける言葉ではなく、団交と言えどももっと違う表現をするべきことです。お疲れだとは思いますし、悩みも尽きないでしょうが、やはりイメージ戦略は大事です。頼れる強面で鳴らしているにせよ片言隻句を取り上げてディスられるような表現は失態でしょう。
もっとも、一人の死は国家より重いなんて本気で思う人は政治指導者なんかならないでしょうけどね。

■2022年11月27日(日)  アイデアは買いますがこの手のしょぼい節約が前提というのは日本というのはけち臭い社会だと思います
お湯をかけると色が変わる 美濃焼メーカーが節水を「見える化」
節水を見える化してるわけじゃないじゃん。
「冬の朝、洗面台ですぐにお湯が出ず、蛇口を開けたままトイレに行く間にお湯が無駄に――。」というのはよくわかります。実際よく、無駄だなとも思います。とはいえいつでもすぐにお湯が出るようにしておくとさらに無駄が大きいわけで、お湯が出たタイミングを分かるようにするというのはありでしょう。実際には容器の中がお湯に入れ替わったタイミングになると思うので、無駄は出そうですが。ちなみに配管に温度センサーを仕込んで温まってから水栓を開けるのは無意味で、熱源でできたお湯が配管を通って蛇口までくる、元々配管にあった水は押し出されて流れるという入れ替わりの過程ですから、どのみち熱源から水栓までの冷水は捨てないといけません。工夫としては熱源をできるだけ蛇口の傍に置くというのがありますが、水場ごとに熱源を置くというわけにもいかないでしょう。もちろん事情が許すなら、瞬間湯沸かし器を水場ごとに置き、温まったらお湯を出す方が、捨てる水は最小限で済みます。

■2022年11月26日(土)  鉄道会社にお任せではなくて県として活用策を
「青い森鉄道」の経営が厳しい 地域の足はどうなる?
そもそも「地域の足」としての収益では事業にならないからこその上下分離なわけで、むしろ設備使用料を取られていない状態が正常というか、その上でさらに補助金が出ている方が当然だと思います。観光客と違い、普通のお客は単価はさして高くなく、利便性があまりにも低いとか、日常の利用として負担できないと思えば他の交通手段に移行してしまいます。それでも交通弱者に代替交通手段を提供するよりは鉄道がある方がいいから維持しているわけでしょう。むしろ青森県なり県の肝いりの観光事業体なりが青森鉄道を組み込んだ観光商品を作り、その収益から青い森鉄道に通常の運賃相当額以上の支払いをするべきです。もちろんできるだけシーズンのイベントに頼らない通年のものであるべきですね。もちろんIGR岩手銀河鉄道や三陸鉄道と合わせて岩手県とも組んだっていいわけですし、その場合JR東日本に八戸線で得をさせるのは癪なので、八戸線の青森県への無償譲渡なり引き取り料を取っての譲渡なりを働きかけたっていいわけです。正直JR東日本の財務は、首都圏と新幹線で何もできなくなるくらい悪化させてしかるべきです。
ところでこの三線はJR路線ではないため青春18切符での利用の対象外(正確にはIGR岩手銀河鉄道線と青い森鉄道線は通過のみ可能)なのですが、あの切符の性質からしてむしろ沿線の観光需要としては対象になっている方がいいのではないでしょうか。もちろんあれは乗り放題切符であるため鉄道事業者にとっては負担であるわけですが、筋論から言えば(何しろ普通は盛岡駅まではJRの路線を使うわけですし)通常の乗車賃との差額はJR東日本が負担するのが良い、つまりJR東日本が18切符での乗車について運賃相当額を青い森鉄道に全額支払うべきとは思うものの、それで説得するのは後腐れが出まくるだけに大変かもしれません。その場合でも、青森県で予算措置を講じられないものでしょうか。どうせ通過需要は定額の通過料を払うわけですし、負担は青森鉄道線の駅で乗降した場合だけです。計算方法にしても、切符に通し番号を打って検札の際それを確認するなど手はある気がします。事細かに確認せずともワンデーパスで考える手もあるでしょう(もっともこれをやると18切符一日分の金額がこれだけで吹っ飛ぶのですが)。どの切符がどういう風に使われたかを把握するような調査は、JR各社としても利益があると思うのですが。もちろん需要予測に基づいてザックリ分担するような方法論もあるでしょう。まあ、新幹線で来ないような客は相手にしないというならそれはそれでいいのですが、わざわざ普通列車に乗ってくれるような奇特な客なのですし、長距離乗車の目標駅や周遊乗車の対象に入れてもらえることにはそれなりにメリットがある気がします。

■2022年11月26日(土)  防衛に空理空論とはどういうことか
敵基地攻撃能力、「必要最小限で」 政府案提示 与党、来週にも合意
いやもう敵基地って何だという話で、正直基地さえ潰せば安心なんてことがあるかという感じです。北朝鮮の弾道ミサイルだって試験拠点から発射しているだけで基地でないと発射できないというものではないと思うんですがね。まして、朝鮮半島から北米を狙うというならまだしも、日本なんかそれほど大げさなミサイルは要らなくて、むしろ数でしょっていうね。
先手を狙うなら敵領土殲滅、(相互)確証破壊しかありえません。
まあ、ミサイル製造業者の救済なら理解はできますが、それならむしろ訓練用標的弾を相当数発注して弾道弾破壊演習を頻繁にやる方がいいんじゃないですかねえ。
どう見ても意味がないことをしようとするのは、感心できません。

■2022年11月26日(土)  そうか、どっちにしろ見て見てってうるさいから嫌いなのか
なぜ日本はツイッターの「宝石」になったのか 日本法人元幹部が語る
「インスタグラムやフェイスブックは「ルック・アット・ミー」(私を見て)だと。対してツイッターは「ルック・アット・ディス」。つまり「これが面白い」「これが大事だよ」というのです。」
道理で個人的に合わないはずです。そう言われたってSo what?だもんな。
もっともTwitterだってLook at me!には違いないでしょう。発言者を敢えて隠していたならLook at thisであったかもしれませんが、結局のところI pick this! Look, look at it and me!でしかないのです。そして見る側は、結局のところ事ではなく人に注目しています。事に注目することも十分可能なのですが、あまりそうは使われていないという時点で、運営側の意図とは異なる使い方をされていた、というより運営側の意図は場を十分ドライブできていなかったというかそれでは儲からなかったということです。何しろ広告なんだかTweetなんだかわからないわけですから。

■2022年11月26日(土)  国民も住民も有権者も定義されている、では市民は?
ツイッターはどこへ向かうのか 日本で重要なのは「市民の声」
いささか気になるのがでは市民とは何かという点です。もちろんTwitterで呟きを垂れ流しているのはそうではないわけですが、だからといって例えば市民運動家だって市民ではおそらくないでしょう。自分にしろお隣さんにしろ市民かどうかと言われれば少なからず疑問符がついてしまうのが実情ではないでしょうか。
そうなると市民というのは総体として後から発見されるものという気もして、そうなると後付けでこれが市民の意思だったとは言えても、市民の声という表現はできない気がします。

■2022年11月26日(土)  結局庶民の金を取り上げて無駄遣いする発想なんだなあ
どうなるNISAの上限額 非課税制度は恒久化、投資期間も無制限に
なぜ株式での運用ばかり優遇するんでしょうかねえ。企業財務における規律を何だと思っているのでしょうか。日本の株式会社制度が企業財務の規律に完璧なまでに失敗したことは明白であり、その結果が - 中小企業よりもむしろ - 上場企業の不効率でしょう。
NISAはお題目はともかくただの株式市場への資金誘導策、株式市場と株式会社に金を集める手段にすぎません。「投資」などと言えるものではなく、市中の資金をかき集めて株式会社に無規律に投げ込むものです。もちろん銀行預金に資金を豚積みしておくことには問題がありますが、少なくとも東証の通常市場への上場企業への資金供給に経済拡大の効果があった時代は終わりました。今のその手の企業の資本調達は赤字の尻拭いか無駄遣いに過ぎません。この点では、新興企業(起業)へのハイリスク投資が重要という判断の方がまだしも説得力があります。財務への規律を与えるためには株式は不適切であり、固定クーポンの有利子社債でなければなりません。
とはいえ資産形成を唱える以上ハイリスク投資を前面には押し出せません。上場株式投資信託が出てくるのはその便法なのかもしれませんが、新興企業への投資で元本を保障できるような運用主体がどれほどいるものやら、疑わしいのが実情でしょう。分散投資と言いつつ株価指数商品でしかないのではないでしょうか。株価指数商品(つまりパッシブ投資)が株式市場を劣化させるという指摘は1990年代半ばにはすでに出てきています。機関投資家のリスク軽減手段と金融商品は意味が違うと思います。この意味では国債、地方債、社債とこれをポートフォリオとする投資信託こそがNISAにふさわしいはずなのですが、そのようには読めません。まあ、社債はまだしも国債や地方債はリスクが少ない分リターンも下がりやすく、また発行主体の債務負担能力にも問題が出ているというか財務省と総務省が借入防止に躍起になっているわけですが(地方債を用いたハイリスクの公共事業を減らす代わりに総務省が設定したのがプロジェクト型のふるさと納税でしょう)、そもそも投資におけるリスク管理にはこの種のリスクゼロの商品が必要不可欠です。
金融庁の掲げるNISAの説明に含まれる投資信託は、それこそETFに限らず胡散臭い商品ばかりと言えます。REITは米国で流行った挙句に不動産バブルとその崩壊を引き起こした不動産投資事業の証券化そのもので、不動産ディベロッパーの負うべきリスクを出資者に付け回す金融工学商品です。公募株式投信もいわば持ち株会社の株式公募の類であり、個別に中身を検めた上であればともかく枠組みとしては売り手本意の商品でしかありません。もちろん投資方針やポートフォリオの検討も含めて投資信託を選ぶことはこの手の投資の初歩ですが、初心者が情報収集にかかったら投資のパフォーマンスとしては赤字になるというのもまた常識です。その常識を覆すためには十分な金融商品分析情報が廉価に提供されないといけません。もちろん分析結果を読んで投資の方針を判断するだけのリテラシーが個々の投資家にないといけないわけで、市場価格や取引規模の動向だけ見て決めるようなやり方は論外です。正直そのレベルの「リテラシー」が跋扈しているように思うのですが。もちろん投資主体の総体的な心理分析のみで鞘取りを狙う投機もあって構わないというかないと市場が動かなくなりかねませんが、それにしても逆張りを上手に使いこなすというレベルの高度な技が求められるのであって、順張りやパッシブ投資しかできないような人を呼び込むのは筋が違います。
これだから金融庁ではだめなので、ちゃんと証券取引等監視委員会に戻し、その厳正な監督の下で、できれば分野を絞った金融商品取引市場が乱立する状況を作るべきでしょう。装置として安定した金融商品取引市場という発想はもう賞味期限切れではないでしょうか。なんというか郵便貯金や簡易保険の発想をそのまま株式市場に持ってきた感じで、全く好感を持てません。

■2022年11月25日(金)  それこそ市場の要否も含めて民に任せよ
コメ現物市場が来秋にも開設へ、農水省方針 求められる価格の透明性
なぜ農水省ごときがコメの現物市場などという話をするのでしょうか。もちろん誰でもそこでコメを、それこそ国産だろうと外国産だろうと買えるというのならまあありかもしれませんが、単なる国内出荷市場で、生産者と一次卸に関わることでしかありません。それなら生産者と一次卸が都合の良いようにやっていればいいことで、農水省の仕事は非常時の流通確保制度の整備くらいです。ましてや価格の透明性などというものに役所が口を出す段階は、とっくに終わっています。農水省が政府米買い入れ価格を決めていたから不透明だったのであり、今は生産者と一次卸が相対で決めているのですから、どこも不透明なことなどありません。もし生産者と一次卸が市場という仕組みを使うことが望ましいと考えれば、ちゃんと民間から市場を作る動きが出てくるのです。そこは流通への割り込みを望む金融屋がでっち上げた先物取引市場と一緒にしてはいけません。気にしなければならないのは、まさに農水省が価格に口を出さざるを得ないときにどのように価格を決めるのかという部分です。このような状況では通常の価格成立過程が破綻してしまっている、あるいはそのようにして成立した価格が何かの意味で(例えば一般の購買力を超えているなど)都合が悪い状況だと思われますので、その時にどう決めるのかというルールを考えておくことは、極めて重要でしょう。もちろんその基準は平時やその時点の市場価格では全くないわけです。
価格の透明性を言うなら、まずは各アクターの交渉によって定まった各段階の価格を所与として受け入れるべきです。むしろ「はず・べき」の政治価格、これを導くために市場という仕組みを必要としているようにしか見えませんが、これの方がよほど不透明です。その政治価格=農業の産業構造の「改革」につながる「はず・べき」価格が、米価格はもっと安くなる「はず・べき」なのであり、実力をもってコメ流通に参入できない金融資本の提案する不透明な、人工的な、歪んだ価格です。安くなる「はず・べき」と言うなら、空き地でも開拓して米を作ってその価格で売ったらいいでしょう。別に米作農業に参入規制などないはずで、せいぜいが適地がすでに既存農家に占有されているとか、水田を作ってそこで米がちゃんと取れるようになるには数年かかるとか、その程度の問題でしょう。ちょっと根性の入った脱サラ組は乗り越えている程度の話です。それもできずに米価を云々する方がおかしくありませんか?
もっともどうしても米取引市場を作りたいというなら、むしろ政府の肝いりプラットフォーマー一社ではだめです。できれば100程度、少なくとも20は市場を開設させるべきでしょう。市場運営者が競って好条件で売り手と買い手を招く競争的な環境を整備するべきです。例えば県単位で市場を設け(都道府を含めて47の市場ができるわけですね)、その市場を経ずに米が県外に流出しないように、またその市場を経ずに県外の米が流通しないようにしてしまいます。県際流通業者はある県の市場で米を買って別の県の市場で売り、その価格差で儲けることになります。それが、広域流通商社などという不透明な仕組みを排除し、健全な価格決定機構を整備するということでしょう。もちろん届け出のみで開設できるようにしたっていいわけで、利害を異にする人たちがそれぞれに自分の都合で市場を開設できることが望ましいでしょう。売り手も買い手も都合がいいと考える市場に参加していくでしょうし、その結果多くの関係者が望ましいと考える仕組みを備えた市場が生まれてくるのです。もちろん不満な向きは別の市場を開設すればいいわけで、市場間の価格差はやはり市場間の鞘取りによって解消されていきます。

■2022年11月25日(金)  リストラを礼賛するような経営者がいる企業からは出ていくべきという点で雇用の流動化は正しい
リストラを礼賛する経営者たち──魅惑の「雇用の流動性」は何を引き起こすのか
「リストラ礼賛者」の発想が根拠がなくそもそも論点が間違っているという点は著者の主張する通りで、そもそもリストラそれ自体が経済を上向かせるなどという主張はおかしいわけです。これならまだしも、ゾンビ企業論の方がましというものです。もっともそのゾンビの大半は上場株式会社なわけですが。ですから「ただ流動性さえ高まれば万事がうまくいくといったような幻想は危険です。そうした考えはいい加減、捨てた方がいいと思います。」という点は全く同感です。
ただし、一定の条件では雇用を流動化させることで労働者の福祉が実現でき経済が活性化し適切な経営を行っている企業の業績が向上するでしょう。その条件は、トータルの消費ボリュームが確保され、不適切な経営を行っている企業がどんどん潰れていくことです。企業(事業ですらない)を延命させ経営者の椅子を保持するためにリストラを行うのでは単に経営者や所有者、債権者の「俺は悪くない!」を追認しているだけです。企業再建などという発想がおかしいのであり、企業は潰し、生産手段を活用する意思のある主体に走りだせる条件で引き渡すことが事業再建制度の意義です。その前提を置いたときにのみ、解雇を伴う組織の再構築が妥当性を得ます。もちろん買い手がいないのではそもそも走りだせないわけで、需要がある商品を買うだけの消費があることが必要です。経済対策とか需要喚起というのはこの部分を実現するためのものです。
その上で、雇用市場が流動的であればそのような企業の破綻処理によって職を離れた人たち(もちろん財布を痛めて自分の将来を賭けてまで破綻した事業を引き取ろうという意思もない普通の労働者)が就業条件が悪化してでも次の職に就く機会が得られます。個別的に処遇が悪化するとしても、平均的に適正な職に就くと条件が改善する状況は実現できるものでしょう(個人的には賃労働という方法論自体がそんな可能性を内包しないと思っていますが、賃労働が社会的に適切な手法であると前提すれば、好況下でそうならないのは筋が通りません)。そのためにも、まずは採用の面で流動性を確保するような制度が要求され、そして市場にボリュームを与えるためにフローとして安定的な労働者供給、つまりは退職を含む解雇が必要という理屈になります。もちろん市場を経由する必要は必ずしもないわけで、必ず出るであろう失業者や転職希望者が職場を移動する手段さえあればいいのです。事業売却や出向みたいな経路は効率も悪ければ透明性も当事者以外には低いので望ましくありませんが、ボリュームがないとそもそも維持できない市場よりもましな方法というのはあるかもしれません。
大事なのは、労働力を活用する方法は色々ありますが、不適切に経営されている企業を退出させる方法は潰すしかない、事業組織としての企業を一度更地に戻すしかないということです。再建を求める状況になった時点で所有者と経営者は失敗しているのであって、その意味で企業再建などという方法論に妥当性はありません。何も債務を背負えとは言いませんので(そういう意味では有限責任というのは便法として合理的でしょう)、管財人に任せて退出するべきです。株主の有限責任と経営者の無責任というのはいわば破産手続の簡略版です。そしてそのように潰すためにも、労働債務が詰み上がらないうちに事業継続を投げ出す環境が必要であり、その意味で解雇を避けるために事業を継続などという発想から解放される必要はあります。この点については、企業の清算解雇はより容易であるべきです。債権者を犠牲にするような行為のある程度の容認は必要悪でしょう。そもそも会社であれば経営状況は適切に開示されているはずであり、廃業詐欺の餌食になるような債権者、倒産するような企業に出資し不適切な経営者に経営を任せるような所有者こそ問題なのです。まあ、確率的に発生するとは言えますけどね。「本当に「未来を見据える」のであれば、安易にリストラに手を出すのは本末転倒。その意味で、著者の主張のうち「今いる社員」が仕事への意欲を高められるような施策を講じることが先です。」という点は、とりあえず企業が適切に経営されている間だけの話であって、もうこの企業に未来はないと判断することこそが経営者や所有者にとって肝要と思います。その意味で事業組織を解体清算するための解雇は容易であるべきであり、従業員を見捨てることは正当とみなされなければなりません。この意味で、Twitterの「三か月分の解雇手当を受け取って退職して欲しい」は、解雇避止義務などというものよりはよほど健全だとは思うのです。あれと日本的経営を一緒にして欲しくはないですね。

■2022年11月25日(金)  そもそも徴収に応じる側が額がおかしいことに気付く要素があったのか?
授業料と支援金取り違え…1900万円未徴収 三重の徳風高
どう見ても徴収側のミスですが、それでもすでに納付期限を過ぎた授業料の徴収に応じる義務が元を含めた在籍生徒にあるのでしょうか。なんだか、間違って50,000円とつけるべき値札を50円とつけて気づかずに売ってしまった人から、49,950円払えと言われているような気分になるのですが。結果として利益を得たとしてもそれは全面的に間違えた方の責任でしょう。授業料のように客観的な相場観がないものならなおさらで、確かに一般的な額というのはあるでしょうが、何らかの施策によってお手頃価格になっていてもおかしくはなく、値付けが適正であると判断する余地は十分にあります。しかも徴収自体は行われているわけで、部分的に未収だった、債権があるなどと言われて納得できるでしょうか。まあ、あらかじめ年間でこの額を徴収しますという取り決めが交わされていたのであれば別ではあるのですが、少なくとも取り決めにおいて額が明示されていたのでない限り、債務を履行する責任はないと思うのですが。

未徴収の授業料、請求は2割減 分割払いも対応 三重・亀山の徳風高
さあて、誰か債務不存在確認の訴訟を起こさないものかと思うのですが、まあ、分割でも何でも払ってしまうのが無難な線ではあります。そんなところで喧嘩をしたって意味がないと言えばないわけで、割引分を理事全員で補填したうえで理事報酬を発生時に遡りこの先5年分ほど返上し、全対象者にお詫びの文書を全員の署名捺印付きで出すくらいで収めておくのが良識ではあるでしょう。
本当は公文書としてこの人はこの学校の理事をやっているときにこれこれの粗相をしでかしたということを記録しておき、何かというとそれを引っ張り出すようにするというのが正しいと思いますが、そういう公的な責任を負う職において経歴を明らかにする制度は日本にありません。下っ端を雇うときはなかなか細かい経歴書を出させて内容を誤魔化しているとやいのやいの言うわけですが、偉くなるほど表面的な実績で評価されます。嘆かわしいですね。

■2022年11月25日(金)  今さら検索のプロは要らない
図書館の司書は「情報のプロ」、でも待遇は… 国に期待する役割とは
「情報のプロ」だと言うならその専門性を活かせる職に就けばいいわけで、公共図書館で司書をやっている必要はないでしょう。使い捨て非正規ですら希望者が殺到する人余りだからこそ、そういう処遇が改まらないのだと思います。
そもそも図書館や図書館司書って必要ですか?「本」へのアクセスが重要だとして、その方法論が「図書館」なかんずく公共図書館でないといけないという理由は何でしょうか。国立国会図書館については、幾重にも独特の役割が付されてきました。企業や機関の業務資料収集施設については少なくとも経理部門と監査部門以外から存在価値に疑問を示される余地がないことは明白ですし、そもそも機能を果たしていないとなれば廃止か再構築になります。会員制図書館や有償の資料館もそうでしょう。会員や利用者が価値を見出すことが前提です。個人運営の図書館もそうで、費用負担者の存在意義への認識は明確です。では一般向け図書館、公共図書館はどうでしょうか。全国民、全住民が差別なく本へのアクセスを保障されるべきだというなら、そもそも出版点数に比べて非常に少ない蔵書数をどう説明するのでしょうか。その上で、公共図書館の蔵書を拡充することが本の普及につながるのでしょうか。昔は本の出版点数も出版部数も少なく、もちろん売り切って終わりだったので、とにかく本を買って所蔵する図書館の意義があったわけです。しかしその役割は、今日日本であれば国会図書館に集約されています。機能集約のメリットは増すことはあっても減じることはないでしょう。国会図書館以外の図書館は、まずは法的な収集(義務納本)の対象にならない「本」的資料の独自のコレクションに重点を置くような専門図書館になっていくはずです。それが地域資料か分野や業種に特化した資料かは任意に選べますが、ここまで書籍の出版点数が増えた以上、国会図書館のクローンのような機関は維持すれば不効率ですしそもそも財政負担の問題で維持できません。一般向けコレクションを扱う図書館は今後サブスクリプションサービスに移行していくと思います。そこに人間の「司書」の姿はもちろんありません。
では司書は必要かというと、少なくとも専門図書館においては、その機能は学芸員が担うものだと思います。図書館スタッフとしての職能だけでは不十分であり、その図書館の方針に即した専門分野を持ち、その専門分野の資料整理体系に通じ、資料を活用した研究を自ら進めて行けるような人物が望ましいでしょう。もちろん出版総体を対象とした索引の体系は今後も存在し続けますし、そうした業務知識に通じた人材、網羅的図書館の索引体系と専門分野の整理体系の橋渡しができる人材は必要です。専門といっても恣意的なものであり、専門分野の外の資料に頼ることはあり得ます。その時頼りになるのは網羅的な索引体系でしょうし、少なくとも職業専門家なら両方の、あるいは関連する複数の分野の体系に通じているべきではあるにせよ、それを前提にするわけにはいかないでしょう。どのみち収集整理する以上体系的索引の作成は必須ですから(何でもかんでもグーグル的発想が使えるわけではありません)、それを利用する業務知識というのは成立します。しかしそれはあくまで職能の一部を構成する業務知識です。それだけでは専門職が成立することは極めて難しい状況だと思います。一般教養や基礎的汎用的な業務知識としての書籍資料の体系的索引の作成やそれに基づいた整理、そして他者の整備した索引を利用する能力ならともかく、総体的な書籍の整理に特化した人材は、もはや国会図書館以外には不要です。逆に資料の整理や検索は全員が身につけるべき教養であり、職能として外部化し集約するべきものではありません。図書館職員は今や資料庫の整理係であり、一般的な索引体系に通じつつもその機関独自の需要に即した索引体系の僕であるべきです。索引体系とはものの見方の一形態であり、当然に複数の体系が並立します。本質的にニーズから外部化されるべきものではないのです。むしろ一般的な索引体系なるものが成立しうると発想した近代の観念の方が錯誤でしょう。ならば資料庫の管理はそこのニーズに即した索引体系の下に行われるべきなのです。「図書館司書」として横断的な職務として成立するものではありません。むしろその資料を参照する人に内部化され、あるいはそのPersonal Information Assistantとして秘書的に従属するのでないといけません。公共図書館を存置するとして、適切な実践はその索引の公開であり、付加機能としてのリファレンスサービスは専門職としての図書館司書ではなく、その図書館固有のコンシェルジェが提供するべきものです。その専門性が高まれば自ずからカウンター業務のクラークと別れていき、おそらくクラークがリファレンスサービスを要求されたらコンシェルジェを呼び出すような形態になるか、「よくある」検索依頼についてはクラークが使える機械的検索手段をコンシェルジェが用意し、そこまで頻繁に発生しない検索依頼については個別対応する形になるかだと思いますが、いずれにせよ本来公開した索引(公開するためにその体系を整備するのはコンシェルジェの重要な職務であり、整備や公開をアシスタントが単純労働として補佐するものです)を用いて自身の需要に基づき蔵書を検索したうえで利用するというのが原則になり、職能としての検索は余芸になっていくと思います。

図書館司書、続けたいけれど 非正規、低賃金…「女性軽視では?」
いえ、職務軽視です。
確かに図書館司書業務は女性が中心の部分はありますし、それが図書館司書業務を非正規のままにしてきた要因の一つでないとまでは言いませんが、それは男性が主要業務、女性が補助業務と位置づけられてきた日本の性別職業分担の体系の中で図書館司書業務が専門性のある補助業務、つまり家計の分担が副次的な家事手伝いや主婦を臨時に動員する職務だとみなされてきたというだけで、女性差別というよりは司書業務の軽視によるものでしょう。資料を探すのなんてアシスタントの仕事なんですし。
もちろん求められる職能を果たしている限りアシスタントであろうが労働者として軽視されていいわけはありませんが、必要に応じてどこにでも配置できる正規職員と比べて専門性と業務以外(例えば家庭)への従属性の問題で融通が利かない専門職は、特に専門分野の管理職ポストが少ない場合に軽視されがちです。ただし、その問題において図書館業務に正規職員を配置しないという部分と非正規職の処遇がフルタイム勤務にもかかわらず良くないという部分とは分けて考えられるべきです。
職務給としての最低賃金から見れば図書館司書の時間給は千円だと言うのは問題になりませんし、それで勤めているならその処遇を是認していると言うべきでしょう。そんなお値打ちな専門性にこだわっている方が悪いのです。図書館司書が職能として備えているはずの資料検索能力は、正当に発揮されれば高度研究機関でのアシスタントくらいは十分に務まります。図書館司書という職務が軽視されているのであれば、そちらに転職するべきです。その上で、図書館司書のなり手がない、あるいは希望者の能力が低い時に運営主体が処遇を改善してなり手を集めるのか、それとも図書館事業自体を廃止したり事業の形態を変えたりするのかは運営主体の方の問題です。まあ、必要な業務なのになり手がいないなどとたわけた話が出て来そうな気はしますが、本当に必要なら不要なところを削ってでも充足するべきで、一度住民の地方自治体が提供するべきサービスは何かというところまで遡って合意を形成しなおすことが、おそらく必要なのでしょう。その意味で合意を形成し難い構造を作ってしまった市町村の大規模化はおかしいと思うのです。まして案件を小出しにしてこれは必要か不要かなどと問う手法は犯罪的です。どんなに難しくても、全体としてどのようなサービスが含まれているべきかについて合意を形成しないといけません。本来その機会が年一回の年次予算審議なのですが、官僚制の全面化と人口増で全くその体を成していませんね。本来米国政府における陸軍のように、すべての部署がデフォルト廃止であるべきですし、人員は部署についているべきです。
一方で、非正規職員の処遇がそれでいいのかという問題は、分担している職務の内容も検討したうえで考えないといけません。基本的には正規職員の給与は身分に基づく年金であるわけですが(別に年金だって税法上給与所得に準じて扱って悪いとは言えません: 普通は別枠がありますしどちらかというと雑所得な気はしますけど)、非正規職員については職務給とみなすべきでしょう。ただしその職務給の水準は、少なくとも拘束時間が長い場合(例えば税法に倣って週20時間以上とか)はその職務に専念するよう拘束されているとみなすべきで、少なくとも正規職員の初任給程度の水準ではあるべきだと思います。もちろん専門的技能の重要性や希少性に応じてプレミアムを付けることは差し支えありません。正直今時新卒初任給が10万円などという自治体はないはずで、その意味で正規職員と同等のシフトで勤務についている図書館司書は相応の給与水準であるべきです。その上で同一労働同一賃金に基づき、フルタイム司書の給与水準を時給に換算し、勤務した時間に応じて支給した結果月10万円というのは正当な話です。たとえ将来のキャリアアップを見越した身分的年金であっても、それこそ試用期間中の正規職員を専門職非正規と処遇において区別して厚遇する理由はないように思います。もちろん新卒正規採用を全廃して採用を非正規の事務職と専門職とし、それにふさわしい処遇を設定し(当然勤務時間には相当少ない上限があります)、非正規職員から正規職員の登用を行うと言うのなら、筋は通っていると思います。その場合に非正規職員に再任を認めるかどうかというのは、労働法制との整合性の問題でしょうね。そこは人手不足だと言うなら労働法制の方を緩める選択肢もありはすると思います。もっとも個人的には、人にやらせるなら非正規でつないでおいて順次機械に置き換えた方がいいのじゃないかとは思いますけど。

図書館司書、保育士…なぜ低待遇? 「自治体の貧困ビジネス」に警鐘
貧困ビジネスである点は反論のしようがありません。もちろん責任のある人たちには色々と事情があるわけですが、労働力を感心できない方法で買い叩いていること自体は否定のしようがありません。
もっとも、廃止、ないしは無人化のつなぎであれば、ギリギリ容認できなくはないかなとは思います。他を削ってまで正規職員を割り当てるほど優先度は高くないが廃止するとなるとそれなりの整理が必要になる事業の場合、補助職員で回し整理が終わったところで廃止するというのはなしとは言えないでしょう。もちろんその場合に補助職員だから処遇を切り下げていいかというのはまた別ですが、少なくとも事業廃止をもって解雇することは前提にできるはずです。構造的に人余りを作り出せるほど政府というのは呑気な職場ではもはやないでしょう。
問題は、本体事業を補助職員で回すことが常態化し、かつ正規職員と補助職員の間に身分差ができてしまい、さらにそれが処遇の差の正当化に及んでいることで、補助職員を使う場合の事業整理を徹底せざるを得ないでしょう。整理、つまり括り出しなり廃止なりしていいのかという議論は当然あるべきですが、そもそも定員がある以上人数相応以上の事業はできません。執行部門だけでの対応には限界があり、議会と役所が揃って対応するなり、ちゃんと有権者を巻き込んで増税を含めて対応するなりが必要なのです。

■2022年11月25日(金)  雇用を給与所得だけで論じるな
賃上げでも人手不足「103万円の壁」改廃を ワタミの社長
こういうのを馬鹿と言うしかないわけで、すぐに首を切れる労働者を大量動員したいと言っていると、気づかれないと思わずに言う方も言われていることに気付かない方も、もちろん雇用側にとって都合のいい形で流動性が高い労働市場で労働動員率を高める結果に気付かない向きも間が抜けていると思います。
もちろん所得税制度を整理することはありだと思うのですが、従業員はもっと働きたいと思っている、「自分」ももっと働いてほしい、だから壁を無くせというのは、ではもっと働いてもらって家計における「アルバイト」稼得が増えた場合に、「自分」の都合で働く人を減らしたいとなったときに何が起こるかをさっぱり考えていません。103万円の壁というのは、被扶養者の収入が世帯として所得税申告を行う人の収入に比べて無視できる程度である場合になかったものとみなすという制度であり、本来そういう趣旨ではないにせよ、家計において世帯員の不安定な労働からの所得が世帯の主要な収入となることを防止しています。つまり何かあってその不安定な収入が消滅しても、家計が破綻し、失業給付などの手当てを講じなければならなくなる可能性は少ないのです。逆に言えば不安定な収入のみに依存して生計を立てている人には103万円の壁というのはありません。世帯申告という仕組みや被扶養者控除制度自体を問題とするなら議論のしようはありますが、被扶養者という制度をそのままにして適用枠の上限を廃止することは、所得税が本来個人単位の課税だという前提を掘り崩してしまいますし、家計がそうした不安定な所得を基盤にすることは給与所得に依存する家計を不安定化させてしまいます。
被扶養者控除の適用上限を廃止するなら、まず被扶養者控除自体を廃止すること、つまり収入の有無にかかわらず(もちろん年齢にも関係なく)全国民が所得税の納税申告を行い、世帯で見たときの納税負担の平準化という思想を無くし、おまけがぶら下がっているのは単なる損という状態にすること、そして「アルバイト」といった分類を制度上無くし、すべての雇用に正規雇用に適用されているのと同じ規制や基準を適用すること、つまりアルバイトだから先に解雇していい、アルバイトだから雇用保険や健康保険に加入させなくていいといった発想を否認することが前提でしょう。週一1時間勤務、月額給与5000円の人も事業所の労働者に算入し、その数を前提に全員が雇用保険、健康保険、厚生年金保険の義務的加入者になるわけです。もちろん雇用であれば、一時雇の2万円その場払いでもそこから雇用保険や健康保険などを引くべきでしょうし、使用者負担も課すべきでしょう。そこまでやって初めて、アルバイトと正規雇用をシームレスに繋げたと言えます。

■2022年11月24日(木)  倒産でない廃業の報はほっとしますね
竹下登元首相の生家、「竹下本店」が事業譲渡 江戸時代から続く酒蔵
買い手はひょっとして免許を取るのが面倒だったんでしょうかね。設備をそのまま使うのならブランドも活かしたらいいようなものですが。まあ、売り手としてはごたごたせずに整理できてよかったのかもしれません。
もちろん展開としては泥沼の争いになって竹下一族は政治どころではなくなり自民党にも飛び火するというのが一番面白いわけですが、さすがにそんなことになるようではそもそも政治家として大成すらしないでしょう。

■2022年11月24日(木)  そういう発想がクライシスの要因では?
保存食のはずなのに規制強化 伝統漬物の担い手揺るがす異変を追った
酒並みなんでしょうか?
ともあれ、現代の産業においては自家製造と事業製造は厳然として区別されます。保存食だろうが生鮮品であろうが規制に則った一定の手順と証拠に基づく監査を基盤に製造されたものだけが、不特定多数に供給される商品として市場に出回ります。近代においてはその保証の役割は流通に委ねられていましたが、20世紀に信頼を完全に失い、むしろ公的規制に寄生して事業を行っている状態ですし、そもそも流通と消費者の距離が離れ、流通が大丈夫だといったから買うなどと考える消費者は少数派ではないでしょうか。当然その基準を満たせない財は自家製造、自家消費に留まることになります。その購入や消費は買い手の「自己責任」です。
少なくとも私は自家用に漬物を漬けてはいけないなどという話は聞いたことがなく、どうもこの話は、自家製造と商品としての流通がシームレスにつながることを前提にしているのではないでしょうか。つまり、自家製造家が製造事業に進出することをもって「振興」、活性化とみなしているのではないでしょうか。仮に自家製造が伝統漬物なりその自生的発展なりの担い手だとして、それを評価する基準を持たない不特定多数に安定して手に入る商品として売るとなれば、自家製造とは全く違う観点からの工夫が必要になり、それが販売を前提とした製造事業者や商社の得意とするところのはずです。自家製造と販売を前提とした製造はシームレスにつながるものではなく、それこそ広いクレバスの向こうに命がけの跳躍をして成功した者だけが商品を売ることができるというのが、消費社会の原則です。業界団体や取引プラットフォームなども、本来その跳躍を適切に整える手段でしょう。マッチングプラットフォームといったってマッチングの部分に肝があるわけで、手を挙げた人を舞台に上げてオーディエンスの投票を待つだけでは仕方がありません。もっともそのプラットフォームの部分が信頼を失っているのも現状ではありますが、だから自由な対面取引などという発想が持続性がないことはとっくにわかっています。それで済むならAmazonがマーケットプレイスの商品でトラブルに悩むはずがありません。

■2022年11月24日(木)  発想間違ってませんかねえ?
自営業や非正規らに「育休給付金」 制度創設へ検討本格化 首相表明
出さないよりはましだと思うのですが、この手のプランを見るにつけ、そもそも休暇から復帰しようとして復帰できるのかと思います。キャリアが切れる、あるいは営業を止めて顧客が離れるというのが自営業や非正規としてのフリーランスの問題であるわけで、当然現場を離れた場合その穴は他の誰かが埋めているわけです。長期的に見ればその誰かも休む時期があって、そこで参入できるという形になっていくかもしれませんが、発注コストを取引の継続性や第三者(しかも中立機関ではない: 中立機関では信用されない)の保証に頼って下げているような有様で休業なんておいそれとできるでしょうか。まさか発注ごとに発注先がランダムに入れ替わるなんてことを信じているわけでもないでしょうし、そもそも出産育児にかかるから休業しますなんて言う自営業者をだれが信用するのかという感覚くらいは、いくら何でも理解していると思うのですが。
自営業者から使えるもんかと白い目で見られるような制度にならないかというのが、非常に心配です。

■2022年11月24日(木)  悩むくらいなら廃業すれば?
売り場の中古車わずか半分に 高すぎて仕入れられず、悩む中小販売店
いや、買って売るのが二次流通の要なんで、単にそれを仕組みに依存して売り手とのつながりをうしまった失策の末の自業自得なんじゃないでしょうか。
単なる土管としての流通であれば中小販売店は不要なわけで、それこそAmazonかメルカリみたいなのでいいわけです。私企業なのはどうなんだという話にはなりますが、マルクス的に言えば集約したうえで乗っ取って公共インフラにする話でしょう。起業家と投資家の使い捨てです。
逆に複数の流通チャンネルが存在する意義を求めるのであれば、それぞれに土管としてではない特性を見出すことになります。売り手としても、値札とスペックシートだけ見て決めるような客や、展示品を見て買いに来るような不特定多数の一見客ばかりを相手にしている商売では、大手のプラットフォームと比べて価値は見いだせないでしょうし、実際それで商売が行き詰っているのではないでしょうか。仕入れ元にしろ納入先にしろ単なる流通の仕組み以上の部分を評価する固定客がつくような商売をするのでなければ、廃業した方がいいんじゃないでしょうかね。もちろんそんな商売をやっていけるのかという問題は別にあるわけですが、やっていけないのだとしたらそういう商売やそれを前提とする中小企業には意味がないわけです。

■2022年11月24日(木)  せめてほかの税収をまとめると所得税と同額になるくらい個人所得にお金が回らないものでしょうか
富裕層の申告漏れ、過去最高839億円 国税庁
意外に小さいですね。税収と比べてすら5パーセントに達していません。これは、富裕層の申告漏れがささやかなのか、それとも富裕層への課税額自体がそもそも小さいのでしょうか。まあ、申告所得税の税収に占める割合自体が20パーセント程度で、そこから見ると一割近くになるので、そうなると無視はできません。とはいえそれ以外の税負担にしろ富裕層が対象外ということはないわけですから、むしろ富裕層への所得税の課税が税収の上で軽いということなのでしょう。つまり所得自体が税収の上では重要性を失っていることになるわけで、これでは法人税や消費税を上げろという話になるのは仕方がないようです。なんというか、個人がさっぱり儲かっていないという話になると思うのですが、いったいお金はどこに行っているのでしょうか。法人の内部留保でしょうか。
ちなみに税負担については、この場合現地での所得課税の負担を控除したうえでの申告漏れの話のようですので、そもそも個人たる日本国民としてこの程度の所得のある人はこの程度の負担をしてしかるべきという発想からははみでていないことになります。

■2022年11月24日(木)  個人の品格の問題とは言え目の前の個人がどっちなのかなんてわからないからなあ
学校の健康診断中、女子中高校生14人を盗撮容疑 34歳医師を逮捕
どうするのがいいんでしょうかねえ。出れば職業全体への信頼を失いかねませんが、正直排除など不可能でしょう。

■2022年11月22日(火)  好き込んでやっているとはいえ誰かがやる必要のあることですから
歴代政権が恐れた辞任ドミノ 首相「今はちょっと孤独でつらい時も」
「参院自民ベテラン議員も「首相はいつも迷ってばかりで事態が悪化する。政権の体をなしていない」と痛烈批判が止まらない状況だ。」
公明党が連立の相手に苦言を呈するならまだしも、参院とはいえ自民党議員が言うのは天に唾する行為ではないかと思います。そもそも辞任ドミノを出すような議員しかいないのは党の問題でしょうが。小泉さんみたいに「自民党をぶっ壊す」でいいとは、少なくとも党は言えないでしょう。
政権が政論集約の手段としての政党に基礎を置く以上辞任ドミノは構造的に発生します。そこで期待されているのが党の自浄作用であって、それは内閣総理大臣としての岸田さんの問題というよりは自民党総裁としての岸田さん、つまり党の問題です。そもそもそのバランスを取らないと内閣を運営していけない構造になっている、してきたのが自民党なのですから、痛烈批判しているばかりでは党の幹部の一員として無責任というものです。正直自民党政権が崩壊し下野する羽目になることで政権与党議員としての立場を失うどころか自分の議席すら危うくなる(それが公選議員制度の期待するところですが)責任を岸田さんに転嫁しているようにしか見えません。
また報道側も、政党政治-議院内閣制-政党政治家の構造汚職というのは三位一体であり、構造汚職だけ批判して済むものではないことは認識するべきです。もちろん政党政治や議院内閣制にも一定のメリットはあり、構造汚職を理由にこの制度を廃することはメリットも失うことになります。例えば行政組織を国会の信任に基づいて官僚が構成するものにしたとして、今度は官僚の汚職が発生しますし、それは信任を与える国会の議員を巻き込むものになります。この点はスポイルズシステムにしても同じことです。もちろんチェックばかり強化してもダメで、チェック機構自体が既得権益化して腐敗し、さらに屋上屋を重ねる形で肥大するわけです。チェック機構が肥大した例としては、例えばソヴィエト連邦における警察権力の多重化を見ればいいでしょうし、あるいはクレーマーやモンペなどもチェック機能が昂進した例かもしれません。
どうせ誰がやっても大差なく、どうやっても機能不全による崩壊で終わるので、岸田内閣に変な期待をする方がおかしいと思います。政権を成立させたうえでの再構築過程にあると考えれば、辞任ドミノでも何でも問題議員・大臣は炙り出して与野党問わず汚職議員パージを扇動するのが報道の役割でしょうし、それで岸田政権が崩壊するならそれまでのこと、内閣改造を繰り返して何とか持ちこたえて岸田さんだけ残るならそれはそれでいいくらいの考えでいいんじゃないですかね。それこそ数値目標で言うなら、次回衆議院総選挙において新人9割9分、大臣が全員当選一回くらいの目標で。

■2022年11月22日(火)  官僚が嘆くとそれこそお前が言うかという気がする
「基金の乱発、異常だ」 と嘆く官僚 便利な「抜け道」との指摘も
そもそも基金とか特別会計として国家資金を国会の統制の外に引っ張り出すのは官僚のお家芸だったはずですが、おそらく財務省や内閣府などの総合立案系だろうとは思いますが、その官僚が異常だと嘆くというのは世も変わったものです。
もっともおかしいとは言えないというか、そもそも財団的な発想というのはそういうものですね。人的なコントロールから資金を隔離して事業単位で確保してしまうわけです。財団法人や株式会社というのはそういう制度であり、コントロールと責任の組み合わせから外れてしまうためにガバナンスの問題が、それこそ18世紀には指摘されていました。便利なんですけどね。近代以降の会計とか監査の仕組みはそのガバナンスを確保するために制度的に発達した部分がありますが、例えば経営者資本主義あたりがそこを骨抜きにしてきた部分があります。
正直日本の場合英米、特に州法法人制度として発達した米系会社法とは別の意味で規律の部分がないがしろにされてきた感があります。その典型的な表れが事業の定義を極力あいまいにするという手法で、事業の内容を都合に合わせて容易に読み替えられるわけですから、資金を一度母体から切り離して財団にしてしまえば何でもできてしまいます。投資会社や持ち株会社というのもこの類で、損切りにしても切る側として部分的に処理すれば済むので金融資産としての資産保全には効果がありますが、規律は働きにくい構造です。ある意味その最たるものが国家と憲法ではあり、制度を措定するものとしての法律の自然な発達ではあるのかもしれません。事業を固定してしまうと、その事業が社会的な機能を失った時点で資産も業務執行組織も失われてしまいかねません。一方で資産の運用を支える業務執行組織が主体となってしまうと、むしろ業務執行組織が事業をつまみ食いする形で事業と資産を食いつぶしていきます。そしてもっとも問題なのが事業執行組織のトップにある受託者が資産の管理者として自立してしまう場合で、受託した資産を自己資産に転化して資本家に成り上がっていく、典型的な資産の私物化が発生します。歴史的には様々な段階で所有主体の移行として見ることができますが、それだけに非効率でもそれを防ぐ仕組みが立案されてきて、本来それが非世襲的官僚制や代表制民主主義だったわけですが、官僚が嘆くというのは、基金化が政府の金融資産を外部に汲み出す経路になってしまっているからでしょう。一度赤字にしてしまえば、その分は汲み出されてしまって戻ってこないわけです。もちろん国家官僚組織の手も離れ、社会の上層官僚としてローテーションドアを通じて汲み出し先に「天下り」することすらままならない官僚の手を離れてしまいます。基金が増加していくならともかく、赤字として外に汲み出されてしまうのでは官僚も困ってしまいます。
個人的には資産保全という発想自体が財団という形で受託者や事業執行組織の自立化を促す諸悪の根源だとは思います。本来生産手段であるところの実物資産と抽象的な事業の基盤としての資産を切り離し後者を清算する手段であったはずの金融資産が融通性ゆえに保全の対象として絶対視され、その結果「私物化」(プライバタゼーション: 民営化もこの語)を招いているのは、何とかならないかとは思いますね。

■2022年11月22日(火)  安倍政権というか経産省とコンテンツ流通産業の失策だなあ
クールジャパン機構が崖っぷち 政府肝いりファンド、巨額の累積赤字
失速したクールジャパン 政府肝入りファンドに「最後通告」
珍しく財務省が正しい例というか、確か会計検査院あたりからも突っ込みが入っていませんでしたっけ?
もっとも、経産省が業界と組んで前のめりになって成功した例は近年ないはずで、元々失敗が約束されていたとも言えます。その点は昨今の日の丸半導体も日の丸原発も同じですが、ある意味経産省と財務省の悪いところを組み合わせたと言っていいIT庁と合わせて、内閣府と外務省、国会事務局で分ける形で実施部門と対外通商部門、立案部門を整理した方がいいのではないでしょうか。もちろんそれで立案部門は骨抜きになりますが、統一した産業政策などというものが行政官庁として必要かどうかがまず問題でしょう。
CJ機構については正直損切り手仕舞いすべきだと思いますが、問題はそこを経由して日本のコンテンツ(流通)産業に流れていたお金で、何しろファンドの規模が大きいだけに少ない額ではなかったわけです。既存商品に回りがちだったとはいえその既存商品の収益性を改善し、生産性の悪い投資という形で裾野を支えた効果もあったと思います。それを迂闊に清算してしまうとそれで支えられていた裾野部分の急激な縮退を発生させかねません。もちろんそういう「水物」商売への労働力としての参入を抑制する意味では派手に潰して未熟練職人の失業をまとめて産みだすことが悪いとは言えないのですが、過去の例からしてその影響が数十年に及びかねないのでは、まだしも遣ってしまった金の回収を諦める方が楽ではないでしょうか。貸借対照表上の債務はただの数字ですが、例え摩擦的とはいえ失業は現状生活の問題です。産業政策において5年単位で産業レベルの変化が起こるという発想が全く欠如していた結果潰しのきかない職人を大量生産していたわけですから、失業対策の枠であってもフォローは必要でしょう。
そもそも低次機能に特化した職人を株式会社に雇用させて運用する発想の産業政策や技能教育政策は国家レベルでは放棄するべきです。確かに短期では歩留まりが高いですが、長期的には摩擦的失業を増加させることは明白でしょう。現在の管理職と金融が結託した商業的プロダクションシステムではなく、「職人」層が組合や会社といった仕組みを自律的に利用できるようにする方向性が望まれます。コンテンツ制作であれば、それこそ大作の製作現場で横暴を極めた監督が職人層にそっぽを向かれて人的に干される事態が日常的に起こるようになることが望ましいです。

■2022年11月19日(土)  強制給餌は残虐ではあるかあ
英王室がフォアグラ禁止令 チャールズ国王肝いり、保護団体も歓迎
まあ、輸入禁止というわけではないので構わないと言えば構わないわけですが、まさかこのためにフランスとの協調が前提になるEUから離脱したんじゃなかろうなと思えてしまいます。マクロン大統領あたりの反応が楽しみですね。確かにフォアグラはステータスのある食材ですが、それを使わないと高級料理が作れないというものではありません。その意味では肉全面禁止ほどは痛くないですね。英王室揃ってベジタリアン、犬も猫も飼育禁止になったらそれはそれで面白そうなのですが。もちろん家畜の飼育は残虐行為でしょう。

■2022年11月19日(土)  愛を強要するからこんなことになる
公募で新小学校名決まったはずなのに、校歌や校章が作れない…
校歌や校章つくれない小学校 開校まで約4カ月、何が起きているのか
タイトルを決めた編集担当のセンスが酷いですが、とはいえ校歌や校章ならなくてもいいとしても、さすがに入学予定者への案内ができないのは良くないですね(校名が決まらないと案内に支障が出るのはさすがに明白です)。まあ、至誠などというあからさまに悪い意味で倫理的に見える名詞を小学校の名前に使うことが今さら妥当なのかはともかくとして(記事中にありませんが、そういった言葉になにがしか由縁があることもありますし、そもそも既設校の校名もそういう趣味があるようですから)、結論が受け入れられるだろうと判断した担当部局の判断ミスではあるでしょう。
この際ですので、すべての市立小学校にサイコロを振って番号を割り当てることにして、とりあえず仮称第十三小学校とかにして、できるだけ速やかにすべての小学校の校名を番号とし、その番号も数年ごとに振り直す条例を整備することにして、事務処理を進めてはいかがでしょうか。もちろん校名変更に関わる手続は最小限で済むように、あらかじめ余計なことはしない、極力校名のような学校を特定する手段を長期にわたって用いないで済むようにしておくわけです。もちろん校歌や校章のような、無意味で変更するとなると色々手間や金のかかるものはなしにします。技術的に特定できることが重要ならば、2023年を第一期として、サイコロを振り直すごとに期を改め、第何期第何小学校で十分です。

「新小学校名の再考を」 直接請求へ署名簿提出「選考過程が不透明」
行政部の拙劣な実施が原因とはいえ、こういう巻き戻しをやられると現場は困るんですよね。もちろん本来こういう巻き戻しが起きる余地がなくなるまで素案を揉んでから実施しないといけないわけですが、そもそも校名問題の前に統合反対運動もありそうで、整理統合を前提に強引にでも進めざるを得なかったというのが事務局側の弁解かもしれません。
問題としては正直たかが名前ではあるのですが、分割新設ならまだしも統廃合となると薄く広く永く関係する機関についての利害調整は難しいでしょう。実施側にはとりあえず、割り込みの余地があれば必ず割り込みと巻き戻しを引き起こすという覚悟の下での実施を求めるしかありません。

「至誠」が白紙になった新小学校名 二転三転、今の校名を継続使用へ
「成徳(仮)にするんですか」 鳥取の小学校名称問題、説明会が紛糾
新校名に揺れた小学校、149年の歴史に幕 児童「悲しいけど…」

■2022年11月18日(金)  税務を免除という発想がおかしい
小規模取引、インボイスなしでも控除可能へ 政府・与党が検討
インボイスの発行と管理のコストを十分に下げればいいだけだと思うのですが。本来消費税の賦課に必要な情報を正しく把握するためにインボイスを使うわけで、取引ごとにインボイスを発行し両当事者がそれを管理するというのは制度の大前提です。もちろんその結果業務レベルの取引の詳細が明らかになるというメリットもあります。それを一部であれ免除などという発想は、転倒しています。それを言いだすなら、そもそも消費税などと言わず取引税として取引ごとにかければいいことでしょう。
税理士に任せればいいなどと言わず、例えば国が決済を含むサポートシステムを運営して無償で使わせ、そこで管理された情報をもってインボイスの発行管理義務を果たしたものとすれば済むことでしょう。複数の事業所があってその間でのやり取りがあるとか、特殊な事情があって標準のシステムを使えない事業者が、税理士を使うなり自力で税務をするなりしたっていいわけです。コストを最小化する仕組みは用意しましたから、使わないのであればそのコストは負担してくださいと言えばいいのです。とにかく帳簿や帳票しか方法がなかった時代じゃあるまいし、むしろそこを活用するのがIT化でしょうに。

インボイス、課税業者に転換で税負担軽減へ 3年間は売上税額の2割
これも方策を誤っている例ではないでしょうか。将来の構造的対応を期待して一時的な軽減措置を取ると、軽減措置自体を織り込んだ構造になり、軽減措置を廃止する時点で混乱が起きます。そのままで持続可能な制度・仕組みとして設計するべきでしょうに。

■2022年11月18日(金)  そもそも海上転用の発想が間違っている
イージス・システム搭載艦の小型化検討 「当初案は令和の戦艦大和」
なんというかまだ尻拭いやってたんですね。そもそも陸上イージスを海上に転用する発想自体が間違っているので、陸上イージスはそれとして日比谷公園と大阪城公園を潰すなりして設置し(というか山梨県と北海道の演習場にでも設置するのが無難なのでしょうかね)、別途普通にイージスシステム搭載護衛艦を発注しましょう。戦艦大和だろうが空母信濃だろうがその前の発想のところで間が抜けていることに変わりはありません。この場合に限らず後付けで変なことをやってごまかそうとするのはむしろ金の無駄です。

■2022年11月18日(金)  楽しくなるような取り組み方をしてこなかったどころか否定してきたんだから当たり前
料理、日本人は楽しんでいない? 6カ国調査で表れた後ろ向きな答え
そりゃまあ、あんな修道的な文化じゃ楽しくなるわけがないと思いますが。いい加減、物事を修身斉家治国平天下に結び付けて語る悪癖は卒業しましょう。医食同源とか食をコントロールの手段とする考え方も絶対視するのは止めましょう。また芸と言えば修業という発想も改めましょう。料理というと栄養学が出てくるのもダメですし、何かと炊飯と味噌汁作りにこだわるのもなしです。初めから食材の是非にこだわるのもダメです。包丁の使い方をうるさく言うのは論外です。料理がつまらなくなるだけです。
まずはバケツプリンだろうがフォアグラタワーだろうが作りたいものを作れる方法を調べ、身につけ、実践することから始めるのが楽しみというものです。米だって、おこわでもリゾットでもパエリアでもいいのです。もちろんスープでブイヨンキューブを使ったってかまいません。
毎日する必要だってありません。脅迫されればつまらなくなります。もちろん地道な技術習得を否定まではしませんが、それを乗り越えたところに楽しみがあるなんて言っていたら楽しみを得られる人はごく一部、ほとんどの人は苦役に嫌気が差して料理などしなくなるか、しても嫌々義務的にすることになってしまいます。そんなのは職業料理人だけで十分です。

■2022年11月18日(金)  演説中の退席が許されるのもこれなら道理というか
ペロシ米下院議長、下院民主トップを退任へ 「新しい世代の時きた」
再選されてしまったのでは仕方ないですが、正直下院議員も辞めて欲しいところです。どう見てもトランプ前大統領への扱いは同類嫌悪としか思えません。トランプ系議員が民主主義の危機だとしたら、ペロシ氏の類の民主党議員も同じでしょう。もちろん議員自身がどうこうというよりは(正直下院議員の資質に欠けると思いますが)、そういう議員を選んでしまう有権者に問題があります。
そもそも議会で何を演説したのでしょうか。個人の進退に関わる問題は、記者会見なら表明することがありえても、議事としての演説で表明するべきことかどうかはいささか疑問です。そんな個人的な判断で済んでしまうことを時間を取って聞かされるのでは、どこかの国務大臣が国会での議事参加は時間の無駄だから担当省庁に戻らせてほしいと言っていたのを肯定したくなってしまいます。

■2022年11月18日(金)  支出返還訴訟を政争の道具にする愚行
国葬参加は「違法」 北海道知事らの参加費返還求めて提訴
「法の支配をかなぐり捨てた国葬の違憲性、違法性を憲法の番人の裁判所に判断してもらいたい」
この発想は正直いい加減にした方がいいと思います。それこそ警察予備隊違憲訴訟などもそうですが、最高裁は、この種の理念の絡んだ調停のしようがない問題を法廷に持ち込まれるのは迷惑だ、その場合違法性の判断は極力回避するということを言行で明示していますし、弁護士ならそれは十分に承知しているはずです。判事を判断せざるを得ないところまで追い詰めるつもりだとしても、所詮法解釈の問題であり、抜け道などいくらでもあります。
もちろん参加費として少なくない費用が支出されてはいるわけであり、公務とは言えない行事に出席するために公費を支出した、返還せよと訴えること自体は、まあ、妥当だろうとは思うのですが、それを理念上の是非の判断を求める手段として用いることは、裁判所の心証を害するものでしょう。結局は行政官の裁量と住民の政治参加のバランスの問題であり、何から何まで全住民の合意のもとに進めるというのが不可能である以上、ある程度行政官や立法機関の裁量は認めざるを得ません。その前提では、理念上の判断を避けて法技術的な不備(例えば議会で支出を決議すべきだったとか)に持ち込んで請求について原告勝訴の判決を下すことすら容易であり、もちろんこの種の儀礼的な事案について行政官の裁量を認める判決も十分書けます。この種の訴訟は、結果がどうあれ、裁判という制度自体の信頼性を低下させるものであり、その制度を支えるべき法曹がこういう行為に及ぶことは、感心できません。

■2022年11月18日(金)  最寄りの客船が遭難者を救助したのとは意味が違うと思う
イタリアのメローニ政権、フランスと泥仕合 移民救助船受け入れで
いやまあ、イタリア側の理屈もわかるというか、普通の遭難者なら拒否などしないでしょうが、どう見ても地中海を渡ってイタリアなりスペインなりフランスなりに不法入国することを目的にしているわけで、それを遭難者だから引き取れと言われたって困るでしょう。おそらく遭難せずに普通に入港を申請した場合拒否される事例です。救助した方だって、つまりは不法入国のほう助を美談として計画的にやっているわけで、イタリアの場合結構昔からアドリア海を渡ってくる不法入国者を犯罪組織がほう助するのに困っていたわけですから、人によってはヤクザの同類とでも思ってるのじゃないでしょうか。それこそ難民として保護されることを目指し、その「移民」を拾い上げることを目的としている以上、通常の航海において不意の遭難が発生し、偶然通りがかって救助した(国際法上の遭難者引き受け義務はこれが前提)のとは意味が違うと言いたいでしょうし、暫定的に収容したうえで送還していいならともかく実質的に難民引き受けになるなら実質論としてお断りというのは、そうおかしな論理ではないと思います。
むしろなぜフランス引き受けにしたのかという話で、国際NGOとやらは地中海南岸諸国での引き受けを手配するべきだった話でしょう。リビア沖で最寄りの陸地がイタリア領の海域での救助ということはシチリアとリビアの間の海域だったと思われますが、その場合イタリアが受け入れを拒否したとき次に候補地になるのはリビアだと思われます。

■2022年11月17日(木)  アイムイノセントビコーズアイアムザヴィクテム
ゼレンスキー氏が反論 ポーランド着弾は「ロシアのミサイルだ」
もちろん、郵便ポストが赤や黄色なのも、電信柱や電線がうっとおしいのも、すべてロシアが悪いわけです。多分キリストを殺したのもカエサル暗殺を唆したのも海の民を動かしたのもロシアなのでしょう。もちろんイブを唆したのも夏桀殷紂を悪逆非道にしたのもロシアであるはずです。ひそかにムッソリーニやヒトラーを後援しファシズムを成立させたのもロシアなのに違いありません。もちろんアメリカ合衆国南部諸州で奴隷制度を成立させたのも、北部と南部の利害対立を煽り南北戦争を引き起こしたのもロシアなのだということでしょう。いや、サムター要塞もロシアが攻撃を演出したのかもしれませんね。
やはり核兵器で旧ソ連領全てを徹底的に焼き尽くすしかないのではないでしょうか。人一人住まずネズミ一匹いない更地にすることが、そのような万能なる悪への対処でしょう。
こじれたものです。

■2022年11月17日(木)  いやでも見慣れない人って怪しいしなあ
人種にもとづく職務質問、「指導を徹底」 警察庁長官
差別はいけませんが、とはいえ大変だろうなとは思います。警察官は疑わしい人に職質をかけるわけで、見慣れない人、見慣れない行動を取っている人というのはその最右翼でしょう。職質によって問題の発生を防止するという意味では、例えバイアスがかかっていても疑わしい対象にはとりあえず声をかけてみるという方法論を否定できません。もちろん対象側の、警察官に声をかけられること、近寄ってこられることを忌避する感覚など、どうでもいいというかむしろそれは後ろ暗いところがあるからだろうとか、それによって犯罪の抑止が成り立っているとか思うところです。またよく問題になるおいこらも、疑いが正当であるという前提に立てば、態度として不当とまでは言いにくいでしょうし、本来疑うべき事情がなかった場合でも、質問をして答えを聞くだけなのですから、むしろ疑いが不当であると考えるなら率直に答えれば済むことです。それで解放されれば何もなかったと思うのだって、職質の趣旨からすればおかしな考えとは言えません。警察官が市民に疑いをかけてはならないという発想の方が変です。犯罪者の頭の上にオレンジのカラーカーソルが浮かんでいるわけではなく、犯罪者とそうでない人というのは、通常外見からでは区別がしにくいのです。
とはいえ明確な基準を設けてバイアスのかかった権力執行と解釈されることを避けるとか、職質をする場合でも外国には警察官の権力執行がまずもって個人への弾圧行為と解釈される地域もあり、特に外国籍であることが想定される場合はそのような事情がありうることを徹底し、無用な反発を引き起こさないようトレーニングをするとか、工夫の仕様はあると思います。少なくとも疑った理由が外国籍が想定されることと本人の挙動以外の情報(近隣で外国人が事件を起こしたこととか)である場合は職質を避けるか、するにしても扱いに十分注意するといった基準は立てられるでしょう。もちろん疑いつつも職質に踏み切るだけの確信が得られない場合にじろじろ眺めているとあらぬ疑いを招くこともあり得ますので、思い切って訊いてみるためにも、好感を得られるような訊き方を身につけることは必要ではあるでしょう。
また、職質をある程度マニュアル化することも有効かもしれません。民間のフランチャイズチェーン本部ごときが有象無象の高校生に接客させるためのマニュアルをきっちり作れるのですから、固定観念を排除して相手の警戒を解く訊き方の技法があることを認めさえすれば、諸方の協力を得つつ十分なマニュアルを作成することは優秀な警察官僚の方々なら難しくなかろうと思いますし、それを徹底することも、警察組織は可能にできるだけの組織能力を持っていると思います。

■2022年11月17日(木)  著作物を用いた事業の実施について強制的な調停制度が必要ではないか
ファスト映画の被害は1再生200円と算定 投稿者に5億円賠償命令
「収入は700万円程度だが…」 ファスト映画で5億円賠償判決
額も命令も妥当だとは思うのですが、見る人の方を見ていない話だとは思います。
裁判所としてこういう紛争にこういう判決を下すことは妥当です。事前に制作の相談をしていたとか広告料収入の分配を合意していたならまた違ったでしょうが、他人の著作物を勝手に使って金を稼いでいたというのでは、少なくとも不当利得分、そして逸失利益分を賠償すること自体は要求されても仕方ありません。
とはいえ、そもそもその不当利得や逸失利益が発生するような状況があったということを、原告側はどう考えているのかとは思います。正直映画制作側が消費者の目線に立っていれば起きなかった問題だと思います。それこそ消費されたのはファストなのですから10分ほどのダイジェストを公式に配信するだけで逸失利益分を回収できていたということになる主張のはずですし、営利事業である以上マネタイズの機会を見逃していた経営責任があることは明らかです。そういうニーズがある以上、「今後の著作権事案に対する大きな抑止力になる」などと間抜けなコメントをしている場合ではなく、ニーズに対応しなければフェアユースで対応されるか、ダイジェスト制作と配信利益の分配の申し入れがあったら義務的に許可するような事態になりかねないという危機感を持って欲しいものです。動画配信の一般的な価格とダイジェスト版であることを考慮して1再生200円という相場はこの判決で成立したわけですから、1再生につき200円を映画制作側に支払う条件でダイジェストの制作配信の申し入れがあった場合、拒否すれば映画制作側はありうべき利益を自ら放棄したとみなされなければなりません。映画制作側が十分予期されるニーズに対応しておらず、にもかかわらず適切な分配を行う事業の申し入れを受け入れないのであれば、利用の調停を申し立てることも不可能ではないでしょうし、財産としての著作物についてはそのような運用こそが望ましいと言えます。

■2022年11月17日(木)  騙される方が悪いという気が
米投資家が大谷翔平・大坂なおみ選手らも提訴 暗号資産FTX破産で
投資家が投資先を騙されたと訴えるというのはむしろ投資家として恥ずかしいことだと思うのですが、その一方で、広告出演者や広告業者、広告掲載媒体の連帯責任はそろそろ真剣に検討するべきだと思います。単なる事実の広告であればともかく、出演者や広告掲載媒体のイメージを利用して広告対象者における広告者のイメージを向上させているわけですから、出演者にしろ広告掲載媒体にしろ広告内容への責任を問われるべき理由はあります。そんな責任追及をされたら広告事業が成り立たないというのは免責の理由として受け入れ難いでしょう。他人に商品を勧めた人はその商品について推薦の相手に何らかの保証を行ったと理解されるべきですし、その保証に問題があった場合は少なくとも受けた利益の範囲で責任を負うものです。逆にそうした保証を行う意図がないのであれば、イメージを利用した広告には関与するべきではありません。それで広告業が縮小しようと、むしろ金で他人のイメージを買って対象者を騙すような悪事が行われないことの方が重要でしょう。
とは思うのですが、さすがに認められないかなとは思います。だって、プロ選手が広告に出てたから信頼するなんて、今時子供だってもっとすれてるでしょうに。

■2022年11月17日(木)  無責任な雇用といいとこどりしようとしているのが見え見えなのが情けないですが
マスク氏「長時間猛烈に働けなければ退職を」 ツイッター社員に通告
在職者に通告したのでなければ素晴らしいですね。素晴らしいというのは、世の中雇用がそうあるべきだというのではなく、Twitter社はそのような従業員で構成されることが適当だという意味です。もちろんモーレツなどというものが業績に結び付くかどうかは保証の限りではないわけで、むしろ昨今の傾向からするとモーレツゆえに視野が狭くなりハラスメントがらみの問題やマジョリティーの取りこぼしを起こして崩壊するような気がしますが、別にそれだってかまわないというかむしろそれが望ましいでしょう。経営者の指導の下で目標達成に邁進する組織というのはもちろんありで、その結果方向を誤って谷底に転落していくのもまた自業自得というものです。ぜひ日光いろは坂を時速150kmで走り下りていただきたいものです。頑張ればできますよ。
問題の第一は、在職者に対する選別として行っている点です。もちろん経営者の視点からすればまず在職者の選良が残留することが望ましいのでしょうが、どう見てもただの脅迫です。もちろん組織の問題を改めることには問題はないわけですが、ドラスティックな変革を求めるというならそれは従前の否定に他なりませんから、そもそも従前の体制の構成員を全員排除するべきです。民間の事業組織というのは包括性を絶対的に要求される住民団体あたりと違ってそれができますので、速やかに全員に三か月分の解雇手当を払って解雇し、他所から代わりの人員を突っ込んでいただきたいものです。それでTwitterの事業が止まったところで誰も困りません。というか、それで困る人が出てくるようでないと、Twitterという事業は継続できません。どうせ日常的な運用以外はすべて根本から検討をやり直すのでしょうし、試験的なプロジェクトは止まって構いません。そうであれば代替人員は最小限で済みますし、解雇後新しい雇用条件での募集に旧従業員が応募する余地も十分あるはずです。その程度にTwitter社が人員の面で水膨れしていた点について、個人的にはマスク氏が正しいと思います。単に、水膨れを許容できないような組織はマニアの集団でしかないよ、水膨れを解消したいならまず水を全て抜くところからだよというだけのことです。消炎剤を塗って腫れが引くのを待つようなのは、処方が違います。半端に残留の条件を示して従業員を騙すことにならないように、ちゃんと頭を冷やして新体制に関与するか考えられるように、筋を通してほしいものです。もちろん、それはマスク氏自身の責ではないにせよ、締結済みの雇用契約の前提である労働条件の変更を踏み絵にするような行為は、契約の当事者としてのTwitter社が労働契約の締結において嘘を吐いたことになります。それを、契約上の解雇条項に従って解雇するならともかく、残ってモーレツに働こうや、そうすりゃ天国に行けるぜなどと言うのであれば、とりあえずは解雇手当とモーレツな勤務の言質を搾取する詐欺師の資格だけは十分ということになるでしょう。まあ、ただの詐欺師ならまだましなんですがね。
問題の第二は、心情的に労働出資を求めている点です。正直労働出資という発想は、悪しきコミュニタリアン的全体主義思想だと言うしかありません。資産を供出する者がメンバーとして労務も提供するというのが資本主義の原則であり、単に報酬を貰って働いているのは使用人です。使用人もメンバーにするというなら、それは資本主義の原則を外れた反体制カルト集団です。そこに既存の従業員を取り込もうとするなら、それは詐欺師の行いです。まず解雇というのはそこもあって、解雇し、過渡的な施策を経て雇用に基づく組織を解消し、Twitter社を全面的に人的会社にしていただきたい。使用人がメンバーだ、メンバーとしてまず応分の責任を果たせと言うならそれが筋です。出資のお金は個人的にマスク氏が貸してあげればよいわけで、別に他人にお金を借りて出資することに法的な制約はありません。もちろんその分は返済しないといけないわけですから、メンバーはそのためにも一生懸命働いてくれるでしょう。この場合問題は株式会社として増資ができなくなること、解雇が難しくなることですが、まず増資については業績さえちゃんとしていれば(もしかするとしていなくても)得体の知れない金融工学的な商品をいくらでも作れること、証券取引市場だってそれを喜んで受け入れることは、それこそアメリカの金融事業者と技術者が実証しています。将来高値で売れると期待できれば無利子でも逆ザヤでも買う人はいますし、流通性などただの仕組みと信用の問題です。解雇は、それこそ出資分について持ち分を貸した金の担保にすれば、下っ端の解雇が問題になるような状況では理由を付けて担保の執行を図ることは可能でしょう。もちろんある従業員が退社したければ、持ち分を会社や他の社員に売り渡して退社手続を請求すればいいわけです。
マスク氏の発想では普通でも、本人が認識している通り米国としては普通ではない熱烈かつ過激な勤務と忠誠心を要求しているわけですから、普通の雇用制度に乗っていたのでは問題が出ることは明らかです。そんな制度は組織内部においてはゴミ箱にポイしちゃってください。もちろんそこで職場に従業員を拘束する気はなく、違う道を行くならいつでもどうぞということだと思いますし、そうであれば気ちがいじみた就職条件でも今のところ選択の問題です。現行事業の再編成と取捨選択にしろ人員規模の縮小にしろ、問題だとは全く思いません。単にそれが、株式会社や賃金労働という制度と適合しないと思っているだけ、やりたいなら制度面での調整をしっかりやって、少なくとも人との関係については新規巻き直しを図り、従来の経緯を清算しておくべきと思っているだけです。

マスク氏の「長時間猛烈に…」に反発 ツイッター数百人退職の意向か
NYTの誤報じゃないかという気もするのですが。別に集団で退職する人が出てきたっておかしくはないですし、それは想定済みだと思います。もっともマスク氏にとって想定済みでも周囲にとっては困惑の種ということは過去にもよくあったことで、上級管理職の一気に辞められたら業務が止まるという悲鳴にマスク氏が態度を軟化させた可能性はあります。そのあたりの混乱を引き起こす道具でしかないので、Twitterという個人の放言とその拡散を促進する仕組みに公共性はないと思っていますし、マスク氏のテコ入れでTwitterがそれにふさわしい胡散臭いものという位置づけに変わってくれればそれが望ましいのです。
とはいえ、数百名の一斉退職の意向程度で態度を翻すようではむしろ情けないわけで、マスク氏には悪い血を全て入れ替える覚悟で挑んでいただきたいですね。ここでリベラル系旧メディアが喜ぶような行動をしていては今後に差支えが出かねないので、賃労働をする従業員など一束いくらの使い捨てであるということを、個人相手だけでなく組織全体を相手にしてもちゃんと示してほしいものです。まあ、半年後に本社に勤続一年以上の人が何人残っているか、知るのが楽しみです。

ツイッター、さらに1200人が退職か 安全対策トップも 米報道
それこそ想定通り、順調に進んでいるというやつですね。もちろんTwitterに今のような安全対策など不要であり、真っ先に廃止される事業部のはずです。もちろん長く利用者であったマスク氏のことですから、より適切な安全対策の構想も持っていることでしょう。桶は一度空にするべきです。従業員が辞めるから懸念などというのは、古い常識の人の発想に過ぎません。

■2022年11月17日(木)  ドタコメバラエティーが民主主義?
BBC会長「公共メディアへの投資は民主主義への投資」 東京で講演
「信用できる独立した」というが主観的に担保されないから公共と認めてもらえず、投資の対象にならないのでは?
そもそもこれだと報道や教養番組に偏っていて、BBCにしろNHKにしろ十八番と言える文化番組や劇を、じゃあなんで公共メディアが制作配信するのか、そこの支出は切り詰めろという話になりはしませんか?もちろん個人的にはNHKがバラエティーやスポーツ中継、歌番組を制作配信する意義は認めませんが、公共メディアにふさわしいコンテンツは何かという問題を外側から制約してよいのか、それとも公共メディア組織の内部で議論し提示するべきものなのか、その議論は私の個人的な価値判断とは別でしょう。
もちろん「公共」メディアである以上、少なくともその議論はあからさまに外部に曝されないといけません。内輪でごちゃごちゃ議論してこれが結論ですと出されても困ります。その上で、その議論や結論が公共の名にふさわしいかを決めるのは、数の比率から言ってその外側にいる人たちです。偏りのない代表などというものを有識者としては選びようがない(有識である時点で偏っている)以上、彼らは有識者として判断を委ねられたのではなく、内部の人として公共の名のもとに負担を期待される外部を説得するよう求められるのです。この意味では、メディアも含めて、そういう「公共」が今時あるのかという点がそもそも問題ですが、まあ、あると前提しないとそもそも議論が成立しません。なかった場合、おそらく説得は失敗し、「公共」メディア自体が破綻するのでしょう。

■2022年11月17日(木)  なぜ電気自動車に出力に応じて課税しないといけないのか
EVの自動車税、増税へ見直し案浮上 「普及後押し」との兼ね合いは
課税はともかくとして、出力に応じてという発想がおかしいと思うのですが。これが国交省あたりが道路維持の観点で言い出すならまだしもですが、いくら地方税がらみとはいえ総務省が言いますか。まして大出力の大型自動車は、乗用にしろ貨物運送用にしろ普及の要でしょう。低出力の小型車、特に乗用車は、この機にむしろ都市から排除したいくらいなのではないでしょうか。ならば出力を問わず車両1台当たり定額が基本です。財務省あたりが担税能力を言い出すのはわかるとして、では自動車への課税において原動機の性能に比例した担税能力が想定できるのでしょうか。むしろ低出力小型車を運用している人にこそ担税能力があるのではないでしょうか。大型車は道路に負担をかけるというなら、その大型車こそが公共的な利便性が高く、むしろ小型車がやたらと道路を使う方が問題という観点もあってしかるべきでしょう。もちろん毎日数百台のトラックが通るような路線は、道路を整備するのではなくモーダルシフトを検討するべきではあります。公共交通を頻繁運行させて積み替えの手間を最小限にするよう工夫するという発想も求められるはずです。
総務省が提案すべきは、地方自治体が個別に対象や税額を設定する自動車交通税ではないかと思います。自家用小型車がないとそもそも生活が立ち行かないような、かといって公共交通の整備のしようがないような地域がある一方で、自動車専用道路の通行料金を嫌っての通過需要に悩まされている地域もあります。国土交通省からは広域交通網の整備という視点しか出てきようがないわけですから、総務省は地域ごとの交通ニーズの違いと負担の適正化という視点を持つべきだと思います。その上で、例えば有料自動車専用道路通行の間接課税や沿線自治体間の税の分配を論じるべきではないでしょうか。
鉄道にしろ道路にしろ、とにかく通ってさえいれば利便性がある時代は終わりました。長期にわたる状況の反映も含めて、関係者の間での利害の調整を行う制度 - 現行のそれが計画段階で負担部分を確定させて事業者の便宜を図るものでしかないことは言うまでもなく、それ自体が時代遅れの制度です - を提示していくのが、地方自治制度と地方の利害の管理を管轄する総務省の役割ではないかと思います。

■2022年11月16日(水)  コストなのは間違いないけれど行政が負担してしかるべきコスト
公文書開示の仕事は「行政コスト」なのか 請求手数料徴収を考える
政策実施とは関係ないわけですから、コストであること自体は否定できません。
とはいえそこでコストだ、手数料を払えと言ってしまうことは、自分たちが仕事ぶりを監視される側だということを認識していない、殿様的発想になっています。公的制度は市民に事業に応じて様々な資料を整備し備え付けるよう取り決めており、期間ごとにそれらを公的機関に提出し、あるいは公的機関が必要と判断したときに提出を命じてきたり調べに来て仕事の邪魔になることを意に介せずそこらじゅうをひっくり返していったりします。もちろん資料の整備や閲覧対応は業務コストだから手数料を寄越せとか、仕事の邪魔しやがって、損害賠償しろと言っても聞く耳は持たれません。手数料じみたものがあるとすれば、それこそ青色申告の控除くらいではないかと思います。それは各市民が事業において社会的に適切なふるまいをしているかどうかを確認するためのものであり、その監視が行政機関に委任されているわけですから、むしろ適切なふるまいをしているという説明責任が各市民にあるとみなされます。行政公文書の公開も同じ事で、この場合行政機関の中に監察部を置いても不十分ですから、市民が請求できるわけです。そうである以上、むしろ行政機関は、自らの振る舞いが適切であることを証明するために、またもちろん内部で行政が的確に行われることを担保するための検証手段として、様々な公文書を確実に検索可能にしておくべきですし、閲覧や電子ファイルとしての送信までは手数料を取るべきではないでしょう。もちろん閲覧者が機器を持ち込んでその場でコピーを取りたいと申し出た場合は、電気代の請求程度で認めるべきでしょう。資料の黒塗り対応は許されず、それをするならそもそも元の公文書にその情報が含まれていてはいけないでしょう。もちろん行政機関の行動の過程で集積される情報は、行政過程の検証だけでなく、その時点の社会のスナップショットとして有用であることもあります。とはいえそんな用途をいちいち区別していてはかえって手間が増えるのであり、せいぜい司法的是正手続での提出を除外したNDAを要求すれば済むことでしょう。公文書開示請求者が調査結果を公表するにしても、それは公益に即して行うことが前提ですから、こういうことをしたいから認めて欲しいという審査請求手続に馴染みますし、そこで第三者機関が適正な手数料を取って審査をすれば済むことです。もちろん個人情報保護などの関係であれば、公文書開示請求者が本人から公開の許可を取るべき筋合いです。内容の公益性と事情によっては許可を取らずに公開し、曝された側が公文書開示請求者を訴えることもあり得ますが、その場合公文書開示請求者が裁判で公益性を主張することになります。

■2022年11月16日(水)  ネタとして消化不良かなあ
「水槽PCケース」を試してみたら癒やされた。でもリスクが釣り合わない
まあ、ネタなんであれですけど、リスクが気になるならフロリナートとソフトレジンの水草模型を突っ込んでアクアリウム風ジオラマとして運用すればいい気はします。そもそも仕様として真面目に使うものとも思えませんし。そこは記事としてもわかったうえで書いているので、やはり徹頭徹尾ネタとして楽しむのが筋です。
とはいえ受注生産ではないのだとすれば一定数の需要があると思って作っているわけで、その発想自体がネタですね。その観点からネタとして仕様の不徹底ぶりを評することは可能で、PC部分の水濡れリスクや水槽の環境維持の観点からの指摘はもちろん、PCを仕込むのにそのPCを水槽部分のコンロトーラーとして使えそうにないとはどういうことか(ポンプに制御入出力ポートがあるようには見えません)という批評も可能でしょう。
もちろんその場合、なら自分ならどうするかという方向に走ってしまうのも、このメディアとしてはありです。シートを敷くとイルミネーションが見えないというならシートの上に照明を仕込む透明ケースを挟めばいいわけですし、ケースも防水に留意した構造にすることは可能でしょう。十分な能力の水冷化キットを買ってきて仕込み、ケースの開口部をシールする程度なら、それこそアキバで間に合う話です。行く店さえ間違えなければ外置きのチラーだって取り込めるでしょう。問題は制御に使う場合PCに外部入出力を仕込むよりARMベースのlinuxボードコンピューターを使う方が楽であることで、これを使ってしまうとそもそもPCのケースである必然性がなくなってしまいます。まあ、別にPCのケースとして使うこと自体は必然ではないので、ケースの中にlinuxボードコンピューターを仕込んでLANにつないだっていいわけですが。でもネタとしてどうなのかという気はしますね。PCIeの先につながっているのはだいたいマイコンなんで、今さら気にするかという話ではあります。

■2022年11月16日(水)  言葉が変わっちゃいますけど
De Cecco、スーパーで見かけるようになったので買ってみたわけですが。
普通のパッケージとしてはちゃんと読めます。昔親にイタリアで買ったパスタをお土産に渡したら、調理方法がイタリア語でわからないと言われたことがありますが、少なくともこのパッケージは、AL DENTE(アルデンテ)というパスタ界隈では相当有名な言葉を知っていれば茹で時間はわかります。
しかし、背面の日本向けシールを見て驚愕しました。「ディチェコ」、「フスィリ」はありえません。ceをチェと表記しているのは良いとして、イタリア語で子音文字が二つ並んで表記された場合撥音か長音になります。つまりceccoはチェッコ、silliはシッリと書くのが適切です。またsiは、まあ、土地によってはスィと発音するのかもしれません。標準的な表記では母音を伴う語頭以外のsは濁る、つまりsiの場合ジになるはずですが、日本はpisaをピサと読む(現地の発音ではピザに近いのだけれど、現地の人にそう言われて、それだと日本語だとピッツァ - 一般的には英語由来のピザと呼称する - と区別がつかないと反論した)ので、シとかスィもあり得ないとは言いません。とはいえせめて「フスィッリ」にして欲しいものです。しかし、これらはまあ、表記の揺れ程度の問題です。一番の問題は「De」です。これはラテン語の前置詞で、よくロマンス語圏出身者の氏の一部として、「〜出身の」といった意味合いで出て来ます。一方イタリア語にはカタカナで標準的に「ディ」と表記される「di」という前置詞があります。まあ、di Ceccoでも意味としては通じそうな気がしますが、さすがに固有名詞としてラテン語とイタリア語を混同したらまずいでしょう。一部の指摘のように英語でそう読むのかというと、英語では普通deceという綴りはディスィーあるいはディセと読むのではないでしょうか。特殊例としてラテン語由来で10を意味するdecemデケムはありますが、本来これに由来するDecemberがディセンバーとなっているように、英語では本来deceはディセと読むのだと思います。つまりデチェッコかディセッコ、あるいは撥音でない形ならまあ、後者はイタリア語じゃないと思えばありではあるかもしれません。もちろん発音がいろいろ混じって頓珍漢なことになる例は結構あるので、ディチェコという発音が英語圏であり得ないとまでは言いませんが、どっちかと言えばメリケンはアルファベットの発音が満足にできないんだぜ的な意味合いではないかと思います。つまり、イギリス人がDE CECCOの綴りをディセッコと呼んで、アメリカ人はこれをディチェコって読むんだぜ、学がないよなあとくさす類です。イタリア語でCeccoはチェッコと読むんだというのは通りません。それならDeはデと読むべきだからです。
なんとなく重たいものを食べる気にならず鶏がらスープでフジッリを食べるかと思ったら、うっかりパッケージの背面を見て表記の違和感に目が覚めてしまいました。和訳のラベルを貼ること自体は構いませんが、さすがにあれをディチェコとかフスィリとか読む日本人が量産されると恥ずかしいです。製品名を「乾燥パスタ」とでもするならともかく、アルファベットの綴りを音訳するならせめて専門家に確認して欲しいものです。

■2022年11月15日(火)  Twitterに似合いの顛末ではある
TwitterのマスクCEO、自分に反論したアプリ担当者との“会話”で「彼はクビだ」とツイート
Twitterというツールがそういう話をするのに適切かどうかはともかくとして、持ち主代表として事業組織を馴致するのは正当な行為でしょうし、解雇されたのは自業自得かなという気はします。もっとも解雇するならなんか製品の問題について愚痴を垂れ流していないで、まずはソフトウェアの開発基準の改訂を社内の指示としてチームに降ろすべきですし、適切な対応がなされないと判断したならチームを丸ごと解雇して、自分で作るか、せめてチームを入れ替えるべきではあったでしょう。こうすればいいとわかっているということはそういうことで、「では私の過ちを正してください。正解は? TwitterはAndroid端末で非常に遅い。それを改善するためにあなたは何をした?」などと尋ねたこと自体経営者として失格でしょう。こういう幼稚な言い返しこそが確信に発しない暴政です。まず行動し、何か月かして、私がアンドロイド版の端末ソフトの製作チームを入れ替えたことで新しい端末ソフトは素晴らしいパフォーマンスを発揮したと宣言することが、オーナー経営者としてまっとうな在り方です。マスク氏が対峙するのは旧経営方針に安住するTwitter社内の官僚組織なのでしょうし、それがTwitterの事業価値を損ねているというのが経営者としてのマスク氏の主張なのでしょうから、この6年間のTwitterは全て誤っていたと言っておけば済むことです。もちろん雇われ経営者を含めた事業組織の社風とマスク氏の経営方針のどちらが正しいかという論点はあるわけですが、それはTwitterが事業として発展するか終息するかで判断するしかありません。投じた資金(それは自己資産かもしれませんし借り入れたものかもしれませんが)にそれだけの責任を負っているのがオーナー経営者であり、重鎮であれ使用人と言葉で戯れて相手を貶めている暇があったらすることはいくらでもあります。
まあ、所詮SNS事業なので、関係者がこういったメンタリティーなのは理解はできます。説得や議論ですらなく、おしゃべりと報知の垂れ流しを公共の対話だと思っているのでしょう。

■2022年11月15日(火)  また文化か
「まんだらけ」にアダルト商品販売停止処分 「不可解」と会社側
ビニ本「何と温かみと風情が」 まんだらけ、行政処分に追加コメント
商人が官憲の横暴に何かと文化を持ち出して抗弁する様子は見るに堪えません。猥褻物がらみは古典的にも事業者の主張する文化と官憲の主張する風俗規制が対立してきた分野ではありますが、作家と出版社ならまだしも古書商が漫然と猥褻図画を販売して文化を標榜して官憲を批判することに正当性は全く感じられません。売り場を分けておけばいいだけでしょうに。
まんだらけを含む一部の書籍流通業者は、やはり猥褻図画に当たる表現を多数含む同人系出版物の流通にも功績があり、ありていに言って警視庁からは目の敵にされている気はしますので、起訴猶予で行政処分という経過に反発すること自体は理解はできます。猶予になるような事案を送検するんじゃない、迷惑だ、行政処分はもっと迷惑だという言い分はもっともです。ただし検察の用語として起訴猶予と不起訴は違いますし、送検はともかく起訴やその猶予も含めた扱いは、送致してきた警察の判断を尊重する例が多いにせよ、警視庁がお達しできるものではありません。またそのような表現を嗜好し制作することはともかく、不特定多数に流通させ市場を整備することが文化(の発展につながる)という発想は、正直理解できる範囲から200万光年ほど離れている気がします。売れると思った、売りたい、それだけでしょうし、そう言ったらいいのです。制作することとそれを売りさばいて稼ぐことは全く別です。猥褻図画であろうとなかろうとそういうものです。他人に開示(公表)することと営利流通の区別は相当曖昧ですが、少なくともエロイラストを描いて例えば学校の美術の先生(サークルのメンバーでもいいですが)に見せたところで警察は取り締まりには来ません。それを不特定多数の目に触れるところに曝し、あるいは有償無償に関わらず頒布する、あるいは頒布の目的をもって所持すると取り締まりに来るのです。そこの境界線は明確であろうと思います。古書商がどちらに属するかは、言うまでもありません。「昨今のWeb上に氾濫(はんらん)しておりますわいせつ動画などに比べますと、昭和のビニ本の何と温かみや風情があることでしょうか。」などという主張は厚顔無恥の誹りを免れません。こういうことを言いたいなら古書商などせず文化展示施設でも運営していればいいのです。
一方で、制作に関わる現代的な論点として、表現の手段として人を使うことの是非というのはあります。主として美術や舞台表現ないしは音声による上演に絡んで、人をモデルにし、あるいは人を用いて上演することが、どこまで許されるかというものです。例え想像であっても自分という人格の表象を用いて猥褻表現を制作するなど許しがたいという人格権や名誉の問題もありますし、猥褻に値する表現を人を用いて行うことは用いられた人の人権を侵害している、まして子供で行うのはもってのほかだという論点もあります。個人的にはそもそも人を表現の手段とすること自体が同意はあっても人権侵害だと思いますが、人を用いて何かをしていいというのは現代の常識的価値観ですので、その場合線引きは簡単ではないでしょう。昔は表現の主体の要求が絶対とされていましたが、その線引きをせめて当事者が納得する形でするために、いろいろとアドバイザーとかコンサルタントなどという仕組みも出てきているわけです。これを表現の規制と見るか上演者やモデルの人権の保護と見るか、正直画像なら相当自由に作れるこのご時世にわざわざ人を使ってする表現が自由である必要があるのかとは思いますが、表現者の手段に対するこだわりにも一定の理解は及ぼしうるとは思います。このとき、猥褻な表現自体が問題とされているのではなく、人を使うということが問題にされている点は、表現主体が留意するべきことです。別に殺人や死体損壊を性的含意として文章で表現し、あるいは想像のみを基に画像として描くことは、誰かの身体を損なっているとは言えません。具体的な個人を指示し、あるいは連想しうる表現だった場合にその個人の人格権を侵害していないかというのはまた別ですが、少なくとも公表しない限り、侵害が発生したとは言えません。しかし、モデルや上演者として具体的な個人を使った場合は、その行為自体が他者の身体を侵害しています。ヌード写真の類は、いかに芸術性なりがあろうとも、手段として人の身体を用いている(人物写真というのはそういう表現です)時点で被写体の身体を侵害していると言うしかありません。演劇、楽曲の生演奏、モデルを用いた人物絵画、人物写真、映画、音読などは、仮に対象が自由な契約の主体として特定の行為を行うことについて同意しているのだとしても、そのような侵害を内包する表現手段です。この時表現の自由が制約されることは当然でしょう。物についてこうした侵害が成り立ちえないことを考えれば、例えば野菜を自分の体の穴に突っ込む行為において、その野菜をどのように入手したかは問われても野菜自体がそのように扱われ、あるいはその結果損壊されうることに同意したかどうかは問われないのですから(もちろん野菜を自分の体の穴に突っ込む行為を性的含意をもって行うことが品性に悖る行為でないかどうかは別に問われる可能性があります)、人を対象としているから制約を受けることはむしろわかっている方が当然です。つまり公表を前提としない範囲であれ表現の自由を全面的に主張したいなら自分以外の人の身体を対象としない形で行うべきで、それ以外の場合対象とする人の同意を事前に得ておくべきなのはもちろん、その同意が撤回されうるものであること、また行為の内容によっては同意があってすらも許容されないことを受け入れなければなりません。その弁えなしに行えば文化だ芸術だという弁解は通用しない、公序良俗に照らして一般に受け入れられる線引きの下で表現を行うべきだ、そこが文化と良俗の対立点であろうかと思います。

■2022年11月14日(月)  言うに事欠いてリスクを増やす提案をしてどうする
マイナンバーのシステム「古い」 財務省が2.6倍のコスト増指摘
「古い」という指摘自体は否定しようがありませんが、「民間並みコストの実現に向けたシステム構成の見直しや業務改革をデジタル庁が主導して実施するべきではないか」とはばかげています。そもそも民間並みのコストでできることであれば民間に移管すれば済むだけのことでしょう。それができるシステムだとでも言うつもりでしょうか。クラウドの利用だって同じことで、メッセージングアプリのデータが外国から見られる状態になっていただけできゃあきゃあ騒ぐような状況でクラウドサービスを利用するなどリスク感覚がないとしか思えません。いっそ財務省は人員を含めてクラウド化しますか?国税庁と財務局を除けば実働半年までは減らせるでしょうし、それなら派遣で十分だし漏れると人権侵害になるような機微情報だってないでしょうから設備も含めて外注もできますよね。

■2022年11月12日(土)  広場の代わりにマスコミがあるはず
「今日もどこかで誰かが、声を上げている」 道警ヤジ排除問題を追う
それをちゃんと取り上げず、直訴の真似かなんなのか、街頭演説中の政治家にヤジを飛ばす暴挙にまで追い詰めたのがマスコミですね。もちろん何かあったらとピリピリしている警察の前でことさらに過激な行動をして見せた時点で本人たちの問題ですし、そもそも日本は足尾銅山鉱毒事件のころのようにまともに声を上げることすらできない状況ではないはずで、さらに直接政治家にヤジを飛ばして聞くなどとどうして思いつくのか謎ですが、それにしても、言いたいことがある人がいたら聞きに言ってそれを広く伝えるというのは、本来報道機関のすることのはずです。それを「ヤジと民主主義」というとらえ方をするのは、何か勘違いをしていないでしょうか。
政治家の街頭演説自体たいした意味はなくむしろ治安に危機を及ぼす暴挙ですが、それにヤジを飛ばすとなれば立派な騒憂です。特に言うべきことがなく感情的にヤジを飛ばすくらいしかしなかったギリシャの普通のポリス市民でもあるまいし、現代なら放送局を焚きつけて公開のパネルディスカッションを求めるくらいの芸はできるのですし、断ってきたら反論できないから逃げたと言いふらせば済みます。声を上げる一番まっとうな方法は、もちろん全国の小選挙区に候補者を立てて衆議院議員選挙に打って出ることでしょう。公論とは誰彼問わず集まって広場で罵倒しあうことではなく、少なくとも平穏な手段で意見を表明することが前提です。確かに現代に政治家とそれ以外の市民が対峙する広場はありませんが、もっとスマートな方法ならいくらでもあるのですし、そもそもそれを提供するのだってマスコミの役割です。それを民主主義の問題と称し、警察が街頭でヤジを規制したレベルに矮小化するのは果たしてまっとうな言論でしょうか。
もちろん現代の政治家が有権者の声を聞く耳を持っているなどと言う気はありません。おそらく持っていませんし、それを届かせるにはひと工夫必要でしょう。しかし適切な工夫はヤジではあり得ません。政治家の街頭演説会は議論の場ではありません。そこは公開された適切な議論の場ではなく、そこでどんな話を交わそうと政治家はその内容を無視できますし、その場をコントロールするのは政治家の護衛です。そして護衛の仕事は、護衛している政治家に安全に言うことを言わせて宿舎に送り届け、無事に本拠地に帰ってもらうことです。ヤジを投げかけようとした人たちを排除した道警は立派に仕事をしたのであり、上げられている声を拾い上げ損ねていたという意味で仕事をしていない報道関係者が非難するべき対象とは思いません。

■2022年11月12日(土)  サックスデュオでもあるのかな
T-SQUARE YEAR-END SPECIAL 2022 “WELCOME BACK! 本田雅人” @日本橋三井ホール 2DAYS 本日より一般販売開始!
あれ?というかまあ、スクエアを売っていくには合理的なやり方だと思いますが、だったらなんで今まであまり出てきた印象がなかったのかな?という気はします。いささかタイミングが悪いというか、いかにも安藤さんが退団して和泉さんが亡くなったからという印象を与えかねないと思います。
まあ、そんな売り手の幕裏の詮索はどうでもいいわけで、スクエアはストリングスよりも管やシンセを厚くすると映える曲のイメージが強いので、例えばサックスデュオのような方向はたまにあってもいいと思います。耳が慣れてくるとサックスやウインドシンセの音と後ろで和泉さんあたりが乗せてくるホーンやリードの音が聞き分けられるわけで、バックとして普段はシンセで入れているストリングスや管の生音を入れている作品もありますし(シンセと勘違いされたってインタビューで愚痴ってましたが)、本田さんや宮崎さんのWELCOME BACKは、和泉さんの生ピアノに近い、消化しやすい新路線を出せそうに思えます。どうせ二人バンドで他はサポートだゲストだなので、その機会ごとに、これスクエアか?と思うようなものも含めて色々やってみると面白そうですね。管が通常編成にあるというのは、ジャズ的な音がキーボードのみのバンドと違って普段の色と挑戦を同居させやすい、と、思っているのですが。正直CSのファイトマンとか朝焼けを聞くと、向谷さんと河野さんのシンセの上で伊東さんが目立ってます。

■2022年11月11日(金)  結局会社などというものは擬制でしかないわけで
見破れない? 知らない間に会社乗っ取り 法務局の審査では「限界」
これでは登記など意味がない気もしますが、受付段階での手続的な証明の方法がない以上仕方がないのでしょうね。下手に登記段階で調査などしていたら、むしろ適正な変更を遅延させかねないわけですし。
もちろん経営者にも株主にも、こういうことが起きないよう目を配っておく義務というのはあるわけです。登記であれば確認は絶対できるわけですし、証券とか登記といった制度が「証明はするので必要なら申し立ててください」というものである以上、ある程度頻繁にチェックしておかしな内容になっていたら訂正を申し立てるという行動はむしろ制度が期待することでしょう。
とはいえ、だったら法務局はもっと密な分布をしているべきという気はします。経営者が日常的にそうした目配りができる程度に近所にあるべきで、20世紀の前半のように会社が都市にしかなかった時代ではとっくになくなっている以上、最低限地方裁判所ごとに一つは維持すべきでしょうし、当然地裁支部ごとに支所くらいはあるべきです。それが最低限であり、人が住んでいる所であればどこにでもあるくらいが望ましいわけですが、法務局だけあっても仕方がないという話もあって、少なくとも公証人くらいはいないと機能しないですね。そして公証人というのは手数料収入で稼いでいるわけで、そもそも手数料を取るような案件自体があまり発生しないようなところにはいません。
なお、閲覧くらいネットでいいじゃないかというわけにはこの場合いきません。見ているものが真正なものであるという信頼が複製が難しいことに立脚しているため、そもそもカジュアルな複製しか見られないネットでの閲覧には意味がないのです。そのあたりの対応を真面目にやるとすれば、それこそある程度重い手続を頻繁にすることを前提に(手続自体が正当な主体によって適正に行われることの保証が必要なので書類だけでは済まない形で相当に重くなるはずです)事情に関わらず期間内は有効というお墨付きを出してしまうあたりでしょうか。もっともこうしてしまうと、おそらく公開株式会社など存立が危うくなりそうですが。
いずれにせよ、存在してもいないものを存在しているように見せかけるというのは、それだけ困難なことだということです。なにしろそもそも存在していないわけですから、存在しているという証明は原理的には不可能です。そこを誤魔化して存在しているように見せかけているので、割り込んで都合の良いように誤魔化すことがおそらく原理的にできてしまいます。不在所有などもこの類で、逆にそんなものが強固に機能してしまえる時点で、人間の認識など全くあてにならないことのいい証明と言えるでしょう。

■2022年11月11日(金)  あるあるではあるんですけどね
実験でメタノール誤使用して引火 児童4人がやけど、教諭を書類送検
まあ、メタノールを使ったことよりは直火にかけてしかも一斗缶からビーカーに直接注ぎ足そうとしたことが原因ではないかと思いますが、業務上過失傷害は妥当なところでしょうね。うっかりやってしまいがちなことではあるのですが、可燃物を取り扱う際の注意に欠けていることは明白ですし、しかも物質を間違えさらに状況が子供を相手の指導の最中だったというのでは、書類送検は仕方ないと思います。というか、子供がエタノールだと思って舐めたらどうするつもりだったんでしょうかね?というのが記事の趣旨かもしれませんね。
工場レベルでこの手の重過失をやるのはよほどの事態ですが、作業場や教室、実験室のような小規模な場でチェックをする人手が十分にない状況だと、それこそ湯煎するお湯を沸かす手間を避けるなどしてついやってしまいがちです。また思い込みで有機溶剤を間違うというのもありがちです。「普通の」手順は最低5人くらいでチェックを繰り返しながら作業に専念すること、その中に一人監督役がいること、全員が事前に作業手順を少なくとも知識として熟知していることを前提にしているので、小規模な作業だと重く感じがちです。その差を認識したうえで、やはり危険な作業を行うのだということに注意しないといけないのでしょう。

■2022年11月10日(木)  放送法の趣旨はNHKが日本国内にNHKの設備で放送する番組に広告を入れないという趣旨のような気がしますが
ネトフリがNHK番組にCM 基準抵触の恐れ「申し入れしたい」
問題になったということは、NHKのチャンネルとして視聴できる形の番組に広告が入っていたのでしょうか。NHKは番組単位で売り切りもやっていたと思うのですが、この場合は少なくとも広告を入れるかどうかも含めた条件についてちゃんと詰めていたはずですし、仮にNHKの意図に反して広告が入ったとしても、放映権を売ったものですからどのようなビジネスモデルの中で放映するかは買った側の問題であり、放送法が絡むことにはならないはずです。もっともその場合受信料で制作した番組の放映権を売ること自体は問題になりそうな気がしますが、そうやってでも受信料を下げろという話になっている以上、問題はないのでしょう。
もっとも、ではNHKがネットフリックスで番組配信をしていいのかというのはまた別の問題な気がします。こういう形になったネットフリックス側の論理としては、付加される広告はあくまでもネットフリックス視聴料に関わるもので、NHKチャンネルの視聴に関わるものではない以上、NHKが広告を入れていることにはならないというものではないでしょうか。もちろんNHKとしてはネットフリックスがNHKの提供した番組に広告を付加することは絶対ないという理解の上で契約を結んだのだとは思いますが、契約に明文でそう書いてあればともかく、次のような状況を考えてみればNHK番組だからと言って広告が入らないとは限らないことは明白でしょう。視聴者がテレビ受像機をレンタルし、かつレンタル料は番組を表示する際に貸出側が別途提供する広告の広告料で賄われるとします。一時的に受像機内部にデータを記録してから広告動画と組み合わせて流せばいいわけですから、番組の放映時間がずれることを除けば、技術的には十分可能な形態です。ではこのテレビ受像機やレンタル事業は放送法違反なのでしょうか。

ネトフリ広告付きプラン「唐突で強引、不快」 民放連会長が苦言
どうもこれは、文脈から言って、番組提供側が間抜けなのかもしれません。やって欲しくないならちゃんとやってはだめと契約に書いておくべきで、もちろんネットフリックス側も、契約にこういうことをやってはいけないと書いてあれば、せいぜい抜け道を探すくらいだったはずです。やっていけないと書いていない以上はやっていいというのがビジネスの常識です。「唐突で強引、不快」に思っても、契約上、あるいは立場からして番組の引き上げができないのであれば、ネットフリックスの勝ち、つまり民放側は何らかのペナルティーを引き受けて契約を破棄するか、不満を持ちつつも契約を維持するかのどちらかになります。間抜けですね。一般消費者ならまだしも株式会社の取締役だのがこれをやるのは、道義的に許されません。株主の資産を損なう恐れがあるので、即刻解任が検討されるべきですし、そんなことも知らずに取締役なりをやっていたのでは禁治産者にしてそういった他人の資産を預かり事務執行を代行する職から追放することも考えないといけないでしょう。

■2022年11月10日(木)  これまでがただの水膨れだと思いますが
米IT大手に人員抑制の波 成長に転機、メタは1万人超の削減
むしろ金にものを言わせて占有してきた技術者を開放したとも言えるわけで、いいことではないでしょうか。TwitterやMetaに現状希少な資源であるところのIT技術者を数百人も占有する意義があるとは到底思われず、より重要な需要に基づくポストに就いてもらうことが望ましいでしょう。もちろんとにかくできた仕事に人を付ける的ないい加減な人員増を正当化する状況ではなくなったことは確かですが、むしろ事業としては効率的に成長する可能性があります。個人的にはこの二社はどっちも事業として消滅して欲しいくらいですが、人員規模の削減を「成長に転機」と評価する正当性が示されるよりはこの二社が売り上げ規模や利益率の面で成長する方がましというものです。
もちろんTwitterやMetaは株式会社であってその従業員は人的会社の社員ではありませんので、メンバーではなく使用人に過ぎません。事業においてポスト自体が廃止され、適切な解雇補償がなされるのであれば、せいぜいが同じ仕事をやっているあいつが残って俺が解雇されるのはなんでだというレベルの話以上はできません。また人員規模について交渉すべき従業員団体がない場合は、経営者の決定を是認するしかないでしょう。もちろん従業員団体がある場合でも、このポストは不要だとか事業としての適正人員規模は部署、ポストごとにこの程度だという判断は経営者のそれがベースであるべきです。
一方で、では他社のIT技術職でTwitter社やMeta社並みの処遇や就業環境を享受できるかというと難しいところがあり、むしろそこが公論として問われるべきです。専門技術者にちゃんと仕事をして欲しいなら、経営者は仕事ができる環境を用意するべきであり、報酬と業務における全面的な信認は最低限必要でしょう。そこらの管理職よりもことIT関連業務については信頼できると判断して雇用する以上予算はもちろん社内で施策への反対が出ればそれを押さえ込んで業務の実施を支援することも必要です。もちろんそれを与えるべき人物を選ぶ目を経営者は持っているはずであり、当然に問題が起きた場合株主や監督当局から任命責任を追及されることがありえます。

■2022年11月10日(木)  せめて鳥取県の年間予算丸ごと分くらい出ませんか?
原発交付金を倍増10億円、隣接県にも最大5億円 再稼働の同意促す
確かに経産省はけち臭いですね。町村でもあるまいし、今時市や都道府県なら年10億円ぽっちという感覚だと思うのですが。もちろん稼ぐ大変さは知っているにせよ、それで何ができるか、有権者の説得にどれだけ手間がかかるかを思えば、まったくつり合いが取れない、桁が一つか二つ少ないと思うのです。公民館を一軒建てたら終わりじゃないですかね?
ちなみに鳥取県の平成19年度歳入総額が4000億円に達しない程度です。おおむね国家予算の1パーセントいかない程度ですが、これを丸抱えするくらいで初めて、ちゃんとあなたたちの未来も含めて買い取ったのだから何があっても文句は言わせないと言えるのだと思います。

■2022年11月10日(木)  こういうのは企業倫理として問題ないのかね
陸上育ちのバナメイエビ、仕掛けたのは関西電力「循環型」養殖拡大へ
これを処理水でやって出荷するというわけには…いかないでしょうね。
とはいえ何をやってるんでしょうか。内容がおかしいとはさほど思いませんが、特権的地位を持つ電力会社が関連事業としてやることかとは思います。子会社だからいいなどという話がおかしいのはもちろん、遊んでないで真面目に仕事をして欲しいというのが正直なところです。

■2022年11月10日(木)  教員のできる人ならたくさんポスドクや特任准教授、特任助教なんかでいると思いますが
データサイエンス、文系学部も4分の1が必修化 課題は教員の確保
確保のため基準を緩めるようなことはしないでほしいですね。むしろこの機会に、文系学部なりその一般教養担当の正規教員なりを工学博士と理学博士で制圧するのが良いと思います。なにしろデータサイエンス分野だけでも、大学教員を志望して頑張っている博士号持ちはたくさんいるでしょう。必修科目の役に立たない教員は特任にして、ちゃんと必要な教科を担当できる人を正規の教員にしてはいかがでしょうか。
もちろん、その上で5年以内に文学博士号なりを取るようにというのはありだと思いますが。

■2022年11月10日(木)  究極的には責任回避を排除する点で倫理的ではあるのですが
「無人機は後悔しない残酷兵器」 警鐘ならす池内・名古屋大名誉教授
これは人間であっても言えることで、池内名誉教授の指摘は職務に忠実で割り切りの上手な軍人にも当てはまることだと思います。もちろんそれが「残酷な」兵器であるという指摘もその通りでしょう。まさに危害を加える判断を下した人の手の延長であるのに、危害を加える判断を下した人を殺人や破壊の事実から遠ざける点で、ホロコーストを実施した官僚組織にも比すべき残酷な機械に他なりません。
とはいえ、倫理的な是非はさておき、国家という装置にはこの種の残酷な機構が必須です。例え防衛や撃退のためであれ殺人や破壊に違いはなく、自らにそれを行う意思を持つ敵の兵であり兵器であるとしても、他に危害を加えることを悪とするならば倫理的な許容の余地はありません。そのような残酷な存在が国家であり、また個人的には人間であり人間の集団であると思います。それは神の御手をもってすら拭うことのできない、初めのさらにその前から存在した原罪に他ならないでしょう。おそらくそれを断罪するのであれば人類は自滅のみが許される選択肢であろうとすら思います。したがって、個人の倫理観としてはともかく、世論としてそれを排除する倫理はおかしいと思います。
ボタンを押したら勝手に飛んで行って都市を破壊して更地にしてくる兵器というのは、ある意味夢の兵器です。それは兵に殺人と破壊の悪を着せることなく平和に対する戦争犯罪人が自らの責任をもって凶行を完了させる人道的な兵器と言えます。部下が勝手にやりましたなどという言い訳は全く通じません。誤動作をする可能性のある仕組みを構築し、実際に誤動作を発生せしめたという点も含めて決定権者の責任です。指導者が自らA級戦犯として断罪されるという認識のもとに国家のために破壊を実行するという点で、自動兵器は全く倫理的な兵器です。

■2022年11月10日(木)  目立たないと困る、もっとプラスに評価されることで目立ちたいというのもわかるのですが
「死刑のはんこ押す時だけニュースになる地味な役職」 葉梨法相発言
むしろ大臣なんてニュースにならない方がいい、その方が仕事をしていると思うのですが、政治家としては別というのはその通りではあります。
もちろん法務省は法制度全体を管理し適切な運用を図る重要な官庁ですが、それだけに基本的には官僚が淡々と執行に当たる部門であって、法務大臣が話題になるというのは法制度に重大な問題が生じた場合に限られます。むしろ外局の検事総長の方が話題になりやすいくらいでしょう。とはいえ大臣というのは国会の僕として日常的な法執行を統括する内閣とその実施に当たる官庁をつなぐ要であり、いて子供の使いをするだけで仕事が果たされている面があります。内閣レベルの施政などというのは、なくて済むならその方がいいのであって、事あるごとに内閣の判断が注目されるなどという方が異常です。できれば国務大臣にはその自覚を持って、国会の代理として地道に官僚組織の監督に当たって欲しいものです。

「死刑のはんこ」発言、葉梨法相に官房長官が厳重注意 辞任は否定
本人が辞任しないのは勝手というものですが、内閣総理大臣として目立たないからと職務を軽視するような人、据えものすらもできないような人を担当大臣にしておいてよいかは、考えどころではあります。とはいえいろいろなリスクを勘案して悩んで決めることは否定しにくいですし、脊髄反射で決めてそれを守り続けるよりはましという気もします。
なお、死刑執行のハンコは実際ただのハンコでしかありません。仕組み上裁判所が言い渡した死刑を執行するのが法務省でありその決裁を法務大臣がするというだけのことで、執行を命じるのはただの裁判所の判決の追認でしかありません。死刑判決が確定したら即捺すのでも制度的には構わないのです。むしろ大臣ごときが余計な口を挟まないという趣旨からはその方が望ましいかもしれません。死刑という刑を言い渡した責任は裁判所に、死刑という刑を請求した責任は検察庁に、死刑という刑を特定の犯罪について定めた責任は国会と有権者にあります。その判断を法務大臣ごときが差し止めるとすれば、考え方によっては僭越ですらあります。

岸田首相、葉梨法相を更迭へ 外遊出発も延期、政権にさらなる打撃
ほらみろというか、岸田さんが現状維持を決め込んでいるときは腹に一物持っているいい例なのではないでしょうか。もっともこの場合結果論から決断が遅いという評価になるので支持率的にはうれしくないわけですけれども、あっさり首を飛ばしてその大臣の支持者から顰蹙を買うのだって岸田さんなわけで、そこに手を打つにしろ覚悟を決めるにしろ状況を見定めるにしろ時間は必要だったと思います。
ともあれ熟慮が生きる局面になれば取り返しがつく程度の「打撃」ですので、そういう状況を演出していくことが政権維持の条件でしょう。次の通常国会の開会までにその準備ができるかどうかというところでしょうか。さすがに今棚から落ちてくるのは牡丹餅よりは毒饅頭でしょうから、棚を卸しつつ都合のいいネタを仕込むしかなさそうです。頑張って仕込んでいたのにさっぱり活かせず毒饅頭に潰された前首相の蠢動を潰しきるくらいは見せて欲しいものです。

葉梨法相が辞表提出「国民に不快な思いをさせ、内閣にも迷惑かけた」
正直こうなるのが不可解で、もちろん適性には疑問があるとは思いますけれども、もし辞表を出す形に収めたのだとしたら、あまり良い処理の仕方だったとは思えません。むしろ辞表が出ても突き返したうえで解任するべきだったのではないでしょうか。別に国務大臣を解任されたところでそれだけでは政治生命に大した影響はないでしょうし、解任にしておけば、いろいろ考えてきちっと始末をつけるべきと判断したと言い訳が立つはずです。辞任の形では話を誤魔化したようにしか見えません。もしかしたら解任してしまうと後任がいろいろやりにくいといった話かもしれませんが、懸案事項も含めて法相主導で何かやっていたという印象がありません。後任に内閣官房と大臣官房からレクチャーがあれば済む話ではないでしょうか。
制度上生きている限りは辞任しかしようがない内閣総理大臣とは違います。

■2022年11月10日(木)  別にヘルソン州がドニエプル川の両岸に跨っているだけという気もしますが
南部州都から撤退、プーチン政権に痛手大きく 国内向け説明に苦慮か
ドニエプル川を前線にする軍の再編成に見えもしますがね。当面川の西側への再侵攻がなく、東側の確保に重点を置くのであれば、ヘルソン市は川と対岸からウクライナ軍の展開だけ妨害しておけばいいですし、都市であるためにウクライナ軍が何かと集まってくると言うなら、陸軍だけであればむしろゴキブリホイホイみたいなもので、都合がいいでしょう。半端に集まってきたところを火力で叩けば済みます。
もちろん「州都」を放棄するという判断の政治的な意味合いは別の問題ですが、プーチン氏なり軍部なりは、キーウ東側の制圧に向けた行動も含めて、ドニエプル川東岸をロシア領として確定するという方針を国内向けに上手に説明できると判断している可能性はあります。

ヘルソン撤退は「一種の損切り」 小泉悠さんに聞く、戦況の展望
損切りという表現には違和感はありませんが、とりあえず発生した損を切ってそれからどうするかは問題ではあります。
基本的にはロシアとして1991年時点のウクライナ領からの総撤退はないものと思います。ただし少なくとも戦線整理が必要な状況であることは否定できず、再進撃に向けて戦力を再編成しつつウクライナ軍の戦力を自軍の犠牲なく叩く策を講じるあたりかと思います。もっとも兵隊の数はともかく兵器や消費物資をどの程度まで揃えられるかは問題で、進むも退くもままならない状況になることはあり得ます。一方ウクライナとしては、大きく、北部を元の国境まで奪還してロシアをクリミア半島に閉じ込める手に出るか、クリミア半島を含めて南部を奪回しようとするかの選択肢があるように思います。とりあえずヘルソン市というゴキブリホイホイに引っかかろうとはあまりしないと思いますが、とはいえ放置しておくことも難しいでしょう。このままロシア軍が崩壊して北からクリミア半島まで押し出せればともかく、状況が膠着した場合、ヘルソン市に旗を掲げるという「戦果」が必要になることはあり得ます。出血戦になった場合、おそらく長期的にはウクライナの方が不利でしょう。周辺諸国やNATOが参戦すればまた別ですが、気乗りはしなさそうですし、どうもロシアもその口実を与えるほど煮詰まってはいないようです。かといって下手に戦争を止めると後は経済破綻一直線なのは両国とも変わらず、国民が意気阻喪して経済の再建のため窮乏生活に耐えることすらままならないような状況を避けるためにも、向こう一年以上は十分に決定的な勝利を求めることになりそうな気がします。その意味では双方共に「損切り」で済ませられる程度の損害で戦争を終えたいのでしょうけどね。正直自分が決定的な介入をすることなく偽善的に傍観して儲けよう、ロシアとウクライナの文字通り血の犠牲の上に少なくともロシアの凋落という成果を築き上げようと手ぐすねを引いている側にいることを自覚せざるを得ず、なんとも嫌な気分ではあります。

■2022年11月09日(水)  そもそもなぜ朝鮮民主主義人民共和国籍でいるのかなという気も
「子どもが恐怖にさらされている」 ミサイル発射、朝鮮学校生に矛先
もちろん子供はおろか日本在留の朝鮮民主主義人民共和国籍の方のほとんどにも責任はなく、少なくとも人身の保護の策は講じる余地がありますが、うっかりすると収容所に入れる話になる点には注意は必要です。
とはいえ、正直敵視もしていればされてもいる自覚があるわけですが、そういうかなり敵国に近いところに住んで生活をしているのもなかなか肝が太いように思うのですが、そうしろというわけではないのですが、例えば帰化を申請するとか韓国籍に鞍替えするとかいうわけにはいかないんでしょうかね?似たような状況になった場合、おそらく日本の外務省は在留邦人に帰国を働きかけ、帰国を拒否したり渡航したりしたら自己責任ということになると思うのですが、さすがに子供の安全が脅かされる状況でミサイルを撃っておけば自国民保護になるというのが国家の大方針だなどと信奉しているわけはないと思うのですが、自国民を保護しようとしない国家の国籍でいる理由は気になるところです。

■2022年11月08日(火)  そもそも窓は要らない
暑くて寒い日本の家こそ「内窓」 快適さに節電効果も 国は補助金
防音、断熱という観点から言えば(ついでに言えば建物の強度の観点から見ても)窓がないことこそ望ましいでしょう。二重窓などと言わず、窓なしにして、採光と換気の手段は別途講じるのが筋です。
もっとも程度問題ではあって、完全に断熱した場合基本的に室内の温度は上がりますから、排熱という問題が出て来ます。換気はありますから必然的に中の熱は外に運ばれて行きますが、冬であってもそれでは熱輸送として不足という話は出てくるかもしれません。そこをエアコンで解決していいかどうかは、考え方の問題です。

■2022年11月08日(火)  こういうのは政治中心主義者からすれば無定見な行動なんだろうな
ツイッター買収のマスク氏「共和党へ投票を」 無党派層に呼びかけ
ここで共和党への投票を呼び掛けるところが変に現実的で間が抜けていますね。政治的な立ち位置の変更というよりは、政府の活動を大統領と議会の対立によって抑制し政治に巻き込まれることを避けたいという話ではあると思います。
とはいえ、いくら中央政治を嫌っているとしても、バランスオブパワーズというだけで今の共和党に投票したいですかね?もちろん民主党だって同じことですが、無党派だからと言って腰の引けた対応をしていると変に巻き込まれて身動きが取れなくなりませんか?だからといって、メディアを制圧して議会を押さえて連邦政府の弱体化をやったら、それこそ身動きが取れなくなる気はします。どうせバンなどしきれないと高をくくって外国に移住した方がいいと思いますが。

最重要州で敗戦、「大きな赤い波」実現せず? トランプ氏の対応注目
それで、何か事前の予想と違うことが問題になっているらしいのですが、正直あの事前の予想、つまり共和党が圧倒的優位という話の方が眉唾な気がします。声の大きい人が目立っているだけで、最後まで考えて「共和党には投票しない」と判断した人が調査から漏れているのではないかと、思えてなりません。むしろ与野党が伯仲したことで大統領の政策実施が制約される点の方が、問題でしょう。つまりバイデン氏は負けはしなかったが勝てなかった、トランプ氏の強い米国も肯定されなかった、ある意味肯定されたのは、マスク氏の強い米国政府は要らないという主張が消極的にということではないのでしょうかね。

■2022年11月08日(火)  解雇は違法であっても止められない
米国式「お前はクビだ」、日本では「違法の可能性」 ツイッター解雇
ツイッターが映す「解雇自由」の米国、「お前は嫌い」でクビは可能か
確かに不当解雇に当たる可能性はあります。ただし、この場合の不当性はそれこそこれまでの雇用の方針から類推されるものではないかと思います。一般的に外資系企業や販売員中心の企業では雇い入れも解雇も日常的に行われる慣習があり、被用者にそれが認知されていたと判断されれば、一定の解雇補償金の支払いを伴う経営都合の「お前はクビだ!」も認められることはあり得ます。ツイッター社の方針からすれば整理解雇の費用が日本事業を維持するのに合理的な範囲を超えるならば一時的に全員を解雇して日本事業を清算することもあり得ますし(この場合でも単に日本での広告募集や「公式」のサービスがなくなるだけで、ツイッター自体は利用可能ではあり続けるでしょう)、問題にならない程度の解雇一時金の支払いで決着できるのであれば判決にしろ和解にしろ想定はしているはずです。もちろん泣き寝入りしてくれるならそれに越したことはないでしょうけど。
もちろん米国であっても、解雇には相応の説明責任があります。雇用を維持する責任ではなく解雇を含めた人事施策において合理的であるべしという責任であり、職務に関係ない属性による差別は行ってはいけませんし、組合排除のような不当労働行為も問題になります。ただし職務それ自体が事業において必要かどうかは経営者の裁量に属する問題で、その判断の責任は株主に対してのものです。つまり職務の必要がなくなったから廃止した、その結果解雇したというのは合理的で、事業においてその職務が本当に必要ないのかという部分の責任を、株主から問われるという話です。職務に従事する人との契約については、一般的な誠実義務の範囲で当たればよく、つまりは一般的な雇用契約の下では適正な額の手当てを払えば解雇はできます。

■2022年11月08日(火)  日常化した非常時の独裁国家は非常時が終わっても元に戻らない
ウクライナ、航空エンジン企業など戦略系5社接収 戦時体制法を適用
後付けながら、順調に軍事独裁体制化しています。ゼレンスキー総統と呼ばせていただくのに、もはや遠慮は不要でしょう。後はいつ、後継選挙を諦めて護民官格の終身独裁官閣下になるか。時間の問題だと思いますが。こんな民族主義独裁国家を支援するべきかどうか、十分検討する必要があります。
とはいえ、接収は正直事業を維持して無理をきかせるためにも必要ではあるでしょう。民間企業のままでは戦局の推移によって生じる極端な状況に対応できない恐れがあります。たとえ戦後の処理に大きな問題が生じうるとしても、文字通りの総力戦においては必要なことと理解できます。
一方で、戦後に「元に」戻すことは不可能です。民営化となれば利権が絡みますし、戦時体制を民営事業に即した組織に戻すだけでも大きな困難があるでしょう。設備と組織を使い潰して清算してしまうしかないかもしれません。

■2022年11月07日(月)  東電とそのユーザーからの取り立てを
原発事故対応すでに12・1兆円 賠償、除染、廃炉… 検査院調べ
事業を含めた東電の資産売却と管轄区域の電気料金への転嫁しかないと思いますが。固定資産だけで10兆円ほどあるようですから、それを全部売り払えば償却できます。倍かかってもちゃんと電気料金としてかければ回収は容易でしょう。国民負担などする必要はなく、東電の株主と都民の負担で十分です。
むしろ必要なのはそうするスキームで、特別立法となると一都六県などでの住民投票が必要になる可能性があります。それこそ一度福島県が引き取ったうえで福島県が一都六県に賠償請求の訴訟を起こすくらいの仕掛けが必要になるかもしれません。支払いにおいては、少なくとも過去の電気使用量に応じての分担と現在の状況に応じての分担を組み合わせるべきでしょう。こういった、個人法人公的機関ひっくるめた過去からの意図しない不法行為に対する賠償やその取り立ての仕組みというのを整備しないといけません。

大手電力の負担減「説明すべきだ」 原発事故の賠償、詳細公表されず
発想としてはこれをより徹底するべきですし、東京電力という事業体ではなく関東を中心とした電力網の利用者(の財布)に直接アプローチする方がいいですね。電力事業が地域独占であったことを前提として、事業者の責任は地域の利用者の責任であると直接に定義するわけです。その上で経営責任を負うべき株主の負担と巻き添えを食う債権者の負担で事業体と資産を清算して原資の相当部分を確保し、借入-返済という不安定なスキームを排して超長期の事業を責任ある者が負債として直接維持する形にする方がいいと思います。そこに住んでいたことはすでに個人の罪でしょう。

■2022年11月07日(月)  筋ではあるけど疑わしい
コロナワクチン、いずれ一部自己負担? 「特例廃止すべき」 財務省
これ自体はいずれそうなるのが筋というもので、全額補助で呼び出されて接種を受ける状況の方が異常です。
とはいえ、接種証明がないと行動に差支えが出る状態での移行は、さすがにナンセンスでしょう。インフルエンザワクチンの接種にしても、キャンペーンが行われているとはいえ接種率は100パーセントではないはずで、それこそモデルケースとしてどの程度のパーセンテージなのか、それで感染症の抑制に十分かは検討されないといけません。またここまで煽ってしまった以上世論を冷ますことも必須です。インフルエンザ程度の、滅多にかからないしかかったら本人と家族だけ治療薬を呑んで自宅待機していればいい程度の話が常識になっていないと、定期接種では負担が大きすぎます。定期接種でしょ、打っているのが当然でしょ、それでこの費用なんだからこれでできるよねなんてのは馬鹿の言うことです。また子供への接種の実績も十分積み重ねる必要があります。もちろんワクチン接種自体のコスト削減や接種時の負担 - さすがに数日熱で寝込むなんてのは定期接種としては論外です - もあってしかるべきですし、そもそも接種したワクチンの有効期間も15か月程度は必要でしょう。
例外的な扱いにしたことにはそれなりの理由があるわけで、その扱いを止めるには十分な状況の整備が必要です。もちろんそれ自体は財務省の専門ではないわけですが、単に歳出削減をせっつくのではなく、厚生労働省なりのまとめるプランを合理的かつ批判的に精査する程度の勉強はして欲しいものです。
正直財務省の歳出削減の提案というのはどうも信頼に値しなくなっている印象で、それこそ保健分野については主計官を全員解任してビルアンドメリンダゲイツ財団にでも丸投げ外注した方がましじゃないのかと思えることがあります。夜警国家であれば財務や執行部門としての予算編成はコンピューターにやらせておけばいいですから、国税庁だけ残してリストラしたらいいんじゃないでしょうか。もちろん金融庁は独立行政委員会に仕立て直して内閣からも切り離し、国会に直接責任を負うことにするべきですね。

■2022年11月07日(月)  寺子屋教師の漢文教育レベルの力作
数式図鑑 楽しく、美しく、役に立つ科学の宝石箱
面白い本だとは思うのですが、こういうレベルの発想の人が普及などやっているから算数すらまともに普及しないのかなという気もします。
算盤レベルの算数はさておき、数式の扱いなり数学の概念なりは現象を記述する言語や抽象操作の道具として求められているわけですから、数式を扱うのであればそれを読み書く技術を押し出していかないといけませんし、数学を扱うのであれば抽象概念の操作、その有用性や面白さをアピールしていくことになりますからそれこそイプシロン・デルタ論法のような話になります。つまり走れるとこんな面白いこと、楽しいことができるよ、絵が描けるとこういう効率的なコミュニケーションができるよという話をしないといけないのに、走ること自体の面白さを得々と論じているようでは、一部の趣味者は少数育つかもしれませんが、教養、社会基盤としての数学にはなりません。もちろん抽象操作の道具としてのニーズが強いのにいまだに読み書き算盤の感覚で微積分や線形代数、統計を教えている高校数学もどうかとは思いますが(その意味では中学のあれは算数であって、数学ではないでしょう: 私は数学は専攻していませんが、大学の教養課程で数学を学んだときに、これが数学かと、高校までの数学と全く違うありよう、そしてそれこそブルーバックスのラインナップにたくさん出てくる数学を数学として扱い応用する議論との共通性に大変感心しました)、ライプニッツあたりのレベルでピタゴラスの敷いた路線上で数式の美しさに感動しているのだって全くダメで、少なくともワイアーシュトラスやルジャンドルやガウスから始めないといけないでしょう。それを小学生向けにできて初めて、普及と言えます。

■2022年11月07日(月)  むしろ半分近くも昇任試験を受けるのが変
「出世したくない」公務員増えた? 昇進試験「準備ができない」訳は
本来業務管理と末端での業務実施というのは業務執行とひとまとめにされるにせよ違うんで、「昇任」試験という形自体おかしいと思うんですけどね。上級と下級が分けられているように、業務管理と末端での業務実施は本来採用試験が分けられるほどに違ったものと思われていたわけです。今時の公務員試験がそれこそ予備校に通わないと受からないほど高度化しているのであれば、下っ端役人は管理職になりたければ一度退職して上級の公務員試験を受けなおすことが求められていたと言えます。これでは、いくら実務経験があるとはいえ仕事の片手間で昇任試験を受けて合格するのは大変でしょう。そして内部での抜擢というのは本来正規の採用試験では上級職への応募ができなかった人(昔は下級職に応募する人と上級職に応募する人の間では学歴や経済的な条件に明白な差があったのでとにかく安定した職に就かないとそもそも上級職の採用に応募する知的訓練を受けることすらできない場合が多かった)を在職中の教育訓練の状況に応じて上級職に登用するという話だったわけで、これは通常の業務への熟練とは違う話なのです。業務管理ともなれば他部署や別の役所の仕事やそれを規定する規則、あるいは業務の詳細を規定する様々な規則に共通する基本法や一般原則に通じていなければならないことも多く、役人の場合は法律を広く知っていることが求められるというのはそういうことです。単に経理部門で算盤の扱いが速く高度になる、庶務部門で習字できれいな字が速く書けたりたくさん字を知っていて間違いをせずに書けるといったことではないのです。内部登用制度においては、特に戦中戦後にこの二つが混同される傾向があり、また学歴の差が修了した段階の差ではなくどの教育機関を修了したかの差(つまり大卒と高卒、中卒の差ではなくどの大学を出たかの差)になる傾向があったために在職中の訓練次第で在学中の差を埋める人が増えてきたというのもあったのかもしれません。いくら駅弁大学でも12年の学校教育を経て2年なり4年なりの高等教育を受けた場合相当高度な教育訓練を経ていることになるわけで、9年や12年で課程を終えてしまった人と帝大卒との差よりは差が小さいのはある意味当たり前ですし、業務管理自体はそれこそドラッカーあたりが論じているように(高度な業務分析や研究開発のような専門的な技能と比べて)さほど高度な職務ではないわけで、一応高等教育出であれば訓練次第でできる人は多いでしょう。過去であれ、組織規模の拡大によって管理職の需要が増えてきたということもあったはずです。それが2000年くらいまでの状況だったと思いますし、そういう事情を背景に試験による内部登用という制度が公式化した面もあったと思います。
とはいえ試験ベースのメリトクラシーの本質からすれば在職者に限った登用試験というのはおかしいわけで、管理職も含めてジョブごとに外部からの受験も認める登用試験を行うのが筋です。またジョブまでいかずとも、一定のグレードのジョブに就くにはこのランクの公開の公務員資格試験に合格していないといけないといった形であるべきでした。本来下級職として採用された人はずっと下級職であり続けるべきで、管理職登用によって昇任するというのはその枠から外れることですから、それが大変なのは当たり前です。それこそ高卒の下級職が夜間や通信制の大学に行って大卒になってというレベルの話です。そこまでして昇任する必要はないというのが、むしろ当然の姿でしょう。それを部内対象の昇任試験だけやってその受験率が下がった、選抜性が下がったなどと思うのは、あまりに間が抜けています。
もっとも増やしたいのなら話は簡単で、下級職では生活していけない程度に処遇を悪化させればいいわけです。職員寮で独身なら生きていけても結婚して官舎なり自前の家なりに住んで子供を育てていくとなると下級職の待遇では無理ということになれば、いわゆる普通の結婚をしていきたい人は昇任試験を受けるか別の生計の道を探るかになります。下級職の能力水準が劣化するかもしれませんし下級職で労使関係が悪化するかもしれませんが、昇任して欲しいというのはいつまでも下級職でいられては困るということですから、普通の人が頑張ればできる程度の昇任なのであり、それが常識になれば上級職に進む修業程度のつもりで管理職希望者が下級職に就いてくれるでしょう。それを果たせなかった人は転出するか、反体制活動に走ることになります。下級職において外部にも通用する技能の在職訓練(現業職にはこの面もあったのでしょうね)を充実させれば、労使関係の悪化は最小限で留められるでしょう。管理職になる適性もないのに管理職になりたいような人だけが転出もできずまさに落ちこぼれていくわけですから、適正な管理職登用さえ行われていれば職場の士気の低下は限定的でしょう。

■2022年11月06日(日)  不安の内容や方向性をちゃんと評価できていないのに同じも違うもないと思うのですが
安倍政権は何を保守したのか 佐伯啓思さんが見たアベノミクスの功罪
近代主義か共同体の価値か 佐伯啓思さんが問い直す日本の進路
これが今時の日本の保守思想家のレベルなんでしょうか。残念としか言いようがありません。
日本の保守思想自体は資本主義批判の流れをある程度汲んでいるので、グローバル資本主義に批判的なこと自体は納得できます。しかし、それを「国家資本主義」のような本来異なる文脈で定義された用語で論じることは、よく言っても言葉を捻じ曲げています。少なくともレーニンが論じ戦時国家と社会主義体制を通じて展開した国家独占資本主義、1970年ごろまでの40年代ルーズベルト改革を受けた政軍産複合体を基盤とした国家資本主義(トルーマン体制とでも呼びましょうか)と1970年以降のレーガノミクスを経て最終的に市場での鞘取りを基盤とする金融資本主義、そしてそれを追う形で発達したグローバル市場資本主義、それへの対抗として出現したドメスティック経済体制は相当に様相が異なります。温故知新は当然だとしても、違うものを同じと言い張るのは知的には劣悪とみなすべきでしょう。大局的な政治状況として20世紀初めあたりと共通する(その意味では現在からみて1930年代までしか視程が及んでいないように見えるのはおかしく、第一次世界大戦の前まで見ていないといけない)違和感とか不穏さがあるとしても、またそれが社会における市場主義的志向へのカウンターと評価できるにしても、それでまとめてしまうのは無理があるでしょう。個人的には20世紀初めの状況が官僚制のさらなる発達に対応したものであるのに対して現在の状況はマスメディアもその一員である官僚制の機能不全に対応するものではないかと思いますがね。まあ、そこで官僚制が革命的に崩壊して新たな世界が出現するなどという楽観主義は取りがたいわけですが。
正直そういうレベルだから1970年代以降のカルト系終末思想につながる象徴論を理解しきれず「山上事件の特徴は、…非常に妙なことでした。」などという話になるのではないでしょうか。
日本の保守思想が国家戦略の有無を論じ有るべきと主張すること自体には違和感はないにせよ、中曽根内閣に始まる国民経済に対する無定見をレーガン政権からの国際経済に対する不見識と対立させて国家戦略の有無を論じることには強い違和感があります。正直歴代アメリカ政権が国家的に後押ししてきた事業はことごとく市場からの撤退や売りにした事業の再編成を余儀なくされているように見えます。自動車産業然り、小売り流通然り、半導体産業然り、金融工学然り、情報産業然りで、欧州は国家戦略に基づく後押しというよりは域内の経済システムの発達状況がまだらだったために金融資本が地域差を利用できた面がありますし、中国など間違って、うっかり製造業が発達したように見えます。それらをもって「米欧中には国家戦略があった」などと言うのは、牽強付会と見えます。むしろ日本には国家官僚と企業官僚を中心に強固な新自由主義思想が発達し、それを基盤とした国家戦略によって経済構造の変更が執拗に強行されたと見えます。この方向は今でも変わっておらず、何かと言えば自律的市場に任せよという話が、なぜか企業家からではなく官僚的経営者と官僚、官僚的政治論客から出て来ます。
このあたりの知的に間の抜けた発想はインタビュアーを務めている原氏にも共通しているのは、氏の書いている他の論説を見れば明白です。よしんば佐伯氏が原氏と立場を異にしているのだとしても、ならば是々非々のような議論をしてそれをこういう記事にまとめさせるのではなく、お前は間違っていると真っ向から言うべきだったのではないでしょうか。

■2022年11月05日(土)  必ずしも軽視したわけじゃないんですがね
「必要性、理解されなかった」 感染症研究軽視の代償、コロナで露呈
まあ、病原菌自体の研究はあまり真面目に取り組んでいなかったかもしれません。一応当時最先端のドイツの細菌学に学んで取り組んではいましたが、細菌や病気自体の研究よりも、公衆衛生や食品衛生のような感染をそもそも発生させない方法論の研究の方が重要視されたことは事実です。これは必ずしも間違いとは言えず、元から絶てるならばその方が効果的なのですから、政策との相性がいいこともあり、健康を保ち問題が出たら即隔離を含めた対策を行い、病気を発生させないことが重視され、次が次善策として重篤になりやすい病気のワクチン接種という発想になったことは大変良く理解できることだと思います。健康状態と衛生状態の改善により感染性の風土病が押さえ込まれ、熱帯性伝染病の研究も植民地を失ったことで価値を失い、「薬」の研究は民間がやればいいという発想にはなったでしょう。

■2022年11月05日(土)  人件費ゼロを目指してほしい
ツイッター、全従業員の半分を解雇 企業で広告止める動きも
すばらしいことですね。ツイッターはイーロン・マスク氏一人だけがいれば十分です。半分などといわず全員解雇しましょう。

■2022年11月04日(金)  基本的には直接的使用者の雇用組織整備と家事労働者の組織化で対応するべき
家政婦は法的保護の対象外? 介護も兼務、「一睡もしないことも」
もちろん家政婦というか家事労働者も法的保護が及んでしかるべきですが、一方で、現在の労働基準があまりにも工場での定型労働に最適化され、そもそも管理的サービス労働や裁量型労働との関連ですら齟齬を来している(もっともこれらが賃労働を前提とした労働契約という類型で処理されるべきものなのかは問題で、管理システムや使用者責任を重くするにしても労働契約よりは業務委託の方が適当ではないかとは思わないでもありません)ことは、家事労働に労働基準を適用することを躊躇することが理解できる程度には問題です。何しろ家事労働ですので、24時間体制になることは当然にあり得ます。退勤定時になったから帰ります、出勤定時まで出勤しません、勤務時間は7時間30分ですでは困ってしまうわけで、せめて交代制勤務を運営できる仕組みの整備が必要です。その過程で家事労働の組織が労働者派遣業に集約されていくかもしれませんが、それはそれでやむを得ない気もします。もちろん適切な業務組織を構築運営できる御大尽が個別に家事労働者を雇用することまでは否定しませんが、その場合家事労働者派遣事業者の労働条件が基準にはなるでしょう。

■2022年11月04日(金)  政府と不動産ディヴェロッパーに騙された方が悪いとしか言いようがない
「人生の最後にこんな目に」 老朽団地建て替え、行き場ない高齢姉妹
区分所有などといういかがわしい制度を作ったのが問題ではありますが、正直マンションを買ってそれで済むなどと思っていた人の自業自得という気がします。賃貸か完全な共同所有であればまだしも対応のしようがあったわけで、変に資産性を設定するからおかしなことになりますし、居住権という人権にかかわる問題について多数決原理など採用するから説得のモチベーションが薄れます。むしろ改築に対応する余力のある人が別の物件を買うなりして退去すべきだと思いますし、それでそもそも居住に適さないと行政が判断するのであれば、新居での安定した生活を保障するのは公権力の義務でしょう。
もっとも個人の資産の問題である以上政府が出てくる義務は今のところありません。おそらくそうやって政府としては責任を負わないことを目的に制度を作ったのでしょうし、そこにうっかりはまってしまったのは全く個人の責任としか言いようがありません。そうなる前にいくらでもやりようはあったはずなのですから。

■2022年11月04日(金)  カジュアルコピーの法的な検討
出版物などからイラストをコピーしてプリントに貼り込んでいいか-×
原則としてやってはいけません。出版物の内容は、その出版物に掲載され、通常の販路でその出版物が販売されることを前提に、イラストなども含めた個々の著作物が集成されていることを認識しましょう。
部分を取り出して他の目的に利用していい場合は、次の場合です。
1.私的利用
私的な範囲にとどまる限り、お目こぼしされるのが普通です。ただしこの私的な範囲というのは相当狭いことは知っておきましょう。同居人の間で非営利としてなされる場合ならよほどのことがない限りうるさく言われることはないはずですが、例えば個人事業で家族従業員である家族に事業上の目的があって渡す文書に使用した場合は私的利用と認められないことが十分あり得ます。もちろん会社組織の中や友達、私的なサークルなどでの使用もNGです。
2.引用
イラストやそのイラストが関連している本文などを対象とした表現に使用する場合に、出所を明記して必要な範囲内で行うことは認められます。なお行った表現の内容にイラストが全く関係ないような場合は、イラストは除いて引用するべきでしょう。また引用の仕方によっては、人格の侵害と判定されることがありえます。もっとも昨今引用自体を必須とするような表現活動は、元々文芸著作物として想定された領域では減っているのではないかと思います。むしろ直接には引用した部分を対象としない、パッチワークのような制作論の関係で問題になる気がしますし、この場合単純に引用とは言い難いので、貼り付ける部分の権利処理が明確に必要ではないかと思います。なお学術論文の場合、現在の慣行は引用を排除しているように思います。通常学術論文での引用は「この人がこの著書でこう書いた」という形で示されますが、これはその著作物自体をそこで示しているわけではないので引用に当たりません。この場合複製自体していないわけで、著作権的な意味での侵害を構成することはないはずです。むしろ著書の意図を曲解したという人格的な侵害の問題に関わる可能性があります。
3.明白に許可された使用
貼り付けを行う目的が使用許諾や慣行によって明白に許容されている場合は可能です。典型的にはこういう目的で使えますなどと明記してあるイラスト集などの掲載物をその目的に適合する形で使う場合がありますが、他にも、鑑定の対象物を特定するために鑑定書に複製を貼り込むとか、資料として渡した絵や写真を資料として流通することが想定される範囲内で貼り込んだ文書を作成する(自宅の被害状況を示す写真を犯罪捜査の目的で警察が捜査記録に貼り込んだり、保険屋が審査書類に貼り込んだりする場合)ような使い方は問題になりません。もちろん権利処理をした著作物も、行った権利処理で許容された範囲内で使用が明白に許可されていることになります。
4.著作権による保護対象から外れる場合
例えば法律の付表や付図などは、そもそも法律自体が著作権による保護を受けませんので、そのまま貼り込んで構いません。何が保護対象から外れるのかは、著作権法に書いてあります。

■2022年11月03日(木)  給料の額面は支給方法によって目減りしてはならないと思う
「銀行振込」は絶対的な選択肢なのか?
なんか目につきましたが。
経緯はともかくとして、この件は、給料は現金で支払わなければならないという原則の上で、現金と同等の元本保証を期待しうる送金手段として(銀行)口座振込を認めたはずであり、例えば口座が要求払い口座でなくなるとか、引き出しに際して手数料を請求されるような(つまり実質的に給料が目減りする)状況では、口座振込を支給手段として用いる正当性自体が消滅するように思われます。つまり、ブログ著者が過去に置かれた状況は下手をすると会社側が現金支給を提案しないといけない状況だった可能性がありますし(もっとも振込口座の変更自体は受け付けるはずなので、地元地銀に口座を開設しそこに振り込むように手続を行わなかったブログ著者の対応にも問題はあるでしょう)、昨今の銀行口座を巡る状況はもはや銀行口座への振り込みを給料の支給手段として不適切にしている可能性があります。一応絶対に減価しえない現金を用いない支給手段というのはなくもないので、手数料振出人払いの小切手なり為替なりがそれです。小切手と為替は、一応小切手が振出人が作成するものなのに対して為替が金融機関が作成するものという違いのはずですが、いずれにせよ、給与支給日を指定日として小切手なり為替なりで支払い、受け取った人が指定日に小切手の裏付けとなる当座預金口座のある金融機関や為替を発行した金融機関に持っていけば、額面の支払いを受け、かつ手数料は支給者が負担するという話になるはずです。この場合金融機関営業日に小切手や為替の換金に行く必要が生じますが、この方法を取る場合換金のため特別に休暇を有給で付与する(というか休暇を取った分を減給しない)のは当然でしょう。それをしたくなければ、現金で払えばいいだけのことです。もちろん小切手や為替を受け取った人が変な時期に、あるいは指定金融機関以外でそれを換金しようとすると、割引と言って額面より少ない額しか貰えなかったりします。ですから指定日に指定の金融機関に行くために休むのが当たり前と言えるわけです。いわゆるデジタルマネーはあくまでも銀行口座の代替物であって現金の代替物ではないので、それを現金にする際に目減りが発生する場合は正直支給に用いる正当性に強い疑問が生じると思います。その口座にある限り目減りしないというのでは不足でしょう。

■2022年11月03日(木)  大西洋憲章体制も崩壊ですかね
アラブ首脳、ウクライナ戦争で「非同盟」宣言 米ロ新冷戦を警戒か
これが通ると思われた時点でバイデン政権は馬鹿にされていますね。ロシア相手に本気になることはない、局外に立っても後で干されることはないと思われています。ロシアが馬鹿にされているのは今さらですが、これも局外に立っておけば感謝してもらえる、戦後ロシアがスーパーパワーになることはない、プーチン政権の国際的威信は高まらないと思われているわけです。
即効性があるのは即時の陸軍と空軍の軍団級の派兵で、それこそロシアの提案に乗って両国のNBC兵器使用を査察するため両国を無期限の全面的軍事占領下に置くとやってもいいわけですが、正直プーチンさんは切れはしないでしょうけど受け入れもない以上泥沼化も避けられないでしょうね。いくら常備兵力を疲弊させてしまったロシアと即応戦力が無傷の米国とはいえ、ナショナリズムに火が付いた場合のロシアも国家が崩壊して混乱状態になったロシアも手が付けられません。もう安保理で常任理事国の三票を取りまとめて、安全保障理事会での常任理事国の地位と合わせて、ロシアの主権は全面的に中華人民共和国に帰属することを承認するとでもやった方がましなんではないでしょうか。引っかかって侵攻はしてくれないでしょうが、欧米のロシア権益の整理とロシアの国際的地位を決定的に落とすことには成功しそうな気がします。もちろんその時点でロシア軍の国際的地位は中華人民共和国政府の統率に従うべきなのに勝手な行動をしている山賊と海賊になるので、警察行動として当座討伐したうえで中国政府に何とかしろとぶん投げられるでしょう。とにかく国境外に出てくるのを叩いて、中国政府は山賊を放置していると非難していればよくなります。もちろんそう言った側としては主権を行使する政府がない地域に秩序を認める必要がなく、ロシア法上の法人はロシアの主権を否認した国において全面的に法人格を否認されることになるように思います。ロシアの民間人とロシア法人にショーザフラッグと迫るよい理由でしょう。

■2022年11月03日(木)  敵基地攻撃能力など所詮ごまめの歯ぎしり
長射程ミサイルの「潜水艦発射型」開発を検討 敵基地攻撃の手段に
SLBMやSLCM自体は持とうという議論があって構わないと思いますが、それって抑止力として維持したときに維持しきれるという目算があるんでしょうか。敵基地攻撃力というのは今時やってしまったら敵のミサイルが飛んでこなくても軍事力行使の波及効果で経済的に破綻するものであって、お互いそんなのは嫌だよね、だからお互い撃たないで済ませようねというのが抑止力になるわけでしょう。ある程度維持できれば長期的には張子の虎でもはったりが効くことはソ連崩壊後のロシアを見れば明らかですが、それはその前の40年間ソ連が頑張っていたからこそです。ミサイルを一発や二発持って試し打ちしたところで、じゃあこっちはもっと持つと軍拡競争になるわけで、つまりは基地どころか中国や北朝鮮の全土をミサイル攻撃だけで深さ1 kmほど掘り返す力を数十年間誇示し続けてようやく安定に至るのが抑止力です。アメリカが持っているんだから持てばいいのじゃなかろうかでは済まないのは、イギリスやフランスが持っていても核クラブのメンバーという程度の威信をひけらかすのみで、中国やロシア、インドあたりに馬鹿にされていることからわかることでしょう。イランやパキスタン、イスラエルあたりが戦略兵器を持ったところで、周りが迷惑に思うのが関の山で、昔は米ソ、今は米中から、あいつら粋がってるから度が過ぎたら絞めてやろうと思われるのです。正直今の日本のSLBM、SLCM保持もその類としか思えません。
軍事的にはったりをきかせたいなら、「敵基地攻撃力」などという戦後的な発想にとどまらず、国際人道法なんか関係ない、戦略攻撃で敵は先制して皆殺しにすると言わないといけません。その場合もっとも効果的なのは、SLではなくて大量の弾道ミサイルサイロです。潜水艦から3000発の戦略攻撃ミサイルがお前を狙ってるぜではなく、北海道から小笠原と沖縄の離島まで三万発の戦略攻撃ミサイルと常時空中待機した戦略爆撃機が即応態勢にある、試射でもミサイルを撃ったら全面攻撃だと思えよと言わないと、まともに相手をしてもらえません。手持ちの戦略兵器を全部ぶち込んでも余ったサイトと落とし損ねた戦略爆撃機だけで全土を焼け野原にされ、人民もろとも国家が消滅すると思わせないといけないのです。そこまでアグレッシブな態度を取れる国ですか?日本は。

■2022年11月03日(木)  チーズ屋さんが開店しました
CHEESE ATELIER MOZZAO(チーズアトリエ モッツァオ)
開店宣言が11/1、店舗営業が土休日のみなので実質本日開店です。とりあえずすぐにできるフレッシュチーズから始めるようですが、しっかり水を抜いて固めたり発酵熟成させたりする種類も手掛ける予定だとか。とりあえず第三弾としてハードチーズ、カビチーズが表明されており、手頃なところだとハードでゴーダやチェダー、ミモザあたり、カビチーズで一部のブルーチーズや白カビ系(カマンベールやブリ)あたりでしょうか。
今回の第一弾はモッツアレラ系二種類とパンナコッタでした。さすがに高いですが、素材や製法にこだわった自家製を観光地で自分で売るとなるとこんなものでしょう。少なくともスーパーの輸入物モッツアレラよりはずっとフレッシュで美味しいです。おそらく関連商品扱いで店内で売られていたイチジクのドライフルーツとモッツアレラがよく合いました。やはり地中海系のフレッシュチーズとイチジクのドライフルーツの組み合わせというのは鉄板かと思います。さすがにいくらこだわりでも山羊乳、羊乳系は当分出てこないと思いますので(そこを言い出すとモッツアレラは本来水牛の乳を使うのですが)、無発酵パンにイチジクのドライフルーツとフェタを合わせる(もっとリッチにいくなら蜂蜜もかける)なんて芸当はやりようがなさそうですが、ピザ生地のパンを四角くカットして生ハムを乗せオリーブオイルとリコッタチーズを塗りたくって食べるのはおいしそうな気がします。もちろん生ハムの代わりにドライフルーツを乗せ蜂蜜もかけてお貴族様を気取ってみるのも良さそうです。

■2022年11月02日(水)  東大に巣くってボスになるだけが研究者じゃない
研究者を雇い止めにする国の行く末 頭脳流出から循環へ脱却なるか
研究者の雇止め自体は、本来問題とすべきことだとは全く思えません。むしろ雇止めになると困ること自体が研究者処遇の問題だと思います。
本来研究者は事業組織を渡り歩いていくものであり、特定の事業組織に巣を作るものでも特定の事業組織に僕として仕えるものでもありません。教授だけは教員団体のメンバーとしてある意味別の面があるのですが、それでも専門分野に執着するある種のフリーランスとして、その専門性を活かせない事業組織との関係は切っていくのが当然です。どれだけ成果を上げていようと、研究に関わる事業組織としては組織全体のラインナップと適合しない研究をしている研究者は、使いようがありません。下手をすると手下を引き連れてうちから出て行ってくださいということになります。本来それができるように、つまり例えばある研究者が主催するプロジェクトチームは研究者の移動に従って事業組織間を移動するような仕組みにしておかないといけないわけです。そういった制度の面が全く不備であり(というかガバナンスやコンプライアンスを名目に後退させられた面があり)、寄らば大樹志向とか事業組織の運営に動員されがち(大学の経営者管理はむしろこの文脈で論じられるべきでしょう)といった問題にも起因するにせよ、研究者がより自分に適した場に移動することを妨げ、搾取を固定化している面があると思います。この意味で労働移動が処遇の適正化を実現するという思想は、再評価するべきだと思います。
もちろん有能な研究者が国内で国内の研究課題に対峙しないというのは問題のある状況ではあるわけですが(育成のコストがどうとかいうけち臭い議論は考慮するまでもありません)、国際的な研究者の移動自体はけして否定されるべきものではないわけで、国籍に関わらず事業に即した研究者を事業者が適切な処遇で招ける制度にするというのが、望ましい方向性ではあるのでしょう。

■2022年11月02日(水)  どこにそんな金があるのやら
東電子会社が英国の洋上風力発電会社を買収 ノウハウ取り込む狙い
無駄遣いではないのでしょうけれど、そんな金があるならもっとやるべきことがありませんかね。東電がするべきなのは、将来への投資ではなく過去の清算です。まず福島第二原発を全力で処理するべきで、そのためには売れる資産は切り売りでも何でもするべきでしょうし、危険はないのだから処理水の太平洋への海洋放出を認めろなどと妄言を吐いている暇があったら電力供給を受ける受益者と共にないと主張するリスクを引き受け、そのためのコストを支払うべきです。

■2022年11月02日(水)  官僚的経営者が恥ずかしいのか、それとも現代日本人というのはすべからくこういう風に恥ずかしいのか
「軍民両用の技術研究の仕組みを」 諮問会議で異例の防衛力議論
「研究開発やインフラ分野で軍事と民生のいずれにも利用可能な「デュアルユース(両義性)の可能性を排除することなく研究活動を推進し、その利用可能性をチェックする仕組みに変えるべきだ」」
異例というか意味不明というか、それこそそういう技術開発で儲けが出ると思うなら自己資金で研究員を雇ってやればいいわけで、何も国家的な仕組みなどは要らないはずです。それが民間活力というものでしょう。これでは、他に儲かりそうなアイデアがないから防衛基盤整備の話に乗るけれども、正直言ってちゃんと儲けが出るとは思えないので、公的な機関研究の成果を適法にかっさらう枠組みを整備して欲しいと言っているようにしか見えません。これが防衛省や制服組が言うなら話は別で、そもそも自分で研究開発ができるような人は官僚や制服組はやっていないわけですから、お金を出すからみんな一緒にやって欲しいとか、権力を振りかざしてこれを実現するアイデアを出せと言うしかないわけです。でも民間は、こんないいアイデアがありますぜ、一口乗りませんか?と言う方でしょうに。
諮問会議の委員という立場上の発言ではあるかもしれませんが、開発のリスクもコストも負えないので他の誰かが負担する仕組みを作ってください、製造はお金さえ払ってもらえるならやりますというのは、企業経営者としては情けないと思います。まあ、公開株式会社の経営者なんて株主からお金を借りて堅実にせこく儲けて些少な利子を払う仕事なので、情けなくて当たり前かもしれませんが。ビジネスマンなんて、ただ忙しいだけの人って意味ですもんね。とはいえそんなのを集めるしかない政府諮問会議なんてものが有識者の意見を集約する場なのですから、国家などというものに何を期待することも不可能ではあるわけです。

■2022年11月01日(火)  節約を呼び掛けるだけという無策
夏に続き冬も節電要請、政府が正式決定 LNGなどの燃料不足に備え
それしかできませんというのはわかるのですが、裏付けのない声掛けだけというのは無策としか表現できません。正直、値段は上がったり下がったりするものだ、政府は関知しないとでも最初から言っておいた方がましだったでしょう。もちろんそう言っておいて裏で介入するのは構わないわけで、値段ではなくこういう必然性があったと取り繕う屁理屈だけ用意しておけばいいわけです。
省エネとか節水とかもそうですが、原理レベルならともかく実践やピースミルエンジニアリングとしての節約は結果として碌なことになりません。昔は省メモリプログラミングというのもありましたが、何を招いたかというと簡単に解きほぐせない機種依存、環境依存のスパゲッティーコードをメンテナンスする苦行、正しい仕様も判明しなければ時に思わぬ動作までするため一括でないと更新できないソフトウェアシステムです。その反省から、メモリやCPUタイムを浪費することになっても、サブシステム間のインターフェースはわかりやすくして、いざとなったらドキュメント化された仕様に基づいてサブシステムだけ作り直してしまえという発想になりました。手法やプログラム言語、開発環境は変わっても、その基本は今も変わっていません。
そういう話を表面的に国家運営の基幹に据えたのが、昭和の官僚と軍部だったことも明白です。欲しがりません勝つまでは、足りぬ足りぬは工夫が足りぬなどと言っている本人たちがそれこそ工夫というか構想にさっぱり欠けていたのです。もっともそもそもものを考える習慣を持たない庶民にはその方がわかりやすかったようで、何も考えず言説だけ「再生産」(というか著作物的に言えば複製)し、あるいはそのうち何となるとかそれが当たり前などと言って我慢していたわけです。
節約などと言うなら、人手不足をかこっている事業者を徹底的に事業休止させればいいですし、それこそ精神論で言うなら、余っている人を役所の建物に詰め込んで書類を手書きさせ、コンピューターを全部止めれば、冷暖房費すら要らないでしょう。都市内の書類の運搬ならイーツが使っているクーリエをまとめて適正賃金と安定した仕事の割り当てで雇って自転車や徒歩で運ばせればガソリン代は要りません。今時のサイクリストなら100km程度は普通に5時間弱で走りますから、首都圏の軽貨物輸送は自動車やドローンなど要りません。何もみんなで「広く薄く」痛みを分かち合う必要などなく、「無駄」を合理的に省けばいいだけでしょう。それで出た余剰人員を吸収する先は十分にありますし、そもそもこなせない仕事ならなくなっても問題ありません。止めてみたら実は不要だった仕事なんて普通にあります。新車が供給できなければ廃車寸前の中古車が売れるだけです。東証のコンピューターを落としたところで困るのは空売り空買いや鞘取りをしている人だけです。帳簿を処理できないなら債権を担保に金を貸せばいいだけです。会社が事業を続けられないなら資産を担保に金を貸せばいいだけです。
たった半年の工面です。簡単でしょう?なんでできないから皆さん節約をお願いしますなんて話になるんですかね?

■2022年11月01日(火)  マイナンバー制度はとっくに義務化されています
究極の監視社会への道 マイナンバーカードはいらない
「マイナンバー制度が義務化されようとしている。」
河野氏の主張も酷いものですが反対派もこれでは勘違いしているというものでしょう。マイナンバー制度自体は納税時や金融口座開設時の義務的制度として実働しています。例えばちょうど年末調整の時期に入りますが、その際マイナンバーの記入が必要です。今回河野氏が打ち出したのは、マイナンバー「カード」の活用策、義務的所持です。識者が主張しているように、マイナンバーとマイナンバーカードでは意味合いが相当に異なりますので、少なくとも識別はしていただきたいものです。
小原氏の主張を理解するうえでは、マイナンバー制度が納税者番号制度や国民総背番号制度として導入の検討が始まったことを念頭に置くことが必要です。そもそものニーズは納税者番号制度であり、例えば匿名口座を利用した資産課税逃れやマネーローンダリングへの対応が目的とされていました。一方で資産と所得への課税に対する納税者側の不満、つまり資産や所得の形態によって実効税率が異なっているという批判からも、資産やその取引、そして所得について個人識別番号を付して動向を把握するべきという提案がありました。この場合究極には個別の取引において全面的に個人を識別するという形になります。もう一つ課題と認識されていたのが、行政における本人確認や状況把握の精緻化というニーズです。それこそ福祉制度の効率化と適正給付を両立させるために、行政機関が個人の事情を十分に把握する必要があるとされました。こういったニーズの主張が、小原氏のように、今風に言うのなら国家によるライフログの包括的把握と理解されて、反対派が成立するに至っています。
この意味では、マイナンバー制度、マイナンバーカードの活用、キャッシュレス決済システムの普及というのは一体の施策であり、おそらく携帯電話の普及策もそうで、申告納税(マイナンバー制度)、各種行政手続(マイナンバー制度及びマイナンバーカード)、個別取引(キャッシュレス決済)、通信(携帯電話)において個人と法人の個々の動向の把握を確実にするものとなっています。例えばキャッシュレス決済における記名口座の推進や(携帯)電話回線契約における本人確認と自動引き落としの徹底は、それこそ本来不要な本人識別機能を取引や通信において実現するものです。ちなみにこれを主張したのは民主党だったことも記憶されているべきでしょう。
小原氏の言うように政府が国民(だけでもないですが: 会社や外国人もまとめて監視されますし、ある意味そちらがメインですので)を監視することに反対するのであれば、この全体に反対し、かつ「便利は危険だ」とだけ言うのではなく、主張される便利=一見妥当なニーズに対してライフログの把握につながりにくい対案を出していくことが必要になります。それをマイナンバーとマイナンバーカードを一緒にするような寝言を言っていては、誰も感心しないでしょう。そのレベルでやっていられるのは個別のアーミッシュ的実践だけです。電話も携帯電話もネットも使わない、もちろん郵便も使わず連絡は直接訪問して行う、自動車運転免許も他の資格も取らない、決済は現金のみで支払いにしても受け取りにしても金融機関口座は極力使わず口座間送金も避ける、支給における個人情報把握につながる給与や年金は貰おうとせず受け取らない(例えば給与の算定について各種の手当てや控除は格好の個人情報把握手段になっています)、健康保険も普通には使わず窓口でまず全額を払い自分で保険者負担分の給付を申請する(受診記録や健康保険加入者情報の包括的把握を避ける)といった生活をすれば、主張への誠実さだけは確保できるでしょう。もっともそんなライフスタイルが一般の共感を生むとは思えませんが。
とはいえ、推進側の「便利」もこれはいったいどうなんだというレベルの間の抜けた主張ばかりで、ある意味ライフログ把握のスプロール的拡大を無暗に懸念させるものになっています。本来利便で釣るにしても不安を麻痺させるのではなく合理的範囲に留めるのが正道のはずで、麻痺させているのではそれこそ現実に行われている原子力発電推進政策と同じで、問題が起きた時点でパニックが起きかねません。何度もその結果が出ている方法論を性懲りもなく繰り返している時点であほです。

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