■2022年08月07日(日)
「私」的と銘打った売り物は他者に向けたものではないのか?
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平成写真小史(島原学)を読み始めました。一応タイトル自体は「写真小史」のオマージュではないかと思うのですが、正直数ページ読んだ時点では論として「写真小史」レベルの革新性はないなあと思えます。 ただ、どうも結構前から鼻について気に障る荒木氏という写真家の写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」についての記述が出てくるのですが、そこで荒木氏が写真集への批判に対して「これらは他者のための写真ではない」と言っているらしいことが書かれています。もちろん他者のためでない写真はあり得ますし、何かの経緯でそれが公開されてしまうことはあり得ます。例えば個人的な所蔵品が歴史的な資料として公開されるというパターンです。しかし、本人が出版した写真集に掲載した写真について他者のためでないと語るというのは、理解に苦しみます。出版というのは作品を公に問う行為であり、それは他者のためのものでなければなりません。これは歴史的な資料として公開される場合でも同じで、個人的な写真であったものを、歴史的な資料として扱うことで他者のためのものに転換していると理解するべきです。個人的に撮りためた写真を公開する場合、公開をする人はそれを他者が見るもの、他者のためのものとして再解釈するべきですし、出版物にはその再解釈が反映されていてしかるべきです。それが出版された写真集についてそこに写っているのは撮影者の感傷だと批判されて答えが他者のためのものではないでは、意味不明、何のために出版したのかという話です。妻の死、あるいは妻の死への自身の感傷を他者に共感して欲しいという趣旨であったとしても、公に開く以上それは他者に向けたものです。「こうした写真を素直に出」すことが新境地という方がまだ理解できます。もっともそれが、自分自身の切り売りと言える賃労働や売春とどう違うのかはわかりませんけど。 もっとも、写真集を出している人のほとんどは当世風の美意識に相対的に立ち位置を決めて芸術写真を撮っては本質に欠けたポーズでプレミアムを付けて売りさばいているようにしか見えませんので、個人的には写真集には技術の参考資料として以上の価値を見出せません。そして人物写真は撮らないので、人物写真や光景に感傷 - 素直な感傷か捻じれた感傷かの違い程度であって、荒木氏の芸術写真とやらはそれこそ川端康成の作品に感じたような感傷がべたべたと張り付いています - を投影したような写真を取る写真家の写真集というのは多分買わないと思います。ということは専門誌を読まない限り荒木氏を気にしないですむはずです。「日本の現代写真を代表する作家」などという評価も、世の評価というものが当世風の美意識、世間の流行を反映するものでしかない以上、嫌いなものは嫌いで片づけることはできます。
「平成写真小史」島原学, 日本写真企画, 2021 いくつかテーマを決めて流れを追っているので、平成期の写真業界に馴染みのない人なら、著者の勘違いを我慢してでも書いてある人名やイベント、作品名を追ってみる価値はあります。その意味では、著者はこの時期の写真業界において悪くない位置にいたのでしょう。年表と索引の方が良かったと思いますが、1980円は悪くない値段です。 とはいえ、芸術畑の人の「作品」の感覚というのは何なのでしょうか。もちろん完成したと判断した時点では作品は作者のもので、作者が作品として製作した以上作品でよいわけですが、表に出た瞬間にそうではなくなります。それは、市場において個別取引ごとに貨幣価値に換算される、あるいはなにがしかの査定の場において表に置いておく価値を評価される、商品へと転化します。著者が何を込めていようと、それはこの瞬間にはく奪され、紙に塗りたくられたインクという物になり、そして買い手が見て意味を発見することで作品という位置づけを取り戻します。作者と買い手で作品の読みが整合することは全く保証されていません。表現としてその欠陥を補償しようというのが、完全にコントロールされた展示会やパフォーマンス志向の展示でしょう。完結していることが芸術作品の前提であるとすれば、その完結性は成り立たないというのが現代芸術の基盤であり、だからこそパフォーマンスを含める傾向があるのです。一方で自分の表現はそこまで脆弱ではないという考え方だってあり、ネットで公開するというのはそういう意味合いもあるでしょう。それでも、他者に見られている写真と作者の手元の写真との間に断絶があり、市場やネットのようなより公的な場においてはその断絶が絶対的なものになることは明白です。当然作品としての一貫性、完結性もそこで崩壊すると思います。それが、作品はあくまでも作品である、それは表現である、表現として見ることが唯一の正解だとでも言わんばかりの論評は作り手側で作品が完結するという旧弊な見方であり、そして作品や表現には金が払われてしかるべきだという言い様は、典型的な芸術産業の視線でしょう。もちろん例えば対象を芸術として扱うことを標榜する美術館が収蔵品を買いたたくことはあまり褒められたものではないと思いますが、それを言うなら、日本の西洋系美術館は例外としても、美術館の収蔵品というのはたいていが貧乏国から二束三文で買い漁ったりひどい場合は略奪したり、あるいはパトロンへの献上品や零落した収蔵家や価値を見出せない収蔵家の遺族が手放したものが基盤になっているものでしょう。そもそもそういった経済的収奪の上に収集と展示が成り立つのですし、それが作品にまっとうな対価を払うなどということになったら、正直公営美術館など成り立たないと思います。また美術館の役割が研究なら、収蔵品は研究の対象、資料でしかありません。作品それ自体が自立した研究対象となることはなく、研究に値するのがあくまでもその作品を在らしめた文化や状況、歴史、あるいはせいぜいその個体の真贋である以上、研究を目的とした美術館に収蔵された作品は芸術品ではありません。マテリアル(検体)です。作品の表現のとやばい薬でもやってるとしか思えないキャッチフレーズと感傷を垂れ流すのは、表現自体を目的とした舞台パフォーマンスかテレビ広告番組にでも出演しているならともかく、論評というパフォーマンスにおいては不適切な行為だと思います。 | | |