■2022年03月09日(水)
若々しいのはいいけど大根脚は違うと思う
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女子高生 制服路上観察, 膝の上下…が勝負! これは非常に納得がいきます。通常スカートが膝下の長さなのはそもそもそこを見せないようにしたいからでしょう。細くなって骨が浮き出た脛だけを見せて、他はシルエットをごまかすわけです。逆に見せる立場からすればそこをアピールしたいということになるのはわかりますし、膝を中心に上下各10cmの範囲が見えるようなファッションというのはありだと思います。 とはいえ、どうも都市部のこの年代の風俗を見ていると、ショーツが見えるとまでは言わないまでも太ももを過剰に見せている、それも脛や胴体とのバランスで均衡が取れているならともかく、どう見ても太いだろうという例が多く、これ、見せてみっともなくないのかなと思うことがあります。10代後半だと「太ももやふくらはぎは太い」というのはまあ、そんなものかなと思わないでもないというか、見せたくないのは納得できます。ならばスカートは膝上、ソックスは膝下のハイソックスにするというのは合理的でしょう。身だしなみとかしかるべき服装という視点を棚に上げて一種のストリートファッション、服装の規制が緩やかな場で自己表現として着る服として考えるのであれば、膝上ミニスカートとハイソックスという選択はありだと思います。 まあ、社会人女性を見過ぎたせいか、ミニスカートにハイソックスという格好は頭が悪そうに見えるんですけどね。スカートはシルエットがルーズになるので、シルエットが抽象的になるストレートのパンツとボックス型のショートジャケットが格好良く見えるわけですが、この点は理解は得られないかなとも思います。 ちなみに男性ファッションとしては、街歩きでのショートジャケットやジャンパーは貧乏くさくて嫌いです。冬場はロングコートでないなら街歩きでは着ない方がましでしょうし、フロックコートのリバイバルを望みます。また半袖は断固却下です。そもそもジャケットの袖からシャツのカフスが見えていないなどありえません。シャツの襟とカフスは見えていてしかるべきです。もちろん、ロングコートを着て藪漕ぎはしませんけどね。
放課後、どこで遊ぶにしても制服しか着れないわけだし 家の近くに遊び場などないでしょうし、学校の友達と遊ぶ以上当然の発想だとは思うのですが、これは制服という衣装の解釈を誤っていると言わざるを得ません。セーフクならともかく制服の場合、特定の集団に属することを発散しているわけなので、それが遊び場にいるというのは大変おかしなことです。会社員であれば、会社のバッジをつけて私的に遊び場に行くのはご法度です。もちろん警察官や自衛官のような制服のある職業の人もそうです。万が一ばれれば、懲戒処分もあり得ます。つまり制服を着ている以上制服に相応しい行動を心がけないといけないのです。まあ、このあたりは学校や父兄の感覚がおかしい部分も大きく、おそらく本来は帰りに寄り道して遊んでほしくないから制服で登下校させるのではないかと思うのですが、その結果制服で遊び場に繰り出すという本末転倒な事態が生じています。いっそロッカールームを設置し、登校後に制服に着替えさせる方がましなのではないでしょうか。どうせいくら取り締まろうが、遊び場には行くわけですし。オンとオフをはっきり区別させて、オフは学校は関係ない、責任を持たないとした方がいいと思います。
服飾文化の社会通念に照らすと、制服の下にハーフパンツを重ね穿きするのは、異種混交であり、フォーマルウェアのルールを逸脱していることはいうまでもありません。 これは著者側の見解ですが、まあ、だったらパンツスタイルにすればいいだろうという意味ではその通りです。もっとも女性のパンツルックはせいぜいがビジネスであって、フォーマルではないのですが(ミニのプリーツスカートも英国のスコットランド関係者を除きもちろんフォーマルではありません)。フォーマルが指定された場所にパンツスーツで出かけたら顰蹙ものでしょう。とはいえ、ファッションとしてはあり得ないものではないと思います。なにしろスカートの下にタイツやパンティストッキングを履くのは構わないわけですね。あれは分類としてはソックスになるようですが、シルエットの調整や保温のために履いていることは変わりません。またカジュアルファッションにおいては、スカートはボトムスというよりは装飾として扱われるようになっている部分があるように思います。つまりベルトの一種になっているのではないでしょうか。
フォーマルの証ともいうべき、襟のあるジャケットやシャツが いや、どれもカジュアルでも着るんですがね。20世紀初めの写真を見ると、路地裏にピークトラペルのよれよれしたジャケットを着たおっさんやあんちゃんがたむろしてますが。まあ、ラペルというのは余分な装飾か、せいぜいタイをして首元を締めるための部分ですので、本来は襟なしシャツを着て踝上丈くらいのロングパンツやロングスカートを履いているのがカジュアルではあります。とはいえ労働者階級と言えど、都市民はそれではすまないのです。
乗りつつ冷めている、あるいはルールを知っていてあえて外す もちろん著者の言う通り今に限った話ではありませんが、そもそも先鋭的なフォーマルファッションというのはそういうものです。アイテムにしろ印象にしろ完全に変えてしまったらフォーマルとして成り立ちません。そのあたりは、それこそブランメルあたりも説いていることです。フォーマルをルール通りに着こなしたらダサいのです。とはいえ、首元を緩めるとかいうのは着崩すでしょうね。本来ボタンを外すのもそうではないかと思うのですが、一応フォーマルとして燕尾服という、そもそもベストを見せるためにジャケットの前は閉じない服があるので、ジャケットに関しては前開きもありなのでしょう。またジャケットの一番下のボタンは留めないというのも、一般的な着こなしのルールです。その意味ではあの詰襟学生服というのは非常に問題で、むしろあれと軍服の類だけが、ジャケットのボタンを全て留めるルールです。フォーマルのエントランスとしての制服としては、問題があります。
彼らにとってフォーマルウェアは日常着なのだ というよりは、大人がフォーマルウェアを日常着と考えるように仕向けてしまったというのが正しいでしょう。本来それを着るべき場所ではしかるべく振る舞うよう仕向けるためのフォーマルウェアですが、四六時中、それも他人に見られるべき全ての場でそれを着るとなると、もはやそれは日常着であり、それをアレンジしてファッションセンスなりをアピールするのは、それこそ戦前軍服の着崩しやアレンジが軍人の間で流行ったことからもわかります。また旧制高校生なども、制服をきっちり着るのは野暮という感性があったと思います。制服という観点からは、夏服と冬服に加えて直行して礼服と平服と作業服のカテゴリーを設けるべきかもしれません。例えば全校集会では必ず礼服着用、作業以外の授業では平服着用とした場合に、礼服に過度な着崩しをする子は少ないだろうと思います。いやまあ、礼服を着ていてもだれるようなスピーチを聞かされるとだめかもしれませんが。
長すぎるスカート丈規則は、かつてのベルリンの壁や米国禁酒法と同じ まあ、それはそうなんですが。とはいえ、フォーマルでミニなんか履いたら目をひそめられるのは今でも同じですからね。その意味では始終フォーマルで行動させることでフォーマルのカジュアル化を促進してしまっていると理解すべきような気がします。カジュアルやストリートファッションでミニ丈のプロポーションが認められるとしても、男性の半ズボンが現代の一般的なフォーマルでは認められないのと同じで、ミニスカートも膝下スカートもフォーマルでは認められません。せいぜい庶民的なダンスパーティーまでです。その意味で、踝丈より短いボトムスを前提にプロポーションを構成する時点で、それはフォーマルではないのです。その意味で、制服をフォーマルに近い意匠と位置付ける視点からは、膝上スカートで下着が見えなければいいという発想には問題があります。そこは、フォーマルという観念と常に着用している衣装という視点との間で調整が図られないといけません。 ちなみに過去でも、乗馬ズボン、つまりキュロットはロングストッキングやロングブーツと組み合わせて履くもので、素足を出すなどありえませんでした。素足を出していたフォーマルというと、5世紀くらいのローマ軍人の、チュニックにサンダル履き軍装あたりまでではないでしょうか。乗馬戦闘が主流の北方蛮族はこの時期でもロングパンツの着用が普通で、これは文明人から野蛮なダサい格好と言われていたようです。歩兵が軽装、時には裸で部分鎧を着用し盾を持つのはたいていの文化圏で共通します。そのローマでも、あるいは中国でも、偉い人のフォーマルというのは長い裾なのが当たり前で、脛を見せるなど考えられなかったようです。 またカーディガンはジャケットの中に着るものではないという主張もありますが、そもそもベストは今のカーディガンに近いアイテムでした。現在のジャケットのシルエットが確立した19世紀後半には袖なしが普通になり、ジャケットと組み合わせることが前提になり、ジャケットを脱いだ形がフォーマルを着慣れていない人たちの着崩しになります。つまり映画でよく見るジャケットを脱いでベストとシャツを丸出しにしている風俗は、フォーマルでは絶対やってはいけない着崩しです。その代わりとして、ジャケット(とベスト)を脱いだ状態でジャケットの代わりに着るものとしてカーディガンがあるわけで、その意味ではカーディガンの上からジャケットを着ることには問題があります。それにカーディガンはそもそも部屋着で、外出時に一番外側に着るものとは言えません。とはいえ防寒のためにジャケットの下に保温性の高い服を着こむというのはごく普通にある風俗なので、特にジャケットとジャンパーの区別などついていない人にはそんなルールは意味がないでしょう。
制服は歩く広告塔 こんなことを言うのなら、それを着崩されるような状況で、つまり校外で着せることは止めるべきです。指導すれば従うなどというのはバカの考えることで、センスのいい子ほど自己主張に従って着こなします。それは規則通り着ている子も同じで、むしろ規則通り着ることで自分の立ち位置をアピールしていると考えるべきです。それを一定の範囲に収めたいなら、常に監視の下に置かないといけません。ただしそれを一日中やられると、とくに監視下に置かれる利益のない(服装規定違反で減棒されたら生活に困る俸給取りではない)若者は必ずはみ出します。緩急をつけるべきですし、それはよく学校で言われる生活のリズムといった発想とも合致するはずです。
問題は服装マナーを教わる機会がないこと というより、日本社会自体にTPOをベースにした服装マナーを重視する基盤がありません。一張羅でいいというのが基本です。だから、会社員が始終よれたスーツを着て、仕事をしては飲み屋でくだをまいているのです。いわば常に仕事用の半纏と丸首シャツとステテコを着ている下町の職人親父の風俗であり、この点では会社のロッカールームで制服と出勤着を着替える制服組女性会社員の方がしっかりしていますし、その目が気になる私服組女性会社員もオンとオフの切り替えをきっちりつけます。個人的にも、退勤後に剣型ネクタイをしているのはおかしいというアメリカ東海岸の方の指摘には日本のファッションのルーズさを思い知らされた気がしました。そこでネクタイを外すか蝶ネクタイに替えるかはともかく、誰にどう見られるかを意識するという意味での服装マナーは小学校の段階からきっちり教えるべきですし、とにかくフォーマルっぽい服を着せておけばよい的な親の服装センスも指導の対象にするべきでしょう。仲間や他校の生徒に見られることを意識できるなら、就職の面接で面接官から見られることや、客先で顧客から見られることも意識できるし、ポイントさえ理解すれば実践できるはずです。身分制度があったころはその区分もはっきりしていたようですが、明治以降急速にだらしなくなりました。文化人や芸能人のようなファッションリーダーがそう振る舞い、それに対する対抗文化がなかったこともあるのでしょう。
高校は高等教育を受けるところ 旧制高校のような前期高等教育ならまだしも、現在の高等学校は後期中等教育でしかありません。今は違うのかもしれませんが、とにかくお仕着せで卒業資格取得まで引っ張って行く中等教育までと、自分で考えないと始まらない高等教育を一緒にしないでください。それと、高校レベルでも、アメリカならアイビーリーグに毎年何人も進学者を出すような高校(フォーマルに近い服をアレンジするセンス)と、コミュニティカレッジにすら進学は稀という高校(そもそもフォーマルなど着ない)とでは事情が違います。当然求められるファッションセンスも違います。イートン校の学生の写真が出てきますが、あれは上層中流階級の基準でしかありません。そこに、文化教養層の社交パーティーや大企業の経営管理職の会合で求められるセンスだけを押し込んでも仕方ないのです。正直、文化勲章の授章式でもおろしたての仕事着を着て胸を張るセンスが、底辺校にこそ求められると思いますし、それはフォーマルというかスクエアファッションを基盤とした制服文化とは違うと思うのですけどね。 もっとも、西洋の場合日曜ごとの教会での集会という日中向けのフォーマルを着る場があり、日頃着た切り雀の労働者でも、その時だけはフォーマルに近いファッションをする習慣があります。逆に言えば教会など行かなくなった現代は、その規範が緩んでいるわけですが、例えば試験は正装で受けるとか、全寮制の学校で朝の点呼はジャケットを着ないといけないが授業中はジャケットを脱いでいてもよいといった形で、メリハリをつけていると聞きます。仮にもフォーマルを着るセンスというなら、そういう考え方が大事な気がします。おそらくひとつ大事なのは、デイタイムのファッションと夜会服は別ということで、明治の帝国議会のようにフロックコートとモーニングと燕尾服が同居しているような状況は絶対に作ってはいけません。ビジネスシーンに燕尾服などフォーマルの規範から言えばありえず、まだタートルネックセーターにトラベルジャケットの方がましでしょう。そのように、場に即した規範から見られることを意識させる(これは、同世代の視線を意識することにも通じる)ことが、着こなしのルールを身につけさせる、そして敢えて言えばそれを上手に破らせる、基盤になるのではないでしょうか。
校門を出るや否や私服に着替えているはず いや、こうでないのがむしろおかしいと思うのですが。むしろ学校は、それを身につけさせるべきでしょう。その上で、世間も子供が問題を起こしたら学校に通報するなどという馬鹿げた行為は止めるべきで、学校も、通報があっても、学校の外、授業外でのことなど知らないと突っぱねるべきです。 もっとも、制服という一定のファッションジャンルが確立した点は、確かにアパレルメーカーにとっては福音です。こういう方向性で服を作っていれば一定数の需要があると示されたわけですから、学校側・父兄側と生徒側の間で蝙蝠を強いられるにせよ、食ってはいけるわけです。正直恥ずかしい仕事だとは思いますが、食えるというのは大事なことです。ただし、制服というのが親が買って与えるものであり、しかも普段着に比べてなかなかに高価なものだということは認識して欲しいと思います。もちろん素材や縫製は相当高度なものが使われており、率直に言って社会人向けのリクルートスーツよりよほどしっかりした品です。汚れに強く丸洗いができて解れにくい、そんな私服は今時ほぼ見かけません。値段不相応だとは絶対に言えません。とはいえ、社会人がこれが服に出す値段かと首をひねるような額が妥当かと言われると、疑問を抱かざるを得ません。どうせ子供の着る服ですので、1万円くらいで1シーズンで買い替えるくらいにならないものでしょうか。3ヶ月も着たらよれよれぼろぼろで構いませんから。どうせそのころには衣替えです。 それと、フォーマル回帰は現在のファッション一般の傾向としてある気がします。特に、上層がカジュアル化するのに対して下層がフォーマル化している気がします。例えばビジネスカジュアルやクールビズなども、上層には浸透していますが、下層には結局浸透しないままでした。これは、一方で制服に代表されるそれさえ着ていればいい服が社会的立場を示すものとして一般化し(ユニフォームとしてお仕着せを着る仕事はここ100年で激増しました: 接客業の制服なども服飾上重要な画期を為しています)、一方で下層にはそもそもビジネスで着られる服自体がビジネスウェア以外ないからではないかと思います。海外の学生が普段何を着ているかというと、欧州あたりではセーターか厚手のシャツにジーンズのロングパンツです。シルエットこそ昔のベルボトムからスキニーに変わりましたが、たいていの人はこれを一生着ているので、カリフォルニアあたりのファッションはビジネスファッションでもこれです。スティーブ・ジョブズなど好例でしょう。一方北部のビジネスファッションのマナーは今でもビジネススーツで、ネクタイが省略されて首元を開く程度です。これはビル・ゲイツやジャック・ドーシーあたりでしょうか。ジャック・ドーシーの場合世代差の可能性も高いですが、カジュアルな服装がビジネスファッションとして受け入れられる素地があるのです。面白いのは、大学教授でもスーツを着る人とジーパンで通す人がいる点で、両者がこだわりなく議論を交わしているシーンは興味深いものです。一方日本はというと、よほど柔らかい業種でもない限り、ジーパンはビジネスファッションとしてあり得ません。「いい方のジーパン」という表現があり、これは仕事もジーパンにTシャツでする技術者が、結婚式に参列するためにおろしたてのネルシャツとジーパンを着てきたという話なのですが、これを押し通せる猛者でもない限り、クールビズなどしようがないのでしょう。まあ、ニュージーランドの例で、結婚式で参列者が全員ブラックスーツにサングラスなものだからギャングの集会みたいだったという話もあるので、フォーマルならいいというわけでもないのですが。
ベーシックな形だが機能的で新しい生活着 制服としてはこれが正しいと思います。ただし、これはフォーマルウェアの定義ではありません。フォーマルウェアはあくまでも儀礼的な服です。ビジネススーツだって本来はフォーマルではなく、フォーマルと呼ばれるのは現状男性についてモーニングスーツ(セレモニアルシーン)、タキシードないしはディナージャケット(夜会シーン)、女性でアフタヌーンドレス(セレモニアルシーン)、イブニングドレス(夜会シーン)です。訪問のための外出というのはれっきとしたセレモニアルシーンであり、モーニングスーツやアフタヌーンドレスを着るのが筋ですが(和装だって羽織袴を着けたり訪問着という女性向け着物のジャンルがあったりするわけです)、これは生活着ではありません。これらをきて買い物や洗濯、帳簿つけや勉強をすることは想定されていません。その意味で、学校の制服というのはフォーマルウェアではなくせいぜいがビジネスウェアです。それこそイートンの生徒でも、セレモニーはまだしも、パーティーにタキシードではなくイートンの制服で現れたら、顰蹙を買うでしょう。 とはいえ、ビジネスウェアにおいては一定の形式を踏まえるべきで、そこには清潔感や端正さが求められるのは確かです。それと現代高校生流の着崩しとが相容れないことは明らかです。それは膝上プリーツスカートを含めてそうであるわけで(まあ、踝スカートがどうかは議論の余地がありますが、膝下丈のプリーツスカートを踝丈で履くのは違うでしょうね)、一般的服装規定として押し付ける形から外れるとしても、そういった規範に即した装いを身につけさせることは必要でしょう。なお、ビジネスウェアとしてミニスカートが絶対になしであることは確実です。事務所での顧客応接を担当するポストの面接にミニスカートで来る女性がいたら、躊躇なく落とします。その意味で、あのタイトミニの制服やビジネススーツはビジネスにそぐわないエロ衣装と言わざるを得ません。その一方で、高校生にとって日常である授業を中心とした普段の学校生活において過剰に格式ばった振る舞いを期待できないことも確かで、そこにビジネスウェアの規範を持ち込んでも生徒の方は掻い潜ってくるだけでしょう。そもそも指導する教師のファッションセンスの方がよほど問題があるわけで、生徒が納得できる状況を作り上げることこそが求められます。それこそ高校に行って制服を着ること自体がステータスだった時代とは違いますし、あるいはモラトリアム世代として制服に反発していた時代とも違うわけです。
制服が日本人の気質を作る これはどうでしょうか。翻って言えば、制服を想定通りに着こなさずに網をくぐることばかり考えている高校生は日本人として問題があると言っていることになりますが、そんな高校生も、就職すればそれなりの社会人になっています。学校が生徒をキャストするなどという発想は、見当外れも良いところではないでしょうか。 また、そうやってキャストしようという姿勢が、日本の現代的ビジネスへの対応を阻害しているわけです。そこは、制服っぽい服と制服、ファッションとしてのセーフクとユニフォームの違う点でもあります。制服業界がセーフクビジネスに消極的なのも、ビジネスモデルの違いと共にそこの差をきっちり感じ取っているからではないかと思います。もし著者の言うように制服が日本人の気質を作っているのだとしたら、まずはセクハラ対策として、学校向け制服ビジネスはさっさと潰すべきでしょう。 | | |