■2022年01月11日(火)
ペルジールを手元に置いておくべきかもしれない
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今日のカトリック神学 カトリック神学への招き 興味本位で神学に手を出したわけですが、キリスト教哲学や近代化で脱色された古代哲学ならともかく、生のキリスト教神学やその基盤としての古代哲学は、なかなか生々しくてきついものがあります。まあ、生々しいのを読み込んで脱色するのも個人の営為としての哲学ではある気がしますが。逆に生々しいのに憑りつかれちゃった人が多数派なので、カルトや自己啓発セミナー程度には注意しないといけません。まあ、まずは生々しいのを我慢して読み通さないとその先に進めないのですが。 「今日のカトリック神学」は、短いこともあって、最初のところを我慢すればそれなりに消化できます。おそらく読み返すにしてもさほどの負担はないでしょう。 「カトリック神学への招き」は、ボリュームが倍はあるだけに、最初の山を越えるまでに苦労しそうです。何しろ「神学」ですので、信仰が前提になります。そこを、「もしキリスト教の信仰があるならば」と棚上げして、前提に沿う形で読み込んでいくことになります。でないと、そもそも思想や哲学の議論など読むに堪えません。笑い出すくらいならまだましで、疲れるとか、蕁麻疹が出るとかになります。おかげで新渡戸稲造や岡倉天心、あるいは昭和期の哲学屋の著書も、難解というよりは中二病患者を見ている恥ずかしさで、数ページでへばります。非技術的な抽象的思索の垂れ流しというのは、それほどにきついものがあります。メシア論的オカルトサブカル作品に近似する反応を引き起こします。とはいえ、読まないと、批判すらできません。また、神学である以上キリストによる、神のキリストを通した救いを前提にしなければ始まらないという主張は、デカルトやカントあたりからの哲学の取り澄ました観念的思考よりはよほど正直で好感が持てるとは言えます。とはいえ、「アルケー」はちょっと、高校生の頃にプラトンの抜粋を読んだときなみに、拒絶反応で鳥肌が立ちました。なんというかもう、唯物論万歳です。 | | |