日記

■2021年10月30日(土)  AndroidはSurfaceの二の舞になるか
ピュアGoogle体験を提供するPixel
「他者のロードマップに左右される要素を最小限にし、自分たちのコントロールでデバイスを作っていきたいのだろう。半導体の供給不足が懸念される今、そして今後のロードマップを考えれば、そういう要素は重要だ。」
いや、山田さん、細かい話ですけどこれは違います。半導体不足というのはあくまでも生産と流通の問題であって、コアSoCに求められる機能や性能が何かという話とは関わりません。Googleはサムスンのファウンダリーに製造を発注しているのであり、供給面やプロセスレベルでの脆弱性は何ら変わっていません。しかし、必要な機能を設計レベルで作り込むことができるという点は、実現したい機能をハードウェアレベルで実装できることになり、ここは実現したい機能を主体的に実現できるという意味でのロードマップの安定性につながります。性能面で3nmプロセスが欲しいとか、そこに一緒にこういうセンサーを扱うインターフェースを盛り込んで欲しいと思っても、ファウンダリー側の技術で実現できないのであればGoogleにはどうしようもないわけですが、Qualcommが設計してくれるのを待つしかない状況からは解放されたということです。
その上で、我々の作りたいAndroidスマホというのはこうだと主張するわけなので、単に他社によるシュガーコーティングがなされていないPure Google Experienceではなく、Androidスマホのスタンダードを打ち出したと解釈することになります。もちろんそこからずれること自体はインプリメンテーターの裁量範囲ですが、それはあくまでもPixelを基準としてずれと解釈して欲しいというのがGoogleの考えでしょう。そこからExperienceの統一に進むのか、ずれを個性として許容するのかはわかりませんけどね。ただまあ、Androidのファミリー構成の考え方からは、AppleのようなExperienceの統一という発想は出てきにくい気がしますけれども。やってせいぜいSurfaceレベルというか、まあ、そっちに行こうとして見事に失敗して現在の位置に収まっているのがSurfaceだとは思いますけれども。

■2021年10月30日(土)  押し付けられなければ仕事に埋没してまともに勉強しない人に言われたくないですが
研修を押しつけずに「学ぶ余裕を」 文科省に「#教師からのバトン」
たしかに、学ぶ余裕というのは、時間的にも金銭的にも必要です。これは明白で、そこを制度化せずに更新制度を導入した点が、免許更新制の実質的な崩壊につながったことにも疑いはないでしょう。
ただし、余裕があれば学ぶというのは高校以下の学校の職業的教員については幻想ですし、硬直化した学歴制度と政府の統制下にある現代日本学校制度が教育内容の固定化と官僚制的腐敗を来していることも否定しがたいと思います。これは、進学指導と課外活動という、本来学校での教育とは何の縁もないものに学校と教員が振り回され、自ら泥沼に漬かっていることからも明らかです。まあ、進学指導や広範な教養の獲得が大衆化したこと自体は、現行の学校制度の功績でもある、それは認めた上でのことですが。とはいえ疑問が呈されつつもそこにしがみついている、関係者がその部分を疑わない、あるいは疑えないというのは、泥沼にはまっているとしか評することができません。
この点で、学校教員が免許の更新と職業教員としてふさわしい見識の継続的な展開を自身の手でOff-The-Job Trainingとして実現していくことは、学校教員が官僚の一形態ではなくプロフェッションとなっていくためにも、それにふさわしいキャリア形成システムや報酬を認めさせるためにも、必要だと思います。

■2021年10月29日(金)  芸術家は街頭に出てはどうか
「見えない心の潤いを想像して」 芸術が政治に求めるもの
「見えない心の潤い」などという概念は、2000年までに摩滅したものだと思います。
今や、政府が文化の問題に関わることは、むしろ害悪と言えるでしょう。一定の文化をオーソライズする均質性が失われています。スタジアムに10万人を動員しようが、特殊な人たちの特殊な趣味でしかありません。
もちろんその特殊な趣味すら制約を受けることは消費者から人生の喜びを奪うことにつながるという主張は理解できますが、それは社会政策において配慮すべきことではなく、実践家が工夫して解決するべきことです。舞台に呼べない、動画も満足できない、ならば街頭にでも出てみてはいかがでしょうか。事前の周知による苦情の防止にしても、かえってそのようなことをあえてやるのだという宣伝にもなります。梅田に出てまで見ようとは思わなくても、近所のスーパーの駐車場でやるというなら見る気になるかもしれません。言っても仕方がないことに苦情を言っているくらいなら、大道芸人や仮設舞台での劇に立ち戻ってみるのも手だと思います。

■2021年10月27日(水)  カメラメーカーがGRみたいなのをメインの商品にするようになったらカメラ業界はスマホに吸収されて終わる
世の人間は普通、レンズ交換式カメラなんて1台しか買わないし、キットレンズだけでお終いの人が9割くらいだと思うんですよ
もちろんそれはそうだとは思います。とはいえメーカーとしてはレンズ交換式カメラを買って欲しいし、レンズも買い足してほしい。今さら高性能コンデジに走ったってニッチしか開拓できません。それでは商売が成り立たないわけです。またレンズ交換式カメラこそが写真家の使うべき機材だと考えるユーザーにとっては、高性能コンデジやスマホでいいやということになってレンズ交換式の市場が縮小し、入手が難しくなるのは困るわけです。もちろん使う側にとっても、例えキットレンズしか使わないのであっても、ニコンやキャノン、まあソニーでも何でもよいですけれども、そこが自信をもって押してくるハイエンドカメラを使うということはステータスにつながる。そう理解していると思いますし、何かレンズ交換式カメラには使う理由があるという理解も共通はしていると思います。まあ、それが広告によって作り出された虚像で、実は上級ユーザーがメーカーと組んでエントリークラスユーザーを食い物にしている可能性だって十分ありますけどね。

ニコン、“D6を上回る信頼性”のミラーレス・フラッグシップ機「Z 9」。70万円
ところでですね。重すぎませんか?これ。ボディのみで1kg越え。レンズだって軽くはないので、大型のレンズを装備した場合1.5kgにはなります。何を突っ込んでいるのでしょうか。プリズムがなくなってミラーもなくなって、さらにシャッター機構までなくなったら軽くなってしかるべきだと思うのですけど。
値段は、ここまでくると100万越えだっていいわけです。どうせフラッグシップなんですし。100万を超えるけど10年は使える。買い替えはなかなか進まないけど基本の性能が高いからプロだってメインで5年、サブで5年は使えて年間の償却額が10万ちょっとで2年もすれば型遅れになるエントリーモデルよりお得。そういう打ち出し方だってあっていいのです。しかし、どこで食っているのかわかりませんけど、ノートパソコンより重いというのはいただけません。そこは技術とお金を突っ込んで何とかしてほしいものです。最高の技術をつぎ込むフラッグシップ機とはそういうものでしょう。重たければステータスになった時代ではないのです。

■2021年10月27日(水)  ハラール肉が入手しにくいのは日本政府の責任ではない
困窮者を支えるムスリム 「国は異文化への理解を」
善行を理由として宗教や信仰団体について文化として理解や承認を与えることにはあまり賛成できません。それこそ新宗教や新・新宗教を含めて善行というレベルではさして違いはなく、理由はどうであれ善行と評価しうる活動を行っている団体が少なからずあります。しかし宗教や信仰の害毒は、善行なり悪行なりではなく、超越的な存在を想定しそれによる救済を語るという点にあります。善行を行う動機は信仰にあるかもしれませんが、善行を行っているのは人間です。信仰の対象である超越的存在自体は客観的な善行において何ら意味を持ちません。それを主観的に超越的存在に帰することが、宗教の害悪です。これは異文化といったレベルではなく、超越的存在への信仰に支えられた聖的文化空間と人間の行為や関係性に基盤を置く俗的文化空間のどちらを社会の主体とするかという問題です。個人としての信仰ならともかく、信者団体としての公空間における宗教は、いかなる宗派であれ疑いの目をもって見られるべきです。
また実践面でも、宗教的実践は個々人の受け入れている習俗という以上のものであるべきではありません。政策提案においては、より一般化した提案が求められます。例えばイスラム教徒が義務的な礼拝をするためではなく、個人である従業員がその生活実践を十全に行うために、雇用主による就業時間内の行動統制の緩和が求められます。また食材やその取扱いに関して信仰に関わる規制と国なりの安全規制が齟齬を来すのであれば、国なりの安全規制を迂回して自らの望む状況を実現する責任は個人の側にあります。
異文化への理解を求めるのではなく、自らが異文化を理解し、それとの対峙の方法を探るべきではないでしょうか。

■2021年10月26日(火)  有機だエコだと特権を主張しているように聞こえます
コスト高、天候不順、そしてコロナが翻弄 国は有機酪農に支援を
なぜ酪農全体でなく有機酪農を支援しないといけないのでしょうか。もちろん国策として全体を有機酪農に転換するというならある程度分かります。それをする必然性がある気はあまりしませんけど。しかし、有機酪農が政策目標があるとはいえオプショナルである状況で、なぜ有機酪農を特別扱いして支援しないといけないのでしょうか。もちろんコストは高いでしょう。コストを下げ、生産性を上げるために工夫してきた結果が近代的な酪農システムなのですから。しかし有機酪農というのはそのシステムに対するアンチです。それをコストが高いから支援しろと言われても説得力がありません。
もちろん、現在酪農家が困難な状況にあることはわかりますし、農林水産省は経済産業省や外務省あたりの圧力をもしあるならはねのけて支援をすべきだと思います。そうでないと国内の安全規制が崩壊しかねませんし、輸入重視に転換して産業分野を崩壊させた場合、再建には大変なコストがかかります。乳製品を嗜好品と見做すなら別ですが、生活必需品なり摂取を推奨する食品なりとするなら他所から買ってくる以外の確保策は講じてしかるべきです。これには、とりわけ現代の牧畜業で問題になる飼料の供給も含みます。
支援というなら、有機農法には飼料の生産方法も含めて規制がかかっており、そこには隣接耕地での非有機農業の有無も含まれます。有機酪農家を点在させるのではなく、それこそ飼料を供給する耕地も含めての集約を支援する程度の施策はあってよいでしょう。酪農の部分だけでは有機は成立しません。これは本来有機農法家側の努力を要する話ですが、そもそも個人の取り組みとして始まった有機農法拠点が点在しているのは歴史的な経緯から見て当然で、非有機的農法と地域的に区別する程度の施策は推進を言うならあってしかるべきです。
とはいえ、本来コストが高いものを、コストの低い方法に太刀打ちできないから補助金で支えるというなら、そこにはせめて主食供給確保程度の理由が必要です。有機がいいから有機を支援というのは、ただの原理主義です。

■2021年10月24日(日)  eSIMが使いにくいのは仕様の問題と本人確認
eSIMの存在意義
「コンビニ弁当の支払いまで電話料金に含めてとらえられてはキャリア側もかわいそうだ」
そんな話があるわけですか。まあ、電話料金に加算しての支払いを提供している以上、その手の誤解を受けることについては想定済みだと思いますけど。
とはいえ、携帯電話のデータ通信料金は現状安いとは思いません。音声通話はいくら取ってもかまいませんが、データ通信はそもそもいくらでもできるというのがネットの大前提です。そこに容量制限だ速度制限だでは、本当にそのサービスを売りたいと思っているのか疑問になります。そんなだからデジタル化がさっぱり進行しないのだとも言いたくなります。通信でつながるというのが社会の前提になるなら、その通信の利用料は一般道路と同程度になってしかるべきでしょう。それをプランがどうこうというのは理屈としておかしいと思います。
eSIMについては、正直契約を解除するのでなければ相当数を内部に蓄積できてしかるべきだと思います。ある時点で有効になっているのはひとつでよいわけですし、所詮不揮発メモリ上の電子データなのですから、今の技術でも百や二百は入るはずです。物理SIMを入れ替えるという携帯電話会社側の都合に観念が凝り固まっていると思うので、改善してしかるべきでしょう。もちろん、SIMの交換などしないでよくなる方が便利ではあります。
また、eSIMの利便性の低さには過度の本人確認を行っている点もあると思います。容量シェアでもあるまいし物理SIMを解約してeSIMを契約しなおせばよいわけで、SIMカードの乗り換えなどという下らない制度はなくしてしかるべきでしょう。上述のeSIM収容件数の増加と収容したeSIMの切り替えと組み合わせれば、ユーザー側から見て物理SIMの入れ替えと同じになります。もちろん契約手続も、本人確認などというものは支払い手段側で行えばよいことで、キャリアのサイトがどうこうなどという必要性は本来ありません。それがなぜ本人確認などという話になっているかというと、総務省が携帯電話回線契約において本人確認を義務づけているからで、これさえ無くしてしまえば本人確認など全く無用になります。そのあたりをむしろちゃんと議論すべきだと思います。

■2021年10月22日(金)  政治家にデフレ無害論を吹き込む手口
政治家に国債無害論を吹き込む手口を暴く
政治家に国債無害論を吹き込む手口を暴く
40年前に国債有害論を吹き込んだ手口もあまり違っていないと思いますけどね。その結果臨時行政調査会を経て「新自由主義」につながったことは忘れてはいけないと思います。
まず品がないのは盛田さんも高橋氏とあまり変わらないと思います。
その上で、盛田さんの一番の問題は、債務自体を有害とする考え方にあります。私法でも会計でも、債権と債務は必ずバランスすることになっています。つまり債務を無くしてしまえば債権もなくなります。これでは社会主義はまだしも資本主義は成り立ちません。リベラルがどうこうというレベルの話ではなくなります。
実は盛田さんの主張に近い論がいくつかあります。一つは重商主義。これは国家レベルで債権を収集して債務を他国に押し付ける経済思想です。これが19世紀までに自由主義に駆逐されたことは言うまでもありません。もう一つはアメリカ合衆国の財政政策論争における反国債派です。彼らは国債の発行をゼロにして小さな政府とすることを目指しました。ごく限られた税収で活動する限定的で分権的な政府を求めたのです。これに対して国債派は、国債を発行することで経済における余剰通貨を回収するとともに安定した投資機会を提供し、流動資産を増やして経済を成長させることを主張しました。こちらも国債派が反国債派を駆逐しています。
上記の二つの国債有害論の特徴は、国債はあくまでも借金だから、そのうち返さないといけないからよくないというものでした。もちろんこれには、当時通貨の流通量には上限があったことが影響しています。つまり本位貨幣制度です。国債を償還するには別途通貨を収集してこないといけません。その通貨には、金属の流通量という明確な上限がありました。これではアクター間の通貨の奪い合いに政府が参入することになり、通貨の希少性が上昇、つまりデフレになってしまいます。デフレになれば債務の実質負担は上昇しますから、返済が困難になってしまいます。
この話は、現代の管理通貨制度では成り立ちません。いわゆる国債無害論に言う統合政府というのはそのことです。健全とか不健全という話がそもそもナンセンスであり、中央銀行が債権と引き換えに通貨を供給している以上、安定資産と言える国債が供給されないと中央銀行資産がリスク資産ばかりになってしまいます。また理論上中央銀行の通貨発行上限は無限大です。政府がどれだけ国債を発行しようと、中央銀行は通貨の発行、つまりお札を印刷することでその国債を吸収できてしまいます。その国債を償還する場合はどうするか。新しく国債を発行してそれと償還期限の来た国債を交換します(借り換え)。この場合国債発行に伴う政府の負担が金利だけということになりますが、現在は低金利政策により国債金利も下落しており、実際一千兆円と言われる政府債務に対して令和3年度予算での国債費はわずか24兆円。金利負担に当たる利子及割引料は9兆円で、1パーセントに達しません。債務は残ります。しかしそれは豚積しておくことができます。相殺するとなくなるなどという馬鹿な話ではなく、借り換えをすれば必ず受け入れてもらえるので返す必要がないという話です。
むしろ国債発行が不足しているために、供給した通貨が民間発行の証券の流通市場、つまり典型的には株式市場に滞留して、株高になっています。こちらこそ民間による経済への税金とでも言うべきです。株式市場に流れ込んだ通貨は本来実体経済に流出していくはずですが、その回路が故障してしまっています。この故障を迂回して実体経済に通貨を流すには、国債を発行してそちらに通貨を吸い取り、財政政策を通して実体経済に流していくしかないというのが本来の国債無害論、積極財政論です。アベノミアベノミと論ってデフレを礼賛するような政府財政しか見ない健全財政論者こそ曲学阿世と言うべきです。左派を含めて右寄りになり過ぎたから日本財政不健全論に反論すると「自民党右派ですらしらける」ように見えるのです。
盛田氏は政府財政が破綻すると言いますが、政府財政の破綻とはどういうことか。民間における破綻とは支払い債務が形式的に実行できなくなることです。例えば資産が現物や長期の債権に固定されてしまい、一方で短期の債務が増えた場合、短期の債務を解消する現金がなくなって破綻します。このために再建策としてローンのリスケジュールや、盛田さんの言うような資産の売却が行われて現金が確保されます。その現金とは日本国内においては日本円です。日本銀行の債務証書です。米ドルでもなければ金でもありません。では政府はどうかと言うと、基本的には極めて寛容な貸し手である日本銀行が国債を引き受けてくれる限り上限なく現金を確保できます。国債は円建てですから、日本銀行から借りてきた日本円は額面で通用します。今年の円だから去年の半額などということは起こりません。これに対する例外は、政府が通貨発行を求められない場合だけです。この場合政府は流通している通貨を十分にかき集められないとデフォルトを宣言せざるを得ません。ユーロのような通貨発行主体が政府との協力を禁止されている場合、また外債のようなそもそも管理下にない通貨で債務がある場合です。
ただしその結果通貨が過剰供給になり、インフレーションや為替下落が起こることは十分あり得ます。エネルギー価格や輸入食料品、素材を中心に消費者物価が上がります。これは政府財政が破綻せずとも起こります。政府がデフォルトを宣言した場合にそれが極端な形で発生するというだけのことです。本来デフォルトを宣言する必要自体がありません。
そして日本経済はどうなっているか。それなりに最低賃金の引き上げなどが起こっているにもかかわらず、消費者物価指数からみた状況は明らかにデフレです。低「金利」になっているのは金融商品の流通市場だけで、デフレにより実質金利は経済成長を上回るうえに、借り手がいないのか貸し手が渋るのか日銀の流したお金がさっぱり消費者物価上昇につながらないのです。もちろんそれを日銀の通貨政策の失敗として非難することはできるのでしょうが、それを言うなら通貨を供給すれば流れていくと思っていたこと自体が問題です。トリクルなんてどこにあるというのは確かにその通りです。しかしそこで政府債務の削減や通貨供給を絞るといったことをすれば、本当に金融市場下落からデフレを加速させることになりかねません。これでインフレ懸念などと言ったら、黒田総裁が怒って、だったら起こしてみろよと怒鳴り込んでくるでしょう。
無策なバラマキは確かに愚策でしょう。しかし現状政府債務削減と通貨供給の絞り込みはそれ以上の愚策です。それがわからず1パーセント程度の国債金利でキャーキャー言っている財務官僚は無能だ、頭が悪いと言われても仕方ないと思います。

■2021年10月20日(水)  けち臭い全体主義、企業福祉の当然の悪影響
病気で休職中にラノベ執筆、印税320万円稼ぐ 市職員を停職処分
療養手当を出すから余計なことはするなって、ずいぶんとけち臭い話です。病気を偽って休職したとか、医師の制止にも関わらず療養に努めなかったとでもいうならともかく、「早期の復業に向け、療養する義務を負っている」ので副業禁止などとはそれこそ人権侵害です。こういうことを言い出す輩が出るから、福利厚生などというのはろくなものではないのです。使用者から独立した公的な制度として無給での療養休職および収入保障制度を整備し、療養に至る過程で使用者に問題があった場合懲罰と合わせてその費用を負担させる形とするべきです。

■2021年10月19日(火)  日本の自動車製造ならともかくイランなら軍需は経済の牽引役になりえるはず
輸入できないから自前で生産 兵器も家電もMade inイラン
これが正攻法です。イランの場合60年ほどは外国兵器を運用してきた蓄積もあるので、ゆっくりであっても進んでいくと思います。
問題は、自国で十分な生産ができるだけの生産力や原料がなかったり、自国の状況に過度に最適化した製品を作ってしまいがちだという点でしょう。海軍も、世界水準を目指して航洋型駆逐艦を作っているうちはともかく、ペルシャ湾を封鎖することを優先した兵器に偏ると、インド洋まで引っ張り出されると手も足も出なくなるという事態もあり得ます。とはいえ、今のイランで世界周航のできる航洋型駆逐艦の建造というのは、建造技術の到達水準を示すものではありえても、オーバースペック、予算の無駄と言われても反論しにくい気がしますが。
こうした自製化の努力全般の問題点は、比較劣位産業の振興に当たるために経済的なパフォーマンスが悪いということもあります。それをひっくり返すだけの基盤がないといけないですし、国内の生産力を買ってくれば安く済むものにつぎ込むことでそれ以外のものに向ける生産力も低下します。例えば今の日本で軍用車に開発や生産の資源をつぎ込んだ場合、民生機器に向けられているそれが軍需に吸収され、民生機器の生産が劣化しかねません。またロケットのような転用しがたい産業に執着すると、金属加工や材料開発といった他の産業と共通する裾野産業で動員が起こり、不効率が発生します。もちろんしぶとく作り続けていく中で効率は向上していくはずですが、それこそ日本のロケット産業の場合、大量のロケット兵器を自前で運用している米国や、そういった関連分野とともに打ち上げの引き受けで需要を確保しているヨーロッパやロシア、民需も軍需もキャッチアップの段階で効率度外視の中国に比べて数をこなすことができず、いつまで経っても比較劣位だったりします。

■2021年10月15日(金)  本気で私的財産を収奪する?
政治家も官僚ももっと本気で
こういうことを言っているから官僚独裁と親和的になるのだと思いますけど。政治家が偉いのではなくて、官僚が政治家の格下なのです。ですから国民のニーズやそれを踏まえているであろう政治家の政策提案に、官僚が偏見に凝り固まった非難をしてはいけない、それは失礼なのです。後始末をする羽目になりがちだとしても、責任を追及されるのは言い出した政治家であって官僚ではないのですから。まして国民は、政策の失敗を不便として甘受する立場です。こちらがプライマリーな関係者です。
それで、例えば一部の政党が言うように企業の内部留保金に手を出すとして、それをする正当な理由というのはなんでしょうか。お前金持っているから寄こせでは現代政治は進みません。稼いで貯め込んだものをなんで吐き出さないといけないのかと言われればそれまでです。内部留保金など、それこそ企業が金融サイドの信用を確保し、リスキーな新事業に乗り出す際の原資でもあるでしょう。それを仮想的に吐き出させるために、金融商品が発達してきたとも言えます。後で返すから貸せであれば、貸した債権を資産として評価することができるのですから。貯め込んだ側だって積み上げた一万円札や帳簿の現金保有を眺めていたってあまりうれしくはないわけで(まあ、うれしいというのが貨幣フェティシズムの行きつくところですが)、本社ビルを建てるにせよ経費で飲み食いや私的な買い物をするにせよ、あるいは競合を買収するにせよ、借り入れの担保にするにせよ、使わないとうれしくないわけです。つまり使うあて、活用するあてがあるから貯めている。それを、経済政策に必要だから上納しろなどと言って通るわけがありません。政策としてもルール無用で召し上げてよいなどという話はなく、ちゃんと補償をしなければならない。あるいは公正な税制度によらなければならない。法人税の引き上げでは貯め込んでいるところだけ狙い撃ちなどできませんし、粗利の薄いところが倒産する可能性もあります。かと言って経費控除や積立金控除を充実したらそちらに資金が移動するだけです。金があるから取ればいいなどと言っている市民運動系の人の頭が悪いと思うのは、このあたりを棚に上げているからです。
国民経済全体で債権債務のバランスが取れるにしても、国の債務を民間人の資金で返済して消滅させるというのは相当アクロバティックです。経済左派にしても帳簿上の債務を消滅させられると言っているわけではなく、国民経済としてはバランスが取れてインフレの問題に還元されるから国家債務の残高はさして問題にならないと言っているだけで、債務自体は帳簿上消えません。むしろシンプルに財政再建と叫ぶ人の方が頭が悪いのです。

■2021年10月14日(木)  言葉より振る舞いの方が正直
就活学生が一番知りたい「社風」は、首都圏直下地震で分かる
これはもっともな話で、聞いて正しく答えるかどうかはともかく、対応は社風を示すものになると思います。もちろん従業員が取引先と調整しなければ休業が倒産に直結しかねない事例もあると思いますが、そんな拘束的な取引を主にしている時点で危機管理がなっていない社風だと言うべきでしょう。もちろん従業員との連絡の確保も、災害対応・復旧施策の一つと言えます。それがどのような方法になっているかで、従業員を過度に拘束する社風なのかどうかの目安にもなるでしょう。

■2021年10月14日(木)  国家承認を求めて飢え死にするのは現地の勝手です
米国とタリバン代表がカタールで公式会談
政府成立直後の国家承認の要請が袖にされることは確立された国際慣習からして珍しいことではありません。満州国にしても、また朝鮮民主主義人民共和国やドイツ社会主義共和国、ベトナム民主共和国なども、近年ではミャンマー軍事政権も、国家承認を広範囲から得られず、あるいは得るために相当期間を要しています。人道に基づく政策はそれとは別の話です。もちろん承認を得られない場合に人道支援を拒否すること自体は現地の自治勢力が可能な判断で、人道支援を暫定的な現地自治勢力として受け入れることと国家としての承認の下での支援以外を拒否することを天秤にかけるだけのことです。また支援する側も、軍事力で現地勢力を排除したうえで現地の生活の再建を図るのか、現地自治勢力との国家承認を含む一定の和平ないしは休戦合意の下で人道支援を行うのかを天秤にかけるだけのことです。もちろん国家承認自体、バイラテラルには個別の都合で行われるものですし、国際社会としても少なくとも承認を求める側が国連加盟国の相当数に一定の根回しをする必要があります。外交使節すら、公式には一定の取り決めと形式に基づいて派遣を申し入れ、派遣先から接受されなければなりません。現地勢力が国民を代表する国家と称して使節を派遣すれば認められるというものではないのです。国際政治とはそういうものです。

■2021年10月13日(水)  そもそも価格安定化を図ってこなかったじゃないか
ガソリン162円台、原油高騰で7年ぶりの高値 景気への悪影響懸念
これはこれでメリットはあって、再エネや電気自動車のコストが相対的に下がるので普及しやすくなるわけですけど。
景気悪化の懸念というなら、水道光熱費、エネルギーコストが低いことを前提にした社会は持続不可能だということは証明済みです。そのあたりは市場で調整される、需要が下がらないなら価格が上がっても仕方がないし、価格が上がれば追加の供給主体は出てくるという発想で、自由化をやってきたわけですし、いまさら景気への影響を語られても白々しいだけです。
まあ、半導体供給問題と重なる形で起きた点は舵取りを難しくしていますが、そもそも原料を買い叩いて値下げと利鞘を確保する構造の問題ではあるでしょう。下がるのだからいいでしょうと価格安定化策を講じてこなかった結果でもあります。

■2021年10月13日(水)  著者にその気はなさそうですけど、社会哲学者に超進化しないといいですが
はたらかないアリに意義がある 長谷川英佑
文章が上手な方ですね。
ちなみにこの版で解説を書いている鎌田さんも文章が上手な方なのですが、この解説が非常に意識高い系で、ぞっとしました。長谷川さんが文中で進化生物学以外の、人工知能や知能システム論、経営、社会経済学といった分野から興味を持たれると書いているのは、こういった諸分野にいる人の特性からして当然、そういうことはあるだろうし話を合わせることも必要だろうと読み流すことができますが、京都大学でレリジエンス研究などというどうみても産総研か理研、総研大、政策研究大あたり(後二者は個別の研究機関が集まって大学院課程を設置したもので、実質的に徒弟システムを取り入れた研究所)か民間の社会系シンクタンクがやる研究を推進し、それに関わっているという時点で、理系の研究者としては逸脱していると感じました。まあ、自然科学畑出身の哲学者も珍しいものでもないのですが、道を踏み外しているという点では呆れるに値すると思います。
本文に関して批判的なことを書いておくと、長谷川さんの言う下請研究は、これも科学としては必要なものです。自然科学としては、他人が結果を再現できること、他人がその学説を利用してデータについて意味のある解釈ができることが、論文としてはともかく学説としての妥当性の評価には必須だからです。それが面白いかどうかはそれこそ個性や選択の問題ですが、自然科学者であっても食っていかないといけないわけで、周囲が評価しやすい研究をする方が本人も周囲も望ましいのです。当否定かならぬ研究ばかりやっていると、給料は稼げても研究資金が貰えなくなります。もちろん当否定かならぬ研究(進化生物学などという分野自体がそういうもの)であってもやる価値はありますし、そこに新しい知見があるというのはその通りですが、お金を出す側としてはそんなテーマに大金をつぎ込んでいられる余裕はあまりないわけで、全体のボリュームは大きいが広く薄く配分するため個々の研究に渡る資金としては雀の涙、かつ当たりに比べて外れが非常に多いという話になります。本文中でも調べようがなくなって中断している研究が出てきますが、一応最後まで調べて成果を上げることができるという点で、下請研究というのは研究者にも研究振興側にも便利なのです。まあ、improveばかりでは先細りというのはその通りでもあるのですが。
どうも長谷川先生、専門家仲間では評価されていないのではないかと思えるのが、本書出版時点の肩書です。北海道大学の準教授ということなのですが、底本が出版された時点でそれなりのお歳だったようで、文庫版刊行時点でまだ准教授というのは職業研究者の出世としては問題があります。いくら北海道大学であっても、50歳くらいであれば普通は教授のはずで、そこから65歳まで教授を務めて、私立大学の教授になるなり関連研究センターで特任の教授をするなりするわけです。それが万年準教授というのは、本人が昇進する気がないのか、そもそも昇進の話が来ないのか。講座制だったころは教授に昇格できる方が一握りで、万年助教授、万年助手がありえたわけですが(イギリスやヨーロッパだと万年講師も珍しくないようです)、1990年代にアメリカの研究大学型の、教授が研究室を主宰してポスドクと学生を擁するシステムに切り替わったはずで、この場合とりあえず終身職を取れた人は教授になれるはずです。アメリカだと準教授(というかアソシエート一般)はそもそも半人前の教授見習い(パートナー候補)であり、いつまでもそのままだと辞めさせられる(雇止めされる)わけです。もちろん、研究者としての出世と研究の内容には、仲間内と経営者の評価が高い人が昇進するという以上の関係はないですが。

■2021年10月13日(水)  経済学者は引退して翻訳とスポーツ評論でもされては?
不思議の国・日本
盛田氏はそれこそ、レーニンでも読み直した方が良いのだと思います。変革は辺境でこそ起こるという視点は、社会主義革命だけでなくデジタル化でも共通することは、デジタル化が普及したとされる地域を見ればわかります。アナログな手段がそもそも効率化されていなかったから、他所で十分効率化されたデジタルな手段(携帯電話網なども旧西側で十分ノウハウが蓄積されていました)が持ち込まれるとすぐ普及するのです。
また個人の財務と国家の会計、金融政策と財政政策は異なります。旧社会主義国がハイパーインフレーションを起こしかけたのは、足りない生産力をギリギリに回しつつ外資によって不足を補っていたのが社会の混乱によって一時的に生産力がさらに減退した一方でその混乱を反映して通貨が対外的に下落、物資供給が停滞したためでしょう。基礎的な生産力はあるのに(このため物的な不足は比較的短期間で国内生産の対応と流通の適応によって終息する)投資機会がないために金融市場から通貨が出て行かず、金融市場だけインフレーションを起こし、実体経済ではコストプッシュインフレすら短期間で収束しているのとは違います。ハンガリーでトイレットペーパーがないのは、いまだに物的な流通が不十分なだけでしょう。だから末端医療のようなほぼ純粋なサービスの方が先に改善するのです。
むしろ役人如きが職も賭さずにバラマキ反対論をぶち上げるガバナンスの欠如こそ問題であり、文句があるならさっさと辞職して選挙に立候補するなり大学やシンクタンクで研究員をするなりして、その上でバラマキをしっかり批判して欲しいものです。政権与党の政策を寡黙に粛々と執行するのが官僚の仕事であり、誰も辞職を止めはしませんし、また辞職していく先もそれなりにあります。もっともバラマキ反対論に理はないと思いますけど、それと適切な立場での言論とは別です。
その上で政策自体について当否を問題にするのであって、上流にダムができてじゃぶじゃぶに突っ込んだ通貨が停滞しているのを国債で一度引き上げて財政政策で干上がりかけている下流に配り直すことに反対する方が経済がわかっていないと思います。財政緊縮、財政赤字縮小だけで通貨流通が改善する、経済が回り出すというなら、外資による非効率部門の乗っ取りと高効率部門の独占による経営効率化という東欧の事例とは違う解をちゃんと示すべきです。
もっとも、無駄だと思うので、実績のある翻訳とスポーツ評論に落ち着いた方が良いと思いますけど。

■2021年10月12日(火)  信号を見落とすなと言っても意味がないし、鉄道車両なら自動的な見落とし防止手段も講じられるはず
路面電車、衝突後も45m走行 自転車の中1女子は重傷 札幌
路面電車って信号と連動したATSは使えないのでしょうか。
事故防止の発想から言えば、歩行者や軽車両が路面電車の線路を横切るような経路を設定することに問題があります。信号の遵守以前に危険な交通状況を放置していた北海道や札幌市の交通管理および道路管理部門に責任があります。この事故に関して言えば路面電車を廃止しても改善にはなりません。バスにしたところでバスの運転手が信号を見落とせば事故は起こるからです。コストの安い路面電車だからこそ、安全確保にはオペレーターの注意に頼らない仕組みが要求されます。その上で、路面電車の走行に支障の出るような行動を意図的にする行為を交通規則により抑止するのでなければなりません。そこまでやって初めて、鉄道車両と道路交通が分離されていないことの是非を論じることができます。

■2021年10月12日(火)  電子データだけにパソコンごと捨てられるので邪魔ではないでしょうけど
電子データ「北斗の拳」を配信 「1点もの」NFTで所有情報証明
間が抜けているというか、「うちが転売では間に入るので大丈夫」などと馬鹿な話もいい加減にして欲しいものです。流通まで管理して鞘を取ろうという魂胆が見え見えで、コレクターが当座喜んでも50年もしたら跡形もなく消えるでしょう。もちろん消えてしまう分には著作権者は困らないので、三方は異存ないでしょうけど、それは所有とは言わないのです。せめてその制度で扱われている複製を受け取った人全員が分散的に保証する形にならなかったのでしょうか。

■2021年10月12日(火)  むしろ住民が主体となっているという形式的な用件のみで後援をする方が楽ではないでしょうか
憲法、核…市民企画イベント「自治体後援」に萎縮の影
もちろん市民企画イベントと言っても特定の政治的な立場に与するものなのが普通ですし、行政なり住民による自治を目的とした社団なりとして距離を取るというのはひとつの在り方だとは思います。とはいえ、それはそれで形式的な補助をするよりもよほど茨の道だと思います。仮に委縮した結果であっても、実体的な判断を行った場合、その判断の是非を常に問われることになります。政治的な背景を必ず含意している講演会や著作物の披露などまず後援できなくなるでしょう。もちろんうっかり自治体主催でイベントなどしたら背任ものです。もちろん自治体の事業として行われている図書館や文化事業としてもイベントなどできないでしょう。下手をすると公立学校すら運営できなくなるかもしれません。まあ、それはそれで予算削減の良い便法ではあるでしょうけど。戸籍管理と道路整備に特化するのも自治体としてはありでしょうから。

■2021年10月11日(月)  謝罪テクノロジーというのは言いえて妙
日本型謝罪は「地獄のクソゲー」 大谷差別発言で処分の米国との違い
言わんとするところはわかる気がします。この文脈の場合謝罪するということは自分が間違っていましたと認めるということになりますが、何が間違っていたのか、何を是正すべきなのかについて謝罪を要求する側と謝罪する側の認識が合致していないと意味はないでしょう。これは一方で、非難を受けたにしてもいわれのないもの、そもそも非難する側の認識に誤りがあると判断するのであれば謝罪すべきではないということになります。謝罪というよりも、論点をずらしてごまかしているのであれば(典型的には世間を騒がせたことだけをお詫びするとか)、誠実な論争にはなりようがありません。要求する側も、それで矛を収めていては目的を達成できたとは言えないでしょう。もちろんあくまでも吊し上げるというのは第三者の不快感を呼び起こす行為ですので、それをあえて成すだけの根拠を提示するべきでもあります。
謝罪テクノロジーというのは言いえて妙で、一定の反応を示すだけで反発を鎮静化するテクニックであり、かつその一連の流れを文化圏全体で共有する形で洗練を加えて定式化している点でテクノロジーと言えるでしょう。もっとも、カトリックの告解だって似たようなものだろうという気は、似たようなものがあるならよいという意味ではないのですが、するのですが。
批判やボイコットくらいならともかく、謝罪を要求する、組織的にバンするというのは、いじめにつながりかねないという意味で慎重であった方が良いと思います。

■2021年10月11日(月)  雇用保険の仕立て直しだけでは対応できないと思う
「コロナ予想外は言い訳、雇用保険を見直せ」非正規に弱い日本の支援
もちろん雇用保険制度としては今回適切な対応ができず、存在意義を問われるような状況になったこと、それが容易に予想できる状況であったことで見直すべきという主張を理解できます。
ただし、料率を厚くし保険がカバーする範囲を広げる、積み立てを増やすというのは正攻法ではありますが、受け入れられるとはあまり思えません。雇用保険自体が、非正規雇用への適用は除外する、料率を高くしないという前提の制度であることも事実です。前者は保険料の負担者、つまり元々高額の保険料負担に耐えられない短時間労働者やその雇い主に配慮したものであり、後者も保険料負担が大きくなることを嫌ったものです。また雇用保険自体が単年度でのバランスを想定しており、積み立てというのは例外的な制度です。そもそも保険という制度自体が比較的短期でのリスク取引のためのものであり、リスクが大きいと仕組みとして破綻します。現状雇用のボリュームを増やすこと、そして賃上げが政策上要求されていることもあり、雇用保険の拡充は雇用のコストを増やす制約要因でもあります。
19世紀に便法として採用されてきた各種の公的保険制度ですが、もはや賞味期限切れだと思います。健康保険なども含めて公営医療制度、所得保障制度などに移行するべきだと思いますが、給付だけでも給付付き所得税なりベーシックインカムなり、失業時の無条件所得補填制度なりに移行するべきだと思いますし、賃労働者に住宅ローンのようなレバレッジの高い家計運営を想定する制度も改めるべきだと思います。

■2021年10月11日(月)  頑張って富裕層向けの嗜好品になってください
加熱式たばこ、世界最大市場は日本 大手が見据える紙巻きの終わり
まあ、紙巻なんて葉巻の代用品でしかありませんし、葉巻自体がパイプやキセルで吸うことの簡易化ですので、刻みたばこをキロ単位で売るので良いのではないでしょうか。もちろん刻みたばこを開封して放置した場合劣化しますから、密閉容器や雰囲気管理機材などの関連器具の需要も程度は別として期待できるはずです。
加熱式って、そんなしょぼいので吸っておいしいですか?満足できるのでしょうか。薬理学的な反応であればニコチンパッチでも当てればよいはずで、吸うというなら雰囲気だって大事でしょう。パイプやキセルに刻みたばこを詰めて、火をつけて煙を燻らす、そのゆったりとした雰囲気や、喫煙室で灰皿を囲んで話すでもなく煙を燻らすくつろいだ仲間意識が喫煙のだいご味ではないでしょうか。さすがにうちや目の前で吸われたら嫌な顔をしますけど、全体にたばこ臭い程度なら構わないですよ?化粧や整髪料の臭いの方がよほど嫌です。
まあ、普通の学生や給料取りなんかどうやっても買えないくらい金のかかる嗜好品になって欲しいものです。それでこそ、喫煙する姿にあこがれて頑張って喫煙具を揃えて初めて吸う感動や、買った刻みたばこが半分も吸わないうちに劣化してしまったショック、それで食費何回分になると思っていると奥さんに叱られて吸うのをあきらめて喫煙具を机に飾るわびしさなどを楽しめるというものでしょう。

■2021年10月11日(月)  ターゲット間違ってないかね
西鉄が「サイクルトレイン」の実証実験 観光需要の喚起を図る
こういうのは自転車用道路の整備状況とも絡んでくるので、沿線自治体が特急停車駅周辺で整備をしているならメリットはあるでしょう。ただ、整備されていないところを走ろうなどという猛者はサイクルトレインなど使わず自走すると思いますけど。ある程度のスキルのあるサイクリストなら、輪行袋くらい装備しているものですし。
サイクルトレインを利用するような人はどちらかと言えば駐輪場を利用したくない通勤通学客ではないでしょうか。自宅から最寄り駅まで自転車で移動して、サイクルトレインで出先の最寄り駅まで移動して、また自転車を使うというのであれば、便利でしょうし、そんな状況で輪行のための分解や組み立てなどしたくないはずです。
もちろんサイクルトレインなどということをやると、ママチャリに買い物を満載してそのまま乗ってくる客が出ると思います。実況動画が上がることを期待します。

■2021年10月11日(月)  DXに踊っているような企業とのB2B取引の方がよほど怖い
DXを推進するつもりがない企業との取引、7割以上が「ちゅうちょする」 理由は?
これはある程度割り引いて取らないといけない類でしょう。導入推進の理由にするなら調査の妥当性を検証すべきです。
そもそもDXって何だというレベルの話もあって、何をすればDXになるのかというのが大事です。そこをはっきりさせないでDXと言われても、では例えば取引においてシステムを接続する手順をどうするのか。そもそもインフラが整備されていないでしょう。結局紙ベースでやるような話になるなら、あるいはこのシステムを入れてくれれば取引しますよと言われてそのコストが過大なら、DXなんてばかばかしくて関わっていられないという経営者がむしろ健全です。「生産性を上げる取組みに前向きな姿勢を持つべきと思うため」などという理由は相当に馬鹿げていて、とにかくDXをすれば生産性が上がるなどという話はないわけです。むしろ生産性向上、業務効率の向上、新規取引の開拓なり既存顧客との取引の効率化なりという課題に対する道具のひとつにしかすぎません。直接取引で電子的な契約システムを使いたいと言ってきた見込客に対して、うちはアマゾンに製品をストックしてますからそちらで買ってくださいというのだって立派なDXでしょう。資料の電子データでのやり取りについて、ネットでのやり取りなんか信用できないからPGPで二重に鍵をかけてSDカードに入れて送りますとか、どうしてもネット経由でないとだめならクラウドストレージに暗号化済のをオープンで置きます、ついては暗号化に必要なので御社のPGP用の公開鍵を社の公印と第三者機関による御社自体と持参者の身元証明付きで窓口に持参してくださいという方が、よほどセキュリティに配慮しています。
むしろ、現在のDX関連製品について、可用性やセキュリティ、信頼性などの点でどのように考えているかを理由付きで聞いた方がましです。なんだかわからないけどセールストークで安心だと言っていたから信用しているなんて答えが多かったら問題ですし、そんなユーザーはもちろん、ユーザーを抱えている製品やサービスも相手にしたくないものです。

■2021年10月11日(月)  話し合っても聞か猿が衝動的な判断に走るだけだと思いますが
核燃サイクル「やめたら代案は?」 再処理の地元村長、国民に問う
正論ではあるのですが、その合意を形成するのに何年かけてよいのかという話です。再処理ではないにしろ、使い終わった燃料をそのまま埋めるというわけにはいかないので処理はすることになりますし、まずもってどこに埋めるのか、管理はどうするかという話があります。もちろん埋めなくてもよいわけですが、管理はしなければなりませんし、何かの拍子に管理できなくなる可能性を考えると漏れないところに埋めるしかないよねというのが、現時点での話です。日本国憲法体制は盤石永遠であり日本政府は責任を持って百万年でも二百万年でも管理できますというなら、別に埋めなくてもよいですし大都市の目の届くところに置いてもよいのですけどね。原子炉や液化した核分裂性物質じゃあるまいし、爆発はしないわけですから。それこそ東京都千代田区千代田1番1号や東京都千代田区永田町二丁目3番1号あたりに丈夫な倉庫を作って入れておいてもよいのです。放射線量計を持って散歩する定番の観光スポットになるかもしれません。もちろん、原子力発電所というのは長期間使用済み核燃料を保管管理するような作りにはなっていません。
ただし、国が決めたところで反対は出るわけで、そこをちゃんとする見通しもなくやった自由民主党総裁選での議論は確かに迂闊でした。もちろん議論を提起するという意味はあったと思いますが、それでよその国に管理してもらってOKというのは大変恥ずかしい話です。もちろん恥ずかしいことを自覚したうえでそうしたってよいと思いますが、NIMBYを押し付けたという認識は持たないといけないのです。これは交付金や固定資産税で潤ったのだから放射能漏れのリスクは原発関連施設の立地地域の自己責任だなどという話が通じないのと同じことです。それをしっかり議論する基盤があるかというと、はなはだ心もとないと思います。まあ、その状況で関連施設を一部の地域に押し付けてしまっているわけなので、今さらそれでは通らないと言われればその通りです。

■2021年10月11日(月)  何でそんなのを議員として党に抱え込むのやら
立憲の衆院議員「拉致被害者生きてない」、抗議受けて謝罪と撤回
拉致被害者の会が怒ることはわかります。とはいえあそこは個人的には、領土問題に関わる団体と合わせて、国益を害する反政府活動だと思うのですが。心情としてはわかりますが、主張がまずすぎます。国連軍を組織して北朝鮮に乗り込めとでもいうのかというね…
それでまあ、抗議を受けて撤回するようならそもそも口にするなというものです。固い信念があって口にしたのであれば撤回する必要はないでしょうし、そんなことよりも大事な外交案件はいくらでもあるという話だってできるわけですが、もちろんそうであっても所属する政党との調整は普段からしておくものです。
迂闊としか言いようがありません。

■2021年10月11日(月)  キャリアがするよりよほどまし
Google、最新Pixelスマホに毎年機種変できるサブスク「Pixel Pass」を提供の噂
「日本では各キャリアが提供しているので、同様のサービスがリリースされる可能性は低そう」
いや、SIMフリーモデルでやって欲しいですけど。端末のキャリア提供をなしにして。菅さんが辞職してしまったので見通しにくいかもしれませんが、キャリア提供端末に文句を言っている総務省も、メーカーがする形であれば文句を言う筋合いはないと思いますし、かえって優遇してくれるかもしれません。
個人的には、分割払いよりも一括払いの方が好ましいですけどね。

■2021年10月11日(月)  メッセージが届きにくくする方が効果があるのではないか
Instagram、10代ユーザーに「休みを取る」よう促す機能を約束。メンタルヘルスへの配慮から
SNSのメッセージ機能やインスタントメッセージングはドはまりしかねないのでそもそもメンタルヘルスに悪いと思うのですが。お休みを促すよりも、連続接続時間を基準に配信を遅延させたり、他のユーザーが速達メッセージやリプライを送ろうとした場合に警告を出す方が有益ではないでしょうか。まあ、利便性を殺してしまうような話なんですけども。

■2021年10月11日(月)  ANAの切符さえ持っていれば使えるのが良いです
ANAが羽田空港のSUITE LOUNGEに設置したオンライン会議用の防音個室ブースをチェック
こういうサービスは歓迎できます。ANA SUITS LOUNGEの利用資格は「ラウンジをご利用いただけるのはANAグループ運航便・コードシェア便にANA便名でご搭乗のお客様に限ります。」とのことなので、ANA名義の航空券を持っている人なら使えることになります。ラウンジの利用は優等席利用者やフリークエントフライヤーのみという場合があるので、こういう形はありがたいです。普通に小型ブースですが、自宅やサテライトオフィスで使うわけではないので、問題はないでしょう。昔コクヨが提供していたレンタルオフィスのブースの方が椅子は良さそうですが、気にするほどではないでしょう。というか、何でソファなんでしょうかね。当たり前と言えば当たり前ですがラウンジ全体でWi-Fiも使えます。
中山氏の言うとおり、搭乗ゲート前の待合スペースやその近くにあると大変便利そうなのですが、それだとうっかり搭乗時間を逃してしまう可能性があります。ラウンジで一時間ものんびりしていられるスケジュールで行動できる人がどれだけいるかという問題もあり、羽田空港の場合アクセスも良いため待ち時間が最低限で済み、国内線と国際線の乗り継ぎも国内線の便数が多い上通常予約時に必要十分な乗り換え時間で設定されるため、使いどころは難しいかもしれません。成田で乗り継ぎの際に6時間近い乗り継ぎ時間が設定されたことがあり、ばかばかしいので鉄道で移動したことがありますが、羽田の場合よほど薄い国内線と深夜発の国際線を乗り継ぐのでなければ(逆の場合それこそ鉄道で移動した方が良い)、利用を想定して早めに出るくらいでないと電話ボックス以上の利用は難しいかもしれません。JR東と同様に15分程度、オンライン会議を想定しているとしても30分の単位で利用できることが望まれます。
もっともJR各社には、駅ではなく車内にこれを設置して欲しいですけどね。

■2021年10月10日(日)  離陸前点検の見落としか誤操作か?
緊急発進した自衛隊機、操縦席の窓が山中に落下 けが人なし
時速830キロ時に操縦席むき出しに 空自・F2戦闘機の部品落下
酷い話もあったもので、前面風防はあったとはいえ操縦士はよく脱出せずに機体を飛行場に戻せたものです。仮に脱落の原因が操作ミスであったとしても、緊急対応は称賛に値します。それこそ米軍であれば機体を捨てて操縦士の安全を確保してもおかしくないでしょう。そして捨てた機体は墜落し、地上に被害を出すことになります。
一方で、脱落の原因は徹底した究明が必要です。安全にかかわる装備であり、発生すれば人命が失われかねないのはもちろん、高価な機体や十分な訓練と選考に高いコストをかけた搭乗員を失うことになります。派生する被害も無視できません。
まあ、もちろん一定の条件、例えば搭乗員が緊急脱出するような場合は、この風防は脱落するような構造にはなっているわけです。でないとベイルアウトできません。

風防がロックされず飛行、分離か 防衛省が原因推定
確認した記憶も記録もないのだとしたら、過失ですね。とはいえなんでロックされていないのにエンジンがかかって離陸できてしまうような仕組みになっていたのかという気もします。普通は風防を閉じてロックしてから離陸滑走のために脚部のブレーキを解除するはずで、インターロックを仕込む余地は十分あるでしょう。

■2021年10月10日(日)  押し付けがましさを我慢すれば事例は参考になる本
孤独は社会問題 - 孤独対策先進国イギリスの取り組み, 多賀幹子
事例としては参考になる部分がありますが、読んでいて不快な本です。
孤独は不健全だ、何としてもなくすべきだという信念に溢れています。健康ファシズムの一種でしょう。もっともあちらも孤独を好む志向というのは理解に苦しむものであるようで、お互いさまではあります。
イギリス礼賛本の側面も持っています。事例の中にはこれのどこが良いのか、英国面じゃないかというものもありますし、この程度のことは日本でも事例があるというものもあります。またトラム好きには看過できない話もあります。
孤独は実際多くの問題を引き起こします。死んでも見つかりませんし、処理の担当者が身近にいないこともあり、その分処理が面倒になります。病気になった場合も気づかないうちに取り返しのつかない状況になっていることがあり得ます。周囲から得られる気づきで対応できることはあるでしょう。引き籠っていれば体も弱りがちです。衝撃的な状況が生じたときにパニックを起こす可能性もありますが、その際も本人が収拾しなければなりません。
また本人が望まないにもかかわらず孤独に陥っていることは重大な問題です。私が人の中にいるときに感じる不安や恐怖に類するものを、望まない孤独にある人は孤独の中で感じているのでしょう。まあ、緊張は感じないような気がしますが、別種の、自分で何とかしなければならないという緊張は一人でいれば感じるものです。
一人で住む人を家の外に導く仕組みは望ましいと思います。フリーパスは沿線の人が少し離れたなにがしかの施設、図書館でも商業施設でも体育施設でも公園でもよいですが、そういったものを訪れる手段を提供します。またその時に、施設がバリアフリーであることも大事でしょう。医療機関へのアクセスも大事です。もっとも治療に際してとにかく待たされるというのはイギリスのNHSに関してよく聞かれる苦情です。もちろん人によってはなくても困りませんし、別に医療など受けずとも終わるときは終わるという考え方もあるわけですが、それでは社会の側が困ります。正確には、社会において人を管理している政府の担当者が困ります。病気があるのに治療せず進行させてしまえば見つけたときに対応を強いられますし、家の食糧備蓄や燃料備蓄が尽きた状況もそうです。端的に言えば、一人で死なれると後始末に振り回されるのです。そのような状態にならないための方法は困る側が整備しておくべきですし、一方で孤独を好むとしても社会との妥協は必要でしょう。放っておいてほしくても放っておけない仕組みに困る側が縛られているのですから、他人を困らせたくて孤独でいるのでない以上配慮はすることが望ましいのです。
また孤独から脱出することを望む人にその手段を用意しておくこと、その手段へのアクセスを簡便なものとしておくことも大事です。余計なお世話はごめんだという人への配慮は必要ですが、望まない孤独に放置することはより問題でしょう。
著者は主として都市部で生活していたようで、レポートも都市やせいぜい近郊でのものです。孤独対策にしてもそうですが、人口過疎地での対応が最もコスト面で難しいものになります。過疎地と言っても百戸程度の集落が主要な施設から10km以上離れたところにある程度の話ですが、サポートは必要であるもののコストが負担しきれない状況があることは、それこそ日本でもよく聞くことです。そのような場合に、多額の費用をかけてもサポートを提供するのか、それとも人の方がより便利な場所に移るのかという事例は欲しかったところです。

■2021年10月10日(日)  国に遊ぶ金をたかっておいて愛と正義?
「愛」と「正義」をベースに政治を語ろう 予算見直しで変わる未来
慶応大学教授が愛と正義ですか。てっきり効率と利子で語るものと思っていましたが。
そもそも国家予算におんぶにだっこで暮らす、いわば社会保障で年金暮らしをしているような大学系の職業研究者が未来への分配を語るなどお笑い草です。そういうことを言うなら、役所を回る前に慶応大学を賄えるだけの寄付を財界から毎年取ってくるのが先でしょう。補助金をゼロにして、授業料も入学金もゼロにして、競争的資金も貰わず、寄付と基金と、なんなら研究成果の売り上げだけで運営したらよいのです。それこそが未来への愛をかき集めることですし、慶応大学さんが競争的資金を放棄すれば他所の若手に相当額の研究資金が回るので、現在への愛にもなります。
大学ファンドにしても、国家予算ではなく民間の財団として運営するのが慶応流だと思います。10兆円と言えばトヨタ自動車の連結経常利益が2兆円、他は優良処で一千億円程度のようですから、そのあたりを回ってくれば集まらないものでもないでしょう。もちろん現金で持ってくる必要は当面ないわけで、相当額の利子が出る社債なり配当優先株式なりで貰えばよいのです。ファンドマネージャーは雇わないといけないにしても、分配や事務、経営はボランティアでやればよいのですから、コストもあまりかからないでしょう。国にお願いするのは課税しないでくれという程度です。

■2021年10月10日(日)  文脈読まないとわからない略語は止めて欲しい
高市氏、PB黒字化目標「凍結に近い状況に」 財務次官の指摘を批判
いや、財政再建と景気改善のどちらを優先するかはともかくとして、PBは止めませんか?一瞬プライベートブランドの黒字化って何だと思って、ああ、プライマリーバランスかと納得しました。財政健全化目標と書けば済むことだと思います。

■2021年10月09日(土)  5年でリプレースするほど大層なものかという
To be, or not to be,Let Windows be.
むしろ、5年でリプレースするほどPCというのは生産性がある機材なのかという点が問題だと思います。ないと困る、動かないと困るにせよ、なんだかわからないけど使わされているからできるだけお金は使いたくないし、性能を要求する余計な機能も欲しくないという人が多いはずで、そういう人は壊れるまで使いたいわけです。事業であればコンプライアンスと称して業務監査に耐えうるレベルを維持するモチベーションがありますが、個人のPCについてはそんなモチベーションはありません(まあ、このレベルのコンプライアンス感覚もない経営者が多くて困るわけですが)。ユーザーがついてくるのは、なにかしらないと困るのに他の選択肢がないからです。いくらAppleの存在感が強いとはいえ、好き好んでアップデートするユーザーを抱え込んでいるAppleに対抗して性能や新機能をアピールしても、PCユーザーの少なくとも2/3には届かないでしょう。

■2021年10月09日(土)  うん、絶対違うよね
ジョブ型雇用社会とは何か - 濱口圭一郎
私の労働契約についての意見はこの人の「新しい労働社会」の影響を受けている部分があるのですが、まあ、その著者として現状に怒るのは当然でしょうね。なんでもさせられるような大雑把な職位が設定され、職務内容のほとんどが就業規則と指示と協議に基づくと雇用契約書に記述され、その就業規則にも職務内容の具体的な記述がほとんどなく、あまつさえ目標管理とやらで労働側の主張という虚構を押し立てて職務内容の拡大と賃金の実質的ディスカウントを強要する雇用政策や労務管理をジョブ型雇用だなどと言ったら、提唱者としては苦情を言いたくなるでしょう。作業を列挙する形の(つまりこの額の年間売り上げを達成することといった「目標」による記述は認められない)職務記述書の内容を実施できている限り、職務がある限り、在職権を侵害されないというのが、労働者側から見たジョブ型雇用です。一度合意した職務内容の変更は原則として労使の協議に基づきますが、対立した場合でも新旧の職務内容について同一性があるかどうかは第三者の審査になじみます。
著者と私の意見の相違としては、使用者側の採用の自由、被用者側の職場選択の自由に対する制約の程度があります。著者はあくまでも個別企業における個別採用を前提として使用者側の職務記述書の作成や選考手続を論じていますが、私はこの点は一度全面的に企業外の産別組合と使用者の労働協約で代替し、使用者からの職務記述に基づく人員供給要請に対する産別組合からの供給を使用者が無条件で受け入れる、被用者が供給の対象となることを受け入れるかどうかは組合側で協議決定する、クローズドショップ制とするべきだと考えます。労働者は、労働組合を選択することで就労する職種や地域を選択し、使用者との関係は組合に一元化するということです。この場合、給与はむしろ労働者供給の対価として組合に支払われ、組合から適切な額を労働者に支払う(否定的な言い方をすれば労働組合が給料をピンハネする)ことになるでしょうし(この点が現在の労働者派遣制度と共通します)、使用者が組合と対立すると、組合は供給していた被用者を引き上げることになります。またそのような産別組合については、地域的に独占的な地位を与えられるべきと考えます。つまり市区町村でも都道府県でもよいですが、事業経営者がその地域の中で一定の職種に就く労働者を使った事業を目論むのであればその地域のその職種を扱うと思われる組合を相手にせざるを得ない形です。本書におけるトレイドユニオンに近いですが、未熟練労働力の入り口ともなることが異なります。またその内容については厳密に法定するべきであり、規定のないような互助活動などを行うことは組合員の要望があっても認められません。従業員代表制もこちらに吸収し、使用者ができるのは事業において人を雇うか雇わないか - ある人を雇うか雇わないかではなく、パートナーだけで事業を行うか労働契約に基づく賃労働を利用するか - の判断だけにするべきです。
このあたりの感覚の違いが端的に出てくるのが中西元経団連会長の評価で、著者は前向きに評価しているようですが、私は全く評価していません。著者の言う鶏と卵の関係を理解せず、使用者側の都合で採用制度と解雇制度だけいじろうとしたようにしか見えないからです。この点は中西元会長の他の提言にも見られると考えており、例えばテレワークに関わる提言や事業整理の考え方なども、現実を無視した意識高い系経営者流の机上の空論でしかありません。職を媒介とした事業経営と労働の対峙に真摯に取り組んでいたようには見えないのです。もっとも商工会議所あたりよりはまだしもましではあるのですが。
またジョブ型雇用ではジョブの系統によって入り口部分から違いが出てくるというのが著者の主張ですが(個人的にも同感ですが)、個人の行動如何でこの系統を乗り越えることができるというのが、資格重視や成人後のフォーマル教育の概念であることには議論上配慮が必要です。インフォーマル教育もノンフォーマル教育も現時点のジョブの延長線としてのキャリアを考えるもので、ノンエリート系のジョブからエリート系のジョブに乗り換える場合、成人向けのフォーマル教育に頼らざるを得ません。いわゆる生涯教育とかリカレント教育の議論にはこの方向性が含まれています。まあこれも、やり過ぎると軍隊の昇進試験対応みたいに間の抜けたことになってしまいますし、リカレント教育についての日本での議論がカルチャーセンターでのお稽古事みたいになっていることは否定できません。

「高学歴詐称は雇止めにも値しない」
ここでの議論には前提があって、外国での高学歴詐称に関わる問題については、採用に際して提示される要件が従事する職務に即したものであることが前提になります。それこそ日本の組織の管理職候補に税理士資格の所持を要求した場合、経理部門や会計業務や納税事務の受託を営む企業でない限り過剰な要求と判断される可能性が高いでしょう。この点で、実際には税務に関わる職務でもないのにもかかわらず税理士資格を要求したことが問題とされて、「それが解雇事由に該当するほど重大なものとは未だいえない」という判断が出ることはあり得るでしょう。また採用からある程度の期間が経過し、資格所持者の業務独占でない職務について客観的にみて十分な職務遂行能力があると認められる場合も、解雇不当と判断されることはあり得ます。これはいずれも職務遂行能力についての判断基準の設定に関わる失敗であり、そんなことが起きないようにするためにあるのが人事政策(そのために外部のコンサルタントまで雇ってジョブアナリシスをする)というのが、日本以外の常識です。過大な要求をすれば職務に見合わない人件費を設定したと株主から非難され、あるいはより適切な人員を排除するために不適切な基準を設定していると労働団体や監督当局から摘発されるのです。逆に本来資格を持つことが職務遂行能力を証明する(典型的なのが業務独占が認められている場合です)職務に詐称の結果着いた場合、使用者は無資格者に業務を行わせたことで処罰されますし、詐称した労働者も非難され、処罰されます(法律行為の代行における非弁活動の類です)。
このあたりは、本書では2章4.2節などで論じられています。

「日本社会がまだまだジョブとスキルに基づく社会になっていなかった(がゆえに、趣味的な教室に流れた)」
これも、社会というよりは企業側・労働者側に、外部から調達できるスキルというと英会話とパソコン操作、それ以外は簿記や習字くらいの認識しかなかったと言うべきです(その意味ではジョブとスキルに基づく社会になっていなかったという評価自体は間違っていないのですが、これはむしろ企業側にこれらのスキルの育成能力がなかったという話です)。その上で、一定の資格要件が成立していた簿記や習字と異なり、文学や通訳に特化していた英会話やそもそも電源を入れることすら恐れられたパソコンには業務に関わる技能としての基準が存在せず、提供側の教育産業のサービスレベルもそもそもサービス自体の供給能力がないために趣味的なものに終始し、現時点では英会話教室はTOEICスコアに移行し、パソコン教室は就労人口が人生の初期からパソコンがある世代に交代することで意義を失ったというのが私の考えです。その証拠に、企業側はいまだに学校での実用的技能の訓練として、英会話やパソコン操作ばかり想定しており、商業としてのサービスにおいて必須の簿記会計や契約実務、税務の習得を要求していません。どれも広範に即戦力となりうる上にパソコンを使った業務改善や自主的なキャリア展開の基礎にもなる技能であるにもかかわらず、です。

「「教育とは職業のような下賤なものとは切り離された人格陶冶という神聖なものだ」という虚偽意識」
これは伝統的なエリート像そのものであり、かつ全員がエリートになる、エリートを目指すことで社会の問題を解決できるとする明治以降の教養階級の理想像そのものです。
これに対峙する考え方として本書に言うG型大学自体を否定する実業中心思想があり、これも近世からの伝統を持っています。まあ、こっちは論壇に叢生する教養主義者からは評判が悪いのですが。
そこでG型大学とL型大学を対立させるというのは、解決策に見えて実は神学を信奉する独善的知識エリートと簿記と手工業に拠り所を求める上層実業家の分化を進めることに他なりません。これでは止揚ではなくて特権的階級制度の再生産です。
そもそも未成年教育の時期にジョブにつながる技能を習得し、そのジョブの延長線上にキャリアを展開していくという考え方は、本書において直前の節で述べられているように技術の発展を含めた社会環境の変化によりジョブ自体が頻繁に見直しを迫られるような状況になったことで破綻し、その結果として経営専門職やゼネラリストにつながる職務が広範に現れると同時に、就業後の職業再教育が世界的に課題となったと言えます。結果の前者につながる面として高等教育の大衆化、伝統的職業教育の縮小があり、後者において職業訓練の見直しやリカレント教育とそれによるキャリアアップという考え方が出てきますが、基本的にはそれこそソフトウェアエンジニアリングにおけるプログラミング思想や問題解決フレームワークのように、既存のものとは断絶した発展が比較的短いサイクルで発生するため、再教育において再利用が可能なノウハウが大変抽象的な部分だけになり、それを扱うためには大学卒程度の学習能力が必要になるというのが、日本とおそらく中華人民共和国以外での状況です。能力さえあれば学歴は必要ないというか、学校や資格習得コース、特にL型のような固定化したノウハウの伝授に特化した機構では用をなさないため、学歴では評価の基準にならず、学校無用論まで出てきています。教養教育が役に立たないどころか、職業訓練学校レベルの教育内容では30年持たず、教養教育の結果鍛えられた応用力を活用できるようになることが求められます。これはマスプロ教育でどうにかなる話ではありません。そこで高度実務教育など議論したところで意味がありませんし、実現してもせいぜいそれこそ中西元経団連会長や三村商工会議所会頭レベルの無能を生産するだけです。これではスキル認証制度を作っても意味などなさず、この路線でジョブ型就労をしていたら、最低賃金でルーチンワークをこなしているうちに自動機械に雇い主ごと置き換えられるでしょう。
拡大期以外ではオーバーヘッドの大きいメンバーシップ型の就労様式は論外として、労働集約的な生産様式が続く限りジョブ型就労システムが正当性を持つにしても、10年前のジョブカードが評価の基準にならない以上80年代のジョブ型雇用論ではまともな将来像は描けません。ジョブ型労働制度の基盤として提案されたものがことごとく役に立たないのは、教育界の哲人教育志向や社会全般のメンバーシップ雇用への執着(未成年教育で良いポジションを得てメンバーシップ雇用に参画することを理想とする志向)ばかりが理由だけではないと思います。
おそらく当面は、ジョブ型就労で必要になる職業能力の保証を与えるのは、同業の仲間だけです。いわゆるコネと、それから同業者の評価に耐える職務経歴書、それもこのポストにいたという形ではなくこの仕事に従事した(インドのこの事業に対してこのタイプの原発プラントを売ったとか、このスポーツウェアで素材の選定に従事したとか、この建物についてここの施工を担当したとか、東京証券取引所の取引システムの開発でこの部分に関わったとか、このファイルアーカイブソフトウェアを開発して配布したとか)という形のものです。制度的な教育は、資格制度も含めてそうした経歴を得るための基礎を与えることしかできません。このために、そうした仲間、職能や技能を共有する仲間集団のメンバーシップを組織し、そこに依拠した就労を行うこと、それを利用する採用を行うことが、労働政策としては適切だと思うのですけどね。

「解雇の金銭解決制度は20年経っても実現していないが」
この点については、労働側の誤解もあるにせよ、日本における外部雇用市場において解雇後の長期失業リスクや待遇低下リスクが高いこともあると思います。欧米における6〜24か月程度の解雇補償金の水準は、長期失業に対する公的支援(こちらはまあ、摩擦的失業に対するジョブ転換支援策です)とともに、同一ジョブ間の転職であれば数か月程度の期間で同程度の条件で再就職が可能だという事情があります。日本では現状この前提は成り立たないので、金銭解決制度を法律で導入する場合補償金の額を極めて高くする、つまり40歳以降の時点なら60歳までの期待賃金を全額補償せよといった議論になるでしょう。正直90年代にアウトプレースメント制度における割増退職金の基準を欧米を基準に24カ月程度とする主張を見て馬鹿げていると思ったものです。ほぼ確実に処遇が悪化すること、それでいて生活コストが下がらないことを考えれば、一括支給なら60カ月分は払ってしかるべきです(多分この程度なら住宅ローンの完済くらいはできると思うのですが)。しかしこれでは、解雇などすれば補償金債務で倒産しかねません。労使共に導入を嫌い、推進するのは補償金を払う原資がある大企業の経営者だけです。判例法による解雇規制が前提とされるために法技術的な議論に終始しているわけではないのです。というか、そもそも世論として導入を忌避しているために、実務処理において反発を迂回して紛争を処理するための法技術的な議論しかできないのです。
この件、意外な形で先例が出たようです。悪質な事例ということもあるのでしょうが、まずは職務単位の任期制雇用において同一の職務が継続するにも関わらず雇い止めすることは原則として認められないとした点、次に雇い止めするのであれば少なくともその職務の継続が確実に期待できる期間の給与に相当する額を解雇補償金として支払うべきとした点、かつ雇い止め自体が不正であるので解雇補償金を割り増すべきとした点で、原告の勝利と言えます。また、そのような条件で解雇の金銭的解決を可能とした点で、使用者側としても使用者側に責任のある解雇について相場感を得ることができたと言えます。もちろん低賃金の職種だからこそこの条件で和解できたという面もあるのでしょうし、任期制雇用でかつ委託の期限があるため期待される賃金の額が推定しやすかったという事情もあるでしょう。期限の定めのない雇用についての解雇の金銭的解決における相場感の形成は、そのような雇用が勤続に応じて賃金が上昇していくことを想定しているため難しい部分もあると思います。とはいえ、使用者と被用者の間で形成されていた期待に基づき妥当な賃金分に使用者側の解雇についての責任の程度によるプレミアムを加えて補償すべきというのは援用しうる基準だと思います。これはこれで、定年まで10年を切ったような人がその分の賃金(基本給部分)に退職一時金相当額を加えた補償金で解雇される(つまり諸手当や賞与の分は期待に比べて損をする)可能性が出てくるわけですが、早期退職の条件としてはそう悪いものでもないという気もします。住宅ローンの残債くらいは十分払えるわけですし、その上で解雇時の2割程度の賃金の職に就いたにしても支出が減る分暮らすには困らないでしょう。

「生活給から能力主義への曲がりくねった道」
ここでは、なぜ生活給という主張が出てきたか、また若手から生活給への異論が出てきたかが問題です。1950年代まではそもそも賃金の絶対的な水準が低く、事業所有や金融資産運用による所得に遠く及ばない状態でした。「電産型賃金」という名称に見られるように、安定的な雇用を提供できるのも電力産業や一部の金融事業のような、今の東証一部上場企業に比べても少ない企業だけでした。このような状況に対して労働分配を向上させ、労働者の生活を安定させ、労働者や兵隊の再生産、なかんずく十分な教育を受けた技能者の輩出を確保するための生活給の主張であり(このため提案者が海軍のそれも開発製造部門に出てくる)、少ない労働分配の中で生活給を実現されると若手への分配が低下しかねない、そもそも生活給で正当化できるほど能力の違いもないというのが労働側の生活給への反対論です。そこがこの頃の議論のわかりやすい所以であり、机上の空論ばかりしていた職務分析研究に愛想をつかした経営側がいわゆる科学的経営論を捻じ曲げて能力管理を打ち出した結果わけがわからなくなったのです。ついでに成果主義とこれに基づいた労務管理で収拾不能の混乱を来しています。中小企業の素朴なパターナリズムの方がまだしも心情論として理解しやすいというものです。この点で、「ご都合主義の成果主義」という著者の評価には全面的に同意します。意識してご都合主義に走っているならまだしも救いがあるのですが、経営側すら納得していないのに無理矢理アカウンタビリティなどと称して適用するものだから、素人がアメリカあたりの労務管理の初等の教科書を読むだけでおかしいことがわかるし、それを労務担当者に問い質しても先方は説明すらできないのです。
もっともこのあたりのへ理屈のこね方は実は洋の東西を問わないようで、2010年ごろにスペインで、任期制雇用制度について日本と驚くほど似た事態が発生しています。この時期日本では正社員登用を回避するための雇止めの事例が出始めていたわけですが、スペインでも全く同じ理屈で経営側が任期制雇用(というかどうやら試験任用制度)を濫用しています。もっとも日本は任期が3から5年でしたが、スペインでは三ヶ月でした。労働者も迷惑を被りましたが(懇親会で愚痴を聞く羽目になりましたが、自分の立場も同じだけに、安易に同情できなかったものです: アンフェアなやり方だ、卑劣な資本家と雇われ経営者を倒せ!と言えれば楽なんですけどね)、あれでは現場の管理者も、業務計画を立てて実施するのに苦労したことでしょう。
でまあ、次の「日本版同一労働同一賃金という虚構」については、便法であるにしてもそのように(メンバーシップ雇用制度に基づく同一労働同一賃金制度の実質的否定として)運用できる提言をしてしまった学者の曲学阿世、御用学者という批判も受忍せざるを得ない粗相という以外は、まあそうなのだろうと思います。この種の話はアベノミクス関連では結構あり、ブレーン側ではそういう意図ではなかったのに立案過程で捻じ曲げられ、運用では全く想定外になったという不満は、他の政策の関係者からも出ています。

「家族手当と児童手当の間」
少し考えればわかることですが、使用者が家族手当にしろ児童手当にしろ払う筋合いはありません。福祉政策であれば、仮に支給の効率化のために給与支給の経路に相乗りするにしても、国が手当相当額を使用者に渡し、それを給与と合わせて支払う形となるはずで、この場合筋としては国からの支給なのですから、例えばストライキ中に家族手当を支給しないといった主張は成り立ちません。それは支給された補助金を使用者がねこばばする行為です(なんか最近もありましたよね: ええ、コロナ対策の休業補償金です)。それが、家族手当が給与と連動し、かつ人件費として事業経費に繰り込まれ、国の負担ではなく使用者の負担であるという形式のために、給与の一部として認定されるようなことになったわけです。全くわけのわからない話で、貧乏って嫌だねとしか言いようがありません。政府支出を増やしたくない、その財源としての税金を払うのはもっと嫌だ、だからといって払える範囲の雀の涙みたいな額を平等に貰うのも嫌だ、そういう貧乏根性の結果、そんなわけのわからない話になったのです。既得権をぶっ壊せという主張をネオリベの妄言と排斥できない原因は、官政労使に蔓延するこの貧乏くさい発想にある気がします。
その次の残業に関する議論もそうですが、これも実は世界的に同じ発想があるようで、2020年、ILOはCOVID-19流行に伴う不況の中で、労働時間を確保するよう求めたのです。筋から言えば、感染防止のために休業するのは仕方ないが雇用において前提される就労時間に対応する給与は支払うように、休業はあくまでも使用者都合だ、労働者にしわ寄せするな、財源は政府に陳情して負担してもらえ、もちろん業績不振による整理解雇は許さない(どうせ流行が終われば旧に復するのだから)と言わなければならないと思うのですが、なぜか働かせて給料を払えと言うのです。爆笑ものです。本書の著者は日本の労働制度の議論の捻じれ具合をいろいろ批判していますが、根本となる発想の部分は、それこそ1980年代に日本が世界に感染させたのかもしれません。もしかして同一労働同一賃金に基づく時間給思想(つまり使用者側から見れば働かせた分だけ払えばよいという発想)が蔓延した結果、職場にたむろしていれば基本給どころか残業手当まで貰える日本的労働慣行に囚われてしまったのでしょうか。

「メンバーシップ型が求めるスタッフ管理職」
この論点は実際に経験した部分が多いですが、組織のスリム化というのはフラット化、また管理職直前で昇進が止まってしまうというのも名目的には、また仕事上の裁量権の上でも管理職相当(課長級)になるが部下はいないワンオペ状態のなんちゃって課長というのが実態だったと思います。スタッフ管理職との違いは、スタッフ管理職は職制上現場の管理職と交渉するために管理職相当の処遇をしますが、なんちゃって課長は自分で課長級の決裁印を押せる(これだって別に課長級である必然性はなく、職務裁量権の問題)点以外の扱いは現場の従業員同然ですが経歴やそれこそ残業規制などの回避のために管理職扱いになっていたわけです。さすがに問題になって、今のコンビニ店長の労働者性の是非の問題と同様の構造で議論がなされていたと記憶しています。天井問題は、このなんちゃって管理職に対する批判と、むしろ経営者層、つまり営業所長や平取締役レベルへの昇進や中核的従業員(つまりエリート候補生)の処遇向上の正当化にあったと考えます。
残業代ゼロ法案という批判についての経緯は次節「月給制と時給制の一体化」にある通りで、月給を貰うが労働時間規制も超過労働割り増し手当もないホワイトカラー、週休か月給を貰い定時で上がる事務員、繁忙期に超過勤務をすればその分日給が増えるが閑散期には日給が減るどころか貰えなくなる工員・作業員の区別(もちろんこの区別に応じて出世にも天井がある)をなくすことが、平等思想を背景とした動員政策上求められたわけです。この点、日本の労働思想というのはソ連あたりの社会主義思想よりもはるかに平等主義的なのですが、そのためか労働運動家にまで勤労動員思想が蔓延してしまい、産業報国ならぬ勤労報社論、会社版御恩と奉公に反論する余地がなくなってしまいました。出世などしたくないから転勤も残業もしない、無暗な労働管理にも協力しない、管理するなら自主管理すると言いにくくなってしまったのです。自主管理を主張する人はむしろスタハノフ運動に賛同するような経営側も引きかねない生産性向上第一主義者で、「事業一家の覇者交代」で触れられている生産管理闘争がそれです。これは今もその傾向があります。例えば9月に一審判決があった富士そばの組合幹部解雇事件もそうで、何と組合側が、自分たちの方が今の経営者よりも事業を上手に経営できる、それを解雇するのはおかしいと主張しています。何しろ日本の経営者に経営手腕がないのは常識なので、そういうこともあると言えばあるでしょうが、ならばEBOでも競合の立ち上げでもすればよいでしょう。なにも雇用関係の地位確認訴訟など起こす必要はありません。このあたりが「管理職は職種か処遇か」の論点になります。頑張って高い学歴を取得してそれで雇ってくれる官僚主義な企業に採用されて高給を貰いつつさらに頑張って雇われ経営者を目指すか(もちろん途中で落ちこぼれて良くて窓際ポスト、悪ければ事務員になる可能性はある)、工員や事務員から頑張って技能を身に着けて起業し小さいけれども一国一城の主になるか(もちろん途中で挫折して平工員や平事務員で終わるか破産する可能性はある)、熟練工員として社会的地位や収入としては報われないながらも手に職のある誇りを持った生涯を送るか(仕事自体が消滅して一からやり直しになる可能性はある)、その分岐が人生の比較的早い時期に来るのが一般的なジョブ型雇用社会の特徴で、平等に位置についてよーいどんで全員が競争させられることに比べれば、それはそれで合理性はあるわけです。問題と言えば高い学歴を取得する人が色々な意味で世襲的になる傾向が強いことでしょうか。地方の平民がうっかり高学歴を取得してエリートになってしまうと頑張って働いても社会的には成功しても色々と難しい場面が出てきますし、都市出身のエリートの家系の人が脱落してしまうと厄介な問題が出てきます。どちらも鬱病の典型例を生み出しますが、それ以上に始末に負えないのが平民の出世頭が機会平等主義者かつメリトクラシー絶対主義者、国家主義者になることでしょう。マーガレット・サッチャー女史などその例ですが、日本でも例に事欠きません。池田勇人元首相などその好例で、東大や京大あたりの法学部、経済学部、工学部と軍の士官学校はこの類を輩出しています。アメリカ大陸系の経営者にもこのタイプが多いですね。

「女性総合職の矛盾」
ここの議論は馬鹿げていると言わざるを得ません。マミートラックに入るのが嫌なら結婚などしなければよいし、してもDINKSとして子供など作らなければよいわけで、わざわざ頑張る同僚と結婚して子供まで作って、それで総合職をやっている方に問題があります。「女は子供を産んで一人前」とか「結婚して家族を作るのが幸せの前提」などというのはセクハラです。また子供ができたらできたで産後休暇から復帰したらベビーシッターを雇えばよいわけで、外国ではエリートというのはそうするものです。エリートの共働き夫婦にすら家事使用人すら雇えないような給料しか払えないことに問題があるのです。そもそもまっとうに考えれば、産後数年程度の育児休暇に意味などありません。子育てはそんな期間では終わりませんし、一方で数年も文字通り休んでいたら元の職への復職はすぐには困難です。この点で低い給与と長期勤続の前提自体がワークライフバランスにおける問題なのです。エリートにとってのワークライフバランスとは、あるライフステージに合わせて職を離れても高い職務遂行能力さえ証明できれば次のステージでキャリアを再開できるということです。
一方で、ノンエリートにとっては女性の安定した就労確保と継続的なワークライフバランスの保障は死活問題です。共働きですら家事を使用人に任せるほどの収入が得られないのはむしろ当然ですし、このレベルの世帯でワークライフバランスを成立させることができなければ、夢も希望も無くなってしまいます。一方で基本的に定型的な業務に従事するわけですから、復職は比較的容易であるはずですし、短時間勤務にもなじみやすいはずです。ですからノンエリートにとってはワークライフバランスとは一日の中でワークとライフに適切な時間を配分できること、一年程度休職しても解雇されない、あるいは同程度の処遇の職が常にあることです。
なお集団保育というのはこのレベル以下のノンエリート賃労働者のためにある制度であり、朝7時から働き始めるために6時半には子供を預け、夜8時まで働いて夜9時に子供を引き取りに来るようなワーカホリックな人のための制度ではありません。そもそもそういうワーカホリックな発想で子供を丸投げするから、預かりなんだか教育なんだかわからない、従事者に負担ばかりかかるような制度になるのです。朝9時に子供を預けて9時半に出勤、午後4時には退勤して夕方5時には子供を引き取りに来るような低収入であるため就労せざるを得ないがライフにバランスを振った人の子供が公的保育の対象です。それにノンエリートに交代勤務や夜間対応をさせるような事業者は、自前で24時間の託児施設を用意するべきです。これも世界基準では当然のことで、やっていないのは日本を除けばアメリカ合衆国のブラック企業くらいではないでしょうか。
ジョブ型でエリートとノンエリートを峻別するというのは、こういう価値観を容認するということです。この場合そもそも矛盾は発生しようがありません。「普通の労働者」というのはこの分類でのノンエリートのことですし、だからこそデフォルトルールをライフ側に振ったうえで制度的にエリートを区別するという発想になるはずです。そこに女性総合職のなんのというのは、意味を成しません。他人の不毛な議論を批判するのはよいのですが、それなら著者自身はきちんと物事を整理して論じるべきです。

「健康とプライバシーの間」
正直この件はうんざりしていて、もはや賃労働者は個人として尊重されない、使用者の人格の従属物であり(まあ、屋敷住の不自由民ですね)、使用者はその上で被用者の健康や生活を保護する責任を負うとでもした方が良い気がします。それが嫌なら雇用に基づく賃労働などしなければよい、という発想です。「使用者責任追及がパターナリズムを強化する皮肉」とはこの話です。
とはいえ、この思想はリジッドに考えるとジョブ型とは馴染みません。例えば複数のジョブにつこうとした場合どちらが主か、つまりどちらの使用者に従属するかという問題が生じます。また外部市場でジョブを探そうとした場合現在の使用者の扱いはどうなるか。
もちろん超過時間労働や過重労働に関わる健康問題というのはある意味、そこまで仕事に思い入れるな、期待するな、法律の範囲で済ませておけ、どうしても死ぬまでやりたいなら自営なりパートナーシップなりでやれ、という話ではあります。いくつか出てきたエリートサラリーマンの激務についても、エリートなら自分の健康は管理できるのが当然だし、そのための裁量権も経営陣の一員として与えられ、本質的に高度なゼネラリストだから休養後の再就職先にも困らないだろうという話です。むしろ日本については、そのような激務が広範に制度的に(インフォーマルな制度ではありますが)強要される状況になっていることが問題ではあるのです。
またこうした広い範囲の労働者に関わる話とは別に、ある意味古典的な、就労環境や業務に伴って有害物質や危険物を扱う場合の使用者の健康管理責任というのはあります。基本的にはマニュアルワーカーの問題と言え、つまりアスベストが散乱する建物の解体現場とか、核燃料再処理の作業、あるいは機械加工や溶接のような作業の問題です。こうした問題では、極力危険な状況が生じないように作業自体が工夫されているとはいえ、その効果は作業者の健康状態を継続的にモニターすることでしか計測できません。
一般論としてこの問題に対応することはおそらく不可能であり、労働の集約や継続的な雇用という形での就労を周縁化していくことによってしか、改善しないと思います。本来は、自営業として事業を営む人が危険との釣り合いを取って元請けと情報を共有することに合意する、あるいは共同で事業を進めるパートナーとして情報を共有する類の話です。それを雇用という形で包括的な合意の対象としたり、労働法制という形で使用者に一括して責任を負わせたりすることに無理があるのでしょう。雇用という形態を事業における労働集約の万能薬として使ってきたことによる歪みだと思います。

「ラート」
これを議会と訳すのは誤訳に近いと思います。この言葉はドイツ連邦共和国の連邦参議院(ブンデスラート)や都市の理事会(ラート)やその庁舎(ラートハウス)と共通する語ですが、議会の場合通常「ターク」を用います。こちらは連邦議会(ブンデスターク)や帝国議会(ライヒスターク)、州議会(ラントターク)になりますが、広範な出身の議員が集まって問題を議論するものです。一方ラートはむしろ関係方面のボスの集まりであり、ブンデスラートの場合ラントの行政部の首長が出てくることが多い(議員資格は決められているが議員は決まっているわけでもなく議員として選挙で選ばれるわけでもない)ですし、都市のラートの場合は都市市民団の構成組織のボスが集まって都市に関する決定や都市の運営をする機関です。このため、例えばスイスの行政トップの合議機関(一般的に内閣にあたるが国務大臣の合議機関ではなく、議会が指名する行政官庁の長官の合議機関)もブンデスラートです(もっともスイスの場合下院もナツィオナルラートで、上院が州代表議員で構成されるシュターンデラートです)。つまりベトリープスラートは使用者と従業員団体のボスが顔を合わせて事業の運営について話し合う場ということです。ちなみにドイツ語では取締役会もフェルヴァルトゥングスラートと言いますが、制度的には監査役会、アウフズィヒツラート(これもラートですね)とされ、株式会社(Aktien Geselschaft)の場合これとは別に執行役会、フォアスタントという合議体が置かれます。

「従業員代表」
実はこの制度、すでにあります。まさに従業員代表と呼ばれる機関がそれで、いわゆる三六協定を労働組合がない事業所で締結する際に不可欠の機関です。ただしその選任手続については決まりがなく、「事業所の従業員の過半数を代表する者」というものであり、おそらく実態は使用者側が候補を示して信任投票に持ち込んでいると思われます。というか私がまさにそうだったわけですが、職場としての団結もないのに使用者側に呼び出されて代表役を演じさせられる非常に不愉快なポジションでした。もちろん三六協定も含めて例外的な労働条件の設定が必須の職場であったため、誰かがやらないといけないわけですが、できればもう少し顔の見える範囲で決めてほしかったと思います。誰が事業所の従業員に相当するのかもわからないのですから。
ただし従業員代表制度がすでにあると言っても、本書で提示されているような機能的な意見集約機関ではありません。従業員側の団結があればそうなりえますが、ない場合は従業員に個別に意見を問う権限すらないポジションです。

「管理職ユニオンという摩訶不思議な存在」
実際、労働法制における管理職と雇用関係の現場における管理職は相当に異なっています。経営者と一体のものとして従業員に対峙するのではなく、従業員の中で管理という機能を分担する、「社員」の中の連続的なスペクトラムの一要素というのもその通りでしょう。
とはいえそれは、日本的というよりは官僚制組織における普遍的なもののように思います。官僚制組織は公益の実現を旨とする客観的な組織であり、オーナーからもカスタマーやクライアントからも独立した地位にあります。オーナーからの指示は公益に即して客観的に、つまり官僚個人の責任に関わらない形で実施されますし、カスタマーやクライアントの要望も公益に即して、官僚個人の意見とは無関係に処理されます。官僚制組織のトップは、自身がその組織の所有者であるからではなく、公益(例えば株式会社であれば定款に書かれた会社の目的なり株主の利益なり)に即した業務執行の窓口として、官僚制組織の頂点に「置かれ」ます。このようなある意味中立の機関として機能するために、管理職を含む官僚制組織の各官僚の利害はオーナーとも官僚制組織とも違背しえますが、その場合に官僚制組織自体を用いて自己の利益を貫徹することは官僚として許されません。
この官僚個人の利益を代表するための機関が、下っ端官僚の労働組合であり管理職組合でありということになります。そもそもそこをおかしいと言うなら、職位に関わらず国家一種公務員や地方の上級職公務員が組合に入っているのだっておかしいわけです。またアメリカにしても、管理職が外部の支援団体の支援を受けて労使紛争を起こしている事例は少なからずあります。この支援団体が労働組合ではなく労使紛争において被用者側を支援するNGOだというのは分類の仕方としては適切ではあるでしょうが、使用者に管理動員される従業員の交渉を目的とした自発的社団という出自に囚われず、使用者と被用者の紛争を強制的に調停するための機能として見れば、むしろ必要なものでしょう。
また、ここ数十年ほどの人事管理が、労働者を使用者のための制度と一体化する方向性を持っていたことは明らかです。メンバーシップ型雇用というのはそのような制度であり、この意味では全員が「管理職」なのです。このときに企業内組合というのは従業員と使用者の紛争解決手段としては役に立たず、解雇という決定的な対立に至ってしまった紛争は外部機関の手を借りて調停するしかありません。これは労働者代表制度でも同じことであり、メンバーシップ型組織である以上バンされたメンバーの救済は内部の調停制度の手に余ります。解雇反対闘争は労働側と使用者が主観的に同じメンバーシップのメンバーでないからありえたのであり、「使用者と一体」のメンバーをいくら組織しようとバンによる不利益の救済は期待できません。

「経費援助のパラドックス」
労使関係の調整機関の費用は事業に関わるものでしょうか。もちろん雇用コストの一種ではあるでしょうが、ある種の企業有機体説にでも依拠しない限り(ヨーロッパ大陸の労働法制はこの趣があります)、例え事業組織内のものであれ労使関係の紛争調停機関を使用者負担で設けることは、自明ではないと思います。人事部門の苦情処理機能なら別でしょうが、これは明白に使用者側の仕組みです。
また事業内に労使関係の調整機関を設けるということは、公的に規制された関係である労使関係が当事者のみで処理されてしまうことを意味します。これなら企業内組合だろうが人事部苦情処理課であろうが同じことで、むしろ義務的な機関であるがゆえにその判断が外部の調停機関において安易に追認されかねません。企業内であれ労働組合が労使紛争の調整に当たり、外部の調停機関でもその判断を尊重されることができるのはそれが労働者側を代表する者と観念されているからであり(これに賛同する人は少なくなっていると思いますが)、事業の一環として運営される関係調整機関を個別的な管理職や人事部門への相談以上に公正な判断を下す仲介者として利用する気になるかどうかは甚だ疑問です。むしろ労働者側の紛争提起のハードルになるのではないでしょうか。
インフォーマルな調整の仕組みとしては、ある程度強い立場に立った労働供給側によるコレクティブバーゲニング以外には妥当な方法はないと思います。給料を決定し保障しているのが使用者であり、労働組合が個別的な労働契約に割り込んで会費をピンハネしているような状況からひっくり返すべきでしょう。もちろん労働者に対して労働組合の立場が強すぎてもいけないわけで、労働組合は使用者と対峙しつつ労働者に公正な条件での就労機会を提供する機関でなければいけません。団結による結社ではなく、制度的な運営規則に基づいて雇用に基づく就労を包括的に管理することになります。公営職業紹介所(いわゆるハローワーク)に労働者派遣業相当の雇用関係管理機能を付与すると考えるのです。地域独占ないし専門職に関する業務独占という話が出てくるのは、使用者に対する立場を確保するとともに、地域や業種を移動することで労働者が労働組合との関係を切ることができるようにするためです。この意味では業務独占の場合、業種はできるだけ細かく区分することが適切でしょう。例えば照明技術者の場合、舞台照明とスタジオ照明、野外での照明の専門職組合は別にして、舞台照明の組合と対立してもスタジオ照明に移動できるようにしておくわけです。もちろん各組合は、対立した労働者に対しても、従事した業務についての経歴証明を、法的に適正に行われた記録に基づいて発行することを義務付けられます。記録があるにもかかわらず証明を拒否した場合は、まあ、懲役十年以上でしょうか。

■2021年10月09日(土)  体のいい親の責任放棄ではないのか
どうする?コロナ下の学校行事 大人が「よかれ」と決める前に
こういう論調には基本的に賛同できません。もちろん、子供に判断の経験を積ませること自体は心がけてしかるべきと思います。しかし、学校が行事を催すことについて肯定的であることはできません。学校というのは学びの場のひとつに過ぎず、一方で市民として身に着けるべき最低限の教養を身につける場として重要です。子供の発達過程の議論においてはそのような意味で関わるものでしかありません。行事というのは、児童生徒の発案によるものであれ、そのような役割からは明白に逸脱しています。今風に言う学校における「体験による学び」というのは、子弟の教育に責任を持つべき保護者がその責任を全面的に学校に押し付けることの表明に他なりません。
学校の運営関係者や教育委員会などの担当部局が事態についての判断を押し付けることは確かに問題です。しかしそれは、彼らがあくまで保護者が子弟の教育を行うに際して便宜を提供する第三者であり、彼らが提供すると想定されていたサービスを都合で取りやめることが、教育を受ける本人と保護者の期待を損なうからです。体験による学びが真に重要であるならば、本来それを実施する責任は保護者にあります。普通教育における体験による学びの手段として自治体や学校のお仕着せ行事を選ぶのだとしても、何らかの理由でそれが実施されなくなったときに、事情を考慮して場合によってはサービスレベルの不当な低下に抗議し、補償を要求すると同時に、必要と判断すれば自身の負担によって必要な教育を実施することが保護者の義務です。子弟本人にも役務提供を受ける主体としてそれを求める権利がありますが、保護者にも子弟の希望や利益を尊重して普通教育を実施する義務と、子弟に代わって普通教育の内容を選択し、選択に当たって提示された内容の実施を求める義務、つまり子弟の利益を代表して普通教育という役務を提供する側と交渉し適切な普通教育の実施を引き出す義務があります。
多くの場合義務教育のための機関を運営している地方自治体が集団行動におけるリスクを回避するために活動内容を変更した場合、それは児童生徒の声を聞かない一方的な判断なのではなく、一般に期待されるサービスレベルを恣意的に変更したという児童生徒とその代理として普通教育の手段を選択する保護者に対する契約違反です。それ以上の、子弟の希望や利益を考慮し、子弟の利益のために普通教育を確保する責任は、子弟に普通教育を与える義務の主体としての保護者にあるのです。学校と児童生徒で相談して予算の範囲内で勝手にやってくださいと言わんばかりの論調は論外です。
体験による学びを実施するよう児童生徒や保護者が学校に要求した場合、学校は当然に、状況に即したリスク低減策を講じるための負担を要求するでしょう。児童生徒にその負担に応じる能力はないわけですから、要求された負担に応じるかどうか、より軽い負担で求められるリスク低減効果のある手段がないかどうか、判断する責任は保護者にかかってきます。「大人の判断に、当事者である子どもたちは置き去りになってはいないのか。」と問うなら、子供の声を聞き、それを普通教育の内容に反映させる責任は親にあります。

■2021年10月08日(金)  コスプレの機会だと思えばイベントもありでしょうが
ふたりべや(9)
「卒業証書授与」
あれ?大学の卒業式でそんなのあったかいなと思ったのですが、わたしそもそも学部も院も卒業式には出てなかったです。ただ、後で事務室で配布されたのが卒業証書ではなく学位記だったのは覚えています。ついでに入学式も、博士課程のを除き出たことがありません。もちろんその後にあるオリエンテーションはちゃんと出たんですけどね。
女性は着飾る慣例があるので入学式や卒業式の準備も楽しいかもしれませんが、男性はスーツ一択であるため出るメリットがありません。どうも参列する教官方も退屈していたようで、ダレトクのイベントなのだろうと思います。もっとも入学式に出ないと学長の顔を見る機会がないのですが、そもそも見ても忘れるので無駄かもしれません。謝恩会や知り合いを呼んでの卒業報告パーティーなら、嫌々であってもする価値はあると思います。

■2021年10月07日(木)  スプロールした人的会社が断末魔にのたうち回っているように見える
買収防衛策、発動か否か 「株主平等の原則」めぐる司法判断に注目
原則論から言えば買収の危険を看過できないなら株式会社という形態をとっている方がおかしいということになるのですが、調達コストが低いからと漫然と増資を続けてきたような例はともかくとして、買収による経営方針の不安定化や従業員の処遇への悪影響は無視できないため、便宜的に企業価値を損なうかどうかという観点が導入されているわけです。本来企業価値自体は個々の株主の主観的判断であり、また買収によって企業価値が低下したとしてもその損害は買収した側が被るわけですから、もちろん顧客も従業員も買収後の経営に不満があるなら取引先を替え、転職してしまえばよいのですから、買収防衛策などというものが成立する余地はありません。また株主間での対立を、現在の経営陣に反対する一部株主と経営者側の株主との間のものであっても、反対側の株主の株主権を制約して乗り切るなどということは、原則論としては許されないと考えるべきです。
一方で現実には、事業の公益性や雇用条件の確保を買収による非連続的な事業の私物化に対して担保できる状態になっていないため、実績のある旧経営陣に有利な判断が下される余地はあります。これが立法府なら制度の是非を論じるべきですが、個別事件について判断を下すのは司法府ですから、現状の制度を前提に判例を元にして判断するしかありません。いくら原則論として企業買収が認められているとしても、保守派経済学や右派リバータリアンの主張するような自由な資本取引が全面的に認められるわけでは、そして全面的に認めることを前提に補完的な制度が構築されているわけではないのです。
もっとも、経営陣に敵対的な株主が外部から現れる余地を作った時点で、人的会社としては破綻しているように思います。買収防衛策というのは人的会社を想定して初めて是認しうるものですが、買収防衛策と言うならそのようなことが起きないように会社の株式上場を取り下げ、可能なら合同会社にでもしてしまうべきです。資金の調達は、株式上場ができていた会社なら長期の社債の発行くらい可能でしょうし、その上で配当すべき利益の一部を何らかの形で資本に繰り入れることで社債発行による株主リスクやレバレッジの増大に対応するべきでしょう。

■2021年10月07日(木)  生涯現役でした
すぎやまこういち氏死去 90歳 「ドラクエ」作曲家
作曲家・すぎやまこういち氏死去 ドラゴンクエストや学生街の喫茶店
すぎやまこういち氏が逝去、ドラクエなどの「この道わが旅」を振り返る
90歳では大往生ですね。ご冥福をお祈りいたします。
ファミリーコンピューターの音の少ない制約の中でファンファーレやマーチに聞こえる曲を作った点は、エポックメーキングだったと思います。一方で競馬関連のファンファーレはいささかゆったりしたしかし軽快な曲であり、他の曲を見ても、金管と打楽器を中心とした迫力重視の曲よりは弦や木管を用いたメロディックな曲が本領かもしれません。
喫煙アクティヴィストでしたが、心置きなく紫煙を燻らせながら逝けたのでしょうか。冥土が禁煙でないことをお祈りします。個人的には分煙になっていてほしいですけど。

■2021年10月07日(木)  買い手のリスクを増加させませんかね
隣の土地誰のもの? 境界確認なくても売買可能に 来春開始めざす
いやこれ、定期的に登記の更新とその際の境界確認を義務付け、その際の所有者不明もしくは所有者所在不明の土地については登記を抹消して没収すればよいだけだと思うのですけど。調査の上公示送達を申請しても半年程度で済むはずですし、没収についても占有離脱物という概念はあるわけです。売買促進策を取ってもそもそも値も付かないようなものは売れないわけで、取引コストの削減よりも、そういった物件を生じさせないように所有コストを取引コストに比べて増加させることが解決につながる気がします。
筋としては、それこそ農地改革や宅地分譲によって細切れ化した土地を集約する方向性もあってしかるべきで、一般的な売買促進策のような切り売りを生じさせかねない方策よりも、土地集約のための売買についての優遇策を講じることが望ましいでしょう。もちろんその過程でいわゆる地上げに関して見られたような立ち退き強要行為が出てくることは問題であるわけで、地縁コミュニティが崩壊する可能性はありますが、株式のTOBのような不成立による撤退が可能な期限付き買い付け制度あたりはあり得るのではないかと思います。

■2021年10月06日(水)  端子部分がHDMIなだけですね
8K映像をHDMIで300m伝送可能なケーブル
8Kを300mというので驚きましたが、光ファイバーですね。分岐しているUSB-A端子は電源でしょうか。おそらく大型モニターやプロジェクターを再生機器のHDMIポートに直結するような用途が想定されているのだと思います。

■2021年10月06日(水)  無駄というなら入庁式や就任・退任式も無駄
深夜の新閣僚会見、河野氏「やらず良かった」 引き継ぎ式は「無駄」
無駄扱いはわかるのですが、そもそも記念写真撮影といい、どうして夜にするのでしょうかね。例えば国会審議が長引いて夜になるというのは、審議を妨害するから長引くのだとしても理解はできるわけです。しかし国会の首相指名が深夜になったのならともかく、午後8時くらいまでに就任会見まで終わらせること自体は難しくないはずです。また就任会見なら翌朝でもよいでしょうし、写真撮影などいつでもよいわけです。
一方で引き継ぎ式は、引継ぎ自体には実質的な意味はあるわけで、見もしないとか無駄というのは問題があります。方針自体は引き継がないにしても、処理を引き継がないといけない懸案事項はあるでしょう。無視するにしても聞いてなかったではまずいのです。その上で、引継ぎ自体が交代の実質を象徴するものとして式になっているわけで、大臣官房を通して引き継げばよいという発想だとしたらいささか違うと思います。それでよいならそもそも省庁担当大臣自体が無用であり、官僚の長官が内閣の指示を受けていればよいということになります。
もっとも、シンボリズムに偏った無駄な儀式が世の中に多数あることも事実で、学校の式典や官庁の就任式や退任式、新卒一斉採用やそれに関わる儀式などその代表でしょう。国家公務員など、資格試験だけしておいて、必要になったらその数だけ採用して仕事がなくなったら解雇すればよいのです。

■2021年10月06日(水)  儲かるとも思えませんが
大学の教科書を電子化して配信へ NTT東西と大日本印刷が新会社
高校までと違って限られた中から選ぶのではないのですし、教科書需要が減るとそもそも出版されなくなりかねないですから、貸本みたいなオンデマンドにするのはあまり感心できません。まあ、使い終わった教科書を古本屋に売り払うのも関心はできませんが。
 まあ、大学の授業で教科書など使う方がおかしいわけで、教科書に書いてあるようなことなら教授がわざわざ喋る必要はなく、読んでこいでよいわけです。使うとすれば、一つの授業で4冊くらいの「教科書」を切り替えながら読み込んで議論していく、教授の解説の内容を踏まえて自分なりの解釈をレポートとして提出するような形でしょう。この形なら、定番の本を貸本形式で提供することは意味がありますが、それはもう、出版社がやっているんですけどね。もちろん中小出版社はそこまで手が回っていませんが、学術系の大手であればオンラインライブラリサービスの一環として利用できます。
 この企画はスプリンガーやペルガモンがやっているライブラリサービスを国内出版社を巻き込んで行おうというものだろうと思いますが、読み手としてのユーザーと合わせて、出版社の組織も必要です。当然出版社が納得できる値付けを提供できないとサービスになりません。そこはセコハン書店とは違います。一方でボリュームメリットがないと読み手側が乗ってこないでしょう。利用促進をネタにすれば図書館部門は乗ってくるかもしれませんが、教科書など大学側が用意するものではないというのが普通の感覚ですから、そんなものにお金を出そうと思うかどうか、疑問に感じないでもありません。
 そもそも辞典類や資料ならともかく、和文の書籍など法学以外では教科書として使いようがありませんから、そちらに偏ったライブラリは金の無駄です。まだジャンルを限定しないkindleのほうがましでしょう。

■2021年10月05日(火)  JR旅客会社はまず線路を標準軌に敷き替えよ
「採れたての鮮魚や野菜、新幹線が運びます」 JR東、事業化に本腰
あなた方、東日本「旅客」鉄道株式会社でしょうが。
貨物をハブって新幹線を占拠しておいて(それが分割の際の条件でした)、それで今になって需要があるから、儲けの足しになるから貨物輸送ですか。客のトランクが邪魔だからと規制しているのは東海ですが、まず客の荷物をどう運ぶかこそ、旅客鉄道会社の考えるべきことだと思いますがね。いっそ再編成して、「新幹線ネットワーク株式会社」にでも全国の新幹線の路線を任せ、JRは在来線の運営に専念してはいかがですか。そのほうが、線路規格の合う私鉄との相互乗り入れも進むでしょう。
そもそも新幹線に注力するなら少なくとも成田空港線は標準軌に改軌し、新幹線側に乗り入れるべきです。また整備新幹線路線、つまり狭軌と標準軌の三線軌条になっている路線も標準軌に統合するのが筋です。そのあたりの国鉄の宿題も片付けずに何をやっているのでしょうか。
国交省も、競争的環境の整備のために新幹線系統へのサードパーティーの乗り入れを促進するべきでしょう。東海道新幹線なら小田急や東急が品川や新横浜から乗り入れて新宿や渋谷発で大阪まで直通運転してもよいでしょうし、東日本管内でも東武を標準軌に改軌して上野なり栗橋なりから日光方面につなげれば、西から乗り換えなしで日光方面への観光客も見込めるはずです。旧国鉄路線は全国民の財産なのですから、ネットワークを拡充するアイデアこそ出すべきですし、そのためには旧国鉄系の輸送計画にこだわる必要はむしろないと思います。

■2021年10月05日(火)  むしろビジネスシーンで芸人以外が燕尾服を着てはいけない
夜なのに、なぜモーニング? 閣僚の服装、西洋のドレスコードでは…
これ、日本人にありがちなドレスコードの曲解だと思います。実際にはシチュエーションも絡んでくるので、燕尾服とモーニングコートが分離した時期以降、ビジネスや日中のイベントのシーンではモーニングコート、夜会や舞踏会では燕尾服というのがドレスコードになります。日本の場合組閣の記念写真を撮るのが夜なのですが、それでもビジネスシーンであるためモーニングコートを着ているということになるはずです。もちろん燕尾服で議会の審議や御前会議に出たら、夜通しの審議でもマナー違反です。逆に宮廷晩餐会の類では燕尾服を着ることになります。この場合のモーニングコートのモーニングは、モーニングコート、つまり朝廷(昔は朝から昼までに近臣が皇帝なり天皇なり国王なりの御前に集まって国政の会議を行ったので「朝」廷)やモーニングビジネスに近い意味になります。その後午後を挟んで(近代ではここに酒を飲まない社交としてのティーパーティーが入ります)、イブニングから酒を酌み交わす社交扱いになるのです。社交活動をしている限りはイブニングであり、それが引けて寝るのがナイト、夜です。
いわゆるタキシードなりディナージャケットなりも夜会や晩餐会向けの準礼装ですが、ディナー扱いの社交ならば日中でも着て構いません。むしろモーニングコートやスーツの方が、無粋なマナー違反になりかねません。そういった前提があって初めて、パーティーにおけるビジネスカジュアル、つまり昼間のスーツ、背広で参加してかまわないというドレスコードが成立します。

■2021年10月02日(土)  1980年代の感覚こそそろそろ捨てた方が良いのでは?
クラウドワープロは、いったいいつまでページにこだわり続けるのか
どうなんでしょうかね。
むしろ画面のサイズや解像度がデバイス固有という方に問題がある気がしますけど。たとえばプロジェクターであれば、画面のサイズは任意に選ぶことができます。今のところ解像度の問題があるのであまり細かい画像を表示させるわけにはいきませんが、作り手のイメージを再現するという文書表示の原則からすれば、A4だろうがA0だろうが原寸で表示できないといけないのです。
またスクロールというのも表示側の都合で、スクロール(巻物)から冊子に進化して、ページというデジタルな分割法だからこそランダムアクセスが容易になっているのに、前から後ろにシリアルに読んでいく形に先祖返りしているわけです。
もし仮に自動レイアウトが前提になるとすれば(1990年代の技術ではページのイメージを生成・表示する能力がなかったので自動レイアウトを前提にせざるをえなかったわけですが)、スクロールというよりは紙テープのイメージになるでしょう。今時頭から順に読んでいくなんて馬鹿な読み方はそうそうしないわけで、目次あたりから目安を付けて有意義な情報がありそうなところを拾って読んでいくわけです。もちろん検索でインデックスを生成して拾ってもかまいません。ところがこの場合に必要になる文字単位のポインターが、どの表示システムでもまともに実装されていません。文書を作る道具がどうとかいう前に、表示の部分ができていないのです。レイアウトを無くしてしまえば意味のある最低のまとまりというのは文か段落になりますが、インデックスからジャンプする場所を含む文頭から、あるいは段落の先頭から表示ということすら、本来レイアウトが自動であるはずのWebブラウザにもできていません。ワープロなどviと同レベルで、ジャンプ先を含む表示行から表示してくれます。
また短文メッセンジャーではないのですから、スマホの画面までサポートした文書の構成というのは制約が強すぎます。10年以上前に携帯文学というのが出現しましたが、逆に言えばそうしたカテゴリーが生まれざるを得ないほど携帯電話の表示画面というのは制約が強かったわけです。文書を読むのであれば、最低でも9インチタブレットは必要です。
またレイアウトフリーを理想とするのであれば、表示システムのストレージは1ペタバイトは最低でも必要でしょう。フォントはともかく、図版は原本のデータをそのまま貼り付ける形になります。でないと拡大したときに見るに堪えない粗い絵になってしまいます。現在のように画面で一定の寸法で表示する前提だったり印刷のページサイズに即したものとしてリサイズして貼り付けるのではだめなのですから、それこそワープロドキュメントに画像を貼り付けることができるようになったときのように、ドキュメントデータのサイズは巨大化します。10ギガピクセルの写真がそのまま貼り付けられるわけです。100ページ程度の文書であればすべてのページに図版があることも珍しくないわけですから、12ギガバイトの文書が千も二千も保管されることになります。これだけで数百テラバイトは消費してしまいますので、1ペタバイトは必要なのです。

■2021年10月01日(金)  なぜ起業=会社設立などと思ってしまうのか
規制改革で起業促進なるか 一律5万円の会社設立手数料一部引き下げ
そもそも何で起業促進の規制緩和で会社設立手数料の緩和なのでしょうか。むしろ個人事業税の非課税枠の拡大や自然人のみによる事業パートナーシップへの法人格付与と有限責任制度の設定、パススルー課税の実現が適切ではないかと思うのですが。もちろん青色申告制度の廃止や個人所得税における事業支出と消費支出・家計支出の区別の撤廃のような税務会計の簡素化による事務コスト削減も有効だと思います。
個人で事業を行い個人所得税の範囲で納税を行うなら、事務コストが跳ね上がる法人化など、有限責任法人化によるリスクの括り出しやパートナーシップにメリットを見出すのでなければ利用する必要はありません。個人や少数の仲間が思い付きを事業化しやすい軽量な制度を整備するべきで、現在の日本の会社制度のような重たい制度を開始コストだけ下げても仕方ありません。むしろ事業の本質ではない事務コスト、税務コストを緩和することを考えて欲しいものです。
逆に既存の事業法人が新規事業を別法人として括り出すというのであれば、それは起業支援の対象としてはふさわしくありません。支援するにしても連結納税で全体として税負担を軽くするような便宜になるでしょう。
もちろん起業に成功し、事業を第三者に売却するような話になれば、法人化が問題にはなるでしょう。とはいえその時点で公証人に払う5万円を気にするような状況ではなくなっているはずです。

■2021年10月01日(金)  サーバーがお亡くなりになったようで
アップデートを行ってサーバーを再起動したところ、30分ほどで勝手に電源が切れるようになってしまいました。少し前から画面が表示されなくなる症状も出ていたので、さすがに寿命なのでしょう。
とりあえずリプレースの候補を書いておきます。
Intel NUC5i3RYKアマゾンで16900円
P34A60 256GBアマゾンで5000円弱
メモリは流用できそうです。
それにしても、M.2はバスの規格を調べるのが面倒です。一応ベアボーンがPCIe x 4、SSDがPCIe3 x 4なので問題ないはずです。

10/9 注文していたベアボーンとSSDとSATA-USB変換ケーブルが届いたのですが、本体の映像出力がミニHDMIとミニDPでした。ミニHDMIのケーブルは持っていたと思うのですが、どうもしまってあるらしく出てきませんし、タブレット用に買ったのでマイクロHDMIだったかもしれません。ミニ-通常端子のHDMIケーブルを発注しました。SSDやメモリは、とりあえず問題なく取りつけられました。映像出力が使えない以上これらが使えるかどうかは後日にならないとわかりませんが、まあ、取り付けられるものは使えるのが普通です。

10/11 ケーブルが届き、無事インストールして起動できました。まあ、コンソールに回せるモニタがDVIなので、しばらくモニタなしになるのですけど。入力切替でWindowsにモニタが新規に接続されたと認識されるのでなければ、HDMIのあるモニタにつないでおくのですけどね。

10/13 新しい方でも不意の電源断が発生します。どうもスリープ(S3)に入ってしまうようです。NUCはS3状態になると電源のインジケーターが赤で点滅するのでわかりました。しかもapt upgradeで最新のパッチを当てると、直後の再起動後に発生するようです。なんとなくそのうち治りそうな気がするので、しばらくアップデートをしないで様子を見ようと思います。しかしだとすると、古い方もパッチさえ当てなければ動きそうな気がするので、そのうちメモリを買って弄ってみようと思います。パッチを当てて再現するかどうか確認する場合でも人身御供のハードウェアはいるわけですから。

10/14 最新のアップデートを適用しない場合現象が再現しないので、確実にアップデートを行ったことによる問題です。とはいえアップデートは一括適用されてしまうので(そもそも個別適用して問題の在りかを探らないといけないようなことはあまり起こらない)、パッケージを指定してひとつづつアップデートを適用し、原因となっているパッチを特定するべきでしょう。
面倒くさいな。

■2021年10月01日(金)  公営であっても事業途中で事業主体が変わるのはサービスレベルの低下ですけどね
「区立保育園の民営化計画撤回を」 東京・目黒の保護者ら署名提出
これって民営化しない代わりに増税や保育料値上げも甘受するという話なのでしょうか。
民営化という話が出てきたということは、区や都がその方向で考えている、もう区立保育園にお金を出したくない、もっと良い税金の使い方があると考えているということでしょう。それに反対すること自体はわかるのですが、ならば少なくとも区議や都議を組織してそれができる予算案(の修正案)を提案しないといけませんし、場合によっては増税か、あるいは区立保育園のコストに見合った保育料に値上げするということになります。議会が民営化してはいけませんと決議すれば行政部は実施はできなくなるわけで、予算案と組み合わせて議会に陳情するべき事柄であり、行政窓口にクレームをつけるのは、筋違いとまでは言わずとも無責任でしょう。

■2021年10月01日(金)  批判する側にも対案を出す責任というのはあると思いますけどね
旧横浜市庁舎、事業者と契約 「たたき売り」批判に市長は妥当性強調
妥当性というか、特定企業を優遇しているというのでもない限り、売れるときに売っておくというのは悪い手ではないと思います。土地ならまだしも、建物など持っているだけで保守コストがかかるわけですから(庶民だと土地も建物も持っているだけでコスト=固定資産税がかかるのですが、そこは役所のメリットです)、更地する手間をかけずに済むのであれば値段が付くだけましではあるのです。かえって「適正価格」で売るために塩漬けにしておく方が問題でしょう。叩き売りしてでも損切することはむしろ望ましいのであり、それを嫌ったがためにかえって損失を拡大した例は近年多数あります。
もちろん批判する側に活用する案があるのであれば、それは検討してしかるべきです。とはいえその場合、市としてリスクを負い、かつ整備コストがかかるわけで、単に保存したいなどという理由で主張するのはどうかと思います。むしろ批判する側には、主張する適正価格とやらで引き受ける、あるいは引受先を提示する責任があるのではないでしょうか。別に金利収入だけで維持できる財団を作って引き受けるのだって民営化ではあるわけで、せめて土地の賃料をタダにしてくれれば活用する程度の案は出すものです。

■2021年10月01日(金)  安値でもさっさと売っておけば損失は免れたのにねえ
「かんぽの宿」終了へ 日本郵政、14年で赤字600億円超
これ、売却差額と赤字のどちらが大きいのでしょうか。
まあ、そもそも簡易保険の販売促進、テコ入れのための事業だったわけで、いくら何でも公営企業としてどうなのかという話はあったと思います。簡易保険自体役割を終えた(そもそも郵便貯金制度と同じで国家事業の投資資金集めと民間の生命保険の加入要件を満たさない人への生命保険の普及が目的だった)と思いますし、事業整理が進んだことは良かったと思います。

■2021年10月01日(金)  この社長さっさと辞めさせたほうがよくはありませんか?
パナ社長「期待の人まで早期退職を…」 組織改編で1千人超が応募
なにもそんな、いてほしくない人のアウトプレースメントを前面に押し出したコメントをしなくてもよいと思うのですが。優遇条件付きの早期退職募集など、外に出てやっていける、やりたいことがある優秀な人から応募するのが理の当然というものです。当然残るのは外に出られない人ばかりになるわけで、そういう後がない人を絞ってコストカットと経営陣の独裁体制を確立するのがリストラというものでしょう。想定より大規模になったのだとしても、組織を十分にスリム化できた、損失は人件費コストが下がることで数年でカバーできると平然と豪語するのが経営者の仕事のひとつというもので、去っていった人への未練や本来追い出し目的だったことをうっかり口に出してしまうようでは今時やっていけないと思います。

■2021年10月01日(金)  まあ、買う人いるのでしょうね
“ロスフラワー”削減を応援! 横浜ロイヤルパークホテル、ラウンジでブーケを販売
いやまあ、どうせたかが飾りなんだからもったいないとか言うならそもそも飾らなければよいとは思うのですが、余りものをマネタイズするというならやってみるくらいはありでしょうね。もちろん花農家の収入につながりますので、ケチるのではなく売りさばくというのはまっとうな方向性です。もちろんロスを見込んでぼったくるというのも、そもそもロスしたところで使い道すらないのでありですが、やはりぼったくったうえでさばいてさらに儲けるべきでしょう。それでイベントのコストが上がってイベントの簡素化につながるなら大変良いことです。
貰い物というのは基本的にうれしくないのですが、花というのは個人的に貰っても仕方ないものの中で上位を争います。渋い顔をするのも失礼なのでありがたそうに受け取りますけどね。

■2021年10月01日(金)  茶会というのは名物披露が本旨なのですが
Google、湯飲み型キーボードを披露 「スシ配列」採用 設計図を無償公開
Google.co.jpはネタが活性化してませんかね。
誰か、抹茶と粉茶は違うものだと突っ込まなかったのかとは思いますが、まさか北野大茶湯の開催に際して、誰でも手持ちの茶碗を持参して茶湯に与ることができるがこうした配慮にも関わらず参加しなかったものは以後茶会を催すことを禁じると触れられたことや、遠くから来る者への配慮のためと称して十日間開催するとされたものが実際には一日で終了となったことを踏まえて何かやろうとしているわけではないですよね。

■2021年10月01日(金)  なぜ中国でレンズ一体型?
中国向け市場が好調に。ミラーレス・レンズ一体型が伸長
レンズ一体型なんかどこで伸びたのだろうと思ったら、中国で伸びていたのですね。
とはいえ、ではなぜ中国でレンズ一体型が伸びるのかというのは、不思議ではあります。現状のスマホ内蔵カメラの性能からして、スマホとは別にカメラを買うなど、日本でも中国でも趣味人というよりは見栄としての消費です。これまでの傾向からして一眼レフが伸びるのが普通でしょう。あるいは、少しガジェットに拘る層が先を見越してハイエンドの35mm判ミラーレスを買うかです。それがレンズ一体型が伸びたのだとすると、見栄は張りたいが一眼レフには手が届かない層が出てきたか、重たいレンズ交換式よりもスマホカメラの延長線でレンズ一体型の高倍率ズーム付きに進む層が出たか、これはまさかと思いますが高級コンデジに興味を示す層が出てきたか、ということになります。
もちろんレンズ一体型で満足できるのであればどうこう言う筋合いはなく、むしろレンズ交換型に高倍率ズームレンズを組み合わせるよりは好ましいのですが、この傾向が続くと見栄っ張り層に支えられていたレンズ交換式カメラボディの市場が縮小してしまうことになりかねません。プロや相応の理由があってレンズ交換式を使っている趣味人層の需要は変わらないわけですが、レンズ交換式である以上ボディの買い替え・買い足し需要よりはレンズの新規需要の方が多いでしょうし、ボディはある程度見栄っ張り層の新規参入者に支えられている部分があると思います。この層が減るというのは、写真趣味としてはともかく、写真機材製造業としては歓迎できないことでしょう。

■2021年10月01日(金)  分析結果をどうするのやら
Zoom会議が退屈でないかをリアルタイム分析する無償サービス
あほかというか、会議などというものが退屈で非生産的でないわけがないのですが。
今後どうマネタイズしていくのかわかりませんが、会議コンサルティングだけは止めて欲しいと思います。オンライン授業で生徒の集中具合を測るほうがまだしもましでしょう。もちろん生徒を評価するのではなく、講師を評価するわけです。もっともその場合、学校制度に私講師制度を導入するべきでしょうね。聴講する生徒の数だけ講義料が増え、一方でいい加減な講義と甘い評価で人気を取っていないかを査定するわけです。

■2021年10月01日(金)  監督の前に業務停止と銀行免許取り上げが先だと思いますが
麻生金融相「月1ペース、極めて迷惑な話」 みずほ銀の8回目障害
迷惑というのは非常によくわかりますが、監督を強めたくらいでシステムトラブルがなくなるなら誰も苦労はしないと思います。もちろん満たすべき基準を定めるという意味で規制やそれに基づく監督は必要です。とはいえ今障害が出ているということは仕込みは一年以上前にあったわけで、それで役所にどうこう言われても、直すだけで大きな手間や時間がかかっています。ましてや迷惑などと言われる以前に問題であることはわかっているでしょうし、中身など皆目わからない仕組みです。むしろみずほ銀行の皆さんが気の毒に思います。そもそも問題だと思っているならまず銀行免許を取り上げるべきでしょう。
とはいえ、月一で重大なトラブルなど半年にわたって起こせば、少なくともITクラウドサービスであれば顧客離れで撤退に追い込まれていてもおかしくないわけで、謝って直して済んでいる時点で銀行というのがいかに甘やかされた事業であるかということにはなります。先日の地銀のシステムトラブルも、銀行と言いシステム屋と言い、それで潰れたという話は聞きません。まあ、コンシューマー向けサービスだと15年くらい前は頻繁にどころか恒常的にリソース不足でトラブルを引き起こしつつもそういうクオリティということでユーザーが納得していたものですが。
もっとも最近はコンシューマー向けITサービスでもアマゾンに依存したものが多いのですが、そのアマゾンは大規模システム障害と言うと全体で年に一度程度でしょうか。それでもこうしたシステム障害やParler騒動で他人にシステムを依存することへの危機感を持ったシステム担当者は少なくないと思います。

■2021年10月01日(金)  geditはこけるとゾンビ化するらしい
サーバーをアップデートに伴って再起動した後geditが挙動不審になりました。
どうもログイン時に環境変数DISPLAYの設定がうまくいかなかったようで、そちらは.profileに設定したもの(これはshかcsh用らしい)を.bashrcにも書くことで解決しました。というか、普段弄っていないとどれがどれだかわからなくなるのはUNIXの設定ファイルの昔から変わらない問題です。
ところがこれでも起動せず、異常終了してしまいます。調べてみると、geditは通信関連の問題で起動に失敗するとゾンビ化するようで、killallなりシステム再起動なりでゾンビが消えると使えるようになるようです。しかもgeditだけでなくgnome control centerでも発生するとか。

■2021年10月01日(金)  互換インクの使用が原因でプリンターが故障した場合プリンターメーカーは責任を負うのでしょうか
インク互換品、使用不可の設計「違法」 ブラザーに賠償命令
リジッドに考えればこうなるのは理解はできますが、自由競争ってこんなしみったれたものだったでしょうか。互換インクの供給なんてどう見てもコバンザメ商法であり、本質的にトラブルが起きたときは自己責任になるという点から見れば、消費者の利益になるとは思えません。
そもそもプリンターメーカーだってある程度消耗品が売れた時点で本体と合わせて元が取れるという想定で価格設定をしているわけで、そこで割安に作れるからと互換インクを売られたらプリンター製造事業自体続けられなくなる可能性があるのは、例えばファスト○○なんかと同じ構図です。もちろんプリンターの方の価格を上げることはできますが、それはそれでメーカーと消費者双方にとって損失になるでしょう。
もちろん互換インク製品自体を容認できる状況はあり、例えばメーカーの用意しているインクではできない表現ができる場合などは、プリンターの寿命を縮めてでもあえて使う選択肢はあるでしょう。
とはいえメーカーに「保証」を求める限り、メーカーには想定に沿った使い方をユーザーに求める権利があり、また想定外の使い方を防止する措置を取る権利があると思います。互換を称する製品の排除もその一環でしょう。

■2021年10月01日(金)  サイトの証明書管理でやらかしましたかね
amebloにアクセスしたら画像のような次第です。サイトとNOD32のどちらに問題があるのかわかりませんが、他のサイトではこのような表示は起こらないので、日付あたりで問題が起こったのだと思います。
ところで、Firefoxがスクリーンショットをブロックしているらしき挙動をします。

10/2 サイトが正常に表示されるようになりました。
grp1001060834.png 1268×749 32K

過去ログ 2012年04月 
2016年05月 06月 07月 08月 09月 10月 12月 
2017年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2018年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2019年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2020年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2021年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2022年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2023年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2024年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月