■2020年10月04日(日)
ブルースとヒルビリーからジャズを経てロックへという定型でよいのか
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「はじめてのアメリカ音楽史」里中, バーダマン. 筑摩書房, 2018. 人物を通して一応の流れは追えるわけですが。 レコードとルーツを通して追う形になっているためか、音楽シーン、つまり酒場でBGMとして流れていたのか、酒場のショーとして演じられていたのか、パレードで演じられていたのか、ダンスホールで流れていたのか、街頭で演じられていたのか、音楽ホールや音楽イベントで演じられていたのか、ラジオで流れていたのか、酒場のジュークボックスでかかっていたのか、テレビの音楽番組で演じられていたのか、ディスコで流れていたのか、ダンスクラブで流れていたのかといったルーツを修飾していくトポス的な要素が切りつめられている印象です。ジャズまでとヒップホップは比較的場の話題があるのですが(音楽の解釈において切り離せないということだと思います)、ロックではどうにも乏しい感を拭えません。特定のイベントではなく、どういう場に集い、どういう姿勢で音楽に接する人を対象にしていたのかということなんですけどね。このため、1960年代以降のダンスミュージックがヒップホップを除いてばっさり切り捨てられ、ステージ音楽とレコードの紹介だけになっています。また白人民謡系の大衆音楽、つまりクリスマスソングあたりもさっぱり出てこないというか、軍歌からIrving Berlinとティン・パン・アレーに一括されています(リパブリック賛歌あたりの話です)。旧支配者のキャロル(嘘です: キャロルオブザベルズです)はまあ、おいておくとして。もちろんある程度意図的なものと思うのですが。 このため、ルーツが非常に明確になっているわけですが、一方で音楽商品を中継し拡散する場であった北東部の大都市の位置付けが非常に不明瞭になっています。南部ルイジアナとフロリダがアメリカのルーツと言われると少々違和感がありますが(まだ北部ルイジアナと言われる方が納得できる)、「田舎」だと言われればまあわかるかなという印象です。本来はそんなところにルーツはないにもかかわらず、都市と対比しうるがゆえに故郷とされたあれです。著者の一人、バーダマン氏が後書きで披露しているエピソードが典型ではないでしょうか。北東部の大都市に移入された南部由来の音楽が都市の商品となっていく様子、若者文化と結びついた音楽産業を語るうえで、南部にルーツを持つとされるブラックミュージックやヒルビリーからジャズやロックが生まれ、ヒップホップ、あるいは本書ではロックに一括されてしまっていますがパンクやテクノが生まれていくという図式は非常に便利なものですが、文化人類学者や民俗学者の語りの類には違いありません。ディキシーランドジャズというのがすでに音楽産業が生み出したイデオロギーなのです。 著者が自覚的に用いているこうしたイデオロギーに対して意識的に読まないといけない(そういう意味では中央公論社の物語歴史シリーズに近い読み物だと思わないといけない)という点では、「はじめての」と銘打っていますが、初心者向けとは言えません。大衆音楽史の読み物がロック帝国主義であるのはいつものことで(実際に現代の音楽シーンに、クラシック系前衛音楽に対してすら大きな影響を与えていますし)、むしろ本書はジャズやフォークにページを割いている方ではあるのですが、個人的には、マイケル・ジャクソンを扱うならなぜジョン・ウィリアムズを扱わないのかと思います。あれはひょっとしてクラシック音楽扱いなのでしょうか?プレイヤー中心の叙述においては扱いにくいことは事実ですが、オーケストラ系の映画音楽だって立派な大衆音楽だと思います。 それと、オーケストラ音楽がジャズに入るという図式(巻末の表)はおかしいと思います。アメリカ大衆音楽は擦弦楽器というとフィドル一辺倒で、ヴァイオリンは受け付けませんでした。むしろウインドバンド、つまり軍隊や救世軍の楽隊、ラッパバンドやフランスやドイツのパレード吹奏楽(でもって、こうした楽団では低音の管楽器が開発されていなかったためにコントラバス=ウッドベースが入っていた)やピアノ協奏曲と言うべきで、弦楽合奏に管楽器と打楽器が導入された形の古典派オーケストラではないのです。もちろん特にビッグバンドジャズの楽曲やオケ伴奏の歌謡曲(日本のあれではないですが)の作曲家には古典派の管弦楽構成法を身に着けた人が多かったわけですが、それならガーシュインに加えてルロイ・アンダーソンが出てこないとおかしいのです。 | | |