■2020年05月01日(金)
カオスとは言いえて妙かもしれない
|
スミス・マルクス・ケインズ (ウルリケ・ヘルマン, 鈴木 直, みすず書房) 値段相応かどうかは判断しかねますが、まあ、面白い本だと思います。 マルクスのところも興味深いですが、ケインズの章の末尾、バンコール構想の破綻とブレトンウッズ体制の成立と崩壊の記述において、外国為替市場がカオスと化しているという記述は、いささか皮肉ながら言いえて妙かもしれません。カオスとは決して単なる混とん、混乱ではなく、そこから万物が生まれてくる、いわばあらゆるものを包含するが故の混とん、ごちゃまぜです(この創造論モチーフはギリシャ神話に限りません)。そして現在最も知られた「カオス」、つまりカオス理論は、予測が困難な系を扱いますが、それ自体は厳密に記述されます(だからこそ理論なのですが)。つまり、流れに乗る投機家ではなく、一定の合理的な予測に基づいて必要なインパクトを加える相場師向けなのです。この手の相場操縦は一般にひどく嫌われますが(まあ、ありていに言って価格形成機能をひどく侮辱していますしね)、流通市場がある限り根絶は不可能です。カオスという表現は、安定しているべき通貨交換システムを乱しているという意味であれば浅薄に過ぎますが、相場師が活動する余地を残してしまったという意味であれば正しくケインズの懸念するところであったことになります。 ジャーナリストの啓蒙本だけにある程度書き手の立ち位置が偏っているのは仕方ないですが、その位置がいささかノスタルジックではないかという気がします。マルクスはともかくとして、スミスやケインズは財の取引が実需にのみ基づくのが正しいなどとは考えていなかったはずで、著者のような、投機や相場操縦を「悪」とみなす立場を見たら苦笑したのではないかと思います。また本書のスタンスは新古典派およびその系譜をひく数理的分析を重視する主流派経済学の批判ですが、それを言うなら本書で支持されている政治経済学はべき論しかしていない観念哲学でしょう。スミスとマルクスに至っては道徳を科学であるかのように粉飾したとすら言えます(もちろんそれは彼らが生きていた時代の一般的傾向です)。正誤を批判するならまず価値判断に根拠があるという道学者的夢想を放棄してからにして欲しいものです。ついでに言えば、個人的には「価格は費用と上乗せ利益の総計だと考えたアダム・スミスの「追加的視点」の方が(限界生産性に基盤を置く価格構成の視点よりも)正しかった。」という指摘は全く誤っていると思います。総括原価という価格計算法が新古典派の合理的期待に匹敵する誤謬、単なる公的調達のための擬制でしかないことは、歴史が示しています。正常価格などというものが馬鹿げているというなら、それは同意しますけどね。 とはいえ、「経済学は自然科学ではない。」という定言と社会科学の自然科学へのあこがれ(これ自体は近代特有の現象だと思いますが)の指摘、そして経済学とは有効な政策提言を行うための道具だという立ち位置自体は、現代経済学を批判する上で有効な立ち位置だと思います。そういったある意味古典的な立ち位置(だからこそ立ち帰る - 復古が説かれる)がそれが当然であった400年間に散々繰り返してきた失敗を度外視すれば、象牙の塔の知的遊戯を批判する視座となりえます。とはいえ、それはあくまでも「現代経済学を批判する上で有効な立ち位置」でしかありません。学問内容自体が政治闘争と絡み合うという政策科学を批判する視座としては、価値中立的な現実の記述こそが科学であるという立ち位置もまた有効です。「なぜ少数の者が豊かで大多数の者が貧困なのか」というのは、よほどひねくれた解釈をしない限り(あえてやっちゃう人も当然いますが)発言した者の「大多数が貧困であることは問題だ」という価値判断を含意します。つまり「政治的な問い」ということです。この価値判断自体には、根拠はありません。なんというか、粒子系の粒子のエネルギーがボルツマン分布をする事の善悪を問うくらい根拠がありません。ゆえに「不平等は、人間の力では変えようのない、彼らが言うところの自然現象へと高められる。」のです。そのような善悪に絡む問いをすることは現実の理解にフィルターをかけることであり、反対者の弾圧を「彼らは誤った」として正当化したレーニンやスターリンへの道だというのも、そのような批判が既成秩序の正当化につながることを度外視すれば正当な批判です。「それゆえ、秘書の給料が経営者の報酬と比べてどれくらいの額になるべきかということもまた、学問的には決定できない。」その通り。「これは権力の問題なのだ。」そうでしょう。とはいえ、その決定できないことを決定できると称した新古典派経済学がおかしいと言うなら、開き直って権力に踏み込むのもまた曲学阿世です。 また資本主義のスナップショットを撮ることはできるが不朽の法則を立てることはできないというのはもっともらしい話ですし、不朽の法則と称してスナップショットどころか初歩的な近似にすらなっていないモデルを提示するよりは良心的ですが、スナップショットでしかないのならばその研究成果は新聞記事以上の意味はなく、つまりはiPhoneの新モデル程度のものだということでしょう。研究者やジャーナリストとしてはそれで十分だと思いますが、学者としてはそのような評価に耐えることができるでしょうか。著者はフリードマンのノーベル経済学賞受賞講演を引いてフリードマンの量子力学のいわゆるハイゼンベルグの不確定性原理に対する通俗的理解を噴飯物と嘲笑していますが、その著者の描く資本主義は、学者業界で使われる動学(dynamics)の含意する一定の厳密な法則に従って変動するといったものではなく、法則を記述してもそこから絶えずすり抜けていくものです。著者は明らかにこの捉えどころのなさ、奔放さを前提にしており、一般的な語としてのdynamismに近い語感であって、Quantum DynamicsやThermodynamicsから類推してしまうととんでもないことになります。おそらく原語のdynamischあたりを「動学的」と訳してしまった訳者と出版社を論うことは容易ですが、問題はむしろ著者の描く資本主義がいわば生に満ち溢れていることです。20世紀フランスロマン主義に突っ走ってしまったらそれはもう学問ではない、あきらめのため息をつきつつ流転するさまをデッサンしていくしかないというシジュフォスの神話を、経済「学」と呼んでよいのかどうか。 ともあれ、本書は「よみがえる危機の処方箋」ではありません。著者が示すのは、新古典派に発する均衡理論に基づく現代経済学がいかに誤っているか、その現代経済学への対比として、題材として選んだ三者がいかにして成長や発展という概念を組み込んだ経済学を構築したか、そしてそれがどのような理由で、そしてどのような経緯で無効になったかです。新古典派やそのレトリックを濫用する経済官僚、職業経営者を批判する視点からして著者は明らかにケインズ経済学に寄り添っていますが、おそらくケインズがかつて現代資本主義経済に対して示した処方箋を信じているわけでもなく(バンコール構想をめぐる論説はユーロというシステムに対する当てこすりでしょう)、またなにがしかの処方箋を示しているわけでもありません。著者はマクロ経済の三巨頭の理論の矛盾点をネタにして、返す刀でエレガントな現代経済学がいかに現実との矛盾に満ち溢れているか(そして経済学者がその矛盾に向き合っていないか)を論いますが、いわばそれだけです。原題の直訳からして著者の意図は現代経済学や経済官僚をこき下ろすことにあり、それに「よみがえる危機の処方箋」などという題をつけてしまった邦訳の出版社の方が悪いのですが、そのせいか、訳者による解説の締めにも何か無理があります。 ついでに書いておけば、マクロ経済学とミクロ経済学が接続されなければならないというのは、そのためにどのようなアプローチを行うかという問題はあるにしても動機としておかしなところはなく、実際物理学でも、量子力学の理論と相対論の接続は重要なテーマです。都合のよいフィルターとして以外で「階層性」などと言う人がいたら、まずは「ト」を疑った方が良いでしょう。もっとも、「総合」や「統一」というのも同じくらい怪しげではあり、応用生物学としての心理学とか化学から導き出す生物学というのも相当数は偽科学で、好意的に見ても理屈の上でも検証の手順についても色々とすっ飛ばしているのですが。ともあれ、動機はともかく、アプローチを間違えると良くてもアインシュタインの電磁気力学と重力理論の統一理論みたいなことになるわけで、新古典派が間違ったとしても、間違っちゃいました、ごめんなさいと言って恥ずかしいことはありません。 正直、史的弁証法とか弁証法的唯物論、社会契約論などの方がよほどひどいと思います。このあたりはリベラルアーツ教育の弊害というべきで、古典的教養における修辞学や、それこそ三千年前から続く法学における概念というのは非常に練り上げられているのですが、そのせいか便宜的に修辞学や神学、法学から借りてきた枠組み、理屈を作り上げるためのそれを何か絶対的なものだと錯覚するらしいのです。この点は西欧文化圏以外で活動した学者も似たような錯覚・誤認を散々やっています。下手な考え休むに似たりというか、考えることの陥穽というか、記述や理屈を何か実体的なものだと思ってしまうのでしょうね。方法序説あたりを読んで失笑してしまった人は、一応健全だと思います。 | | |