■2020年04月20日(月)
道具は表現の手段ではない
|
「時代の流れとともにくっきりシャープにという描写が求められていき、描写性能もコーティングも進化していきましたが、僕からすると、果たして本当によいことなのか、と感じるんです。」(宮原夢画, レンズの時間, 玄光社, 2015) 表現する人としては理解できる言葉です。しかし、写真機のレンズという道具に求めるべきものとして、こういう主張は間違っていると思います。 写真機というのはイメージングセンサー(銀塩感光剤を塗布した板、フィルムなども含む)に像を結ばせる機械、道具です。レンズというのは、外部の映像を光として取り入れ、イメージングセンサーの上に像を結ばせる、この機械の心臓部とも言える道具です。像を結ばせる道具である以上、その理想は明瞭な像をセンサーの全体にわたって得られることです。収差や像の癖というのはあってはいけません。「くっきりシャープに」というのはそういうことです。まあ、理想がパンフォーカスだからと言って絞りまくったレンズが良いかというとそんなことはないのですが。 表現であれば、道具の癖まで活用して求める結果を得るのは当然ですし、自分の好む表現と親和する一定の癖を持つ道具を求めること自体は理解できるのですが、道具の理想としてそうした癖を一般化することは、道具に求める内容を逸脱しています。どうしても特定の癖が必要なのであれば、それこそ自分でガラスを磨いて望む道具を作ればよいわけで、その点芸術家というのは道具作りが達者であることも少なくありません。自分では作れないのであれば、相当変なものでも、百億も出せばレンズメーカーが望む品を作ってくれるでしょう。既存の製品のチューニングで実現できる内容であれば、一千万も出せば使っているボディに適合したものをテストやチューニングも含めて用意してもらえるかもしれません。絵描きや書家が筆と紙にこだわり、茶人が茶道具にこだわるというのはそういうことで、既製品に妙な好き嫌いをするような成り上がりじみた振る舞いではないのです。もちろん、要求を満足する既製品があるのであれば、それを使うことは当然です。オールドレンズにこだわり、中古カメラ店通いをすることは嗜みのひとつの形でしょう(もっとも、写真機材の中古というのは骨董というよりはセコハンというべきでしょうが)。とはいえ、レンズの癖というのは設計された時代の制約の中で生まれたものでしかないわけで、その癖への好悪を基準として量産品を批評することはナンセンスです。「私はこれが好きだ。」というのと「この製品は良いものだ。」というのは違うのです。 どうも最近この種のノスタルジックというか感傷的な批評が目につきます。それだけ様々なものが表現のためのスタイルとして認識されるようになったということなのだと思いますが、例えば書家が手書きを絶対視するようなことを工業製品に求められても困ります。漫画を手書きしたいのであればスクリーントーンが売っていないなどと愚痴をこぼさず、印刷屋やフィルム製品メーカーと交渉して希望の機材を手に入れるべきです。結果としてパソコンとソフトウェアを買うよりはるかに高価につくかもしれませんが、それがこだわりというものです。 個人的には、ある時期以降の工業デザインもそうだと思います。人間工学はまだ認めますが、サイズや重さ、持ちやすさ、機能を詰め込む容積などの客観的な要件からはどう見ても外れた、デザイナーの趣味でしかないようなデザインの製品がカタログに掲載されています。特注で趣味に走ったデザインを求めることは全く構いませんが、量産する工業製品である以上、デザイナーの自己主張を垂れ流しているような外見の製品を見せられても、「個性」などと評する気にはなれません。没個性の方がまだましというものです。 もちろん、一見懐古的に見えても、合理的な批判というのはあります。写真で言えば、オートフォーカスや自動露出制御への批判がそうです。顔認識ソフトウェアがあろうがAIがピントを合わせるべき点を判定しようが、ユーザーが希望する座標にピントが合うかどうかはわかりません。というか、私の場合ほぼ確実に合いません。私が変なところにピントを合わせたがるとか、フレーミングがおかしいと言われればそれは認めますが、オートフォーカスというのはユーザーの希望するところにピントを合わせる機能であって、機械が勝手にピントを合わせるべき場所を決めてよいわけではないはずです。自動露出制御もそうで、少なくとも今のソフトウェアは、ユーザーの要求(適正露出であるべき被写体、白飛びや潰れを許すかどうか、被写界深度、最低限必要なシャッタースピード、シャッターのモードなど)を全て了解して露出を制御してくれるわけではありません。ユーザーは自分のスタイルと適合する露出制御方式を、自分で選択しないといけません。私の場合それが絞り優先露出制御とEV調整です。なんでマニュアルフォーカスのレンズで絞り優先露出なんか使うのか(シャッターボタン以外にいろいろいじらないといけないから面倒くさいだろう)と言われても、そうしないと希望の場所というか範囲にピントの合った適正露出の画像を得られないからそうするのです(私だって、測距点や測光点の指定で対応できるならそうしたいのですが)。ピンボケ写真を撮ってしまうようなカメラが理想的でないことは明白でしょう。 とはいえ、ボケ癖が自分の表現に必要だからというのは、ボケというのがレンズの理想から外れたものである以上、合理的とは言えません。自分は収差のあるレンズが好きだというのは、個人の好き嫌いの問題ですけどね。 もっともこう言っている本人がオールドレンズやコシナのフォクトレンターノクトンを使っていたりするわけで、そのあたりが製品に求められる理想と使う道具の好みの違いだと思っています。 | | |