日記

■2020年01月31日(金)  職場がいきなりなくなるのは普通のこと
破産の百貨店、全員解雇 元従業員ら怒り「生活狂った」
退職一時金と給与の未払いというのは大問題ですが、「元従業員からは突然の閉店に怒りや不安の声が上がった。」というのはいかがなものかという気がします。そもそも事業清算に際して従業員側の利害を代表すべき労組が経営状況を把握していなかったのだとしたら怠慢ですし、生活設計というなら会社が明日潰れて解雇されるというのはむしろ当然の想定でしょう。定年までこの会社で過ごして円満退職などというのは生活設計とは言いません。

破産の百貨店社長を書類送検 解雇予告手当不払いの疑い
当然でしょうね。それで手当分を回収できるわけでもないんですけど。
going concernなどと言いますけど、むしろ緊急事態対応計画のひとつとして、事業の破綻処理について制度設計をしておかなければならないはずです。そしてそこに、とにかく従業員に解雇予告手当と未払い賃金・一時金は払うことが含まれるのも当然です。本来は労働組合もそうなった場合に経営責任、雇用責任の追及はともかくどう対応するかという面で関わっておかないといけないのですが、日本の労働組合はそういう相談をするといきなり経営者の無責任を追及してくる傾向があるようなので、あてにならなさそうです。そして、それに合わせて税法上適正な積み立てをし、公認会計士にもチェックしてもらっておく。そのあたりが、経営管理のうえでの義務だと思うのですけどね。

■2020年01月31日(金)  理論屋による現実の濫用?
MMT現代貨幣理論入門
中野氏による巻頭解説まで読み終えたところですが、力が入りすぎという気がします。20世紀前半の知識人ならともかく、現代人なら理論が現実という言葉で表されうる何かの一面的かつ恣意的な記述でしかないことはむしろ知的活動における前提だと思いますし(だからこそそれを転倒させるという創作におけるギミックが意味を持つので)、ならば「あくまでも「現実」なのだ」などとは相当の羞恥なしには書きえないでしょう(書いていて羞恥に身もだえしたかもしれませんけど)。
とりあえず通貨の価値が納税から生じるという切り口は特に現代の法定通貨制度において有効であるとは思いますし、そういった切り口を排除しているというなら現在の標準的な通貨論は現代的な通貨の記述を誤っている可能性は大いにあります。しかし、この切り口は商取引の参加者が法定通貨以外を交換手段として用いる現象については、ここまででは説明を与えていません(もちろん本文はこれからではあります)。また税という制度も歴史的に貨幣を前提にはしていません(近代税制やその淵源となった都市の税制が貨幣を前提としていることも確かではあるでしょうが)。
あえて言うなら、商取引に基づく発達した経済のある時期の様態の記述として妥当ではあっても、貨幣の総体の記述としては一面的であるということもあり得ます。それがMMTの価値を減じるものではないにせよ、何を記述しているのかを明示することなく「正しい」とか「現実」とかいう言葉を使うのは、扇動演説という近代以降の学者にはふさわしくない書き方だと思います。

「…あなたがビットコインを受け取る説得力ある理由は1つだけだ。あなたは、実は間抜け比べ理論を信じている。あなたは次のことを祈りながら、間抜けをだましてそのビットコインの値上がりに便乗するつもりなのだ。(a)自分はビットコインのウォレットを失わない、(b)自分のビットコイン取引所は破綻しない、(c)すべてが崩壊する前にビットコインを売り抜けられる。」p.271
全くその通りというか、流通市場での投資(というか投機?)というのはそういうものだと思います。間抜け比べ理論への倫理的反感自体は共有できますが、私は貨幣的な価値や流通市場での取引というのは本質的に間抜け比べ理論の実践であると思います。とはいえ、そこから有効な政策を引き出すという点で、間抜け比べ理論とそれ以外のどちらが有益かという問題はあります。数百年後のどこぞの間抜け(例えば昭和初期の一円紙幣をプレミアム付きで買ってしまった紙幣コレクターの相続人とか)につけを回すことで製鉄所の設備更新ができるならそれもありかもしれませんし、租税で価値を作り出すことで保育士の給料を支払えるならそれもありかもしれません。投資や金融におけるバブルを抑制する上では、間抜け比べ理論よりはMMTの方が適切だとは思います。

「もちろん、MMTは「租税が政府サービスを賄う」というウルフの考え方には同意しない(州税や地方税の場合は除く)。しかし、租税を提供されるサービスに対する対価だと見なし始めると、人々は自身の支払いが「公平」なのか計算しようとする―この点に関しては、彼は正しい。実は、1970年ごろから州政府や地方政府の財政に起こったことはまさにそれだった。経済学の用語では、それは「地方分権」と呼ばれる。」p.283
アメリカではこう言うのでしょうか(経済学というよりは公共政策史だと思いますが)。日本では、行政改革が相当すると思います(あるいはあの時点とそれを契機として続いた現象を特定する上で「行革」でしょうか)。もちろん、地方分権や行政改革には功罪両面があって、結果としてシステムの効率化やサービスの向上につながった例も少なくないわけですが、財政基盤や政策執行能力の弱体化を招いた点、納税者の逃避を容易にした点は認めざるを得ないと思います。

「企業にもたらされる所得に課税することが望ましいとしたら、その最もよい方法は、企業の利益を全て株主に帰属させた上で、それを累進所得税における所得として株主に課税することであろう。」p.296
このラムルの主張は、全く機能しないということを除いては非常に正しい見解であると思います。株主、それも事業を実効的に支配している株主や経営者と結託した大株主がいかに表面上の株主利益を過少申告しようとするかについては、日本の会社制度史を概観しただけで明らかだろうと思います。徴税官庁による取引情報の全面的な把握が機能の前提になるだろうとは思いますが、何が利益であるかが恣意的にしか決められない以上、税金逃れを防ぐ方法はなさそうです。
ところで、法人税が良くないのに所得税が是認される理由がよくわからなかったのですが(どちらも所得に課されることは変わらない)、たぶん「事業」が人ではない、つまり市民ではないからなのでしょうね。政府というのが市民が共同して立ち上げ維持するものであり、その費用を徴収するとしたら(まあ、費用を徴収する必要はないのだとも主張しているわけですが)市民から徴収するべきだという認識なのでしょう。このために、事業に帰属する所得に事業からの所得に基づいて税金をかけるのは二重課税であり不当だという話になるのではないかと思います(まあ、税引き後所得から配当をするわけですしね)。実際には、法人税というのは配当として分配されないがために捕捉できない個人所得を徴収する手段とも言えるはずです(例えば所得税逃れの手段として法人を利用することができることはよく知られています)。また所得税は取引を捕捉する道具として使うことも可能であり(なにしろ所得を計算するには費用を証明する必要があるので)、法人所得税でも消費税でもよいですが、事業が収入と費用を資料付きで報告する制度というのはあってよいように思います。こういうのは報告だけしろと言っても絶対まじめにやらないわけで(企業の財務報告というのは原資料を徹底的に調査するくらいでないと信用できないものです)、報告をしないとひどいデメリットがあるようにしないといけません。納税申告というのはある意味適切な道具でしょうし、そういった情報を扱うのが徴税当局という情報を妙なところに流さないという点では信用のある役所と納税者当人が個人的に信頼する専門家だということもメリットです。結果として費用を控除すると税額がゼロになっても、法人所得税の場合構わないでしょう。
後述の社会主義についての勘違いから見るに、市民たるもの所得税を納めるくらいは政治面の社会活動に関与することが責務であるというのが、どうもアメリカンリベラルの常識であるようです。別に納税の原資が給付でも構わず(給付を受ける手続と納税手続をすることで政府に参加しているわけですから)、むしろ資産家が手持ち資産を消費して遊び暮らしているのが一番良くない(せめて投資でもして利子を受け取ることで貢献すべき)とでも思っているのではないでしょうか。実際には、所得税を一銭たりとも払っていない資産家が、もしかすると個人研究所で研究をして学術誌に論文を投稿するとか(学術雑誌に投稿された論文が掲載されても原稿料はもらえないのです: かえって投稿料を払う羽目になります)慈善活動をすることで社会に貢献しているかもしれませんが。

「怠けて福祉を受けるのではなく、全員が(能力を最大限発揮して)働き、社会に貢献すべきであるという考えを、どうして社会主義と呼べようか?」p.441
いえ、それが社会主義です。なんならソ連の公式イデオロギーを調べてみればよいでしょう。全く同じことが書いてあるはずです。さらに社会主義思想をさかのぼっても、勤労と社会への貢献は前提でこそあれ克服されるべきものではありません。
いわゆる社会主義においては、そのような状況を作るために政府による官僚制が構築されました。20世紀の資本主義においては同じ目的において資本の下に私企業官僚制が組織されました。マルクスが高度に組織された私的生産組織(多くは寡占ないしは独占を形成していた)に社会主義・共産主義の担い手となる社会的生産組織を透視したことは、肯定的にであれ否定的にであれ意識されていてしかるべきです。
もっとも、仮に就業保障プログラムがあったとしても、雇用者と被用者を前提とするMMTの政策提言は社会主義的ではありうるかもしれませんが共産主義的ではありません。
それから、どうも「労働」を神聖化しているように思われるのですが(これ自体は近代思想の多くがそうですが)、人による労働のマニュアル化(つまり人のロボット化)を踏まえた上でこう言うのかどうかが気になります。MMT自体は1990年ごろから形成されたようですが、接客を含む知的労働の機械化は進んでいなかったにせよ、そうした労働のマニュアルによる画一化は進んでいました。その起源となった、工場労働におけるマニュアル化、画一化はいうまでもなくチャーリー・チャップリンによってすら風刺されています。
個人的には、コールセンターやファストフードショップのレジカウンターなど、マニュアル通りの対応しかできないのなら機械の方がよほどましだと思います。また機械でできることなら、少なくとも現場労働それ自体は積極的に機械に置き換える方がよいと思います。そのうえで、機械にできないところにコストをかけるべきでしょう。例えば工場での作業はロボットに置き換えるが、ロボット化できない事務所のクリーニングは(いや、昨今は整理整頓さえできていればロボットができるかもしれませんけどね)時給で$30-は払うとか。単純労働だから、今まで安くできたのだからと馬鹿にするものではないのです。むしろ賃金水準を、相応の価値を生まないと思うなら自動化投資をした方がましなレベルに引き上げる、それが最低賃金の役割のひとつだと思います。そのうえで、機械化が難しい、柔軟な判断を求められる業務や非定型業務についてはその価値を積極的に認めていくことが筋でしょう(AIと言ったって、実はその自動機械に仕事を指示するところにこそAIが欲しいわけで、その意味では現在のAIは全く不十分です)。

後段の政策提言が少し左派がかってました。左派に肩入れすることは別に良いのですが、もう少し理屈の部分ときっちり分けた方が良い気はします。それと、主流派経済学と何が同じ主張で何が違う主張なのかが少々わかりにくかったと思います。ありていに言って、決定的に主流派の主張と違う部分はさほど多くないのに、あれもこれも違うとか、同じ結論なのにあいつらはそれを認めないといった主張をしているように見えます。もちろん、例えばある事象を説明する理屈が違っているということだってあるわけですが、ならばMMTの理屈ではこうだというのを明確に書くべきですし、もし主流派経済学との対比をするなら主流派経済学の理屈もきっちり書いてしかるべきです。その上での対比の議論でしょう。MMTの教科書としては主流派をけなすのに走っている気がしますし、主流派との対比からMMTの特徴を浮き上がらせるのであれば構成面での彫琢が足りません。
松尾さんの解説は、まあ、松尾さんならこう書くだろうなというものですが、言うなれば原理主義者気取りをしているという指摘にはうなづけるものの、書いている違和感の中には、本をちゃんと読めていないのではないかと思われるものもありました。
ところで著者が社会政策として提示している就業保障プログラムですが、性別役割分担を前提にしていないことを除き、日本で提唱された、完全雇用との対比としての全部雇用に近いものに見えるのですが、関係があるのでしょうか。

■2020年01月28日(火)  プロ化した部活動は学校にも職場にもいらない
部活動の民間委託、市立小の半数で実施へ 名古屋市教委
もはや学校や職場の部活動の意義はなくなったと思うのですが。制度自体を廃止したうえで、市町村がコミュニティサークル活動の支援を充実するのが筋だと思います。
そもそも、部活動でその活動のためにスカウトをしてくるところが出るという発想がね…

■2020年01月28日(火)  無駄遣いしているというわけでもないと思うのですが
海の幸を持続可能に トップシェフらが始動
持続可能性がらみの話は、生産面に頼ったものや消費ルールの啓蒙というのはうさん臭く思えます。
もちろん、再生産能力を超えた乱獲や再生産能力自体を損ねるような手法は問題ではあるのですが、乱獲にしろなんにしろ、それを必要とする状況もあるのです。それこそ他国の排他的経済水域や関係国間で規制が敷かれている海域で漁を行う例にしても、ルールを元に非難することは簡単ですが、自国の経済規模の範囲内で食糧を確保しようとすること自体は非難すべきことではないでしょう。それこそイギリス漁民の北西部大西洋におけるタラの乱獲や英米による太平洋でのクジラ漁なども前提とされるルールやその背景となる時代が異なるだけで、やっていることは同じです。そうした行動への反省の結果という面はあるにせよ、食料という少なくとも人口に比例した供給が必要な分野において、狭い範囲でルースベースでの需給の制約をしようというのは、いささか筋が悪い話でしょう。
供給サイドとしては事業を続けていけるのであれば供給量の制御にせよ単価の高止まりにせよ問題になりにくいですが、消費者としては例えば100円で2尾買えたさんまが1尾200円にでもなったら大問題です。一方で、日本全国で魚と言えばさんまといった状況はおそらく近代以降の異常な状況であるはずで、例えば青森に水揚げされた魚が東京の卸売市場に大量に出荷されるといった部分は、見直しの余地はあるかもしれません。とはいえ、例えば静岡に水揚げされた魚が長野や山梨に出荷されるというのは出荷先の食糧事情の向上に資している点もあるわけで、一方的な理想への共感だけで論じてよい問題ではないとも思いますが。

■2020年01月28日(火)  モダンの復権?モダンへの退化?
“あっても使わない”のにDVDドライブ搭載ノートを買う日本人
前世紀末にはモダンという語は古びてある意味コンテンポラリーにとってかわられたと思っていたのですが、復権したのでしょうか。
まあ、それはよいとして、Windows98以降、あるいはMacOS X以降のパソコンというのはそこまでワクワクするものだったでしょうか。もちろん私はパソコンがワクワクするものだった時代も知っているわけですが、ハードウェアとしてのパソコン、あるいはアプリケーションを動かす土台としてのパソコン(OSを含めて)は遅くとも2000年をもって進化を止めている、あるいは進化の袋小路に達したように思います。もちろん、電子機器としての性能は改善しました。多量の計算を広大なメモリ空間の中で実施し、高速の通信網に常時接続し、高精細の表示機能やそれこそ昔の高級ポータブルオーディオシステム並みの音声再生能力を発揮します。とはいえ、新しい使い道を示したのはパソコンの上で動いてすらいない、サーバーとブラウザの共通機能を用いたソフトウェアです。力づくの画像処理を行う一部のアプリケーションを除けば要求される性能は2010年ごろの高級機レベルでしかありません。タッチインターフェースは業務用端末機ほどのインパクトも与えられていません。もちろんある程度の性能を出すためには箱の部分に十分な余裕がなければならず、大きさとして広い、あるいはピクセル数として広い画面と合わせてスマートホンやタブレットでは回収しきれない需要があります。とはいえそれは新しいものとは言えません。大きくなっても冷蔵庫は冷蔵庫に変わりないのと同じです。1980年代の夢想からさほど外れないものしか提示できていないとまで言ってしまうと、少し厳しい評価かもしれませんが。
もちろん使用による劣化はあるので、ある程度の期間で買い替えていくことは決して間違っていません。とはいえそれを「数年ぶりにPC売り場に行ったら、戸惑いよりも、『最新のPCはこんなになっているのか!』と驚いてもらいたいじゃないですか。」と言うのは、もはや夢を見ているを通り越して現実を見ていないという印象を受けます。挙げられているユースケースも、2018年以降のパソコンでなければできないものはほぼありません。2009年の高級モデルで十分です。まあ、イラレとフォトショはメモリが足りずにこけるかもしれませんが。
もちろんマイクロソフトがWindows PC業界の取りまとめ役として生き延びていくためにどうすべきかというのは別の問題です。商売にならないのではそもそも生き残っていけませんし、あまりにコンサバティブになってはハードウェアメーカーやアプリケーションベンダーから見捨てられかねません。
とはいえ、売り上げが減っていく理由探しをしてその結果がそのモダンPCだとしたら、正直「前はできていたことができなくなった!」というブーイングで新しくできるようになったことがかき消されてしまいかねないように思います。

■2020年01月27日(月)  NTTグループの考えていることって
「NTTの共同調達」容認論にKDDI、ソフトバンクなど21社が反対意見
反対意見が出ること自体はむしろ当然でしょう。グループの共同調達など、分割民営化のかじ取りを行った政策担当者がきいたら憤慨すること間違いなしだと思うのですが、経営資源の効率的運用の観点からは理解できるにせよ、有識者会議が電電公社を分割しての民営化が行われたそもそもの経緯をちゃんと理解しているのか、疑われます。
私営企業による効率的な運営と適切なリスク負担を目指すならコミュニケーションと東西をもっときっちり分割すべきですし、高コスト地域のコスト削減を目指すなら経緯から言って少なくとも主要キャリアが参加した協同組合とし、NTT各社は単なる顧客としてかかわるようにするのが筋でしょう。もちろん顧客ボリュームとしての通信市場が縮小することが確実な状況で調達や運用におけるコスト削減が求められること自体は、理解できるのですけどね。

■2020年01月27日(月)  これAC-DCアダプタ専用ですよね
サンワサプライ、海外7種類のプラグを日本で使用できる形状に変換する電源プラグ変換アダプタ
いや、パソコンやスマホの電源なり充電器なりであればこれで十分なんですが…実際私も、海外旅行でこれの逆の機材、つまり100-125V用A型プラグを各種のコンセントに合うように変換する機材はよく使いますし。とはいえ交流での動作を前提にしているデバイス(大出力のモーターを内蔵しているものなど)の場合、電圧や周波数の合わない電源につなぐと故障や発火につながることがあります。複数電圧・周波数対応のAC-DCアダプタを使っているデバイスの場合この形状よりは3〜6個口くらいのテーブルタップの方が使いやすいかもしれません。また1000W以上の大電力に対応するのなら電源変換器を内蔵している方が安全ではないかという気もします。

■2020年01月27日(月)  満足感だけの高級品でローカルな商圏というのは厳しいのでしょう
県庁所在地で初、百貨店が消える 山形の老舗大沼が破産
山形にいた間もほとんど行ったことがないですが(手土産の購入くらいでしょうか)…そのころから、老舗のホテルと並んで経営が厳しいという話はあったと思います。とはいえ感慨深いのも確かです。
百貨店というと売りは目利きと企画力、そしてブランドではないかと思いますが、モノが同じであれば流通経路のブランドは気にしない(現地購入や並行輸入の海外ブランド品でも差し支えない)、企画は全国レベルの流通に強く地域でも店舗数の多いスーパー系の方が強く、運送網の発達により製造者の直販でも割高感が薄れた、目利きも品質管理技術の向上もあって直販や低価格販売での品質が向上しそもそも目利きの必要性が薄れているうえ、場合によっては流通段階での目利き自体を問題視する状況すらある(規格外品の取り扱いなど)、という状況では、イメージ戦略に乗ってくれる客層が薄いところでは流通での付加価値付与は厳しいということだと思います。テナント収入だけでやっていける事業構造でもなかったでしょうし。
また、自宅に威信財を備えるスタイルも縮小している気がしますし、衣料もものよりは着こなしが評価されているようにも思えますし(わざわざ百貨店でとなるとフォーマルドレスくらいでしょうし、こだわる層はむしろブティックに行くでしょう)、サービスについても山形であれば大沼デパートに入っているレストランよりは高速を飛ばして仙台まで出るという面があるでしょう。ただの外食なら普通の店で十分というか、山形市は蕎麦屋以外の外食サービスもそれなりにレベルは高いです。買い物の、よく言われるエクスペリエンスだったでしょうか、これについても、メジャーな評価軸が百貨店の方向性とずれている気がします。地域に根差した商店が衰退したのと同じように、百貨店という業態も田舎者の観光客を相手にする以外は行き詰っているということかもしれません。

■2020年01月23日(木)  これフルスペック出ませんよね
5Gエリアを瞬時に全国化する新技術「DSS」 4Gと周波数帯を共用
いや、これってハードウェアや使用する周波数帯としては4Gなわけですから、少なくとも通信速度や同時接続数については5Gとしてスペックが出ませんよね。もちろん端末を普及するための移行措置としては記事の通り有効なものですが、それなら4GのときのLTEのように初めからそういう流れだと言っておくのが筋です。後出しで段階的なローンチはまずいだろうとそれこそ楽天のサービス開始時に書いていたのは石川さんでしょう。
この春5Gスマホを買って自慢したい人へ 「これからの5Gビジネス」著者 石川温氏に訊く
「スタンドアローンになると、ネットワークを仮想的に分割するネットワークスライシングに対応し、モバイル通信はより効率的にパフォーマンスが出せます。」
この記事にも書いてあるように、最初は宣伝されているようなスペックは出ないということです。5Gの通信ユニットが使える、後は少しは通信の効率が良くなるでしょうか。もちろん業界の動向として向こう5年くらいでメインストリームを5Gに置き換え、10年くらいで4G終了にしたいのだろうとは思うので、数年以内に機材の置き換えをしなければならないわけですが。とはいえ
「しかし、正しく理解せずただ浮かれてお祭り騒ぎをし、実際に5Gが始まってから「結局こんなものか」とか「何も変わらないじゃん」などと言ったり書かれたりするのは絶対に違いますから、まずは冷静に情報を整理する必要があるかなと。」
というのが正直なところではあるわけです。

個人的にはそろそろ大規模キャリアの全国展開からローカルキャリアによるローミングベースのネットワークになって欲しいのですが…まあ、無理でしょうね。

■2020年01月22日(水)  法的に家族になりたい人たちを疎外するのがフェアなのか
夫婦別姓に「それなら結婚しなくていい」 国会でヤジ
いや、このヤジ違いますよね。結婚というか、婚姻ですかね、これには単なる同居とは異なる制度上の保護があって、別姓にしたいというだけでその保護と天秤にかける羽目になるというのがフェアかどうかを問題にしているわけでしょう。これは同性婚であっても同じことです。法律上の家族制度から疎外してしまうことがフェアかどうかという問題であって、それこそ婚姻制度を廃止して配偶者登録とかにしてしまい、結婚というのは同居に基づく配偶関係を法律上開始するための一連の手続の慣習的な名称だということにするならそれだってよいわけです。まあ、その場合配偶者の登録がある状態で新たな登録を受け付けるかどうかといった問題は出てきますけどね。
もちろん、家族に対する保護が相続関係の明確化に重点を置いているのだとすれば、戸籍内同姓という制度にも合理性はあります。ただしその場合、姓が変わった元メンバーには相続権がないことにしないとおかしいでしょう。現在の制度はそうではありませんし、こういうヤジを投げる方が相続を重視した戸籍制度や家族制度に改正するような提案を粘り強くやっているという話も聞きません。

■2020年01月22日(水)  フレーバー
物語を読んでいて思うのが、書いた人が物理や化学を理解しているかどうかは結構ばれるということです。例えば量子力学に基づいた多世界解釈や次元の考え方をちゃんと理解しているかどうかというのは、そういった事柄をフレーバーとして扱っている場合にはっきりわかります。この点は20世紀初期の初期サイエンスフィクションから中期から後期の国産ジュブナイルや本格サイエンスフィクション、21世紀に入って量産されている召喚系ファンタジーのどれについても共通することで、書かれた時代の理論から見ても「アリエナイ」フレーバーを現実と違うところとしてではなく導入してしまっているものがあるわけです。超光速移動であろうが高効率機関であろうが、です。
もちろんそれは物語のささやかな背景を構成する一要素でしかありません。とはいえ用語や描写において意図せず暴露してしまうわけで、批判の対象とはならないにせよ、失笑を買う類ではあると思います。先行作品へのオマージュや物語を構築する上での設定としてなどで意図的に用いるならともかく(意図してであるなら、魔導機関であろうが謎カーボンであろうが全く問題になりません)、うっかりやると結構みっともないので、うんちくを語りたい作家たるもの高等学校教員養成課程教養カリキュラム履修程度の知識は持っておきたいものです。

■2020年01月22日(水)  立場の問題
故人の歌声合成を、当事者視点で考える 「AI美空ひばり」は冒とくなのか
これって結局どの立場からものを見るかというだけなんじゃないでしょうか。人生の一回性や個人の尊厳を重んじる立場からは、決定の主体が消滅している死後の時点で故人の遺物を用いて創作を行うことは冒涜と主張することは可能でしょう。一方で、例えば追慕の手段として、遺影や遺作を利用することは、社会通念上認められていると思います。声や歌い方がそうでないとは言えません。前者の立場であれば、そもそも歌声ライブラリなど素材提供者のあずかり知らぬところで客観的な人格を構成する一要素としての声を使うわけですから存在自体許されません。
音声合成自体は本来特定の個人に由来しない音声を作り出すことを目的とするものであり、特定の個人と結びついたものはグレーゾーンです。これは音声だけでなく例えば人工知能でも同じで、人工知能による特定個人の再演は、興味を引くかもしれませんが、趣味が良いとはとても言えません。その意味では誰かの歌声からサンプリングされた素材による音声合成というのは、技術開発におけるマイルストーンではあっても、悪趣味なものと言わざるを得ません。
芸能産業の在り方を含めて、一概に否定されるべきものとは言いませんが(それこそ物まね芸だって立派なサブカルチャーの在り方ですから)、他人の再演には一定の節度があってしかるべきだとは思います。

AI美空ひばり「冒瀆ではない」 NHK検証番組放送へ
冒涜とは言いませんけどね。何がしたいのかなと。というか、美空ひばりっぽいどを喜んで見る人の感覚がよくわかりません。「AI美空ひばり」という以上単なる声や歌い方の部分だけでなく、少なくともある歌詞や曲を与えられたときにどのように歌うかという部分までシミュレートするわけですが、(それこそ美空ひばり風の声に限定された場合も含めて)所詮よくできた物まねという以上のものではないでしょうに。給料を払わないで済む受付嬢とか非常に忍耐強い無給のコールセンターオペレーターとかならわかりますし、そこに至るマイルストーンというかデモンストレーションとしてよく知られた人格を自然にシミュレートできることを示すというのはまあ、開発者やプロジェクトマネージャー、プロモーターとしてやってみたくなる気持ちがわからないでもないですが、率直に言ってくだらないと思いますけどね。やりたければ存命の人でやればよいわけで、これなら当人の了解もとれるし、人格シミュレーションとしての検証もより精緻な形でできるでしょう。もちろん所与の条件において同じ結果を出すという意味ではなく、例えば他人から見ていかにもこの人ならやりそうだとか、原形となった人から見てこういう結果もありうるといった形になります。何も著名な故人でやる必要はないでしょう。
冒涜でも犯罪でもないでしょうが、それこそ賃貸住宅の経営サービスを売って歩くのと似たような意味で、褒められたものではないことだと思います。
あるいは、仮に冒涜であるとするなら、「第9を歌う」程度には、あるいはベートーヴェンの第9交響曲の第4楽章だけ抜き出して演奏する程度には、冒涜的であるかもしれません。私の知る限り、ベートーヴェンの第9交響曲は、交響曲に即した形で合唱曲に編曲されたことはありません。そしてウィーン古典派以降の交響曲の特定の楽章だけを演奏することは、クラシック音楽に造詣の深い人なら、暴挙と断定する行為です。実際には頻繁に行われますし、人口に膾炙したメロディーであるというだけの理由に限らず、創作上の必然性からそうした行為を行う作曲家や演奏家もいますけどね。

■2020年01月22日(水)  リスクの押しつけではまずいでしょう
日本型雇用の見直し姿勢鮮明 今春闘で経団連が方針
人的資産構成の最適化とかビジネスにおけるアジリティとかはまあ、よいのです。一部の長期にわたる事業を除けば、1〜10年程度を期間とする状況によって雇用も変動するという主張は説得力があります。サービスの提供主体としての事業というのはそれでよいわけです。
しかし、雇用、つまり賃労働者の稼得手段としてはそれでは都合がよくありません。これは賃労働者だけでなく、その収入からの徴税に依存しており、雇用関係を離れたセーフティネットの提供主体である政府組織にも影響します。例えば千人規模の事業所の生み出す税収は自治体の収入総額の少なからぬ割合、例えば1割以上に達します。いかなる理由であれ、収入の1割を超える変動があっては、長期の投資を含む予算は立てられません。まして解雇を含むケースでは税収減と同時に支出増が発生します。加えて人口の移動があれば、それこそ集落ひとつがゴーストタウンになるような問題が発生します。
少なくとも裾野を含めてのモノカルチャー的制度を改めることなしに経営上の都合を平均値としての労働分配増加と引き換えに要求することは、政策提言としては無責任だと思います。

■2020年01月18日(土)  消耗品の内蔵
バッテリ内蔵の便利と不便
まあ、バッテリーというのは消耗品ではあるんですよね。その割に捨て方(というかリサイクルに出す手続)が面倒だとは思いますが、その点はこの記事には関係ありません。
とはいえ、電源のない場所で使うことを前提にすると、バッテリー別売りというのは受け入れがたいでしょうし、消耗品だからケーブルでつなげと言われてもなければ動かないわけですから、携行には不便です。性格としては消耗品に近い無線通信ユニットを内蔵することの是非と同じです。仮に移動せずに電源のある場所で使う場合であっても、よほどコンセプトを絞り込まないと、バッテリー外付けないしは電源ケーブルでの接続が前提のノートPCや携帯電話端末というのは(道具としてはともかく)商品として成り立たない気がします。片づけられるパソコンという利点はわかるのですが。
消耗部品の使用自体は避けられない以上、むしろ、お気に入りの製品が数年でラインナップから消えてしまうことの方が、解決可能な問題ではないかという気がします。

■2020年01月17日(金)  新型車両はともかく
新型特急「ひのとり」がくる! 2020年、近鉄から目が離せない
タイトルの車両はあくまでも従来の鉄道技術の延長線上にあるものですが、フリーゲージトレインやDMVへの傾倒はいささか疑問に思えます。技術マニアはともかく、鉄道の経済的なメリットは現状専用軌道上を比較的単純な構造の車両が大量に旅客、貨物を積載して走り、運行を集中管理できる点にあります。また鉄道の大きな特徴は、大きな初期投資を長い年月をかけて償却していく点です。フリーゲージトレインやDMVは、これらの点からすると、原則から逸脱したソリューションであるように思われます。
DMVの場合、線路と道路をまたがって運用する車両ですが、本来鉄道を運行するだけの需要があるなら全線線路を敷いてしまえばよい、需要がないなら線路を除去してバスにしてしまえばよいというレベルの話です。公道を走るのであればバスのスペックに制限が出ますが、元々線路であった敷地を走らせるのであれば幅にしろ長さにしろある程度自由に決めることができるはずで、連接構造のバスなども公道を走らせる場合に比べれば容易に実現できるでしょう。専用車両すら投入できない程度の採算性しか望めない路線であれば、そもそもDMVを投入するメリットもありません。
フリーゲージトレインにしても、鉄道事業の本筋から言えば改軌を含む設備の統合を行うべきです。その前提に立って、改軌を行って数十年のレベルで採算が取れるかどうかを検討するものでしょう。もちろん線路の幅を変えればよいというものではありませんが、車両だけで対応する方がよほど無理筋です。車体の幅にしろ車両の長さにしろ、路線の要求に合う形で設計が行われているわけで、軌間やRの異なる路線の間で車両を融通しようとすると必ず問題が出ます。直通運転に伴う問題の研究には相当の積み重ねができているにせよ、それこそ広軌の路線の車両を狭軌を前提とした路線に乗り入れるというのは、軌間だけ合わせたところで難しいはずです。良くて低規格部分での速度や乗り心地の悪化、あるいは車両のコストパフォーマンスの悪化、悪ければ脱線横転事故や周辺家屋の立ち退きといった問題につながるでしょう。実は地域住民とちゃんと話し合って路線の改善をした方が安上がりだったということになりかねません。
技術で問題を解決するのは面白いとは思いますが、法律で土地収用などについて特権的な事業を認めた方がましということだってあり得ます。「鉄道技術」ではなく「週刊鉄道経済」というならそうした社会政策的な視点もあってしかるべきですし、ライターは路線の存続や振興などについてはそうした視点を持っていると思います。

■2020年01月15日(水)  育児休暇というのでしょうか
小泉進次郎氏が育休取得表明 約2週間、国会審議は出席
大臣に拘束時間があるとは思えないので、事務処理に支障が生じないようにしたうえで合計2週間などと言わず必要なだけ取ったらよいと思いますが、「子育てのために職場に出ない日を作る」という意味と、「子育てを理由として休職もしくは休暇を取得でき、それを理由に解雇されない制度」という意味のどちらを重視しているのかははっきりした方が良いでしょう。

■2020年01月15日(水)  ここまで現行のスキームに制約をかければ半年くらい停滞するのは当然
スマホ販売規制で生まれたのは競争ではなく「停滞」。法改正後の販売現場の声を聞いた
そもそも有力キャリアの回線端末セット販売と流入優遇へのこだわりが新規制を生んだわけで、2年くらい見ていかないと規制が目的の効果を得られたかどうかはわからないと思います。また競争が出てくるとすれば独立系の回線代理店や端末販売事業者からと予想されるので、年度末くらいにならないと競争しようにもどう競争してよいかわからない状況は解消しないと思います。

■2020年01月15日(水)  メモ: たしかに山羊か羊の丸焼きかシチューしかなかったかもしれませんが
「………………雑でした」
なぜ皆さんイギリスネタとなると「食事がまずい」に走るのでしょうか。もちろん、18世紀以降であれば間違っていません。上記記事の「話題まとめ」の「腹ペコ王セイバー」で検討されている通り、いまわしい長老派と新興資本家によってイギリス都市部の中流階級の料理が劣化、さらに都市の下級賃労働者階級の成立によって非常に雑なというか味加減と火加減を間違った(つまり適当に塩をぶち込んでひたすら煮込んだ)庶民料理が成立するのがこの時期です。しかし、農村の祝祭料理はまだまだ健在でしたし、まともな料理人を雇える家ではフランスあたりの流行を取り入れた料理が出ていたはずで、現代ほど凝ってはいなかったにせよまともな料理が出ていたと考えられます。また18世紀は都市で外食産業が成立していく時期でもあり、菓子もそれなりに凝っていたでしょう。外食における揚げ物の一般化によって現在見られるような雑ではあるが素朴で揚げたてがおいしいスタンド系ファストフードが成立しますが、「「大量のポテト&ビネガー&ブレッド、エールがあれば良い」とはガウェインの弁。」というのはジャガイモの普及とあいまったこの時期の料理の特徴です(同時期の欧州料理のいずれも似たような傾向があります)。
アルトリアの生きていた時期は5世紀で、当然アンデス原産のジャガイモは導入されていません。またこの時期牛は大事な動力源であり、ひたすら働かされた後で食用となるため、基本的にはおいしくありません(牛肉料理でやたらと「子牛」が出てくるのは、成牛の硬い肉よりも子牛の柔らかい肉が上等とされるためです)。魚も輸送時の鮮度維持の問題から、現在庶民料理の主流の素材とされるタラなどではなく、マスのような淡水魚が中心です。食用油の供給も悪く、フライドポテトはむしろ高級料理になります。エールはその当時も庶民的なものであったでしょう。つまり、アルトリアの生きていたころの貴族の料理とは、狩猟で得たジビエや子豚、淡水魚を丁寧に調理し、凝ったソースをかけたものになります。まあ、調味料が高価であるため、香辛料でやたら辛いとか砂糖をぜいたくに使ってやたら甘いといった極端な味の料理になりがちであり、現代から見ておいしいかどうかは疑問ですが…。
12世紀の日本の武士が日常的にカレーを食べていたらおかしいように、また5世紀のヨーロッパ人がコーヒーをがぶ飲みしていたらおかしいように、インド人でも16世紀以前に唐辛子入りの煮込み(まあ、カレーですね: コショウ等はこのあたりが原産なので構いません)を食べていたらおかしいように、また17世紀の成都で唐辛子のしっかり効いた麻婆豆腐を食べていたらおかしいように(山椒は構いません)、いくらネタとはいっても地域や時代の考証というのは最低限の配慮をして欲しいものです。江戸前寿司は17世紀以降ですし、紅茶も18世紀以降です(抹茶は10世紀にはあったはずですが)。鹹水を添加した小麦粉の練り物も宋か元あたりのころです。
この点では、1990年くらいにアルトリアがロンドンの中級レストランに入って生前と比べての料理のひどさに愕然とするといったストーリーの方がありそうだと思うのです。リンが時計塔の学生食堂に行って二度と食べに行く気をなくすようなエピソードとか、ひどい料理が出てきそうなシチュエーションというのは結構あります。
ちなみにアルトリアはサツマイモに感心していますが、ブリテンではジャガイモが似たような経緯で導入されています。ジャガイモの場合味がしないため、火を通したうえで塩なり有塩バターなりで味付けをしなければなりません。その意味では、乾燥してから火を通せばそのまま食べられるサツマイモが普及しなかったのは不思議なのですが、気候面での適性か何かでしょうかね。

■2020年01月11日(土)  銀塩写真はオカルトではないですが
似て非なるアナログとデジタル
「モノクロネガに愛着があるのは、その撮影と現像のプロセスにオカルト的な面があるからだ。」
いや、れっきとした化学反応と物理現象ですから。オカルトじゃないですから。
もっとも、銀塩写真の処理プロセスというのは、特に手作業の場合ムラが出ることもままあります。デジタルでもイメージセンサーの部分で再現性があるかどうかは怪しいですが、少なくとも設計の段階で一定の範囲に抑えてあるので、処理剤の調合や温度の調整よりはムラが出にくいと思います。ケミカルな作業特有の怪しさも含めて、ロマンティシズムを刺激するところはあるのでしょう。また写真を撮っている人のほとんどが写真の原理など知らないはずで、初めて写真を撮った、あるいははまった時期に培った不可思議な印象というのもあるのだと思います。まあ、デジタルイメージングだって不思議さでは似たようなものだと思いますが。
山田氏の言う反射光云々も同じことで、印象の問題に過ぎません。
原理的には、アナログで発生する仕上がりの差異はすべてデジタル処理で再現できます。とはいえケミカルなプロセスの不可思議な印象も含めて、銀塩写真を撮る過程そのものを楽しむ趣向は肯定してよいと思います。結果としての画像自体はアナログもデジタルも違いはありませんが、思い入れの方が大事な状況というのはあってよいのです。まあ、引き伸ばし機や処理剤、感光材まで自作しなければならないとなると難しい部分は出てきますが、品質さえ問わないのであれば、感光材を調合してガラスの板にでも塗る方がデジタルイメージングセンサーを作るよりはハウスメイドとして現実的です。趣味やアートであれば、そういったこだわりも生の豊かさにつながると思います。

■2020年01月10日(金)  というかまず事業をリストラしろよと
賃金は減り、リストラが加速…… ミドル社員を脅かす「同一労働同一賃金」の新時代
まあ、記事でも触れられている通り、勤続年数や年齢で給料を決める制度というのは、経営者と外野からは評判が悪いです。処遇の均衡を図るのなら低い方を高い方に合わせれば反対が出にくいですが、経営者としてはできないという話をよく聞きます。正直、その分事業の生産性を良くしたりするのが経営者の仕事だと思いますし、年功賃金を導入できているような大企業で人件費が増えたからといって事業に支障をきたすようなところはないとも思います。とはいえ、40年かけて賃金が上がっていくといった制度の継続に暗雲が漂っていることは否定のしようがありません。
ただし、年齢指定の希望退職募集でお茶を濁そうとするのには非常に反感を覚えます。そもそも30年前とはいえ新卒採用のボリュームを見誤ったからそんなことになっている部分があるので、住宅ローンの残債で吹っ飛ぶような退職一時金しか出さないというのは条件としては良くないでしょう。また中堅以上を指定ということは単に従業員の年齢構成(=給与支給額のボリュームゾーン)を調整しているだけであるわけで、真面目に年功賃金制度を変えようと思っているのかとか組織の構造を変えていく気があるのかという疑念を抱かざるを得ません。そういう変更を行うためには従業員の納得を得ていくことが大事ですが、そのあたりの面倒をパスしたいので希望退職募集でごまかしているように見えます。
解雇はあって当然ですが、希望退職の募集などは本来事業自体の大幅な見直しに伴って行われるものでしょう。高級公務員の天下りでもあるまいし、仕事のモデルはそのままで小手先でごまかすようなやり方は感心できません。

■2020年01月10日(金)  なんでUSサイトに行ったのかわかりませんが
Kindle for PC 1.26.0
リーダーを開いたところ、リーダーのアップデートを求める書籍データがダウンロードされました。自動的にアップデートされるものだと思っていたのですが、少なくとも1.25からは自動アップデートは提供されていないようです。書籍内のダウンロードへのリンクをたどったところWebブラウザが開き、どうもUSサイトらしい表示が出ました。さすがに自動配信データに変な仕掛けはしにくいだろうとは思ったのですが、一度ページを閉じ、ローカルのブックマークからamazon.co.jpに移動、アカウント管理のダウンロードソフトウェアの管理のページからダウンロードしなおしてインストールしたところ、1.26.0になりました。
なんというか、この手のアナウンスをする場合、できるだけ怪しくない形にして欲しいと思います。メールなどにリンクを書いておくというのはこのご時世非常に怪しいので、アナウンス自体はメールや全員配布の書籍データの形でもよいですが、ダウンロードは管理ページからする前提の方が良いでしょう。また、Kindle for PCがソフトウェアの管理からのダウンロードというのはいささかわかりにくいです。端末の管理からの方がわかりやすいのではないでしょうか。
ヘルプ検索で示されたページが消えていたことが一番迷惑でしたが。

■2020年01月10日(金)  モノに対する認識は古くないか
「分離プラン」と「端末値引きの規制」は正しい施策なのか?
この手の媒体には珍しく、分離プランを擁護する側の記事が出てきました。これはこれで筋が通っているわけで、ハイエンド端末がこれほど売れなくてよいという話も含めて、こういう主張もガジェット系の媒体も含めてちゃんと出していくべきでしょう。
とはいえハイエンドガジェット愛好家の主張に照らしていくつか気になる点はあります。
まずローエンドモデルだけで開発が続くのかという点です。ミドルレンジやローエンドのモデルというのは、基本的にはひたすらスケールメリットを生かしたモデルということです。できれば、長期にわたって入手性の良い部品を低価格で使い、一度行った設計をいつまでも使いまわしたい、そういうものです。もちろん低価格の部品を大量に調達して一気に売り切るという方向もあり得ますが、この場合頻繁に設計のコストがかかるため、在庫リスクを抱えるか、それこそ主要キャリアのような大規模な販売チャンネルを持ち、大量仕入れをしてくれるところと組むのでなければ、新規参入が困難になります。その一方で、(ローエンド端末用の統合チップも含めて)高機能なLSIは必ずしも入手性が良くないようです。つまり、使える部品の変化に応じて継続的な開発が必要です。また端末の価格構造が変われば部品メーカーの値付けも変わってきます。特にこれまで新技術や生産設備投資の原動力となってきたハイエンド端末向け品種のボリュームを減らすわけですから、ローエンド用部品の価格上昇も短期的に予想すべきでしょう。それで2万円で作れるメーカーがどれだけあるのかという話です。これは$35-とのことですしさすがに例外だと思いますが、原価を反映した適正な価格設定という理念はともかく、また他はさておき端末を使う回線とのバンドリングは拘束性が強すぎるという批判は当たっていると思いますが、堅牢な精度を設計するのであればそれこそ現在の条件でのローエンド製品の原価が安すぎることも想定するものだという気がします。
次に、買い替えサイクルが伸びかねないという点です。ローエンド品というのは値段で売っているようなものですから、そもそも商品としての魅力はあまり大きくありません。また使う側も割り切っているからローエンド品を使っている面があり、一度買ったらなるべく買い替えなしに長く使いたいというのが本音でしょう。ついでに言えば、2万円というのは消耗品として見られる価格ではありません。ただでさえ保有率がほぼ飽和点に達し、その上中古品市場への移行も含めて買い替え需要まで抑制された場合に商売になるのかという問題は措いておくとしても、現在のスマホが継続的なソフトウェアアップデートがかかるものだというのは問題です。メーカーのサポートが終了した時点でセキュリティリスクが発生しかねず、一方でローエンド市場はそのあたりに無頓着になりがちということです。サポートコストの負担の仕方も含めて構造の調整にはそれなりのコストがかかるように思います。これはインテリジェント家電などにも共通する問題で、それこそ市場の仕組みの部分で解決が必要ではないかという気がします。市場が解決するというなら、現在のメインキャリアオリゴポリーも市場の解決した結果であるわけで、歪みの発生しにくい仕組みを作るところがルールメーカーとしての規制当局や有識者の腕の振るいどころでしょう。
そして、端末はともかく主要部品のメーカーや生産設備がそもそも寡占になっている点です。これがただの生産スケールメリットならまだしもですが、現状は製造や開発のノウハウを蓄積できるまでの資金供給がなければそもそも生産のアウトソース以外の方法での参入ができないためにファブメーカーが寡占になっているように見えます。これで健全な商慣習とやらができるのか、どうにも気になります。
少なくとも端末価格の割引にばかりフォーカスした売り方はおかしいという点は同感で、端末と回線の商流の分離という路線には相当の合理性があります。とはいえそれでユーザーコストが安くなるとか新規参入がしやすくなるとかいうのは、あるべき市場構造や過度の統合の排除といったあまり普通の人にアピールしないメリットを補完するためとはいえどこまで根拠があって言っているのかという気がしますし、そもそも機能が端末というモノの外にどんどん出て行っているような状況でその最先端にあるハイエンド端末をスポイルしかねない政策を実施して、かえって使いにくくならないかという懸念も否定しがたいように思います。

■2020年01月09日(木)  被疑者の立場に立った制度になっているか
「逃亡以外の選択肢なかった」ゴーン被告、批判と恨み節
ゴーン氏が何らかの罰せられるべき行為をしたかどうかについては判断しません。それは検察が立証すべきことですし、ここまでの騒ぎである以上今後も何らかの形で調査が続けられていくでしょうし、証拠の開示すらなされていない状況で判断することではありません。
問題は二つ、ひとつは保釈中の外国人が出国手続で引っかかることなく出国できてしまったという非常に技術的なものです。これは担当の役所がまじめに調べれば事情は明らかになるでしょうし、改善もなされるでしょう。
より問題なのは、裁判にかけられること自体を納得していない被疑者に対して、結果として裁判にかけられることで社会的立場を失墜させられ、さらに罪人として罰を受けることになるという恐怖を与えてしまっている刑事事件処理の手続です。法律上適正であっても、身柄を拘束され、有罪を前提として取り調べを受け、ようやく拘束を解かれたと思えば家族との間ですら連絡を制限されるというのが、仮にも無罪の推定を受ける被疑者や一審中の被告人の扱いとして人道的であるのかどうかは、常に問い直して行く必要があると思います。それこそ嫌疑を受けることすら筋違いだと思っている人なら、機会があれば逃亡してもおかしくないのではないでしょうか。この点は、捜査当局も問題ではあるでしょうが、逃亡まで追い詰めてしまった点について、弁護団にも少なからぬ問題があるとも言えるでしょう。
この事件については、証拠の隠滅の防止や本人の主張機会の確保という目的が被疑者に大きな不満の残る形での行動制限という形でしか達せられなかったのかという視点もあるように思います。被告人の出廷の確保は、まずもって欠席裁判の防止を目的としているはずです。被告人抜きで一方的な進行ができないように、相当の理由がなければ被告人の出廷なくして手続が進行できないようになっているのではないでしょうか。それを、被告人が出廷しなくては手続を勧められないから拘束するというのは、本末転倒ではないでしょうか。十分な証拠があって起訴していて、かつ被告人に十分な防御の機会が与えられている場合のやり方については、あくまでも無罪と推定される被告人を理不尽に裁判に引っ張り出しているという前提で、常に改善が図られるべきです。刑事裁判はあくまでも立証に十分と判断される証拠を収集し終えた検察が主張の検証を受ける場で、被告人を尋問する場でも処罰する場でもありません。法務省の高官からこういう発言が出てくること自体おかしいのです。こういう非難が出てくる余地はあるという前提で反論していかないと、逃走にまで正当性を与えてしまいかねないのではないでしょうか。
フランス大統領のコメントはフランス人に言われたくないという話で、制度的には起訴前拘束制度自体はフランスの方が拘束期間が長いです。ただし運用には大きな差があり、取り調べのために被疑者を長期間拘束することはあまりないようです。
論評するのであれば、このくらいの視点は必要ではないかと思います。

■2020年01月08日(水)  あまねさん、何を失敗したのか
微熱空間3巻, 蒼樹うめ
巻頭のカラーであまねさんが鍋で何かを作っており、巻末のカラーで小皿に何か汁物を取った様子のイラストがあって、あまねさんが明らかに何か失敗した顔をしています。味見したところ失敗していた風情ですが、いったい何を作って何を失敗したのか。まず味噌汁ではありえないでしょう。確かにまずい味噌汁を作ることはできますが、こんな表情になるほどひどい味にすることはむしろ難しいと思います。強いて言えば味噌を入れすぎた場合と煮込みすぎた場合ですが、どちらも調整は可能です。片手の中型鍋で作る料理でこのやってしまった表情は、ルーを使うシチューで塩か隠し味の醤油あたりを入れすぎた場合しか考え付きません。最後の味の調整で塩を入れすぎてしまうと、調整はなかなか困難です。
なお、味噌汁で他にひとつだけ、最終段階ではなく最初の段階でこうなる可能性があります。粉末出汁を入れすぎた場合です。出汁を溶かした段階で味見をして調整すればよいのですが、最終段階でこのミスに気付いた場合、いささか難しい状態になるでしょう。時間はかかるものの、昆布やシイタケの戻し汁を出汁として使う場合は、そういう失敗は起こりません。また出し殻を取り除く必要があるため、そもそも出汁をちゃんと取るくらい気合が入っている場合を除き、カツオ節(や鯖節など魚系の乾物)や煮干しの出汁はお勧めできません。もっとも、失敗したところで苦みや臭みが出るとか食感が悪くなる程度で、粉末出汁を入れすぎた場合のような破滅的な味にはならないので、失敗したくなければ出汁はちゃんと取る方が良いと思います。もっとも、毎日翌日分の出汁を用意しておくなどという面倒は避けたいという気持ちはよくわかります。とはいえ、保存と管理さえよければ作り置きして一週間は持つので、カツオの一番出汁をすぐ使いたいなどというのでなければ、印象ほど面倒ではないのですけどね。

■2020年01月08日(水)  キャッシュレス決済がそんなにいいかとも思うのですが
Uber Eatsを使えばイギリスでもおいしい料理が食べられるのか?
現金ってそんなに面倒かなあと思わないでもないのですが、現金をおろし忘れた休日というのは実際悲しいものがありますし、日本はともかく、諸外国、特に欧米の現金決済事情はかなり情けないことも事実ではあります。なにしろアメリカで店頭で100ドル札を出すと偽札と疑われる、自動販売機が25セント硬貨しか受け入れない、駅の自動券売機でつり銭が出てこないなど、ヨーロッパも含めて不便な面が多々あることを否定できません。日本でも、貧乏外人が感嘆する街頭の自動販売機が札は千円しか受け入れないといった不便さがあります。貨幣と言ったって額面の数字を使っているに過ぎないわけですから、キャッシュレスの方が便利というのは無理からぬ面があります。
とはいえ、キャッシュレス決済にはいろいろ脆弱な面があるという懸念はあります。セキュリティも問題ですが、まずもってクレジットカードと銀行口座に依存している点が、今後問題となる可能性があります。口座管理手数料だけで経営が成り立つような銀行というのはありませんし、その銀行が経営の柱としてきた融資が、資金需要の減退や貸し出しリスクの増加、自己資本基準の強化によるコストの増大、金利低下などにより揺らいでいます。自力で決済事業に乗り出せている銀行は少なく、おそらく手数料については決済事業者の立場が強いのが実情でしょう。少額決済用の口座を維持できないなどということになれば、それこそ欧米のように、銀行口座を持てない人が通常の市場から締め出される事態も起こるかもしれません。
普及は構わないのですが、仮にも決済という取引の根幹にかかわるサービスなのですから、現金程度の持続性を組み込んだシステムを整備するのが、少なくとも役所の責任ではないかという気がします。まあ、他にも懸念はいろいろありますけどね。

■2020年01月02日(木)  いくら親しみやすいからと言って「性生活」はないと思いますが
「これ以上わかりやすい『ギリシャ神話』の説明もないと思う…」
野暮な突込みだとは思うのですが、本来オリュンポス山を神域とした神話に各地の土着神が統合されていく過程で主神とされたゼウスとの関係が作られ、あるいはゼウスに習合された土地神のエピソードがゼウスに関係づけられていったのではないかと思いますが。子を産ませた場合でも、「交わって」いるとは考えにくいエピソードもありますし。ギリシャ神話の場合、一番包括的とされるのは神統譜だと思いますが、これも神々の、ひいては各地の王侯の系譜を明らかにするもので、結果としてゼウスが各地の土地神、都市神と関係を持っているにすぎません。武勲詩などで英雄が長々と系譜や出身、経歴を述べ立てているのと同じことです。そこに過度に人間性を見出すのは、近代特有の視点の投影だと思いますがね。

■2020年01月02日(木)  何の試験かという問題だとは思いますが
英語試験の外部委託は語学教育改革の放棄
文学屋が語学を教える問題を含めた語学教育の歪みについては同感する部分が多いのですが。また最低限の能力証明を資格という形で学校教育とは一応別に行い、かつ上級学校の合否判定においては資格はあくまで資格として扱い、取得時の点数を順位付けの手段としないというのは、ひとつの合理的な在り方だと思います。
入学試験を議論する際によく見かけるのが、進学資格を含む資格と合否の判定を区別せずに論じる主張です。盛田氏の言う「英語試験」が例えば文学部のそれも外国語文学系の合否判定のためのもので、さらにその学生が進学後の進路に英米文学を希望しているのであれば、外部委託は全くの論外です。大学レベルの原書を読み、英語の論文を書くための能力の認定も、外部委託ができなくはないでしょうが用語や言い回しの専門性がそれなりにあることを考えれば、いささかニッチに過ぎ、問題を起こすように思います。少なくとも現状の英検やTOEIC、TOEFLでは不足です。また中等教育までの日本の教育は技能教育ではなく教養教育を主眼としていると理解していますが、その評価において外部に(しかも教育産業ならともかく英語協会などの資格認定業者に)試験を委託することもあまり賢明とは言えないでしょう。ただし、広い意味での日常レベルの会話能力や読解能力の認定は、むしろ国なりの認定を受けた民間試験なり国家試験なりの活用の方が望ましいと思います。まあ、それはそれで、学校や教員の側にその手の能力認定試験との適切な距離感を保つことも求められるわけですが…
そして、英語だけが外国語ではない、母語の能力なども重要という盛田氏の主張は全くその通りです。ビジネスレベルまでのlingua francaは少なくとも大学教育の主眼ではないですし、会話や技能としての発音はさておき、特に人文系の専門教育に進むのであれば、俗語のほかに古典語の二つくらいは十分な読解ができることが求められます(知識としての発音は、詩文を学ぶ際には必須です)。さらにほぼすべての学問分野で20世紀中の文献を参照する際はロシア語、ドイツ語、フランス語の読解は必須ですし、地理や地質であればスペイン語、ポルトガル語、カタルーニャ語、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語あたりも読めないと古めの調査記録を誰かの翻訳で読む羽目になります(しかもあるとは限らない)。また英語はいわゆるインド・ヨーロッパ諸語の中では相当に変な言語であり、フランス語やドイツ語の方が入り口としては良い可能性もあります。
ビジネス英語だけを重視するような話は視野が狭いと評する以外ありませんし、語学教育を言うなら現代文学の読解の専門家の一般語学教育への転用やドイツ語と英語とフランス語だけを重視するようなカリキュラムをまず問題にすべきでしょう。大学入試に外部試験を使えば済むような話ではないというのは全くその通りです。
まあ、外部試験の話が出てきた経緯はなんとなくわかる気がしますけどね。

■2020年01月02日(木)  温麺のごま油ドレッシング和え
一人分
1)温麺1束
2)亜麻仁油20ml
3)黒酢10ml
4)濃縮麺つゆ10ml
5)ごま油
6)白ごま

1.温麺を茹で、水で締めてよく水を切る。
2.2〜4を混ぜ、5を数滴たらし、よく混ぜる。
3.麺とドレッシングを和え、白ごまを適量振りかける。

2の段階で鷹の爪を少し入れるのもよい。

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