日記

■2019年10月23日(水)  板は使い方を選ぶとは思うのですが
アップルがiPad体験を再定義した2019年
ビジネスアプリにさほどの性能はいらないと言われて久しいですが、iPadで原稿書きが済んでしまうというのは、なかなか驚きです。まあ、うちのメモリ不足で落ちるiPadはもう10年前のものなので、性能不足は仕方ないというか、現行モデルは相当よくなっているはずとは思うのですが。
昔のコンピューターの使われ方としても、「コンピューター」というのは手元にあるものではなく、遠くからジョブを投げ込むものでした。今のiPadで性能面の不足が生じるとしても、それは一時的な特殊用途でのCPU性能やストレージ容量、メモリ容量でしょうから、アプリケーションをうまく構成してあれば、ネットでつながったクラウドサービスにジョブを投げ込むことで解決できてしまいます。手元にすべての資源があるという使い方は、ある程度リッチなUIを処理できるだけの資源やその場でジョブを投げ込むだけのネットワーク帯域がなかった時代の、過渡的なものだとも言えるでしょう。個人的にはやはりX Window Systemに回帰したかと思ってしまいますが、その一翼を手元でのリッチUIでのし上がったAppleが担っていることには、いささか感慨を持たざるを得ません。
とはいえ、ではiPadでよいのかというと、やはりこれも過渡的なものではないかと思います。計算機としての能力は現状で十分かもしれません。パソコンがすでにそうなっているように、普通の使い方では性能を持て余す、新機種の売り様がない状態になってもおかしくないでしょう。しかし、ユーザーと計算機システムとの接触界面が板でよいのかという問いへの答えは、まだ出ていないと思います。13インチの板の限界もさりながら、iPadを含めてタブレットがキーボードのサポートを行っていることも、その根拠です。さすがに音声入出力は場所を選ぶだろうと思いますが、キーボードとモニタという組み合わせを(仮想的なものまで)含めて、より制約の少ない形が近いうちに出てくるのではないか、その時に板という形態が大きく変わるかもしれない、とは思います。

■2019年10月22日(火)  ユーザーとしては同感ですが
Pixel 4は「eSIM」国内対応、願わくばGoogle Fiの日本展開を
手続や追加負担なくどこでも利用できるというのは確かに便利です。それなりに遠隔地移動を行うモバイル通信サービスのユーザーとしては、日本でも使えるようにしてほしいという点には同感です。
ただし、政策としては懸念をぬぐえません。もちろんGoogleに世界でステーションのネットワークを構築する力があるわけはないので、MVNOとして展開しているのでしょうし、これができることがMVNOの利点でもあります。世界展開も含めて、現地のネットワーク事業者を組織してユーザーサポートを取りまとめるというのはMVNOのひとつの在り方でしょう。上下一貫のユニバーサルサービスよりはよほどまっとうな在り方です。とはいえ、通信ネットワーク事業が特権的な事業として保護されることで発達してきたのも事実で、そのあたり、とくに人口密度の低い地域での事業展開について見通しが立たないと、日本の現状とは逆の、寡占的なMVNO事業者による通信設備の買いたたきなどを懸念せざるを得ません。
まあ、$70-固定ならMVNOとしてはかなり高い料金ではあるわけで、ローミングが別料金になる代わりに料金の安い現地ネットワークと住み分けはできそうですけどね。

■2019年10月16日(水)  財政破綻を論じる前に何をもって財政破綻とするかを議論しなければならないのが最近の主流では?
日本の財政は破綻しているのか、いないのか
わかってて書いているのだとは思うのですが、現在のユーロ圏ないしは欧州通貨メカニズム圏とそれ以外の国とでは財政破綻の基準が全く異なるのではないでしょうか。もちろん、財政をほぼ外債や民間の国債買い入れに依存している国と中央銀行が引き受けている国でも事情が異なります。一番緩くなるのは中央銀行が引き受けている場合で、インフレや通貨安で調整されることになるため、財政破綻はこれらによって膨張分が食いつぶされてしまう場合にのみ発生します(ちなみに、これにインフレについて一定の制約をはめるとMMTになるはずです…ちゃんと調べてみないとはっきりしたことは言えませんが)。中央銀行引き受け以外の状況では、国債の利払いや借り換えができなくなった状況で財政破綻が発生します(中開発国で20世紀後半に起きた国家財政破綻はだいたいこの状況です)。ユーロ圏ではより厳しく、国債の発行量に税収ベースの制約が発生します。とはいえ、よほど例外的な状況を除き無理にでも健全財政に縛り付けているわけですから、予算が成立しない状況は発生しても財政破綻にはならないかもしれません。
また国民経済の混乱は、国家財政の破綻とは別のものと考えるべきでしょう。もちろん国家財政が破綻した結果公共支出が急速に収縮すると国民経済の混乱が起きますが、これは金融システムの混乱でも発生します。むしろ財政不均衡下でもマネーサプライさえ安定していれば混乱は発生させずに済むはずというのが最近の理屈のはずです(マネーサプライが安定する範囲でとなると、当然インフレもマイルドなものとなります)。本稿がそこを論破せずに旧態依然としたイメージだけで国家財政破綻について悪態をついているように見えてしまうのが、私の勘違いであればよいのですが。
このへんでも問題にしているように、破綻というのはフローが流れなくなって起こるもので、税収だろうが国債だろうがお金が入ってきていれば、ストックがどうであろうと基本的には問題になりません。国債残高というのは(マイナスのではありますが)ストックであり、最低限利払いさえ財政余裕の範囲内であればよい、むしろ財政緊縮はそもそもフローを流さない状況につながるというのが財政拡大派の主張かと思います。またいわゆる財政均衡の原則は設備ストックの拡大について原則の例外を設けてきたわけですが(建設国債ですね)、そもそも設備ストックを拡大してもフローが増えない、国際分業や財務テクニックの発達によりトリクルダウンすらしない、むしろ直接フローに介入した方が効果があるというのが、所得保障政策の主張かと思います。そこを検討しないでストックの状況だけ論じても仕方ないという気がします。

■2019年10月15日(火)  日本国の財政と日本の経済も違うような気がしますが
日本の財政は破綻しているのか、いないのか
「これらの社会的歴史的教訓を学ばず、国家財政の基本問題に取り組まず、目先の利益や短期的景気浮揚だけを追う政党は、右左を問わず、みな選挙のことしか念頭にないポピュリスト政党である。」
これはわかります。ポピュリストで悪いかという論点はあるにせよ、例えばとにかく株式市場に貯蓄を突っ込めば株価が上がるなんて話も含めて、目先の指標の改善だけを目指した目に見える対策を打っても仕方ありません。
ただし、例えば「借金は返さなければならない」というのも、ある意味家計と国家財政と経済を変に同一視して論じる視点だと思いますけど。インフレやデフレのような貨幣的な現象がどのようにして起こり、それが景気や生産・消費の動向とどう結びつくのかというところで議論の基盤を用意しておかないと、それこそ国家財政の破綻とハイパーインフレを結びつけるような議論は意味がないでしょう。少なくとも「借金を返してしまうと良くないことが起こる」、「貨幣は多少だぶついているくらいの方が色々都合がよい」といった命題の方が、議論の基盤として受け入れられうるのではないかと思います。
それと、経済の自律性をあまりに強調するのも考え物ではありますが、国家財政と過度に結びつける、というか政府と経済圏を同一視するのも、もはや当然とはされない枠組みだと思います。

■2019年10月14日(月)12:29  結構さっさと廃れそうな気もしますが
デュアルスクリーンのデバイスにはまだ見えない可能性がある
どうでしょうかね。携帯に便利な長財布サイズと十分な広さの表示面積の確保を両立させる便法としては今のところ悪くない解だと思いますし、表示画面とタッチ式入力を分けるというのも一つのアイデアではあるとは思います。しかし、そもそも松村氏が挙げているDSでも、タッチ液晶を十分に生かしたコンテンツは多くありませんでした。慣れてしまえば使える面があるにしても(私はいまだにテンキーでの英字・カナ入力もタッチキーボードでの入力も不得意ですが)、物理的なタッチパネル自体、入力手段としては制約が大きいのではないかと思います。その期間を長いと見るか短いとみるかはともかく、10年もすれば別の入力手段に切り替わり、二画面液晶やタッチスクリーン自体が過去のものになるのではないかという気がします。

■2019年10月13日(日)  停電と家の破損が復旧してからならまだしも
二階氏 台風被害「まずまずで収まった」緊急役員会で
タイミングが悪いですね。台風は通過しましたけど、収まってないでしょう。最低限、停電が完全に復旧して、床上浸水と風の被害を復旧して、そこで初めて総括ができるのだと思います。この段階はむしろ、被害の復旧に向けて迅速な対応にご協力いただきたいとあいさつするのが定石でしょう。激甚災害の指定や補正予算の編成の話だけしてればよかったのです。
それにしても、川が氾濫したのは国土交通省の怠慢ではないんですかね。さすがにそろそろ対応が進んでいておかしくない時期だと思うのですが。100年前ならともかく、今の住宅はだいたい35年ローンなんですから、被害にあうと建て替えるのが大変なんですよ。今時ダムと堤防が適切かどうかはともかくとして、洪水危険地域を指定して、例えば平成27年関東・東北豪雨クラスを想定して被害予測を行い、対応策を詰め、住民にも警告を徹底しておくくらいは当然だと思います。その上で治水事業を提案することになりますが、ひょっとして国会に提案はされたけど話題にならなかっただけでしょうか?まさか水害の一次対応は総務省の管轄だとか思ってないですよね?

■2019年10月11日(金)  むしろ所有になじまない
モノとしての音楽、コトとしての音楽
「音楽の購入は、本来「聴く権利」の購入だ。音楽そのものが自分のものになるわけではない。」
「本来」かどうかは疑問ですけど。もちろん、音楽自体を所有することは、それこそ作曲者や実演家であってもできません。楽譜であれ演奏であれ、いちど記録を作ってしまったら、あるいは他人に見せて、あるいは聞かせてしまったら、広がることを止める方法は原理的にありません。音楽事業における著作権の役目は、「本来ある」権利の保護ではなく、関係者の利害を調整することにあります。
著作権はそもそも流通や利用の形態が全く異なるソフトウェア、つまり書籍、絵画、音楽、映画、プログラムといったものをひとくくりにして扱っており、書籍のモデルが基準になっているものの(時代として、音楽や絵画も含めて出版社が唯一の大規模な事業モデルだったからでしょうが)、実演や展示のような書籍の使われ方から想像しにくい(もっとも公衆の前での書籍というか新聞の読み上げという使い方もあったわけですが)話が出てくるのはそのためです。音楽の場合、楽譜とレコードでは歴史的な経緯も異なっています。また原譜と印刷譜でも事情が異なります。
よくレコードが問題にされますが、そもそも音楽のもっとも原始的な複製方法は耳コピです。複製技術の進化が問題というなら、それこそ耳コピしての実演は規制できないはずですが、著作権法では実演自体権利者の許可が必要としています。これは、そもそも作曲家の権利が実演の許可と楽譜の出版の二面で問題となったからです。これに実演記録の出版を含めた三つの側面から考えるのでなければおかしいですし、その場合「本来」とか「聴く権利」などという安易な決めつけにはならないのです。
近代著作権制度に限定するにしても、音楽の実演記録の複製や頒布に関わる権利というのは辻褄合わせでしかありません。「コトをモノにすり替えてわかりやすくした」というなら、それこそレンタルレコードの私的複製や中古レコードの再販売など論外でしょう。複製物の売り上げに対する請求権が複製物の売渡によって消尽するとされていることこそ、「コト」というのが制度による擬制でしかないことの証拠と言えます。「本来」どうこうではなく、文筆家や作曲家、出版社、実演家、書店やレコード店といった関係者が生計を成り立たせるために模索された仕組みが著作権です。出版社の主張(レコードであれば限られた範囲での再生と聴取の権利を許諾しただけ)とは別に、いったん売り渡した媒体の扱いについて実例が積み重ねられてきた経緯があり、だからこそ著作権原理主義とは別に、一定の妥協がなされます。
売り手として「コトを売るのだ」という考え方はあり得ますが、「本来」のなにがしかの権利という把握の仕方をしてしまうと、積み重ねられてきた慣習の否定になりかねません。法解釈の便法としてならともかく、ビジネスや文化の評論家には似合わない主張と思います。
もちろん、音楽事業の方向性として、データの配布は普及の手段と割り切り、イベントに軸を移すというのはあり得ますし、地元での一般向けのコンサートは売名の手段と考えて、スポンサーの獲得や依頼演奏の受注に力を入れるというのもありです。
正直、そもそも「ベルリンフィルでないといや」というのが音楽の聴き方としてはおかしいわけで、地元の実演家が十分な水準で演奏できていればそのコンサートを聴きに行く意義はあります。「コト」を問題にするというならそうあるのが筋でしょう。もちろんベルリンフィルとウィーンフィル、N響、NYフィルでは演奏が違ってくるということはありますが、そこで実演家を格付けするのではなく、「違うのだ」、どれも正当だがここが違うと解説するのが前向きな音楽ビジネスや評論の在り方でしょう。その上で、聞き手が実際に違うものを聞いて理解するためにはどのような仕組みであることが望ましいかを論じるのが、制度や技術の評論家のあるべき姿ではないでしょうか。

■2019年10月09日(水)  生産技術ではあるのでしょうが
宇宙で「牛の切り身を出力」。微小重力で3Dバイオプリントの実験に成功
ちょっとなんだかわからないですね。いえ、最終的には少量の種を持って行って増やして使うのでしょうが、どのみち促成で細胞を増やす技術と組み合わせないと意味がないのじゃないかな、と。

■2019年10月09日(水)  これもひょっとして労働価値説の呪い?
日本人の賃金が増えない根本理由 「内部留保優先の経営」から脱却せよ
「付加価値を増やして、それを人件費として分配していくことこそ、企業の重要な役割だろう。」いや、それはないでしょう。付加価値には労働に帰属する部分と資本に帰属する部分があるわけで、資本に帰属する部分についても本来内部留保などせずに一度配当として分配し、再投資を受けるのが筋です。労働分配率の向上は社会施策の問題であって、企業経営として労働側への分配が内部留保に優先するかどうかは別問題ですし、まして資本に帰属する部分を労働に分配したのでは投資意欲を削ぎかねません。また経済学はともかく、経営上は、内部留保は企業経営の健全性と関わっています。資本分配はともかく内部留保を肯定するには相当厳しい条件が付きますが、ある程度肯定しないと投資リスクや借り入れコストが増大してしまいます。利子と人件費を払うことが企業の重要な役割であり、その上で事業を拡大することが望ましいというならわかりますが、労働価値説や一部の社会主義でもあるまいし、付加価値という経営に絡む問題の枠組みでは、人件費は減らすことこそ重要です。
また、小売り、外食、宿泊あたりは付加価値が低い上に粗利に対して人件費の占める割合が大きかったと記憶しています。こういう分野について、例えば政策的に労働分配を高めようとしても、それこそ雇用が失われることになりかねません。
少なくとも労働に付加価値を還元するような議論の枠組みは、あまり適当ではないと思いますし、ましてやHow-toにはなじまないように思います。

■2019年10月07日(月)  説明されてもわからないですよね
美しいな食マナー 対 よくない食マナー
やはりこの方向に来ましたか。
まあ、漫画でやっているような仕草は、漫画が基本庶民文化である以上、あまり上品でないものを大げさに描いていることが多いので、マナーに反している場合が多々あると思います。
ただ、じゃあマナーがわかりやすいかというと、それこそ記事中の、口を付けてよい器と良くない器みたいなもので、ピンと来ないときはピンと来ない。飲み物なら口を付けてよい、というあたりは結構幅広く通じる原則だと思いますけど、日本のマナーでは椀物は持ち上げて口を付けてよいけれど、中国、韓国、そして欧州系のマナーでは匙を使いますね。その程度には、不合理というか理不尽なものです。手にとって良いもの、悪いものでも、杯はたいていの文化で手に取って構いませんが、平たい皿は多くの文化で手持ちNGです。もちろん日本でも、平たい皿は飯椀と汁椀の奥に置かれ、大皿から取るとき以外は手持ちしてはいけません。逆に欧州系の立食パーティーでは、皿を手で持っていてもかまいません。
ちなみに日本人なら大抵マナー違反であることを知っているどんぶり飯の掻き込み、あれをマナーとしてやって良い料理というのがありまして、つまり茶漬け、湯漬けです。掻きこみができないとすれば匙で食べるしかないわけですから、箸で食べる以上当たり前と言えば当たり前の話ですが、「パンを手づかみで食べてよい」と同じで、予備知識なしでは理解しにくいと思います。

■2019年10月06日(日)  根も葉もないわけじゃないんですけどね
漫画・アニメから誤解した食事のこと
誤解というかなんというか…
学校の給食がないのは高校ですね。中学はあるところとないところがあります。このあたりは、それこそ作者の体験も反映しているのでしょう。高校の場合、学食があるかないかという話もあります。購買部はたいていあるのかな。今はコンビニがあるので、購買部でパンやおにぎりを買う必要というのも薄れましたが、学校指定の品を売っていることがあります。手作り弁当も手作りという割にメニューが固定化していて、実際作っている親はもっと大変です。
通学途上走りながらトーストを食べるというのは、実際には見たことがないですね。もともと寝坊して朝食を食べている余裕がないシーンなのですが、あまりに頻繁に使われるため、あるいは寝坊でもしなければ朝食のシーンが描かれないため、それが普通だと思われても仕方ないかもしれません。ただし、立ち食い自体はする人がいます。さすがにトーストではやりませんし、走りもしませんが。立ち食い自体上品とはされませんが、格好よく描かれることはあります。また関連性の強いシーンとして交差点などで他人にぶつかるというのがありますが、これもめったにないでしょう。めったにないからこそ特別な状況として使われるわけですが、クリシェになっている部分があります。
掻き込みご飯は…やる人はいますね。あまり行儀のよいものとは思われていませんが。ただし、たいていのマナーと違って、汁椀やなべ物の取り皿は口を付けます。どんぶりもこの分類に入っているはずで、元々労務者向けの食堂で丼物を急いで掻き込んで足早に立ち去っていくシーンのはずですが、大食いのシーンになっていることもあります。
他にも、例えば高橋留美子氏あたりの作品にみられるモチーフとして、一升瓶から直接酒を飲むというのがありますが、徳利からも含めて、まずやりません。茶碗に注ぐというのは、マナーとしては良くないですが、やると思います。ソフトドリンクやミネラルウォーターでは基本的には野外に限って瓶に口を付けて飲むわけですが、あれはどこから出てきたのでしょうね。駄菓子屋の飲み物あたりでしょうか。自販機よりは古いと思うのですが。
逆に弁当と同じで実際によくみられるものとしては、焼き魚があります。骨が残るかどうかは魚種によりますが、開かずに焼いて骨が残るというのは実際には稀でしょう。私の記憶ではそうなるのはさんまくらいで、アジは骨は残るが開きますし、イワシは開きませんが骨まで残さずに食べるはずです。ただ、クリシェとして出てくるのはさんまの形ではないのですよね。骨に肋骨がない、あるいは肋骨部分まで背骨のとげが生えているというのは、あまり突っ込むところではないでしょう。

■2019年10月05日(土)  競合が自社網に相乗りするのがうれしくないのは確かでしょうけど
「公正競争を阻害する」 ドコモが楽天モバイルのMVNO継続を批判する理由
競合MNOを競争相手と見れば通るかもしれない理屈だとは思いますけど、正直いちゃもんを付けているようにしか見えないのですが。
むしろ、地域ネットワークオペレーターによるMNO基幹網への接続を含めて、MNOをただの土管屋にしていくことの方が正しいと思いますけどね。理想としては、IP土管屋にして、とにかく定額でデータだけ通す、簡単に乗り換えられるものにする方が良いと思います。

■2019年10月03日(木)  これはただの中小企業潰しじゃないかと
防げ「2025年の崖」 企業の情報システム刷新に指針 情報処理促進法改正案が判明
もちろん最低限確保すべき仕様を策定することは大事だと思いますが、士業だの格付けだのを導入してコストを増やすのはあまり得策ではないと思うのですが。それだけのコストを捻出できるボリュームのある企業ならともかく、知恵と才覚程度で導入できるような話まで手当てしなければ、裾野は広がらないと思いますよ。方法がOSかクラウドかなんて話は好きにしたらいいですけど。

■2019年10月03日(木)  レンズのデザイナーは誰だっていう
ニコン、Zマウント広角レンズ「NIKKOR Z 24mm f/1.8 S」
まあ、Zシリーズのレンズの外観の統一コンセプトなんだとは思いますが…のっぺりしててかっこよくない。光学設計上あの長さになるなら、せめて絞りの表示窓くらい用意して欲しいのですが。せっかくZでボディがきゅっと引き締まった感じになったのに、レンズが間延びしていてどうするのだと。いや、ニコンは時々変な流行に走りますけどね。でもツァイスあたりのバッタもんに見えてしまいます。これが薄いレンズなら、フォーカスリングとAF/MF切り替えスイッチだけというのはいかにも操作性を突き詰めた感じになるのですが。
カタログスペックとしても、例えばSigmaの24mm F1.4に劣るわけで、それをわざわざ16万円払って買うのか、いやニコン趣味の人なら買うべきですし、買うでしょうが、そんな純正コンプ狙いばかり狙っているような見られ方は心外だと言えるだけの性能があるのか。
ちょっと、何を考えているのかわからない製品ですね。

■2019年10月03日(木)  手のひらサイズのプラットフォームの知見を蓄積しておきたいというのはわかるのですが
Microsoft、Androidが動作する2画面スマホ「Surface Duo」
新Surfaceを早速ハンズオン、現地で確認した15のチェックポイント。どのモデルも完成度は高い
5分でわかる新型Surfaceまとめ。正統進化だけじゃない、デュアル画面モバイルPCや2画面スマホも
これ、ユーザーに何かメリットあるのでしょうか。
MicrosoftはVisual StudioがらみでAndroid対応の開発環境などもリリースしており、OSを押さえられないまでも製品くらいは出しておきたいのだとしてもおかしくはありません。Microsoft側のメリットはわかるのです。
でもって、二画面のヒンジつなぎで片方がソフトウェアキーボードになる構造も、まあ頑張ったとは言えるでしょう。Surfaceというシリーズの一環として小型ツーインワンというフォームファクタをユーザーに提案するのだと、社内で説得したのかもしれません。ポケットに入れたときに分厚く硬いかもしれませんけど。
しかし、少なくともMicrosoftでないと出せないものではないと思います。値段としては高級機になりそうですし、構造を生かせるミドルウェアを用意してアプリ開発を促していくにせよ、例えば最近進めているサーバーレンタルサービスあたりとシナージーするかというと、どうでしょうかね。まして端末のユーザーに訴求できるかどうかは、未知数です。まあ、ガジェット好きは一回り手を出すでしょうけど。

■2019年10月03日(木)  大学の経営改革ばかりやっているような
大学改革−何が目標なのか
それこそ昭和の後四半期から、大学改革というと大学の理想像としてボローニャとかパリとかが挙げられるのですけども、そもそも大学教育のシステム自体が、大学の設置にあたって参考にしたベルリンや、戦後改革のモデルにしたアメリカの大学と、それ以外のもっと古いところとではかなり違います。前者は基本的に卒業して役人になるためのものですが、古いところは知的な自営業、つまり医者と弁護士になるためのものです。例外として、パリとオックスブリッジは聖職者、つまりカトリック教会の役付きお坊さんになるためのもので(役人の定員としては世俗の政府、つまり王や領主、都市政府のものよりもカトリック教会の方がずっと多かったし実入りもよかった)、プロイセンの官僚制拡大策に即して生まれたベルリンに近いと言えます。とはいえカトリック聖職者はそれこそ現在のヨーロッパの大企業のようなもので、フランス生まれの聖職者がドイツの司教になるくらいはごく当たり前です。聖職者養成系大学の原型になったのは修道院ですが、全盛時の修道院というのは、同じ修道会の中でいくつかの修道院をめぐって修行をし、役が付いてもキャリアサラリーマン並みに転勤がありました。それをモデルにした大学も、それこそフランス大革命後の役人養成大学とは異なった原理で動いていました。法学や医学、あるいは教養諸学も本来私塾や徒弟制度がベースであり、教師も学生も移動するのが前提でした。
その基盤となるのが大学進学資格という制度で、フランス(やその影響を受けたスイスやイタリア)のバカロレア、ドイツではアビトゥーアという制度に最終的に集約されましたが、これを持っていればどこの大学でも登録できます。というか、それこそ半年ごとに今期はこの大学のこの先生、来期はあの大学のあの先生と、学生が各地を渡り歩いたので、教授が出す学位には意味があっても、大学ごとの入学試験や卒業認定には意味がなかったのです。このため、修業年限という概念もありません。
つまり「ウクライナで学業を終えて」から20世紀末以降の日本の大学改革に飛んで「新しい知識を求める人々が集まる教育の場」と受けるというのは少しおかしな話で、箔をつけて役人や開業医、開業弁護士になる時の経歴書を飾ろうという目的は同じでも、いったん卒業してしまうと再受験しないと教授経験者ですら入学できない現代日本の大学(入学試験にさえ通れば、他の大学の単位もある程度認定してもらえますが)と、大学進学資格を得た後はいつでも受講登録ができるヨーロッパの大学を、「新しい知識を求める人々が集まる教育の場」として一緒にするのには無理があります。
一定の期間でところてん式に学生を就職先に押し出すという点で、日本の大学制度は創設時の官僚養成制度を維持しており、いわゆる大学改革後も「新しい知識を求める人々が集まる教育の場」というよりは4年かけての就職試験の会場という点で変わりがありません。大学改革自体、大学制度の改革ではなく、大学経営システムの刷新に留まっていると言わざるを得ません。まあ、目標が目標だけに仕方ないですけど。

日本の大学システムの修業年限と卒業資格という制度は、おそらく中国唐代以降(とその影響を受けた古代後期の日本)の大学制度、あるいはこれをベースにした藩校制度によるもので、これも典型的な官僚養成制度です。つまり、官僚への登用を前提として、一定の期間の中で一定のカリキュラムを消化することを求めたのです。もっとも、古代から中世のこうした大学制度自体は非常にルーズで、入学以降の修業年限は決まっていたものの入学年齢自体はかなりばらつきます。
欧州系の中世大学システムに近いのは、仏教系の修行制度でしょう。これも、最寄りの寺を振り出しにいくつかの寺で修行し、基本的には本山などの有力寺院で研鑽を積みます。ただしこの方向性は、大学や藩校が明治維新後の学制整備で近代大学制度として仕立て直されたのに対して、仏教寺院が事業経営や一般教育から排除される形で諸宗派の僧侶養成課程に縮小してしまいました。

■2019年10月01日(火)  ロードエルメロイ二世の事件簿
一応ちゃんと伏線は引きましたね。とはいえイスカンダルとのシーンが出てきたということは、まだ次回作は決定ではないということでしょうか。
オルガマリーちゃんはかわいかったのですが、やはり容姿がライネスより年上に見えます。あの子が一番年下(裏で動いている人を含めれば法政科のロードが一番若いかも)なので、もっとろりろりさせて、背伸び感を出した方が良かったのではないでしょうか。いや、オルガマリーちゃんが小説のイラストに一番近いんですけどね。ライネスとグレイが幼く描かれているだけで。
イノライさんが思わせぶりに出てきたということは、グランドロールを作る気はあるのだと思いますが、あの話は見所はバトルシーンよりもロード方の動き、時計塔での政争なんですよね。ウェイバー君とライネスちゃんがマクダネルさんとイノライさんに吊し上げを食うところを5〜10分かけて見せられてうれしいかというと…ヘヴィーメタルなミニチュアウエイバー君はまあ、萌えているグレイやフラットの工房クラッキングと合わせて映像映えすると思うのですが、蒼崎姉をどうやって導入するかも問題ですし、前振りも含めてある程度丁寧に描かないと訳が分からないように思います。イノライさんは普通に陰謀婆という感じでしたが、おそらく設定ではロックと大作娯楽映画あたりが趣味のいかしたおばあちゃんなので、レストランでマクダネルさんの選んだ料理人の料理にこれじゃ大衆にはわからないとケチをつけているところも含めて、フレーバーを見せてもらえるとよいのですが。ロードユリウスの残念なところ(雰囲気がとか頭が固そうとかいう話ではなく、法政科のコマでしかないところ)は多分出てきます。

■2019年10月01日(火)  官邸の意向も審議会の方向性も読めそうなものですが
携帯料金ちっとも安くならず 総務省は誰のために議論を?
議論の方向も把握せずに逃げ道のすり合わせばかりに興じているキャリアの企画担当が無能とは思うのですが、後出しで官邸に怒られている総務省も役人としてはなっていないですね。少なくとも20世紀中は、官邸とのすり合わせすらちゃんとできない役人に出世はおぼつかなかったと思うのですが。まあ、現在の3大キャリアは設備ごと叩き売って撤退してくれて構わないので、せいぜい振り回されてもらうのが良いという気がします。

過去ログ 2012年04月 
2016年05月 06月 07月 08月 09月 10月 12月 
2017年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2018年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2019年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2020年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2021年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2022年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2023年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2024年01月 02月 03月 04月 05月 06月 07月 08月 09月