日記

■2018年08月25日(土)  ライブ感
私はライブ感というのがほぼない人です。流行りの品は気にしない、要求を満たせれば旧式品でも気にしない、むしろ過去のアルバムを漁って聞いているという口です。もちろん新発売のものも買いますが、新発売だからというよりもたまたまそれがそこにあったからということですね。
そういう人間からすると、作品の「生死」(小寺・西田の「金曜ランチビュッフェ」Vol.185対談)と言われてもピンときません。もちろん商業作品であるからには資金の回収期限があるはずで、放送ものなら全話放送が終わるまで、CDだと例えば発売から六か月とか、そういう期間が終わってしまうと、送り手としては積極的にPRをしないという状態になるでしょうし、それが「終わった」「死んだ」という状態だと思います。しかし、受け手としては送り手側のその感覚を気にしない例が少なからずあります。極端な例が「古典的作品」で、これなどとっくに「終わった」作品なのに絶えず呼び返されるわけです。「西洋音楽の歴史」(中公新書)ではクラシック時代末期の章で聴衆側の受け入れ態度の変遷について、18世紀の聴衆は同時代の音楽しか聴かなかった、19世紀の聴衆は過去の音楽を聴き始めた、20世紀の聴衆は過去の音楽しか聴かなくなったというコメントがあります。同時に制作側についても、19世紀後半から20世紀にかけてのクラシック音楽について、後世に残る作品を制作するという意識が制作側に明確に見られる点を指摘しています。これなど、作品が「永遠に生きる」という感覚でしょう。時代を超越した永遠というのは19世紀的な理想なのかもしれませんが、百年前はそういう感覚だったわけです。20世紀中期以降はそうした古典主義的感覚を離れて、現在を反映したものをその場で提供するという感覚になっている、それが業界の人やライブを重視するコアな層の感覚なのかもしれません。過去の作品を引っ張り出すというのは、図書館とか古本屋とか、アーカイブという特殊状況でしかないという感覚なのでしょう。実際、作品・製品のほぼすべてはその場で忘れ去られていきます。19世紀のものでも、作り手は永遠を意図していたかもしれないが忘れ去られた作品・製品は多数存在するはずです。一方で、20世紀中期以降というのは、動機さえあればほぼすべての作品を記録・保存できる技術が成立した時期でもあります。原盤テープを引っ張り出してリマスターした製品もありますし、ファンによる海賊版からのアップデート動画なども動画サイトに挙がっています。このあたりを、それが当たり前と思うか、「昔の音楽って、これまでの常識でいえば、明らかに若者にとっては存在してなくて、死んでたはずなんです。でも…突然生まれ変わって…」と思うかは、時代の変遷というよりは立ち位置による感覚の違いでしかないのではないかと思います。それで飯を食う側として「それで入ってくる収入なんて微々たるものなわけだけど。」というのは理解できますけどね。

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